『吐夢がゆく』(編者 吐夢地蔵有志会出版実行委員会) 吐夢地蔵有志会

この本との出合いもまた草森紳一さんが作ってくれた。直接の要因は、前回取り上げた『彷書月刊』の諸星大二郎特集号と同様、崩れた本の山の中から(草森紳一蔵書整理プロジェクト)というブログに掲載されていた2009/1/8付の「巨匠放浪」と題した文章による。執筆者であるLiving Yellowさんは語る。「草森紳一、氏の御蔵書の中に二冊もあった、内田吐夢氏の自伝とも呼ぶべき『映画監督五十年』(三一書房、1968年初版)の頁をめくると。氏の作品も人生も。幅が広い、どころではなかったようである。」
この日記は、Living Yellowさんの吐夢監督へのオマージュや日本映画への熱い思いが、全編を通して伝わってくる感動的な文で埋められているが、どうしても気にかかるのは“草森紳一、氏の御蔵書の中に二冊もあった”という事実である。愛蔵家ではなく、蔵書家であった草森さんが、意識して同じ本を二冊も購入するとはどうしても考えがたい。未読状態となっていたが、興味の対象として常に並々ならぬものを感じており、持参していたことを忘れてまた購入したのではないかと思えるのだ。それは監督内田吐夢というよりも、人間内田吐夢への尽きせぬ探究心が導いた微笑ましい失策と言い換えてもいい。
草森さんが大学を卒業して、映画会社への就職を希望したのは有名な話だ。それも東映を希望して、最終審査の面接まで進み、社長の大川博と大喧嘩をして不合格になる。(詳細は、HP「その先は永代橋」2010/10/20付の記事を参照してほしい)特に就職先に東映を選んだのは、その当時内田吐夢が在籍していたからではないだろうか。吐夢映画を貫く個々人の熱気(全ての登場人物が、妥協せずにいつも必死に前を見据えている)に陶酔し、スタッフとして一度は付いてみたかったとは考えられないか。出版社へ就職しても、草森さんの映画への情熱は色褪せることはなかったような気がする。
あらぬ方向に話が飛躍してしまったので元に戻す。『映画監督五十年』ではなく、本書を取り上げたのは、偶然の成せる技だ。『映画監督五十年』を購入すべくネットを検索していたら、ふとこの本に目が止まった。自伝は最後の最後に読めばいい。内田吐夢の人となりや仕事ぶりを覗くのが、先決ではないかと思い至った。
そんな中、偶然吐夢監督の五部作『宮本武蔵』を、見直す機会を得た。若い頃に見た印象とは、大きく変化しており、興味を抱く箇所が全く違っていた。(このあたりの事情は、『彷書月刊』の草森紳一特集号の付記として新たに追加しているので、確認していただければ幸いだ。五部作中、最も緩慢な展開と言われた『二刀流開眼』に心惹かれたのは皮肉な話だが、現在の私の興味は惨たらしい殺戮でなく、些細な心の機微、この映画で言えば最後に武蔵が呟く「名門の子、やる相手ではなかった」という言葉の奥に潜む、相手の気持ちまでも見通してしまう、確かな心眼にこそ注がれている。)吐夢映画とは見る年齢によって進化し、変貌を遂げていくものなのかも知れない。
他の映画を見てから挑もうかとも思ったが、何故か本書の面白さが半減するような気がしたので、あえて目にしなかった。この考えは見事に的中する。戦前・戦後の名作をあえて見ないで臨んだことで、普段は隠れてしまっている制作現場に流れる濃密な空気を感じながら、昔の活気ある撮影情景を自由自在に想像する楽しみが生まれたのだ。一気呵成に走りきった映画人の生々しい現実を、改めて追体験出来る醍醐味がここにはある。
では本題に移ろう。
内田吐夢に縁のある、総勢六十六人による随筆を主に纏められた一冊。この当時、毎年のように行なわれていた吐夢を偲ぶ会「吐夢地蔵紅葉まつり」のメンバーが中心になり、有志の寄金を募って纏められた労作である。関わりのあるメンバーといっても幅広く、俳優やスタッフが中心だが、史学者まで含まれており、吐夢さん(以降、さん付けで統一)の多彩な人脈を物語る。人数が多いので、全員の文章に対して感想を記すわけにはいかない。気になった記述のみ、順不同で取り上げさせていただく。
まずは、渡辺達人さん(当時企画部長)の「思い出すままに」という文章だ。『宮本武蔵・完結篇(巌流島の決斗)』の脚本が出来た後に襲った予算問題である。当時の所長岡田茂さんが来訪して、「三千万削らねば採算に合わない」というのだ。吐夢さんは当然簡単には受け入れない。折り合わないまま解散となり、当然のように自棄酒となる。ここまではよくある話だが、その後睡眠を取るために二階に上がった吐夢さんの寝床の中から聞こえる怒声の凄まじさは、尋常ではない。やり場のない憤りが、吐夢さんの身うちを貫いて大声を上げさせるのだ。現場を統率する映画人の苦悩とはいかばかりか。
最終的には一千万を削って決着が付くのだが、予算の削減は完結篇の不自然なまでに長い冒頭のあらすじ紹介に繋がっていったのではないか。尺数をかせぐために、緊張感のない場面を撮るのであれば、かえって撮らないほうがいいと、吐夢さんは判断したような気がしてならない。ここに目に見えない吐夢さんの意地をみた。
脚本家植草圭之助さんの「チャランケの丘」は、『森と湖のまつり』というアイヌの民族問題を扱った映画の脚本を練るために、吐夢さんと旅館に籠った時の話だ。そこで植草さんは話の勢いで、自分が実際に体験した吉原遊女との出会いから死までを、余すことなく語るのである。普通の映画人なら、何も考えずに「映画化を考えましょう」とでも言うところだろう。吐夢さんは違う。長いが、吐夢さんの言葉を引いてみる。
「この素材はシナリオにするより最初は小説で書くべきじゃないかな?余計なお節介か知らんが、吉原脱走というおまけのついたラブストーリーであると同時に、日米戦争当時の時代史でもあるし、あなた自身の青春、人間生成の自分史も書き込まなければね。まあ、枚数なんかに拘らずじっくりとね。・・・・・・どうですか」
当人が自分史を脚本にする際、知らず知らずのうちに熱くなって、客観的にものを見る目を失ってしまう。小説という形で、ワンクッション入れる必要性を感じ取ったと見るべきか、自伝を脚本の題材にすることを戒めたと解釈すべきかのいずれかだろう。吐夢さんの考えは、後者にあったとみたい。このような心温まる親身で大胆な発言を、植草さんの旧友である黒澤明さんは出来ただろうか。おそらく無理なはずだ。尚、チャランケとはアイヌ語で、“とことん話し合う”という意味らしい。言い得て妙である。
鎌田房夫さん(当時助監督)の「俎上の魚」でも、吐夢さんの言葉が印象深く響く。「鎌ちゃん、監督になったらまな板の上の鯉だよ。成る様になれの精神が一番大切なんだ。そうすれば失敗はしなし、必ず成功する」鎌田さんはこの一言を、『宮本武蔵一乗寺の決斗』で武蔵が比叡山無動寺で思わず漏らす「吾れ、ことに於いて後悔せず・・・・・・」と結びつける。武蔵の剣にまつわる意思表示は、そのまま吐夢さんが映画作りの際に、たびたび迫られる苦渋の決断と何故かダブる。
俳優河原崎長一郎さんの「アンクル・トムの指」が読ませる。河原崎さんは、吐夢さんが俳優に要求していることをこう断言する。「表現とは、理屈とか、論理が通っていればよいのではなく、生きている濃度の濃さ、研ぎ澄まされた深い感受性等を、燃料にして、激しく燃え尽きるしかない。自分に自信を持ち得ない人間は表現者ではない。表現は、どんな単純な自信であれ、とにかく自信に裏打ちされていなければならない。」(一部改変)普段からの俳優としての生きる姿勢を説いた河原崎流の名言だと思うが、これを頭で考えてしまっていることを、吐夢さんは鋭く指摘する。河原崎さんを自宅に招いた吐夢さんは、こう切り出す。
「君は、確かに四部の一乗寺下がり松の決斗の撮影中、胃痙攣を起こして大変だったことは、僕もよく知っている。しかし、あの饗庭野の早朝の撮影の時、君に注意した事があるのだが、君はボォーッとして聞きおとしたが、側に居た錦之助君はそれを訊いていて、君にした注文を自分のカットの時にやってしまったんだ。君の敗けだ!!!」と太い指を突き出す。この注意の内容を、ついに河原崎さんは思い出せないが、おそらくは演技者一般に通じる心理的なアドバイスだったのだろう。だが、体調が悪い中でも、注意力・集中力を促す吐夢さんの神経とはいかなるものか。撮影中、俳優に対して僅かな安息をも許さず、絶え間ない精神の鼓舞を要求する鬼の形相(真髄)をここにみる。
キャメラマン仲沢半次郎さんの「側面瞥見」では、撮影現場の模様が語られる。『飢餓海峡』で、左幸子扮する娼婦が職探しをしているところで、“女性求む”の貼紙のアップを要求される。仲沢さんはこのカットを撮りたくなくて、逡巡する。吐夢さんの罵声が飛び交うかと思うと、仲沢さんの肩を押さえて「半次郎、解ったよ、このカットは止めよう。・・・・・・わしも永い間、時代劇ばかりだったからなあ」と言う。仲沢さんは、これを吐夢さんの臨機応変で、柔軟な対応と考えたようだが、果たしてそうか。部分的には当たっていると思うが、その時点で自分の間違えを即座に感じ取ったのではないだろうか。ただ、自分で指示した手前、後には簡単には後には引けない。そこで、時代劇ばかりだったという言葉でそれを濁し、自分の優柔不断さを揉み消して、周りのスタッフ達に納得させたようにみえる。
三国連太郎さん・左幸子さん・(司会)鈴木尚之さんの「対談・『宮本武蔵』と『飢餓海峡』の周辺」では、三国さんの一言が光る。
「結論めくけれども、僕は吐夢さんが亡くなってからも、いろんな監督と仕事をやってるわけですけどね、感じることは、上手に撮ることはみんな出来るんだけれども、人間の痛みを撮ることを知らないですね、今の監督は。」
武蔵五部作中の一本に、吐夢さんと喧嘩して現場へ行かずに出演しなかった(おそらく『二刀流開眼』だと思われる)人だけに重みのある言葉で、吐夢さんはスタッフ・キャストの弱い部分はどこなのだろうかと、常に考えていた節がある。相手をやり込めるための道具に使うのではなく、人間らしさを引き出すきっかけとして意識的に探っていたような気がするのだ。武蔵の疑心・小次郎の驕りなどは、人の痛み・弱さに降り注ぐ公平な目線があればこそ、浮き彫りに出来たように思える。
柿田清二さん(当時映画監督協会事務局長)の「監督協会の内田吐夢監督」は、吐夢さんの別な顔が見られる。監督協会が出した最終案「映画は映画監督の単独著作物との主張を打ち出す」に関して、吐夢さんは「監督は、著作権=複製権を、映画会社は興行・上映権をそれぞれ持つ」という妥協案を考える。だが、著作権とは経済的利用権を指すので、当然狭い意味合いを成す複製権を、協会が了解するわけない。最終的には、吐夢さんは折れて、著作権は映画監督のものとして決着が付くのだが、ここに映画会社とスタッフの板挟みを乗り越えてきた人が見出した、柔軟な考え方を見ずにはいられない。会社側の視点で物事を見がちな監督という職業意識を捨て、あえて映画会社とぶつかることを選んだ一人として、ふと浮かんだ最後の迷いには、裏を返せば相手のことを思い図るすべを身に付けている者の悲哀といったようなものが見え隠れする。吐夢さんの優しさを写す一コマだ。
東宝専属の美術中古智さんの「吐夢随想」は、本書の中でも白眉といっていい一文。吐夢さんの遺作『真剣勝負』の仕事が終盤に差し掛かった頃に、吐夢さんから贈られて来た「手作りのペン皿」に関する一件である。木箱の蓋に古紙を張ったもので、なかなか良く出来ていたようだ。蓋裏の皿面に書かれた独特の“夢”の文字と左隅に片仮名で記された、ウチダトムの文字と吐夢さんの朱印を押した落款があった。(P169に写真があるが、残念なことに落款が不鮮明)このまま美的感覚を働かせて、じっと目を凝らすだけの人であれば、吐夢さんはこのペン皿を送ったりはしなかっただろう。
中古さんはその期待に答えるかのように、このペン皿を見ながら妄想を試みる。夢の一字を見ながら、中国の隠子の像と重ねるのだ。陶淵明のような孤独な文人でなく、酒を子に好む竹林七賢の隠者の一人頑籍(おそらく阮籍のことだろう)と比較し、吐夢さん風に「飲酒二斗、吐夢数蜒」と読み変える。やがて空想は、現実的な文字表現にまで及ぶ。額裏(夢文字の逆側)に貼られている漢籍の反古紙の文字を詳細に観察し、それが書経の一部で『心之憂危、若蹈虎尾、渉子春冰』(心の憂ひ危ふきこと、虎の尾を蹈み春の冰を渡るがごとし)との文面を見つける。挙句、この部分の虎尾と書かれた箇所が、額表の夢という文字の下部分タの真ん中に位置する点(、)に丁度重なっていることを発見する。引き伸ばされたタの必要以上に長い線は意識的なものだったのだ。点(、)を虎の尾に見立てる吐夢さんも凄いが、それを見抜く中古さんも素晴らしい。この意図を見破る相手にこの品物を贈るという、吐夢さんの眼力たるや恐れ入る。更に、夢の文字と側に押された落款の夢の印字との対比を掲げて、吐夢さんが語った論理の弁証法「二ツにして一ツ、一ツにして二ツ」を引き、それを武蔵の二刀流開眼の要諦に結びつける。果ては吐夢さんを思い浮かべ、二つの夢字に正と負、生と死の二面性が籠められていたのではと夢想するあたり、何か草森紳一さんの随筆を読んでいるかのような錯覚に陥った。
ちなみに、このペン皿(扁額)は、現在吐夢さんの遺品としてフィルムセンターに保管されているようだ。(中古さんは寄贈したとは記していないが、文面からはそう解釈出来る)
東映京撮スタッフの吐夢監督を偲ぶ座談会」は、監督・キャメラマンなど総勢九名による座談会だ。
引用すると、長くなるので一々引かないが、P14の監督の倉田準二さんが、「内田さんはなぜこう撮るのかを全部話してくれるわけです。」からキャメラマンの吉田貞次さんが、吐夢さんの著作『映画監督五十年』を引き合いに出して、「もっと矛盾だらけの人だった。その人が矛盾論を説くのやからおもしろいけど。」までのくだりは、吉田さんがマイナス材料として触れている『映画監督五十年』を、まだ読んでいないので何とも言えないが、おそらくスタッフの意見を十分に聞いているようにみせながら、自分の意見をしっかり持っていて簡単にはぶれない為、ならば初めから聞かなくてもいいのではないかと思う部分を指して、矛盾と称しているのだろう。ただ、自分の意見を上回るものがスタッフから出た場合(倉田さんの場合がそうだ)は、それを聞き入れる物分りのよい部分もあったように見受けられる。やはり、人間これ矛盾の塊といっていいのではないか。(矛盾論については、P188で監督の鈴木則文さんが綿密に解明してみせる)
美術の鈴木孝俊さんが、「こざかしい芝居と言うか芝居上手、そういう芝居は嫌いやな。セリフはとちっても芝居はやれる・・・・・・きっと、人間ということが気になるんやろね。」と言い、それを受けた片岡照七(当時進行主任)が「下手な下手な若葉ちゃんみたいな・・・・・」と答える。この後、入江若葉の成長や高倉健が、よく叱られていた話が出るのだが、倉田さんが締めのような言葉を呟く「だから上手い、不味いじゃない、存在そのものが好きだったのですね。」確かに宮本武蔵の第一作の入江さんは非常にぎこちなく、お世辞にも上手とは言えないが、何か一生懸命さがこちらに伝わってきて、それが一途な愛(純愛)を物の見事に体現してみせているのだ。当人にそこまでの余裕はなくとも、吐夢さんの目にはそう写っていたのではないのか。吐夢さんの内なる心の言葉「そうそうそれでいい」が聞こえてくる。圧巻は、この本に関わった全員が思っている言葉を代弁したかのような、吉田さんの重い一言だ。
「人間にはね、未知数の力もあるだろうけど、それほど力なくて表現出来ん場合だってある。だけど内田吐夢という監督に会って、何か自分にないものが引っ張り出されたというのは事実だ。仕事の楽しさ・・・・・つまり、仕事は苦しいのに楽しいということを味わせてくれたのも内田吐夢さん、これは最高やった。」この自分から得体の知れないものが、引き出されるような感覚を抱かせる人物こそ、正に映画監督と呼ぶに相応しいのではないだろうか。作品に多少の出来不出来あったにせよ、実験精神ゆえの意欲的な空回りだと十分に推測出来る。そこに新しいことに挑戦する向上心を見ないではいられない。
最後になったが、唯一の傷に触れなければならない。それは、巻頭の白井佳夫さんの「日本的リアリズムの人・内田吐夢論」という文章だ。どうしても、心に響かなかった。この人は、口癖のように〜的とか〜リアリズムと題する言い回しを連発する傾向が強く、中身も作品や人間の本質に迫っていないように感じられる。何か傍観者の域を脱していないのだ。これならば、現存している評論家であれば、川本三郎さんにでも依頼すべきではなかったのか。そんな不満を抱きつつ、これから読もうと思っている『映画監督五十年』の巻末を開く。井沢淳さんの「怪物・内田吐夢論」と題された文に目がいく。これが実にいいのである。
自分と吐夢映画との壮絶な出会い(自分の皮膚が一枚一枚はげていく感覚)、映画記者として対面した際の高ぶりは、その光景が浮かんでくるぐらい、リアルで的確に綴られている。吐夢さんと飲んでいるといつも最後に聞かされる「オレはダラクしないぞ」という言動の奥に秘められた、中国十年の忍耐の日々と四十年の壮絶な闘いの日々での熱き感情を垣間見る。
白井さんも意識的にか井沢さんと同様、中国映画『白毛女』を引いているのだが、『白毛女』を「中国大陸での革命の進展と、それが生み出した結実に、中国でたちあった内田吐夢監督は、東洋人として、多くのものを学んだはずである。」と纏める。『白毛女』がその後の吐夢さんの戦後映画に大きな影響を及ぼしたというのだ。かたや井沢さんは吐夢さんから「あれは中国でいっしょに仕事をしていた仲間たちが作ったのだ」と耳にしているにも関わらず、独断と偏見を承知で、「ボクはいまでも、中国映画の傑作『白毛女』には内田監督の息がかかっていると頑なに信じている。」と述べる。私は確固とした証拠がなかろうが、井沢さんを支持したい。日本の愚かな中国侵略の責任を取り、終戦後すぐに帰国せず、しばらくの間中国に留まったせめてもの罪滅ぼしに、『白毛女』の手助けを行なうことは、決して考えられないことではない。相手の中国側も、その真意を汲み取ったような気がするのだ。安易に、『白毛女』を戦後の吐夢さんの映画と結びつける白井さんの姿勢には反論したい。
実は、井沢さんには、今まで良い印象を持っていなかった。数多くの映画を見ていた学生時代に、性と暴力の描写を極端に嫌う、融通のきかない堅物な評論家といったイメージしかもっておらず、評論もほとんど読んだことがなかった。だが、この内田吐夢論を読む限り、井沢さんが只者ではないことが判る。生前書籍になったのは、『映像という怪物』(学芸書林)一冊だけだったところみると、あまり世渡りがうまくなく、様々ところで衝突していた結果なのでないかと思えてくる。底に流れる闘争心に、草森さんと同じものを感じるが、草森さんには多くの仲間がいた。井沢さんは、孤独な戦士だったのではないだろうか。井沢さんの生前の批評が、改めて纏められることを希望してやまない。
思わず話が逸れてしまったが、『映画監督五十年』を読み『大菩薩峠』三部作を見た後、この映画の中で与八が彫ったお地蔵さん(吐夢地蔵)が安置されている京都化野の念仏時に、一度供養に行きたいと思っている。数多くの映画人を巻き込み、その良い部分を全て吸収してしまう秘術を見せた、怪物・内田吐夢の実像に迫る快著として大いに薦めたい。

≪付記1≫
『古田式』古田敦也周防正行著書 2001年発行(太田出版)の野球に関する本(対談集)がある。古い本の整理をしていたら、段ボールの一番底の隅すら出てきたのだが、忙しさにかまけて、未読のまま埋もらしてしまったらしい。ざっと目を通すと、十年という時間が経過したせいか、内容に新鮮味が感じられなかったが、気に掛かる箇所に出くわした。P31〜P32にかけての対話だ。周防さん独特の絵コンテならぬ字コンテの話が発展して生まれた部分だが、興味深いので引用してみよう。
古田− 「でも、普通監督をやりたいとおっしゃる方というのは、自分の主張がかなり強い方が多くて・・・。」と古田さんは、周防さんへわざと言葉を濁して語りかける。それを受けた周防さんは、次のように返答する。(一部省略)
周防− 「映画監督の醍醐味は、他人に預けてしまうことです、僕の場合はね。(中略)映画は、なかには監督でカメラをやる人もいるけど、僕はカメラもやらなければ、照明もやらない、衣装も美術もやらないわけですよね。そのときに自分の頭にあるイメージだけを彼らに押し付けるんだったら、小説を書くのと同じになってしまう。そうではなくて、僕が字で書いたものをポンと他人に預けたときに、どういう答えが返ってくるか、こんなセットを考えていたの!とか。それがまったく違って嫌なものだったり、思いもつかなかった素晴らしいものである可能性もあるから、選択まで楽しみたいじゃないですか。それが人と一緒に仕事をすることの楽しみだから。(中略)よく、監督は気持ちいいでしょうとかいわれますけど、僕が楽しむ映画作りとはちょっと違う。」長々と引いてしまったが、この後、古田さんは野球の監督も同様だと共感する。
これを読んでいて、何故か吐夢さんの映画への姿勢と相通じるものを感じずにはいられなかった。仕事場で楽しみを感じることは並大抵のことではないが、吐夢さんの後期作品『宮本武蔵』五部作や『真剣勝負』には、独自の緊張感を画面に孕ませながらも、心休まる安息のひと時が必ずどこかに挿入されており、物作りが愉悦(楽しみ)の境地にまで達していることを伺わせる。
監督(映画・野球問わず)は、英断することも大事かとは思うが、やはりいかに他人の有意義な意見を汲み取れるかが、勝負を大きく左右するのではないだろうか。ただ、冷厳に徹して、ある部分を切り捨てる(野球なら投手交代か)ことが重要になってくる場合もある。BS放送日本シリーズを見ていた際、元日本ハムの梨田監督が、ソフトバンクの秋山監督の投手起用(確か摂津が投げていた時だと思うが)を見ながら、「私はあんな非情な采配は出来ませんでしたから・・・」とふと漏らしていたのが、全てを象徴しているように思えた。ペナントレースでの新人斎藤佑樹の起用には、不自然なほどのいたわりと気遣いが感じられた。これではヘッドコーチや投手コーチは、安易に口を挟めなくなってしまう。そう、自由な意見交換の場が生まれてこないのだ。細やかな配慮が、全てを物語っているわけではないが、ある部分では冷たく突き放すことも必要だったような気がする。(中田翔の扱いとはえらい違いだ)
監督としての決断を、楽しみという感情にまで昇華させるのは非常な困難を伴う。監督とは、癖のある個性派集団を纏め上げる孤立無援な指揮者のようでもある。日本ハムの栗山新監督は、果たして沈着冷静な采配を振うことが出来るのだろうか。疑問の余地が残る。

≪付記2≫
本文で取り上げた美術監督の中古智さんと評論家蓮實重彦さんの対談集『成瀬巳喜男の設計』を遅ればせながら読了。映画美術にはあまり興味を持っていなかったが、中古智さんの隠れた実像を知りたくなり、本書を手に取った。内容は中古さんの美術に関わる発端から、やがてほとんどの成瀬巳喜男さんの映画を手掛けるまでの経緯が、舞台裏のエピソードを交えて懇切丁寧に語られている。組まれたセットの風景を、言葉から推測していくのは多少辛い部分もあったが、己の想像力を飛躍させるための良き鍛錬の場だと考えると、これもまた密かな愉しみとなる。
中古さんは、装置(美術)と照明とキャメラ(撮影)の関係を、映画監督のような視点で捉えて読み込んでいく。その中でも、美術の久保一雄さん(山中貞雄監督『人情紙風船』を担当)の助手として付いた成瀬監督の『妻よ薔薇のように』での葡萄棚の下に落ちる影が、久保さんの狙いだったのではないかと推測するところが目を引く。(P74)撮影現場での話なのか試写での印象なのかが判然としないが、久保さんの想像力はここで止らずに、ディオニューソスという葡萄酒の神を引き合いに出し、ディオニューソス=生命の木=夫婦和合の象徴に結び付けて、蓮實さん顔負けの読み解きを披露してみせる。この解釈を、評論家ハーバート・リードの言葉(「芸術家の活動を支配するものは知的なものではなく、本能的なものだ」)を使って、久保さんの意図がそこに隠れていると持っていくあたりには、師匠が手掛けた細やかな仕事への限りない敬愛ぶりが窺える。美術の久保さんの妥協を許さない硬直な資質が、中古さんの“美術は装置のみに心を傾ければいい”という安易な姿勢を、徐々に頭の片隅から排除していったような気がするのだ。
昭和十二年頃、東宝の脚本部に、後のシュルレアリスト滝口修造さんが在籍していたという話も印象深い。脚本部にいたにも関わらず、美術について斬新な示唆を投げかけてくれたようだ。当時積極的に美術への提言を行なう人はいなかったところを見ると、既にこの時期から話の整合性よりも、隠喩を孕んだ舞台装置の重要性を、滝口さんは察知していたのではないか。興味は尽きない。
『めし』について」(P133)でのセット(障子を介した玄関と台所と居間の関係)の件が、本書の最大の見せ場だと思うが、ここに触れると突飛な妄想を延々と記すことに成りかねないので、ここは中古さんの深い配慮が小道具の隅々まで行き届いているとだけ言っておきたい。
P177の『真剣勝負』の絵で描かれた三十三間堂の存在感も、負けずに魅力的だ。仏堂前の立ち合いを京都で撮ることが出来ず(『一乗寺の決斗』では実物を使えたが、本作では予算の関係で、使用許可が下りなかったのだろう)、東京でも撮れるような場所がない。監督の内田吐夢さんは、早急な決断を迫られる。中古さんは、ミニチュアのセットなどで仏堂を作るのだろうと想像を巡らすのだが、吐夢さんは「絵でいきましょう」と言うので吃驚してしまう。三十三間堂の長大な距離を絵(書割り)で描いた場合、観客にすぐに露見してしまうのは必須だからだ。吐夢さんはこの苦境を、キャメラの方向と高さ、スモーク流しと粉雪を降らせることで見事に乗り切ってしまう。美術監督の達人中古さんも、これには唖然とする。成瀬組ではありえない手法も、美術ではきちんと成立するのだとの思いを新に抱いた瞬間だ。この手法は、成瀬監督の『コタンの口笛』で僅かながらだが生かされることになる。
まだまだ触れたい箇所は沢山あるのだが、付記で長文を書くこと自体が違反だと思っているので、ここら辺で冒頭の中古さんの小文「『巳喜男と卓』−序にかえて」への感慨を記して終わりとしたい。
中古さんの文体は、固くて多少手読みづらい感があるが、本書を読み終えてから再読すると、何故か深く心に染み渡ってくるから不思議だ。特に、最後の文章「この大地は生命の木を育み養っている。決して止ることなく世界の内部まで延びて、木末が求める深所の水を探っている。この水は逃れ去ることはないだろうか、成瀬の杞憂はそこにあったのだろう。成瀬映画のフェイドイン・フュイドアウトは、生命の木の再生と死の無時間的な循環意味していないか。」は、奥深い意味を内包している。P190のエリアーデに通じる自然の摂理を、成瀬映画にダブらせているようにも感じ取れるが、中古さんが書かれた水という言葉に、「古い撮影所が培った技術」をどうしても見ずにはいられない。“生命の木の再生と死の無時間的な循環”は、今や儚く消え去ろうとしているのだ。伝統を打破して新しいことに挑戦するのも重要だが、職人技術の継承もそれ以上に大切なのではないだろうか。改めて様々なことを省みさせてくれる貴重な一冊である。

≪付記3≫
長く生きていると通り一遍の在り来りな文章では、なかなか感動や驚きを覚えなくる。これが年齢による感性の劣化というのであれば、認めたくない悲しい現実だ。
そんな中、偶然精神を高揚させるような一文に出くわした。週刊朝日2012/2/10増刊号に連載されている嵐山光三郎さんのコラム『コンセント抜いたか』で記された「探訪記者松崎天民」と題された文章のことである。読むことの快楽とはこのようなことを指すのだとつくづく思う。内容は、坪内祐三著の新刊『探訪記者松崎天民伝』を紹介する形をとっているが、嵐山さん自身が本書を読んで興奮した有様が手に取るように判り、そのためか数々の名言が散りばめられている。“記者になりたいという一念は岩をも通す”とか“惚れて入れこんだ女が、とんだくわせ者だったという失落感に似ている”とか“これは迷宮願望の探偵中毒症で、調査をすることに熱中して、連載記事はどうでもいいという気になる”とか、ワクワクするような言葉で埋め尽くされているのだ。
天民が筆一本で次々と新聞社を渡り歩く様をみていると、自分が書く記事に対する揺ぎ無い自信が見え隠れする。この自信は、常に読み手の興味を惹く目新しい記事を書かなければ、次は書かせてもらえないといった切羽詰った状況から生まれてきたのではないのか。自分をわざと窮地に追い込み、そこから最善のものを引き出す術を会得していったように感じられる。
本文を読みながら、天民の記者魂が坪内さんに乗り移り、果ては嵐山さんにまで取り付いたかのような錯覚に陥った。こういった魂の転移を、嵐山さん自身は“坪内氏にとりついた天民の霊は、これで解き放たれる”といった鮮やかな言葉で締め括ってみせるのだが、霊は嵐山さんにひっそりと移行したように思えてならなかった。今後、嵐山版の天民伝が書かれるのではないかという気さえする。ただ、残念なことに『探訪記者松崎天民伝』では、雑誌連載時の内容がかなり削られてしまっているようなのだ。嵐山さんは、「削った部分に旨みがあるのだが、まあ、それは単行本の紙背ににじんでいるから、目に見えぬ隠し味である」と好意的に解釈しているようだが、連載を読んでないこちらとしては、どうしても完全版を読みたくなってしまうのが心情だろう。もし増刷が繰り返された場合は、完全版を新に出してもらいたいと切に願う。まだ読んでいない本のことをこれだけ熱く語ってしまうところをみると、私にも天民の霊が取り付いてしまったのかも。気をつけねば。
松崎天民の天衣無縫な生き様は、内田吐夢の生き方と重なるような気がしないか。戦前の俳優から監督への道程、戦後に関わった日活・東映東宝での歩み、そこには信念を曲げない松崎天民同様の一匹狼の匂いを感じ取ることが出来る。『飢餓海峡』のカット事件などで見せる気概は、半専属契約のような形を東映と結んでいれば安定した収入を確保出来るのに、あえてそれを望もうとはしないことに繋がる。晩年は家族と離れ、小さなアパートで一人暮らしをしていたという。(「資料に頼る仕事の方法も変えて、本も処分して、小田原あたりに引っ越したいと思っている。」と晩年に語っていたという草森紳一さんの気持ち【HP「その先は永代橋」2012/5/12付の日記より抜粋〜全編、心に染み入る文章で綴られている】を察すると、吐夢さんの死生観に共鳴した草森さんの秘められた人生の一端が浮かび上がってくる)撮りたいものだけを撮るといった強い決心が、何故か孤独を呼び込むのだ。生涯の友、田坂具隆も日活で撮った『陽のあたる坂道』『若い川の流れ』の尺数問題で揉めた直後に、あっさりと日活と手を切り東映に移ったように、妥協を許さない頑な人の周りには同資質を持った者達が自然に集う。
松崎天民内田吐夢田坂具隆・坪内さん・嵐山さんに(ここに草森紳一さんも加えたい)、共通する粘り強い職人気質を感じるのは私だけだろうか。