『赤い妄想』(千草忠夫著) SMキング74年3月掲載

最近、並行的読書法(『裁判官の書斎 全五冊』書評参照≪付記2≫)で読み進めている本に倉阪鬼一郎著『夢の断片、悪夢の破片』(同文書院)がある。本書の表題ともなったE・M・シオラン著『オマージュの試み』(法政大学出版局)を解読する際に、倉阪さんが引用したシオランの言葉に心を奪われた。
「書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と生きながらえる助けになったからであり、さまざまの妄執も表現されてしまえば弱められ、ほとんど克服されてしまうからです。書くことは途方もない救済です。本を出すこともまた然り。」
この一節は、止め処もないアイデアの湧出を抑えきれない一部の特異な物書きにのみ当て嵌まる格言のように聞こえる。同属の倉阪さんもその通りだと賛同するが、続けて「こんな無防備な形で言ってしまっていいのかとちょっとうろたえたりもする。」と漏らし、この思わぬ直球発言に気恥ずかしさを隠せない。シオランの本(関連本を含む)を読破している倉阪さんと全く読んでいない私が、同一次元で対象に迫ろうとすること自体がそもそもおこがましいのだが、同項で扱っているシオラン著『四つ裂きの刑』(法政大学出版局)の簡単には読み解けないアフォリズム十三篇からすれば、驚くほど共感し易い糸口を用意しているのは紛れもない事実だ。
新な作品を生み出すわけでもない素人書評子が“書くことは途方もない救済です”に何故これほどまでに惹かれるのか。愚にも付かない本に対してこの言葉を重ねるのではなく、魚の小骨が刺さったかの如く理解不能だったにも関わらず、心の襞にこびり付いていつまでも離れない本に適用させて、自分なりの解釈を書き加えることで充足を求めたからに他ならない。独りよがりの都合の良い自己陶酔といってしまえばそれまでだが、埋められなかった感情の空白が“書くこと”によって、多少なりとも満たされる(癒される)とは考えられないか。
そのような意味では最近読み尽くした源氏鶏太さんの怪談短編小説は、ほとんど“書くこと”を求めない無味乾燥な因縁話が多く、特に期待した長編『永遠の眠りに眠らしめよ』(集英社文庫)では短編で書き切れなかった妖怪変化の瞬間を克明に書き込みながら、怨霊の原因を過去に遡って探し出して闘いを挑むといった、僅かに目先を変えただけの通俗的な物語に終始して小骨の欠片も残らなかった。
その点、遠藤周作著『蜘蛛』(出版芸術社)は、純文学として書かれたものまでも混淆させて一冊の本に纏め上げているのが実にユニークで、至るところでやたらと小骨が突き刺さる。皮肉なことに、怪奇色を前面に出した表題作「蜘蛛」や御馴染みの幽霊話「三つの幽霊」「私は見た」にはいっこうに恐怖心が湧かず、逆に事実に密着した「あなたの妻も」「ジプシーの呪」に、ぞくぞくするような人間の酷薄な側面を垣間見せられて、背筋が凍りついた。特に「あなたの妻も」の二話目、日本を舞台にした母による娘(赤ん坊)への米粒を使った残虐で陰惨な殺しの情景や犯罪現場で「コッ、コッ、コ、コ」という鶏の声がいつもとは違って、甲高く耳を劈くように感じられるところとか「ジプシーの呪」の身体に出来たいくつもの大きな腫物(指で潰して肥大化したもの)の内側から「チッ チッ チッ チッ」という不気味な音色を半鐘させ、真ん中の裂け目から噴き出てくる黄色い膿の様相などは、凡庸な幻想・怪奇作家では太刀打ち出来ないほどのレベルにまで達している。ただ、これを単純に怪奇小説と呼んでいいものかどうかは甚だ疑問だが。
思わずニヤリとさせられたのは、以前書評で触れた富岡陽夫の『まぞひすと・さじすと』(『月光のドミナ』参照)中で、生け捕りにした鼠を踏み潰しながら女が喜びを爆発させる場面があったが、「気の弱い男」のラストでも主人公の大人しい会社員が金魚を手で握り潰しながら、死ぬまでの“グニャッとした指の感触”に酔いしれるよく似た箇所があったからだ。SM行為が正に表裏一体なのを改めて思い知らされる印象的なシーンだ。遠藤さんの生理が並みの大抵の人では保持出来ない異常性を携えていることは自覚していたが、分裂症を引き起こし兼ねないようないささか度を越えた生臭い猟奇感覚は、傍目から見ても嘔吐感を催すくらい凄まじい。
いよいよ本編に取り掛かる。『D・Sダブルセンス(重層感覚)』に続く雑誌の読切小説だが、これも同様番外篇と考えていただき、取り上げることをお許し願いたい。『D・S ・・・』に遡ること約十年近く前のもう一つの複雑な妄想劇で、総ページ数二十四枚にもおよび、短編というより中篇と呼ぶほうが相応しい。実は間を置かずに二度読んだのだが、作品に潜む独特の空気感は察知出来たものの、真に意図するものがどうしても掴めず、小骨ではなく大骨が喉の奥深く入り込んで中々取れないような状態が続いた。これを打破するには、細部の裏側の隠された闇の深遠を暴き出せるかどうかにかかっている。
主人公のアダルト作家は、『D・S ・・・』と同じくスランプに陥っており、シオランの言葉“書くことは途方もない救済です”は遠い彼方に忘れ去られている。ぼやきは、書くことの苦痛をあからさまに伝える。「書くとは創造であるのに対して、読む人は作者の妄想のあとをなぞるだけに過ぎないから。」果たしてそうか。なぞる過程を否定する気はないが、作者が書き切れなかった足りない部分を読み手が空想(幻想)で埋める作業が逐次行なわれてはいないだろうか。作者の書き尽くせなかったもどかしさを解消すべく、読者も妄想の世界で悪戦苦闘を積み重ねているのではないか。ただ、この小説の主人公も書かないことが救済に繋がるとは考えていないらしく、食指を動かされるような素材にぶつからないだけで、書くことへの意欲は枯渇してないことが判る。彼は場末の酒場を彷徨しながら、何とか書くきっかけを掴もうともがき苦しむ。そんな中、見知らぬ男に出会い奇妙な話を聞かされる。数日前、自分の妻を主人公に無理矢理犯されたというのだ。主人公は身に覚えがなく、犯行が行なわれた時間帯には自宅にいたことがはっきりしている。夫婦の住んでいるアパートのドアには鍵がかかり、進入者の形跡は残っておらず、犯人(主人公?)が入って来たところや出て行ったところを、夫婦二人は覚えていない。犯罪事実を立証出来るものはなく、強姦が現実なのか幻覚なのかが曖昧のままだ。
事の経緯が重要かと思われるので要約する。
1.男(沢田直吉)と妻正子は、木造モルタル塗りの二階建てのアパートに住んでおり、強姦はこの部屋
 で行なわれた。
2.主人公(千葉昌平)は、犯行が行なわれた日の昼、あるデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所
 に座っており、そこで七階から降りてくる正子を見かけた。その際、正子を新しい小説の主人公に
 イメージしてストーリーを練った。正子は、そんな主人公の行動に 全く気づいていない。視線すら
 交わしていない。
3.その夜、主人公は昼に思い付いたアイデアを反芻しながら執筆に入った。
4.小説に記された事件が、同時刻に上記1.のアパートで実行された。
5.犯行の際に使用された緊縛用の紐が、使いならされた古びたロープだった。(小説の中で何度も使い
 回された証か)
大まかに纏めると以上にようになる。これらから導き出されるのは、ドッペルベンガーという用語だろう。主人公も、男から強姦に到るまでの詳細を耳にして最初に思い浮かべたのが、サイコキネス(念力)・トランスサポート(転送)・ドッペルベンガー(小説内ではドッペルベンゲルと記されている)といった怪奇現象で、おぼろげながらも結論を引き出す。それは、「原稿に向かって凝集された彼の思念ないし妄想が、実体となって対象の女のもとに出現する。」というものだが、非現実的だとは思いながらも、どこかでそれを信じないわけにはいかない。この理論がそのまま何の捻りもなく実行されれば、安直な幻想譚として済ませることが出来たのだが、事はそう単純に運ばないため、更に混迷の度合いを深めていく。
主人公は、男から妻の失われた性欲(恥辱の快感が忘れられないらしい)を目覚めさせる意味で、もう一度犯行を行なってほしいと頼まれ実行に移す。以降現実での凌辱模様が延々と語られていくのだが、さして突出した描写はない。前回使わなかったズボンのベルトで女を鞭打つのが唯一の見せ場となっているのだが、主人公が双臀の奥に潜むセピア色の蕾に目を奪われて、一瞬戸惑う場面だけがいささか突飛に感じられた。この蕾への凝視が、物語の後半で再び顔を出すとは思い至らない。
続いて、主人公はドッペルベンガーを自覚しながら、過去に手掛けた小説群に思いを馳せる。女優AやテレビタレントBを想定して書き上げたアダルト小説がそれだ。妄想の対象となったこの二人の芸能人には、以後確かに同じような事件に巻き込まれたかのように思わせる節があった。Aが男を知り、女優開眼したことは想像の域を出ないが、Bの強盗事件は強姦を匂わせる部分が多分にある。では、Bの犯人として主人公が訴えられたかというとそうではない。画像に映し出された虚像では主人公の妄想の翼は羽ばたかず、生身の人間を視線の先に捉えないと、欲求の矛先は無意味な空回りを起すだけのようなのだ。
主人公は再度の挑戦を試みる。正子に対して主人公が、卑猥な夢想を抱きながら、情熱的な文章を書き綴る。結果は予想に反したものだった。翌日直吉に電話をすると何も起こっていないというのだ。主人公はがっくりするのだが、読んでいるこちらの落胆はそれ以上に大きい。もうお判りかとも思うが、現象解明の端著が完璧に塞がれてしまったからだ。前二回の読後と同様もやもやとした感情が湧きあがり、再び奈落の底に引き摺り込まれそうになったので、これまでの過程を丹念に整理してメモに纏め、全体像を俯瞰した。すると、絡み合っていた糸が少しずつだが解れていくではないか。引き出された解答はこうだ。
ドッペルベンガーを生み出した凌辱小説は、遠い昔に没として未完成のまま引き出しの奥底に眠らせてしまった原稿だったのではないかと推察してみる。それを証明するかのような主人公の独白が呟かれる。「平凡なストーリーだが、平凡なサラリーマンの妻から、次第に妖婦のような魅力を身につけてゆく過程をうまく描ければ、かなり読めるものになる、踏んだ。いま目にした女のイメージは、かなり力になってくれるはずだ。」デパートの喫茶所でふと浮かんだ感覚だが、裏を返せば正子を見かけて妖艶な女の像を彷彿出来たからこそ完成した物語なのであって、想像上の女性で筆を走らせていたら、未完成のままで埋もれていた可能性が高い。話自体はいたってシンプルで、悪くいえば凡庸極まりなく、読者の興味を全くそそらないと判断して、主人公が筆を進めるのを躊躇ったとしてもおかしくはない。だが、引き出しの奥から原稿が取り出されず、新に初めから書き記されたことが思ってもみない奇矯な現象を生み出す。それがドッペルベンガーだ。ただ、小説が実際の出来事として息を吹き返したことで、眠っていた原稿に籠っていた怨嗟は消え去り、その後ドッペルベンガーは二度と起きなかった。正子を想定して、いくら感情を込めてドラマを作り上げたとしても、現実で同様の行為が再現されないのは当然なのである。もし、この解釈が正しければ、主人公が埋もれた原稿に気づき、後を書き継いで物語を完結させていたとしたならば、ドッペルベンガーは立ち現れなかったと思われる。
このような強引なひらめきに少々自省しながら、古いノート(印象深い言葉を書き写したもの)を紐解くと思わぬ文章にぶつかった。澁澤龍彦書評集成(河出文庫)に掲載されている中井英夫著『悪夢の骨碑』(講談社文庫)の書評から抜粋したものだが、今まで述べた考察が全く的外れではなかったことを実証してくれるかのような一節だった。長いが引いてみたい。
「私たちは、無意識のなかで、つねに現在あるがままの自分とは違った、べつの自分を生きている。無意識のなかでは、私たち人間はすべてドッペルベンガーなのであり、ナルキッソスなのである。私たちの無意識の貯蔵庫には、実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。時間の迷宮のなかで、私たちが出遭う“もう一人の自分”とは、これを心理的パラフレーズするならば、この死んだ胎児の生きかえった姿、グロテスクに成長した姿にほかならないであろう。」
この言葉にある「実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。」を中断した未完成原稿と置き換えてみると不思議なほど符合するのだ。これを生きかえらせ“もう一人の自分”(ドッペルベンガー)を導き出して“グロテスクに成長した姿”(一編の小説)と結び付けると旨く嵌りこむ。
ただ、実際は澁澤さんの文章は最後こう締め括られている。
中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、巨大な一個の『死んだ胎児』ともいうべきものは、じつは日本の戦後そのものなのである。作者は情熱をこめて、死んだ戦後の東京をよみがえらせる。」私のように平面的に見るのでなく、戦後の日本と東京といった大きな枠組で捉えているのだ。実をいうとこの文章は、全くの偶然なのだが、倉阪さんの『夢の断片、悪夢の破片』の「トランプ譚」論の第三章の〈悪夢〉または〈死んだ胎児〉−『悪夢の骨碑』に収められているのだ。(P109)ただ、倉阪さんは私と違い、末尾の「中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、・・・」の一文をきちんと書き添えているのだから、やはり明らかに視点が違う。
思わぬ方向に話が逸れてしまったので話を小説に戻そう。
以上の未完成原稿の件を頭の片隅に置いて、後半のもう一つのエピソードを辿っていくと興味が倍増し、ある程度先の展開が読めながらも、欲望の炎は燃え滾る。獲物は千草さんお得意の女高生で、娘の親友京子だ。主人公は京子とは自分の家で何度も顔を合わせているが、純情可憐なだけにじっくりと観察出来ないので、いつも歯がゆい思いをしている。目を合わせることすら出来ないようだ。やはり、ここでも埋もれた原稿が頭にチラつき、それを窺わせる文章の片鱗を探していることに思い至る。らしきものはあった。以下の一文だ。
「(そういえば、あの時は海水浴場を舞台にして、水着の美少女が浜茶屋のチンピラどもになぶりものになる小説を書いたんだったっけ・・・・・・)昌平は思い出した。しかしその時は、なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、かえって正反対のタイプの美少女を登場させたのだった。」
言葉からは、京子とは違った快活な美少女が犯され、その反動で沈み込んでいく典型的な転落譚を想像出来るが、京子をモデルにした小説は実際には書かれなかったようだ。だが、手掛けた匂いは感じられる。「なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、・・・」とあるように、海水浴場にいくまでの制服姿の京子をモデルにした物語が存在していたと考えられないこともない。ビキニ姿で登場した京子をみて、そのあまりの純朴さに魅了され、筆が止ったのではないか。
主人公は、京子をメインに据えた物語を書き始める前に、ドッペルベンガーの到来を恐れて自分の顔を手拭で隠す。未完成原稿の怨念(慟哭)を自覚していないのだからしょうがないともいえるが、主人公の無駄な悪あがきと判っているこちらとしては、常軌を逸した気の遣いようが返って失笑を誘う。二人の絡みの場面に没頭して目を注いでいると、合い重なる艶かしい光景が頻繁に現れるのに気づく。数箇所に及ぶ言葉の断片を切り取る。
「京子の顔は額から頸すじまで紅を刷いて、赤い蕾の唇が割れ、小鳥のようなのどの奥がのぞける。」「京子ちゃんの唇って、すごく甘い。柔らかくって、いちごみたいな匂いがして・・・・・・」「京子の処女の魅力のすべてを、あからさまに、うしろのすみれ色の蕾までを見ることができたのだった。」 
千草さん独特の流麗な文体が横溢しているが、特徴的なのは、蕾で形容した赤い唇と煌びやかな色合いで表現されたアナルだ。冒頭部で活写された正子のアナルもセピア色の蕾と謳われていた。そんな蕾のような赤い唇を思い描いていたら、夢想映画いやドッペルベンガー映画ともいうべき傑作『視姦白日夢』のタイトル画面が蘇えった。記憶が鮮明でなくて申し訳ないのだが、確か手書きで描かれた花弁に酷似した桃色の巨大な唇が、背景に写し出されていたはずだ。唇が性器をイメージしたものだということは誰しも想像が付くが、そんな安易な発想を踏み越えたところで、小説と映画は共鳴し合っている。題名の『赤い妄想』とは、蕾のような赤い唇(アナルの像は限りなく希薄だ)をじっと見詰めることで侵入が可能となる、禁じられた快楽の入り口を指しているのではないか。性器のみに捕らわれている者には、闇に浮かぶ妄想の暗い扉を永久に探し当てることは出来ないだろう。終盤、京子のストッキングが活用され、緊縛色の濃くなった章が、話の内容とはやや掛け離れた形で「視姦」と記されていたのは単なる偶然か。小説が発表された八年後に『視姦白日夢』は製作されている。監督の水谷俊之さんが、小説を読まずにこの幻惑的な映像を作り上げたのであれば、そこには時間を超越した別な意味でのドッペルベンガーが現出していたに違いない。
京子が主役の叔父と姪との濃密な性愛幻想譚が幕を閉じた後、ラストで現実の京子が主人公に囁く僅かな一語が、深い余韻をもたらす。敢えて記さないが、これは怪奇小説の見事な結末とも見間違えるくらい実に含みのある言葉だった。
妄想癖の過剰な人にお薦めしたい奇作だ。

≪付記1≫
本文で主人公が夫婦と関わりを持つまでの経緯を、必要以上に詳細に記したのには訳がある。
夫婦を題材にした小説を思い浮かべたデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所、非日常的なエロスを生み出した二階建てのアパートといったように、階段が頻繁に登場して、それが妄想を呼び起こす役目を担っているように感じられたのだ。地上ではなく、僅かでも地面から浮び上がった空間でのみ、妄執の交流が成される。では、何故二階のアパートで、現実と見間違えるようなドッペルベンガーが起きたのか。主人公は常日頃から、自宅の書斎で執筆作業を行なっているので、妄想場所は二階と規定していいだろう。夫婦のアパートと主人公の書斎という同じ二階の共有空間を使って、意思疎通が繰り返され、狂おしいまでの愛欲物語が築かれていったとは考えられないか。作家の想像力に、過剰な性欲を抱いた夫婦の想念が重なり合って、淫靡な空想を顕在化させたともいえる。
更に、共通の時空を通過しないとドッペルベンガーが現れないことが、後半の京子の自宅の叔父との絡み合いの場面からも見て取れる。主人公は京子の家を実際に目にしていないので、家の外観ははっきりと書き記されていないのだが、妄想に入る直前に以下のような文を綴っている。「もちろん犯させる場所は、昌平が聞き知った京子の勉強部屋兼寝室である。」勉強部屋兼寝室は、当然二階に設置されているはずだから、同空間を享受している可能性が高い。唯一問題となる京子の幼さを、ボーイフレンドに無理矢理処女を奪われる設定にして取り除き、快楽への憧れと恐怖の狭間で揺れ動く少女の心情を巧みに盛り込んで、女高生の性意識を主人公に近いレベルまで引き上げている。
話は少々逸れるが、階段と鏡を組合せながら、異次元の境界線を浮き彫りにした作家に源氏鶏太さんがいる。源氏さんの怪奇小説は記憶に残らないものが多いが、階段と鏡が登場すると不思議な効果が生まれ、全編に緊張感が漲る。良い例が、『鏡のある酒場』(『レモン色の月』(新潮文庫所収))だ。
主人公多木は、曲がりくねった狭い階段を降りた地下二階にある酒場「鏡」へ向かう途中で、自殺した友達の別所からいきなり声を掛けられる。この冒頭部は、源氏さんお得意の安易な幽霊物の臭いがチラつくが、酒場に入った途端に突然別所が姿を消すあたりから空気は一変する。店の正面の壁には、中間サイズ(六十糎×四十糎くらい)の鏡が掛けられており、その前のカウンターで悪魔的な魅力を纏ったマダムが立ち働いているのだが、奥の鏡の中に別所があっという間に吸い込まれてしまったような錯覚を覚える。だが、その痕跡は全く残っていない。鏡が顕世(うつしよ〜現実)と幽世(かくりょ)の境界に位置しているらしいと主人公が感じ始めた時、死の幻影は目前まで迫っていた。
鏡の先に幽世が顔を覗かせるのは、源氏さんの『鏡の向う側』(同題名の単行本所収)も同様だが、この小説では階段とのより深い繋がりを察知出来る。引いてみたい。
「同時に三沢は、自分の躯がその鏡の向う側にすうっと出たのを感じた。いちめんに真ッ暗であった。その暗闇の底へぐいぐいと強い力で際限もなく引きずり込まれていく感じは、あの地下三階の書庫のときのそれとおなじであった。いい直せば、鏡の向う側に地下三階の書庫があったのだ。」
幽世から顕世への通路を逆に辿ると、地下二階の酒場「鏡」に行き着くように、地下へ続く階段と暗黒の幽界は密接に結び付いている。宇能鴻一郎さんの初期短編にも、地下の全面総鏡張りのバーを舞台にした不可思議な物語(題名失念)があったはずで、鏡は作家に心地よい幻覚作用や甘美な死への誘いを惹起する危険な魔力を秘めているようだ。
本編でドッペルベンガーを生む起因となった部屋(二階のアパート・京子の勉強部屋兼寝室・作家の書斎)の片隅に、目立たない形で小さな鏡が掛けられているような気がするのは私だけだろうか。