『渦』(円地文子著) 集英社文庫

暗い欲望に突き動かされた人間が織り成す三角関係の修羅場が好きだ。目の前で展開される現実の壮絶な愛欲劇ではなく、小説や映画などのフィクションでの話である。
子供の頃、親に隠れてこっそりと昼メロの淫靡な不倫(よろめき)を覗き見たり、B級怪奇サスペンス映画での悪意に彩られた浮気の数々を、深夜小型の白黒TVにイヤホンを刺して胸を高鳴らせながらじっと凝視していたことが、瞼の裏に克明に蘇って来る。何故、ここまで他人の諍いに興奮してしまうのか。狂気沙汰ともいえる夫婦の醜悪なやり取りが行われている最中に、当事者の夫に自分を置き換えて身につまされる思い浸り、被虐願望に酔い痴れるにはまだあまりにも若過ぎる。愛人との度重なる密会を妻に悟られて戸惑う夫を垣間見ながら、他人の苦悩を密かにほくそ笑んでいたからとはいえまいか。悲壮な顔をしながら極度にうろたえている人の光景ほど、波風の立たない自身のささやかな幸せを実感させてくれる瞬間は又と無いだろう。
小説における男を巡る数人の女の絡み合いを上げれば切りがないが、特に印象に残っているのは三浦朱門の『犠牲』『楕円』『人妻』『再会』(集英社文庫)の四部作だ。最終巻の『再会』だけ目を通さなかったような気がするが、この手の小説にありがちな不甲斐ない男が主人公で、煮え切らない性格が種々の誤解を生み、関わった女性達を不幸(彼女達はそう考えていない)の彼方へと追いやっていく。思い悩む男の胸中が、いかにも人間らしい(北上次郎さんがよく使うフレーズだ)とは言えば言えないこともないのだが、世間から見れば自分勝手な行動としか見做されないはずだ。
学生時代を振り返ると、自分がとんでもない性癖の持ち主だったことが今更ながら思い起こされる。一目惚れで好きになった女性に対し、自分が作り上げた理想の性格を思い描き、それ相手に強引に押し付け、彼女が身近な存在となってそのイメージに当て嵌まらないと判るやいなや、急激に恋慕(崇拝)の度合いが薄れていくのだ。この場合、女性がこちらの好意を気づかずにいてくれた場合はさして罪はない。自分の心中でのみ発生し終結した、自縄自縛の儚い恋なのだから。ただ、相手がこちらの気持ちを察知して、少なからず親しみを抱いてくれるようになっていた場合は始末に悪い。相手の女性は、何故こちらの気持ちが離れていくのかがよく判らないからだ。学生同士の恋なんて、気恥ずかしさが先行して言葉が足りないことが多い為に、素直な気持ちをうまく伝えることが出来ない。こんな中得てして、別な女性に心を寄せてしまう羽目になる。彼女が本性のよく掴めない影のある魔性の女(大体が男好き)だったりすると、男はこの怪しげな女にどうしようもなく惹かれていくものなのである。こちらから愛情の一方通行を頑なに実行に移している間は一心不乱になれるのだが、相手から好きになられると逆に腰が引けてしまう。全く持って我ながら性根の腐ったどうしようもない奴だ。こんな身勝手な私の行動に、この文章を目にしている人達が許しがたい怒りを感じるのは当然だと思うが、男女の恋愛は簡単には割り切れない複雑怪奇なものであることを少しでも判っていただきたいのである。(男の我侭と言われればそれまでだ)ただ、一目惚れした彼女の意に反した気性の荒さが後々大きなトラウマとなり、自己主張の強い感情の波の烈しい女性にしか興味が湧かなくなってしまったのは何とも皮肉だ。
ここでふとしたことが思い浮ぶ。ある時期富島健夫の性愛小説に嵌まり、ほぼ読み尽してしまったのだが、その中でも『朝だちの唄』(勁文社文庫)だけがいつも心の片隅から離れない。富島小説の特徴は、主人公の男が肉欲に溺れながらも、女の心の機微を即座に見抜いてしまう洞察力(都合の良い解釈で、たまに癇に障るが)がたびたび顔をのぞかせることだ。
後半田舎から東京に出て来た幼馴染で許婚の彼女を自分のアパートに泊めた際、同じ田舎の別な女性(許婚の女性とは友達で、主人公は許婚より先に彼女と肉体関係を持ってしまう)も同衾させて、三人で行為に及ぼうとするが、ここで主人公の鋭い感知能力はうまく発揮されず思ったように事が運ばない。許婚は女の勘で逸早く男と女友達との以前からの関係に気づくが、表面上はさも全てを許すかのような優しげな態度を取る。男もそれを素直に受け取って安心するのだが、次の日許婚は男に黙って田舎へと帰ってしまう。男は慌てて駅まで追いかけ、彼女が乗った電車に何とか同乗することが出来たが・・・
少々筋を追い過ぎてしまったが、いつもなら主人公の男が女を旨く言い包めて無理矢理三角関係を承知させてしまう形にもっていく富島さんが、ラストで男の失態をあからさまに記した稀なケースといえる。数多くの富島小説に触れないと気が付かない何気ない部分だが、今までの性愛小説の禁戒を破ってまで、男には計り知れない女の揺れ動く微細で移ろい易い心の襞をあえて書き留めておきたかったのではないだろうか。
揺れ動く女心といえば、リチャード・レイモン著『殺戮のキャンパス』(扶桑社ミステリー)の女子大生アリソンは、恋人エヴァンの肉体的な交わりを重視した愛に疑問を抱いて答えの出ない自問自答を繰り返す。
「セックスはわたしたちを結びつけていたひもの結び目みたいなものだ、とアリソンは考えた。それをほどかなきゃ。一度だけでも。わたしたちがばらばらになるかどうかを確かめるために。わたしたちを結びつけているロープに別な結び目があるかどうかを確かめるために―たとえば愛の結び目のような。」(P372)
おぞましい怪物が現れるホラーに相応しくない歯の浮くような愛情検証の言葉だが、精神的な癒しを内包した結び目が、後半のジェイクとのやや唐突な愛の芽生えを少なからず自然なものへと導いていく。死の恐怖に追い詰められた時ほど、根源的な慈悲深さに溢れた無償の愛が曝け出される。人間の体内に入り込んで自由に意思を操作する厄介な怪物(ジャック・ショルダー監督の快作『ヒドゥン』のパクリだと思い込んでいたら、映画公開と本の刊行はほぼ同時期だった。模倣したのは一体どっちだ!〜ジャック・ショルダーは変形SF物を手掛けると実にいい味を出す人で、『ラスト・カウントダウン』『タイムアクセル12:01』『サイバークローン』などは、きらりと光る佳品である)は、肉体の繋がりのみを盛んに強要する野放図な男の分身と見て取れないか。
さて、本書との出会いについてだが、『さらば雑司ヶ谷』の書評付記2でも触れた“いっせいの読書無宿”(「本の雑誌」2005年8月号掲載)で取り上げられたことによる。この文章がいかにもいっせいさんらしいストレートな口調なので、思わず噴き出してしまった。引いてみよう。
アメリカ留学から帰国した若い学者が、二人の女性をもてあそぶストーリーで、てめえこの野郎!とその男を思わず罵倒してしまう場面が続出なのだ。頭脳明晰、美形なもんだから女にモテる男だ。羨ましい・・・を通り越して、腹が立ってくる。」
これ以降は例によって”狭い空間(スペース)”という意外な方向に話は流れていくのだが、いっせいさんの見解からすれば、私も“てめえこの野郎!”の対象になるはずで、何だか妙に身につまされる。私は小説の主人公と違って頭脳明晰、美形ではないだけにいっせいさんの怒りは更なる極みに達し、「手前のツラを見てから行動しろ!」と暴言を浴びながら袋叩きにされるかも知れない。考えるだけでも空恐ろしい。
では、本題に入ろう。
いっせいさんの文章を紹介したので、細かくあらすじを追う必要はないのだが、アメリカ帰りのエリート学者(専門は応用化学)が共同研究者と合作論文を書き、アメリカで科学賞を貰っている逸材である点に注目したい。応用科学という理工系人間を主人公の恋人に配したあたりに作者円地さんのしたたかな策略が感じられ、この設定がその後頭の中を何度も過ぎるという意外な効果が生む。
序盤は、図書館に勤める意志の強い主人公絢子とその母とも子、恋人の島、そして母の友達ことを軸に話は進行する。母とも子が病気になる以外は、さして大きな事件は起こらず、むしろさざ波のような静謐な空気感が漂う。アメリカで知り合って島と肉体関係を結んだ女性美香の登場が僅かなうねりを生じさせるくらいだ。美香の帰国によって島が多少狼狽の表情を浮かべるかというと、全くその素振すら見せない。よく言えば沈着冷静で全てを受け入れて包み込むような寛大な包容力が感じられるが、悪く言えば女を手玉に取った罪の意識を少しも抱かない嫌な奴(まさにいっせいさんの指摘通り)だともいえる。この冷酷とも受け取れ兼ねない感情の起伏の無さが理工系独特の気質だと説明されれば、何となく頷ける節がある。女を抱くことは、島にとっては実験の一環であって、その結果が成功するか失敗するか(纏わり付かれるか、そのまま忘れ去られるか)はさして重要な問題とはいえないのではないか。島は恋愛のイニシアティブ を常に女性に取らせているように見える。これを今までの愛欲小説に頻繁に登場した歯切れの悪い主人公達と重ね合わせることは容易いが、島の胸底にはどす黒い邪念が見え隠れするのだ。そのカギが絢子からの手紙(母の手術のこと)を読んだ後の独白にあるような気がしてならない。少し長くなるが抜粋してみたい。
「(前文省略)それだのに、何故結婚ということになると、足踏みするのか・・・・・・恐らく絢子が嫌いなのではなくて、結婚という世間並みの鋳型に自分がもう一人の女と一緒に鋳込まれ、うち出されることに抵抗を感じているのだろう。世間の男を何度か襲う女と同棲することへの欲求が、欠けている点で、自分は不具な男なのかも知れない、と島は思った。ともかく、塒なんか要らないから、もう少しおれを自由にして飛ばせて貰いたい。独身という自由な翼の折られない間に、自分の学問に対して持つ情熱をもう少し烈しく強く燃え上がらせたいのだ、と島は思った。絢子のような妻として完全な女性は、恐らく、自分の翼を撓めて、小さい籠に押し込むのに思いの外逞しい力を持っているように思われる。・・・・・・そのことが漠然とした恐怖となって、絢子との間に黒い幕を張っていた。」この後決断するように一言囁く。「妻でなければいいんだ・・・・・・絢子はあのままで、完全な恋人なのだ。」(P55〜56)
ここまで引くかと言われそうだが、この小説のほとんどが、島のこの自己分析(願望)によって解明することが出来るといっていいくらいに重要な箇所なのである。島には決断力はある。自己を不具者と言い切った上で、はっきりと絢子と結婚する気はないと明言していることからもそれは窺える。要はそのことを相手に伝えるかどうかにかかっているのだが、伝えれば完全な恋人(愛人)を失ってしまうことが判っているだけにどうしても踏み切れない。いや、島の思考回路は自己中心的なので、最後の詰めを意識的に避けているのだろう。島は妻という本来愛情を交換し合う女性の存在価値をあまり認めておらず、その神経は学問への意欲と恋人との共同体意識(近親相姦に酷似したもの)に比重が置かれていく。一見女性に愛の主導権を委ねたように見せかけながら、肝心なところは自分が握って離さない真のエゴイストなのだ。
島の不動心は美香と母親と叔父の三人の席上でも遺憾なく発揮され、結婚を迫る美香の母親と叔父のいささか無礼な振る舞いをさらりとかわし、傷もの呼ばわりされている美香当人にその矛先を向ける。「君が自分に対して自尊心を持ってくれないと、この問題は僕をひどくみじめにするからね・・・・・・」結婚は美香自身の問題であることを、改めて遠まわしに強調するのだ。ああ言えばこう言う、正に付け入る隙がないことはこのことだ。挙句の果てに、三人の前でぬけぬけと「僕は絢子を愛しています。そんなことをいうと、美香さんには怒られるかもしれないけれども、男というのは二人の女を別々に愛することの出来る能力を持っていますね。・・・(以下略)」と断言し、この場を易々と切り抜けてしまう。雄としての本能である繁殖行為を全面に打ち出し、自分自身の問題というよりも過去の遺物である一夫多妻制の正当性を主張しているかのようにも聞こえる。
何人もの女を愛せると思い込んでいる島の魔の手は、絢子の母親とも子にまで差し延ばされる。遠ざかっていた絢子の家を久々に訪ねた際、とも子の面影をふいに思い出し、「絢子よりも母親の方を好きだったかも知れない、と島はふとベルを押しながら思った。」との感慨を抱く。もしとも子が病気にならず元気な状態であったら、物語はどのような変貌を遂げていたのだろう。姉妹のように美しい母娘に思いを馳せながらも、恋人絢子の存在を蔑ろにして母親のことを思う男の心境や如何に。
この章「ふたなさけ」の最後に、島が絢子と久しぶりの愛の営みを行なう場面があるのだが、抱擁しながら「・・・甘美な悲哀の情緒が自分の身内にも満ちて来るのをしみじみと感じた。」と島の感情が記されている件があるのだが、母親とも子の死と向かい会う悲しみに沈んだ絢子を切ないと思う慈しみの愛というよりは、前に触れたが何故かここでも近親相姦の危険な匂いが充満するのだ。島の手が肩を抱きかかえるところではいささか突飛だが、血に飢えた吸血鬼が鋭利な歯を立てて噛み付き、種族繁栄のために同胞(最愛の妹)を増やすシーンが目に浮かんだ。そう、島は絢子の体内に自分と同じ吸血鬼の極上の血が流れているのを、かなり以前から嗅ぎ取っていたのではないか。P173で二人が再び唇を重ねた際も同様の印象を強く持った。ここで青年島は“逞しい少年”のようだと表現されているが、血の渇望に素直に反応する吸血鬼はある意味汚れのない無垢な少年と同じだ。吸血鬼同志が血を欲するのは邪道だと言われればそれまでだが、本書では同族同士の妖艶な血の啜り合いが何度も行なわれているように感じられるのだ。では絢子の反撃はいうと、もう少し先の話である。
後半で、島が偶発事故で左の額から頬にかけて傷を負い、絢子は美香親子との乱闘で片頬と膝に擦り傷を負う。二人が時を同じうして災難に見舞われるのを見て、またしても近親相姦を暗示させる双生児兄妹という色合いが一層強くなる。二人が鏡を覗く時、お互いの前には自分たちが入れ替わった像が大きく映し出されていたのではないか。
ル・クレジオは鏡から井戸を連想し、ラフカディオ・ハーンは小説『鏡の乙女』で、引き摺り込まれるような錯覚を生む不思議な井戸のほの暗い水底(鏡面)に、耽美な女性の幻影を写し出してみせる。美術評論家石崎浩一郎さんは、この鏡・井戸・水を結び付け、次のような釈義を加える。「鏡の中への転落が水中への転落、そして鏡面の魅惑が水の中で溺れ死ぬことへの魅惑へと転化してあたらしい変貌を遂げている」(『イメージの王国−幻想の美学』(講談社) 鏡面感覚より〜P20)
極薄の鏡面が浮き出ている井戸を発見し、その奥に佇む清らかな水に身を晒す夢想に耽る。鏡の中にお互いの逆転した顔を見た島と絢子は、しがらみという脱出不可能な井戸の中でもがき苦しみ、やがて押し寄せて来る大量の水(聖水か濁水か)で幻惑的な死の世界へと引き込まれていく。これは避けることが出来ない宿命だったのかも知れない。
その井戸の天上からの救いの手を差し出してくれた唯一の人物が、母親の担当医だった原庭博士である。だが、絢子はこの温もりのある手に縋らず、喉元にまで及んでいる水を敢えて自ら口に含んでしまう。過去に他の男に妻を取られた心の痛みを知る慈悲深い男との暖かで穏やかな家庭生活を夢見ず、自ら火中の栗を拾う絢子の心境は、繊細な神経に欠ける非情な吸血鬼に噛まれて覚醒した(心奪われた)乙女の悲しい定めなのか。
救済の道を己から閉ざした後に絢子は決意する。「私は理性を失ってはいけない・・・・・・どんな悲運な眼に逢うことがあっても、私は自分の生きて行く力をそれによって試して見なければ・・・・・・。」
傍には沈丁花の強烈な香りが立ち込めている。沈丁花花言葉が”実らぬ恋”であることを恰も自覚しているかのように、絢子は悲恋(それ)によって試して見ようという前向きいや無謀な努力をまだ継続しようとするのだ。自らをあえて悲惨な状態に追い込んで今後の生きる活力を見出す。何ともいじらしい考えだが、恋は尽くせば全て報われるものではない。島から決定的な一言が浴びせられる。
「君には男の気持ちがまだわからないようだ。僕は君を愛すのと違った意味で美香を愛しているよ。そうして、結婚の相手としては美香のような、神経のあらい女の方が、僕には仕事に打ちこめるように思う・・・・・・それはたしかだね。」(P172)
冒頭でも触れた島の妻に対する考え方、愛情を確かめ合う関係としてではなく、癒しの空間を作り出してくれる感情を伴わない置物のようにしか見ていないことが露呈される。意志の疎通を要求されない飾り物としての妻が抱える空虚な安堵感、たびたび愛を囁き合うが永遠の同志としての恋人(愛人)に甘んじることへの歯痒い屈辱感、果たしてどちらが本当に幸せなのだろうか。
終盤絢子が結婚してくれないのなら、今夜限り逢わないと宣言する件がある。ついに女吸血鬼が牙を剥いたのだ。いつまでも自分の混じり気のない純潔な血を吸わせるわけにはいかないとでも言っているかのようだ。絢子にすれば思い切った言動だが、まともに正面切って言われると吸血鬼島の本性にも火が付く。「この女がおれを拒むなんて・・・・・・そんなことをさせてなるものか!この女は心も身体の隅々までおれによって、培われて成長して来たのだ!結婚しないにしても、おれとのつながりがなくなって、どんな実りのある生活へ踏み入れるというのか。」(P201)この傲慢の局地ともいうべき思惑は、絢子の形振り適わぬ行動が生んだ結果(成果)のように思われるが、所詮エリートも一匹の獰猛な雄でしかないことがはっきりと証明された実に生々しい場面だ。論理的な思索を得意とする人間には、こちらが感情を剥き出しにしないと中々本性を表出しないという良い例だ。沈着冷静な二人がお互いのプライドを尊重し、他人に見せない深い傷を舐め合ってきた今までの状況は、永遠に一つになることを禁じられた悲劇の兄妹愛以外の何物でもない。成就しない禁断の愛の行き着くところは、やはり彼岸しかないのだろう。
絢子の最後の呟き「長い間核心を掴めぬままその周囲を堂々めぐりしていた中心がやっと深い井戸の底のように小さく淀んだまま、絢子の目に見えて来た。そこには光らしいかげはないままに、やっと呼吸の通う程度のぬけ穴がそこにあるらしく思われた。」(P203)に、井戸の底という言葉が飛び出したのには少々吃驚したが、溜まっている水の中に僅かな澄明さを感知し、二人が手を取り合って入り込める小さな至福の扉を遂に見つけ出したに違いない。
終局で絢子が何度も島を妖精圏の住民に例えて、母の友人ことに彼がとらえどころのない歪んだ心情の持ち主である(島流にいえば不具な男)ということを判らせようとしているが、私には昼はコウモリのように大学の研究室という洞窟の闇に潜んで翼を休め、夜な夜な女の生血を吸う(女の感情を弄ぶ)ために、様々な場所に出没する自由気まま吸血鬼の生まれ変わりにしか見えない。ことが最後に島の生息する国を妖精の国ではなく、お化けの国といっている言い回しが実にしっくりくる。
ここには綺麗事でない剥き出しの激愛が鋭く抉り取られている。文芸評論家の小松伸六さんによると、円地さんは実生活でも背徳の恋にのめり込んでいたようだが、その無謀な体験がなければ、赤裸々で凄まじい我執に取り付かれた人間ドラマは書けなかっただろう。続けて、本書と同系列の作品だと思われる『人形姉妹』(集英社文庫)を読むつもりだ。さて今度はどんな修羅場が待ち受けているのやら、何とも楽しみでしょうがない。

≪付記1≫
『人形姉妹』を読了。作者円地文子の分身のような女流作家が、女子留学生と交流を持ったことからドラマは動き出していく。導入部は一見ミステリーのような雰囲気を漂わせ、読者の興味を否応なく惹き付ける。円地さんの円熟味を孕んだ流麗な文体は、他の追随を許さないほど見事なまでに張り詰めた空気を醸成している。
第二章「雛の顔」から、姉律子と染色工芸に携わっている美大生曾宮が熱情を交わす章「雛の前で」までの緊迫感は特に圧巻で、息をもつかせないとは正にこのことを指すといっても過言ではないほど素晴らしい。だが、如何せんこれ以降の展開が凡庸いやこちらの思惑を裏切らなさすぎるのだ。悪魔的な魅力を湛えた内裏雛に、秘められた呪いと狂熱の恋を絡めたあたりは安直すぎやしまいか。
巻末の解説で小松伸六さんが文頭と文末で、“よくまとまった作品(中篇小説)”と好意的な解釈を加えているが、この褒め言葉に妙な引っ掛かりを覚え、整合性が取れている分だけ逆に意気消沈してしまった。そのような観点からすれば、『渦』は小説作法から大きく外れたある意味で破綻した小説といえるのだが、個人の烈しいエゴ(主張)のぶつかり合いが予想を超えた衝撃となって襲い掛かって来る。小奇麗なまとまりは、作品としての完成度を高めるための必要条件なのかもしれないが、読み手の驚愕(インパクト)を弱めるマイナス効果を生む危険な綱渡りであることを判っていただきたい。
不満を述べたが、流石円地さんといえる箇所もある。偶然にも引こうと思っていた件を、解説の小松さんも援用していたのには少々驚いたが。
「憎悪の対象である当の女は自分が幼少の時から母代わりに慕い、真摯な愛情を注がれつづけてきたただ一人の姉であってみれば、その憎しみは切ない愛情といつも鬩ぎあって、郷子をいたたまれないほど苦しくした。」(P160)
小松さんは、姉妹のハス・リーべ(憎悪愛)から地獄絵のような肉身(肉親の間違いか)の悲劇を感受しているが、私には切り裂かれるような心の痛みが、アンディ・ウォーホル制作・ポール・モリセイ監督の怪作『処女の生血』(お気に入りブログ「最低映画館」で『悪魔のはらわた』と共に扱われ、ボロクソに貶されているが、私には最大級の賛辞にしか聞こえない)でのドラキュラ伯爵の声にならない嗚咽とダブって仕方がなかった。また吸血鬼かと言われかねないので事情を説明しよう。
映画中の吸血鬼は老いて醜く、従来のイメージであるダンディとはほど遠い存在だ。栄養源は処女の血でなければならず、普通の血を体内に吸収すると身体が拒絶反応を示す。この奇異な体質を担った吸血鬼が、処女だと偽って近づいて来た女達の汚辱に塗れた血を飲み、結果顔面蒼白となり、嘔吐と痙攣にのた打ち回る凄絶な場面がある。苦しみに喘いだ果てに迸る吸血鬼の絶叫と愛情と憎悪の入り混じった感情に精神が苛まれる郷子の悲痛な呻きが非常に酷似しているのだ。姉の吸血鬼律子が童貞青年曽宮の生血に最初手を付け、その汚れた血を妹の郷子が啜ってたまらず吐き気を催す。妹は姉が吸って淀んでしまった血を自分が口にすれば、アレルギーを引き起すことぐらい十分認識出来たにも関わらず、嘔吐の苦痛を背負う覚悟がなければ真の愛情は掴めないと断言するかのように率先して血を貪る。
吸血鬼姉妹の印象を更に深めたのは、「雛祭りふたたび」中で曽宮と響子の密会現場を見つけあとを追う嫉妬に身を焦がす姿が、眼球を充血させて相手に飛び掛ろうとする吸血鬼の形相に瓜二つに見え、「水辺の出来事」中で律子が曽宮と響子の肉体関係を察知し、以後曽宮の身体に全く触れようとしなくなったあたりが、まるで濁った血はもはや不要だと自身に言い聞かせているように感じられたからである。
曽宮と響子の前途に悲惨な顛末が待ち構えていようとも、死の幻影に怯えながら獲得した情愛は、苦難を乗り超えるための何物にも代え難い貴重な財産となるだろう。