『虫づくし』(新井紫都子著) 「幻獣小説集 夢見る妖虫たち」 北宋社掲載

魅惑的なアンソロジーを編むことは難しい。幻想・怪奇分野となると、単に沢山の短編を読破していれば面白い小説集を作れるかというとそうでもない。国内そして海外にまで渡って、埋もれたまま眠っている原石を地道に掘り起こしていくのは容易い作業ではないのだ。
ここ数年では、東雅夫さん、日下三蔵さん、七北数人さん(「猟奇文学館」全3巻は異色作で、「シリーズ 日本語の醍醐味」(烏有書林)もなかなか独創的だ。)などが目覚しい成果を上げているように思われるが、それでも澁澤龍彦種村季弘中井英夫らが過去に発掘した佳品が、新たに編纂したアンソロジーの中にどうしても入り込まざるを得ないのもまた、紛うかたなき真実なのである。
今や売れっ子作家の仲間入りをしてしまった倉阪鬼一郎さんが、本職ではない日記(『活字狂想曲』)や俳句評論(『怖い俳句』は未読)が周りで話題になったことを、2013/2/12のブログ(倉阪鬼一郎の怪しい世界)で、“『活字狂想曲』以来”と題し、「『怖い俳句』をお送りしなかった俳人の方から丁重な礼状とご著書をいただき恐縮する。それにしても、こんなに評判がよかった拙著は『活字狂想曲』以来かもしれない。どちらも小説じゃないのがなんだかなあという気もしますが。」と言葉を濁しているところからも窺えるように、ご本人は気が付いていないのかもしれないが(気が付きたくないともいえるか)、多数の読者は小説よりも日記や評論の類に大いなる魅力を感じているのではないのか。
その意味で、以前も取り上げた『夢の断片、悪夢の破片』は、昨今ではやはり突出した書評集といえる。この本の批評に挑もうかとも何度も試みたが、本の天部が付箋紙で埋め尽くされ、全てに触れるとあまりに膨大なものになりそうなので途中で頓挫してしまった。本文中では、冒頭の錯綜を極めた古典怪談に果敢に挑んだ「化鳥に乗って−怪談ニッポン周遊」とラヴクラフトの本質に肉薄した「原形質への招待」−H・P・ラヴクラフトとは誰か−は、一読に値する文章かと思われる。特にラヴクラフト神経症に関わる部分や黒人に病的な嫌悪感を抱く場面(P204)や邪神・怪物がいかに身近な存在だったのかを語った件(P207)は、独身時代の倉阪さん自身を投影させているかのようにも見え、妙に生々しく感じられる。異色なのは、「南方幻想歌謡曲をめぐって 悪魔のいる昭和歌謡史」で、倉阪さん以外にはとても書けそうもない昭和歌謡の裏側に潜む、閉ざされた深い闇の断面が、実に見事に抉り取られていると言っていい。
話が思わず横道に逸れたので元に戻そう。結論から言えば、鋭利な感覚を兼ね備えた倉阪さんが選定すれば、今までにない特異なアンソロジーが誕生するような気がする。広範囲なジャンルを横断してきた人だけに、あえて怪奇系だけに絞ることもあるまい。純文学・哲学書美術書を元に選ぶことも可能なのではないか。要は小説を書く時間を出来るだけセーブし、余った時間をあまりお金になりそうもない選定作業に費やせるかどうかにかかっているのだが、シリーズ本を何冊も手掛けている今の忙しさではとても無理だろう。
他にアンソロジーを組んでほしい人といえば、翻訳家・映画評論家・殺人研究家といった様々な肩書きを持つ柳下毅一郎さんの名が上げられる。去年刊行された書評集『新世紀読書大全』も好評のようで、ファンとしては喜ばしい限りだが、柳下さんが最も得意としている殺人評論(『殺人マニア宣言』は秀逸だ)のジャンルでは、今や柳下さんを凌ぐ博覧強記な怪人物がいることを忘れてはならない。お気に入りブログにも載せている「最低映画館」「殺人博物館」「悲惨な世界」の執筆者岸田裁月さんである。メジャーでないため未だ紙本が出ておらず(国文学者高橋明彦さんの本も未だに出ない)、書かれたものをブログと電子書籍でしか読めないのが残念だが、斯界の泰斗といってもいい稀少な存在だ。(岸田さんの特異な才能は、ブログ“真花の雑記帳 Neo”の「岸田裁月という本物の天才」という一文と添付画像を目にすれば、認識出来るだろう)
この人の特徴は、読み易い文体と現実の殺人や有名人の惨憺たる末路を、単にノンフィクションとして忠実に記すのではなく、事件の裏側に隠蔽されている真実を、綿密な資料の読み解きによって自分なりに詳細に分析・解明を行ない、きちんと理論付けているところである。(多少の想像も含まれるが)この手法はまかり間違えれば単なる書き手の曲解と罵られる危険性を孕んでおり、同好の士から説得力に欠けると断定されて、そのまま切り捨てられる恐れもあるのだが、岸田さんの考察(中でも「悲惨な世界」に顕著だ)は、事件が起きた時代背景や当事者が関わった前後の事実関係を引き合いに出し、事件が当人だけに起因するものでないことを、鮮やかに立証してみせるのだ。恰も被告人に代わって見事な弁論を展開する敏腕弁護士であるかのようだ。丹念な資料調査とそれに基づく度重なる検証、岸田さんがアンソロジストとしての素養を兼ね備えているかが、これで少し判っていただけたのではないか。殺人小説(ノンフィクションも含む)アンソロジーなんていう、食指を覚えるようなわくわくする企画も可能なはずだ。後は、編集者の慧眼に期待するしかない。
現状抱くアンソロジーについての思惑を延々と書き続けてきたので、この辺で本題に接近してみよう。
本書を妖虫に纏わる怪異譚集として取り上げるには、全体的に作品の質があまりにも低レベル過ぎる。アンソロジストのさたなきあさんにも責任の一端があると推察されるが、「幻想文学」で東雅夫さんや倉阪さんとともに数多くのレビューを担っていた人らしいので、幻想・怪奇小説に関する知識は豊富なはずで、何故面白い小説が拾い出されていないのかが不思議なくらいだ。情報量の蓄積と同様に必要不可欠である妖虫への限りない愛情が希薄である点が、致命的な欠陥となっているのかも知れない。そう、アンソロジーには編集者の慈愛の念がどこかに感じられなければならないのだ。
本の総評は、烏丸のブログ“くるくる回転図書館 公園通り分館”2005/10/24 オバケの本 その十『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社を読んでいただければ十分かと思う。烏丸さんの書評は実に的確で、ほぼ的を得ているのだが、最後の締めで「本アンソロジーで、「この味付けがやや弱い」と思われたのは、先にも触れた虫の怖さのさらにもう一つ別の側面、小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう、あのおぞましさです。たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ、孵った幼虫がうごめくのが透かして見える、などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。」と記している。全編を体内に虫が入りこむ気色の悪さで貫かれるのはいかがなものか。おそらく嘔吐を催して堪えられないものになっていたのではないか。個人的には、副題の妖異繚乱が色濃く反映された香山滋『妖蝶記』のような恐怖と妖気に彩られた物語で、全て統一してほしかったというのが本音だ。
ここでいよいよ本題の新井紫都子「虫づくし」だが、この小説に関しては過去にHP上で二人の方が取り上げている。一人は、上記の烏丸さんで「「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で、個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ、これだけ密度が高いと、もはや散文詩の領域で、息を止めて数ページが限界、これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。」とあり、もう一人は”ブログ“はんなりとあずき色”の主催者overQさんで、2004/5/26三十三夜 第19夜[隧道]の中で「架空の昆虫の博物誌的な記述で、人間社会を風刺したもの。出てくる虫がどれもこれも奇想天外の極致。大傑作。」とコメントしている。申し訳ないが、overQさんの短文ではこの小説の良さは伝わらないし、“人間社会を風刺したもの”という言葉には少々疑問符が付く。(さたなきあさんの影響か)烏丸さんは、表面上この小説を評価しているようにも見えるのだが、物語性の不在(弱さ)と散文詩のような文体が息苦しくて、この長さでも読み切るのが辛いといっており、最終的にはあまり評価していないような印象を受けた。小説の感じ方は人それぞれだから、お二人の意見に対してこれ以上反論する気は毛頭ない。私はこの物語から放たれる奇妙な幻想感覚に身を委ね、そこから受け取った感情を素直に綴りたいと思っているだけだ。
十頁そこそこの短い話だが、粘着質を帯びた奔放な文体は、読み手の空想力を絶えず刺激してやまない。埴谷雄高の小説や随筆を、何度も読み返しながら読み進む際に生じる、ある種のもどかしさとともに感得する、打ち震えるような文字を追う愉悦(反復の快楽)が蘇えって来るといっても過言ではない。埴谷さんがごつごつした鉱石のような硬質な様式で、ゆっくりとした時間経過の中で綴っていくのに対し、新井さんの世界は強靭な岩ではなく、外観は一見丈夫にみえるが意外に脆いアンモナイトの化石のような華麗な光の乱反射を撒き散らしながら、ここちよいリズム感を維持して紡がれていくのだ。新井さんのセンテンスは、埴谷さんのように絶えず長いわけでは決してないのに、不思議にも同じ匂いを感じさせるのは、隣接した各文が恰も互いに深く絡み付いているかのような感覚を呼び起こすからだろう。
冒頭で、青天井・星・月・太陽・雲・風・大地を様々な虫が埋め尽くし、今まで抱いていた普遍で揺ぎ無い各々の表象を見事に打ち砕いてくれる。その意味で、飛び交う虫は嫌悪の対象というよりも、新たな生命の息吹を注ぎ込む役目を担った救世主のように見えてくる。この箇所を全て抜粋したい欲望に駆られるが、これから読む人の楽しみを削ぐことになるので、月の一節のみに留めておこう。
「月は十六枚羽根の巨大蛾で、黒繻子の羽根の片面づつにそれぞれ形のちがう金色の模様をもっている。それでノートをめくるように月齢が進んでゆく。」
詳しい解釈は不要だ。繰り返し読むことで、月が巨大な黄金色の蛾に被われて吸い込まれ、曖昧模糊とする様が鮮烈に瞼に浮かぶ。羽根を閉じる光景は月の変貌を思わせる。このイマージュの連鎖を烏丸さんは“散文詩”と名づけたのだろう。言い得て妙だが、作者は読者を自分の世界の中に導き入れるために、あえて入りこみ易い詩の世界を巻頭に配したとはいえないか。その後、突然人間本来が持つ逞しくも疎ましい存在である虫のイメージを、強烈に植え付けるような描写が続出するからだ。我々の生活に深く関わる虫が、次第に地上での領域を拡張し始めたのである。
各種のもどき虫がその代表的な例だ。地をおおい、雄が雌の尻にたかり、時々雄が食べられたりするもどき虫は、ガガンボモドキという現存する虫をヒントに作り出されたようだが、蟷螂の生態にも似た雌が雄を食う習性は、全ての動物界に共通する女性の優位性をみてとれないこともない。水溜りに浮かぶニゲアシミズ虫は、水の表面に粘液上の薄膜を張り、そこにとまって動けなくなった虫を、細い赤い槍状の吸口を延ばして体液を吸って殺すのだが、これはガガンボの幼虫と蚊を合体したように感じられ、吸い込む槍に自らの身体を委ねたくなるのは、心地よい安楽死への誘惑に駆られたからか。それともマゾヒストの性癖が成せる技か。
一節ごとに読み手の想像力を喚起してやまない表現がこれ以降も延々と続くのだが、その極致はヒントとなる虫が全く見当たらないガラス虫の存在である。作者が巻頭で、星や月の形に虫を嵌めこんで創作した心象風景とは違って、窓ガラスそのものを新たな虫として見出している部分が実に斬新なのだ。意識が混濁した時に現れる、幻想の扉の前を浮遊する淡く儚い眩暈とも言えるが。
やはりここは最小限に留めるよう注意を払いながら、文章を引くしかないだろう。
「窓の四隅を非常に注意深く観察すると、どこか一隅に一対の黒点である目と汚れに見える小さな半透明の胴がある。ガラス虫は用途に応じて正方形、長方形、円形、楕円形の各形態が開発されており、虫の成長段階の幅だけサイズがある。(途中筆者略)ガラス虫は冬眠状態にして売られており、死ぬと曇りガラスになる。処置の悪いガラス虫を買うと、非常に稀なことではあるが窓枠から逃げ出してしまうことがある。」
窓の汚れと極小の黒点に生物の存在を察知するのは、幼少時代によくあるケースだが、単に動かない物体(静物)として見るのではなく、動く生き物として見ようという強い意思が“死ぬと曇りガラスになる”と“窓枠から逃げ出す”という件で明らかになる。静(死)と動(生)を折り混ぜながら、形まで印象付けてその構造をあからさまなものにする手法は特筆すべきものがある。ガラス虫の生態が、この後の展開で大事な要素となっていることも忘れてはならない。
窓ガラスで思い出すのが、村田基の「白い少女」(『恐怖の日常』(ハヤカワ文庫)所収)である。二階の閉ざされた窓ガラスから覗かれる美しい少女の顔を眺めているまではよかったが、窓ガラスが外側に開いて、少女と青年が目を合わせた瞬間に思わぬ不幸が訪れる。きっかけは、ここでも虫(シロアリ)だ。遮断された静寂した空間をガラス虫がわざと扉を押し開けて、そばに潜むおぞましい虫の手助けをし、禍を引き入れたようにはみえないか。虫が虫を呼ぶとは正にこのことをいうのだろう。
やがて主人公は、母のいる故郷へ帰郷することになる。そこで手荷物を準備するのだが、ポケットに嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルを常備するのである。故郷に出没する人間を襲う虫(強力なハエか)対策の一環としても、もどき虫を使って空想に耽り、ガラス虫の奇妙な動きに微笑ましささえ感じている彼の心境やいかに。好意と憎悪は紙一重なのか。だが、この装置が主人公を救うのだから何とも皮肉だ。列車事故に巻き込まれ、血を流しながらレールと枕木の間に横たわっていると、切断された左下肢に虫(ハエとは規定していない)の大群が押し寄せてくるのだが、嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルによって、すんでのところで救われる。やがて彼は麻酔薬を打たれて意識を失くすのだが、その際にみる夢の断片にニゲアシミズ虫が潜む水溜りが現れ、虫籠の底に虹色の油膜が張られているのに気づく。恐らく無意識の中で、麻酔注射とニゲアシミズ虫の槍状の吸口がダブったのではないだろうか。虫の餌食になり、死骸に近づく陶酔感に浸るほど、自身の意識は虫に侵食されているのだ。
この頃から、主人公は無機物の三角形を好み出し、蒐集に勤しみ始める。特にキラキラする金属体を好み、挙句の果てにそれを口にまで含み、鋭い角が舌にあたって切れた血と金属の酸味を味わって狂喜する。ここで思い出されるのがガラス虫だ。上記では、正方形、長方形、円形、楕円形の各形状を記したのだが、ここに三角形がないことに気づいていただきたい。事故で負った怪我の傷口からガラス虫が体内に入り込み、新種の三角形ガラス虫となったとは考えられないか。人間と虫との体内共存がここに生まれる。更にニゲアシミズ虫の槍状の吸口が、血を啜っているかのような錯覚を覚え、自身の切れた舌の血を体内のガラス虫にも送り込んだかのようにもみえるのだ。
その後、事故で右足先を失くした女性と主人公は知り合う。彼女は事故の原因になった虫を憎悪し、それが原因で昆虫学者になる。最終目的は、害虫駆除の一環である強力殺虫剤の開発だ。途中過程である害虫を引き寄せる誘虫剤の研究に着手し、完成間近となったその濃縮・精製した液体をフラスコで運んでいる最中に彼女は誤って転倒し、その液体を身体中に浴び、そこにニクバエが集り即死するのだ。
普通なら分析棟への通路には姿をみせないニクバエが、何故現れたのだろうか。調査後判明したのは、連絡通路の端の一枚からガラス虫が逃げ出し、ハエを呼び込んだというものだった。あまりにも偶然にガラス虫が飛び出してはいやしまいか。そこで、私の頭にまた新たな夢想が湧き上がる。列車事故を負い、ガラス虫との共存関係が生じた主人公に関わる話だ。彼が窓枠からガラス虫を外に逃がしたのではないか。ガラス虫が害虫の範疇なのかどうかは判らないが、虫の生態系を大きく狂わせる強力殺虫剤の開発は、ガラス虫にとっても苦々しい対象だったとは言えないだろうか。白骨化した彼女を見た主人公は一応涙を流すが、すぐに高熱を浴びて単なる金属と化した三角形の義足に熱い視線を降り注ぐ。この三角形の金属(義足)を、新たなガラス虫として生まれ変わった彼女だと思い込み大事に持ち帰るのだ。殺害を誘発しておきながらも、無機物と化した人間を限りなく慈しむ複雑な心理の交錯がここにみられる。
巻末で、もどき虫の子供達が大地に建てる繊細な緑の柱が再度出没するのだが、ここで柱は微風によって左右にゆらゆら揺れ動くのだ。作者は春を象徴する“新生”という感傷的な言葉を引いているのだが、私にはこの淫靡な揺れがメトロノームの振り子を誘発させた。主人公は前半から、この揺動を見つめ続けて甘美な夢幻の世界へと引き摺り込まれ、最後に自分の幼少期の思い出(これも幻覚の一部か)に到達したのではないか。
寂しく座っている見知らぬ少年の手元には、虫取り道具とともにもどき虫(ツノタメ虫)が残した円柱殻が、傍に数個転がっている。円柱を何故少年が拾って来たのかを不審に思っていると、続いて少年の服に付いている五つの青い三角形のボタンが現出する。そう、また三角形なのである。ここでふと思い浮かべたのが、虫・自己・幻想(夢)をそれぞれに頂点とするバランスの取れた三角形のかたちなのだ。円柱は三角形を形作る夢の欠片で、少年はそれを無自覚のまま持ち帰り、昆虫セットの中に仕舞い込んだのではないだろうか。
このような勝手な憶測は作者とっては迷惑なのかもしれないが、ガラス虫・三角形・円柱と種々なオブジェが、我々の空想を煽ってやまないのもまた、動かしがたい事実なのだ。幻想小説の醍醐味とは、書き手の意図とは反したところで生起するような気がしてならない。その意味でこれほど想像力の翼を羽ばたかせてくれた小説は珍しい。唯一の瑕は、P118の夕食後の歌(あたかも倉阪さんの昭和歌謡のようだ)の中身とその後の旅行用に揃えた品々が、虫がらみで統一出来なかったこと、そしてあまりにも物語が短すぎるということくらいか。
蛇足だが、固有名詞があって本当に実在する虫を列挙してみると、スカラベ、ニクバエ、シリアガリ・コトブキが上げられる。シリアガリ・コトブキは、漫画家のしりあがり寿さんの名前の由来になっているかもしれないが、正直なところ確信は持てない。
いずれにせよ、一読いや再読で感知される、立ち昇る独特の異臭を嗅ぎ取ってもらいたいと切に願う。

≪付記1≫
澁澤龍彦著『神聖受胎』(河出文庫)の「ユートピアの恐怖と魅惑」の章中に、以下のような一節がある。
「なぜなら、人間のための技術が技術のための人間になったとき、そこにはすでに完全に反ヒューマニズムの原理が支配しているからである。ヒューマニズムを軸としてぐるりと一廻転したユートピアは、昆虫的、植物的になる。生存競争が既存の世界の没落に伴い、新しい基盤に沿って、新しい目的を追求して行くとき、すでに既存の世界の価値基準から割り出した理想社会と奴隷社会の区別がそこに無くなっているのは当然であろう。ユートピアと逆ユートピアとの差異は、あたかもサディズムマゾヒズムにおけるそれのごとく、流通自在に見分けがたいものとなり、その差異は“いわば純粋に技術的な問題、能動から受動への心理の移行にすぎなくなる。”(フロイト)」(P27)
澁澤さんとしては珍しく読み難い文体だが、心に刻まなければならい大切な言葉で埋め尽くされている。「虫づくし」の解説のさたなきあさんは、この小説を「風の谷のナウシカ」の反ユートピアの世界になぞらえているようだが、作中の情景が機械文明(技術の進歩)の果てに行き着いた末路にはどうしても見えてこなかった。澁澤さんのいう、ユートピアと逆ユートピアとの差異が判然としない状態(まだ人間と虫が対等な対場にまでなっていないからだ)といったほうが相応しいかも知れない。小説の弱さをここに指摘するのは簡単だが、このユートピアと逆ユートピアの境目に漂う、何ともいえない危うい宙ぶらりんの浮遊感、滅亡に近づく人類が遭遇した退廃的な雰囲気が、この作品の持ち味と言えるだろう。
澁澤さんと同じような角度から切り込んでみせるのが、シオランだ。『深淵の鍵』(国文社)の同題章中で、我々人間が見る甘いユートピア願望を見事に打ち砕いてみせる。
「植物や動物の救いの基盤たる無意識を嫉み、なんとか自分も無意識存在でありたいと希いながら、希いの適えられるすべもないのに激怒したあげく、人間は一転して植物や動物の破滅を画策するようになる。彼らをおのが不幸に巻き添えにし、不幸の病菌を彼らに移してやろうとする。ことに動物たちに対して、人間は深く含むところがあるようだ。」(P26)
澁澤と共通する、利潤のみを追求する人間社会への不信感と自然破壊への警鐘として特筆すべき文面だが、「虫づくし」の主人公が生身の人間との接触を拒否し、虫や感情のない三角形の物体に愛着を示すのは、言葉・感情を持たない無意識の生物(虫)と冷たい感触の固形物(三角形の金属)が元来備え持っている“不変的なもの”(変容しない)の重要性を、感受したからではないのだろうか。植物や動物との共存を試みず、欲の塊である人間達が生き延びる手段を模索する世界に、開かれた未来はないのだ。

≪付記2≫
新井紫都子さんの唯一の著作である「虫づくし」 が最初に活字化されたのは、幻想文学会刊行の雑誌「小説幻妖 弐」においてである。第二回幻想文学新人賞の佳作として掲載されたのだ。書評を記す前にある程度の情報は得ていたのだが、執筆の妨げになると思い、購入した雑誌にあえて目を通さなかった。何故か。選者が新人発掘の名手中井英夫とわが畏敬する澁澤龍彦で、読めば多少なりとも影響を受けることは間違いないと感じたからだ。
書評を載せた後に、こわごわ熟読。
選考の流れは以下の通りだ。総数百七十一編から編集部が粗選した四十三編を中井さんが改めて読み、二十編に絞り込む。その二十編から中井・澁澤の両氏が数篇の受賞作を選ぶという方法だ。選評で、二十編に対して中井さんがA (7編)・A-B、ないし、B-A(7編)・B (6編)の三パターンに区分けしたリストが添えられている。その中で「虫づくし」は真ん中のA-B、ないし、B-A・Bに入っており、決して高い評価とは言えない。ちなみにBに、倉阪さんの「百物語異聞」があった。中井さんの「虫づくし」へのコメントがないので、どの点が不満なのかが判らない。続いて、渋澤さんの評だが、「虫づくし」への比較的短くて好意的なコメントが記されているので、あえて全文引かせていただく。
「私が粗選でAクラスにランクしたところの作品である。小説らしい筋はほとんどなく、全篇が虫また虫をめぐる観察記録で、いわば散文詩のような趣きのものである。しかし、その虫の描写は偏執的で、作者の筆づかいは綿密かつ正確である。なんなら科学的といってもよい。そこで一種のポエジー(詩情)が生ずる。異色作として推賞に値すると私は思った。」
どうだろう。流石澁澤さん、短評の中に適切で絶妙な言い回しが頻繁に現れる。私が烏丸さんの言動として褒めた“散文詩”を盛り込んでいたり(単なる偶然か、烏丸さんが渋澤さんの言葉を意図的に借用したのか、昔目にした選評が記憶の底に残っていたのか、いずれが正しいか判然としない)、虫の描写を偏執的と評したり、ポエジーという通常なら明るい田園風景にでも相応しいような語彙で、この異様な空気感を描出する。渋澤さんはこの歪んだ光景にこそ、深いポエジーを感じるのだろう。
渋澤さんが「虫づくし」を強く推し、中井さんが同作品の欠点であるドラマツルギーの少なさを指摘したのかもしれないが、単に筋のなさを理由に中井さんがこの小説を否定するようには思えない。短歌・俳句・詩を嗜む中井さんには、新井さんが生み出した蠢く虫の奇矯な世界は、自分が思い浮かべる心象から僅かにはみ出ていたのではないか。そう、それくらい微妙なところで、この小説の嗜好が大きく分かれるのだ。
最後に新井紫都子さんの経歴に、職業が臨床検査技師となっていたことをお伝えしておく。さもありなんというべきだろう。