『愛ぬすびと』 (藤子不二雄A著) 中央公論社

草森紳一さんの初期評論に、「オバQと正ちゃんは同一人物である」(『オバケのQ太郎8』虫コミックス 1970 所収 〜HP 藤子不二雄FC “評論ロボット”の表題で検索可)という傑出したまんが評がある。藤子不二雄著『オバケのQ太郎』の構造を具体的な例を引きながら精密に考察したものだが、オバQ=正ちゃんという草森さんの奇抜な発想は、この時初めて生まれたわけではない。雑誌『COM』(虫プロ商事)に掲載されたまんが家論⑤藤子不二雄の巻−精神家医のギャグ−(1967年7月号 〜①から④の題名はまんが家研究、⑫で完結 この評論はまだ書籍化されていないようだが、全編に発見があり斬新な視点が垣間見られる。特に楳図かずお篇が傑作で、“好奇心”という言葉を手掛かりに恐怖のメカニズムの本質を解明していくあたりは、人間の不安心理を鋭く付いており圧巻。)に、そのアイデアの萌芽が窺える。(“影”の扱い方に違いが見られるが)その件を紹介してみよう。
「これら特殊能力をもった主人公たちのそばには、かならず読者の影の存在がある。『オバケのQ太郎』の正ちゃん、『怪物くん』のひろし、『忍者ハットリくん』のケン一である。」
これらの人物たちをあえて“従”と規定し、この覚束ない者を補う役目を負っているのがオバケのQ太郎達で、それ故彼等はやっと主役足り得ていると説く。一見主人公だと思われていたものが、実は脇役の存在でしかないことをさらりと見抜いてみせる分析能力には、いつものことながら舌を巻く。終盤で藤子まんがの未来を予見しているような言葉も見受けられる。
「人間は生きているかぎり変わる。生きているあいだは、まだ作品ではない。死んではじめて作品となる。」
まるで手塚まんがにも通じるような言い回しだが、以後の藤子まんがの幾多の変貌をある程度予感しているような口ぶりだ。それに引き続く文に「藤子不二雄の世界も、今後どう変わるかわからない。『シルバー・クロス』のようなハードボイルド・まんがを読んでわたしたちは、なにも驚くことはない。・・・」ここで『シルバー・クロス』を引き合いに出しているのでも判る通り、どちらかいうと藤子F不二雄さんではなく藤子不二雄Aさんのまんがの変転を暗示しているように感じらなくもない。事実、次第に青年漫画誌に力を注いでいくAさんのその後の足跡を見ればそれは明らかだ。
そんな変化を望むAさんの新たなる挑戦が女性誌への進出だったと思われる。藤子さん(以降この呼称で統一)の俗に言われる変身モノに目を通す機会に偶然恵まれ、その流れで本書に辿り着いたのだが、残念ながら『オヤジ坊太郎』(全二巻 ブッキング)『無名くん』(全二巻 リイド社)『ミス・ドラキュラ』(全七巻 ブッキング)などの変身三部作には、あまり共感が持てなかった。(『ブラック商会 変奇郎』『魔太郎がくる!!』は、同系列とは思えないので除外 〜『無名くん』『ミス・ドラキュラ』にそれぞれ一篇だけ、変身前の主人公に好感を持つ男と女の話があり(『無名くん』第二巻 P159〜、『ミス・ドラキュラ』第1巻 Episode6 P22〜)この回のみ胸騒ぎを覚えたのは、人の好みの多彩さを改めて教示してくれたからだろう)変身前の主人公に無能ぶりを同僚に見せつけ、変身後に陰で非難を浴びせていた連中が巻き込まれた災難を鮮やかな手付きで救ってみせるといった、主人公だけの自己満足に取られ兼ねない設定に、どうして賛同の意を表せなかったのだ。『魔太郎がくる!!』のように変身前の主人公を周りの連中が甚振るのではなく、隠れたところで暖かい眼差しを送ってくれているからこそ、主人公は毎度同僚達を手助けをしたくなる衝動に駆られるのだろうが、復讐心が渦巻く『魔太郎がくる!!』の凄まじい毒に犯されていた者には、救いの手を差し伸べる心安らぐ変身ものは、やはり食い足りないと言わざるを得ない。
では、『ミス・ドラキュラ』が女性誌で好評だった(全251話でも実証される)のは一体何故なのか。男性と違って主人公の親切と真心を従順に受け止める度量の深さを女性陣が兼ね備えていたことに起因しているのか。そう素直に感じ取れない節がある。『ミス・ドラキュラ』には、外見・性格ともに少々疑問符を投げ掛けたくなるような“フーコ”というOLが度々登場する。女性読者はフーコと自己を比較させ、自身の優位性(美貌・性格ともに)を再確認して、言い知れぬ愉悦を満喫していたのではないだろうか。フーコの隠された優しさや容姿が多少なりとも周りから評価されるような場面に遭遇すると少なからず違和感を覚え、それらがラストでいつも通り全てが否定されると、心の片隅で微かな笑みを浮かべていたように思えるのだ。そう、フーコを自分と照らし合わせて己れの幸せに安堵し、裏では何とも言えない悪の愉しみを実感しながら、そこにまんがを読む喜びを見出していたに違いない。極端な言い方をすれば、女性の驕慢さを満足させた結果が、高評価へと繋がったは言えまいか。少々捻くれた見方のようにも思えるが、『ミス・ドラキュラ』が評判が良かった事実を聞かされると、どうしても素直な目でみることが出来ない。フーコと酷似した役回りの佐木(『無名くん』にも登場)を男が女と同じ上から目線で見れないのは、佐木の窮状がいつ自身にも降りかかるかわからないと切実に感じているからだ。とても客観的な立場で観察する余裕はない。
以下、詳細に内容を紐解くことで、一筋縄でいかない男女の愛の機微に迫りたいと思う。
まずは、本書を読むきっかけとなった『ミス・ドラキュラ』ブッキングの最終巻の作者あとがき(『ミス・ドラキュラ』に変身するまで・・・)の一端を少々長いが引いてみる。
「『愛ぬすびと』の主人公は愛誠という名の男だ。彼には最愛の妻がいるが、彼女は不治の病にかかっている。その治療費をかせぐために、毎週女性を一人づづだましていく・・・というシチュエーションだった。“愛のために、愛を裏切る・・・”というのがキャッチコピーだった。(!?)僕の初めての女性漫画『愛ぬすびと』は幸いとても人気があった。増井さん(当時の「週刊女性セブン」編集長)に「もっと続けてほしい」とたのまれたが、その頃少年誌にやたら連載をかかえていたので、最初の約束どおり十三回で終りにした。」(P139 〜括弧内は筆者追記)
ここで注目したいのが、十三という数字である。以前『魔太郎がくる!!』の書評で、“七”の数字に拘ったが、今回も同様に数字に対して引っ掛かりを覚えた。
冒頭頁を開くと最終章は“愛の終り”で、前章は“愛の11”となっており、きちんと順を追えば、最終は“愛の12”となる。他の章に前後二回に分かれたものが含まれていれば計十三回と見做すことも可能なのだが、中身からはそれは汲み取れない。何が言いたいのかというと、藤子さんは本当は十三回でこの物語を閉じたくなかったのではないかという思いが頭を過ったのだ。十三という不吉な数字に被らせて悲惨な愛の結末を予定通り描き切った場合、そこには僅かの救いも生まれず、恵まれない人生を送った者には、永遠の愛を掴む資格がないと断定しているかのように見えてしまうのを極端に恐れたのではないだろうか。あえて十三の手前の十二で終了させることで、死の匂いが全面を覆い尽し兼ねない最終部で、僅かながらの生の可能性(匂い)をそこに残したかったように思えてならない。(HP “藤子不二雄ファンはここにいる”に、“『愛たずねびと』は全五話(連載十四回分)”と明記されており、十三は連載回数に由来した数字ではないことが判った)
またしても前振りが長くなった。
実際の物語を覗いてみたい。P12下段の仕事の事務机に座っている主人公の上半身の一コマだが、コマの周りは縦の細かい斜線で縁取られ、まるで人が檻にでも入っているかのように見える。顔は虚ろ気で、表情は塞ぎ込みがち、上司に外出許可を申し出た際「えっ? きみィ またかい」と嫌みを言われてもまるで意に介さない素振りをみせる。悪く言えば世捨て人で、他人からの忠告やアドバイスなども全て拒絶し兼ねないかのような深く暗い影を宿しているのだ。
その彼が結婚式場で知り合った女性にふと見せる寛いだ仕草(まゆげを下げる独特の表情)とのギャップにこちらは思わず戸惑ってしまう。悪魔に対する天使とまでは言えないが、この息抜きのポーズがその後頻繁に顔を出す。本人はこの瞬間の自分を天使のようだとはもちろん思っていない。(相手も主人公をそのような眼差しで見てはいないが、徐々に純真無垢な邪念のない人間だと思い込み、自然と警戒心を解いていく)“愛の1”では、お金を貸してくれた女性に入金中の妻を紹介する場面でも明らかなように、主人公は相手の女性を騙すつもりはさらさらなく、おそらくこの時点では僅かの期間お金を借用しようと心底から思っていたようだ。女性は主人公が結婚しているという事実を知らされたショックでお金を返してもらう気力を失う(呆然自失で忘れる?)悲惨な結末を招く。追い打ちをかけるように主人公は叫ぶ。逃げるように遠ざかっていく女性の足元から発せられる、“カン、カン、カン”という靴音は、まるで読者の脳髄の奥に響き渡る不快な金属音のようにも聞こえ、そこに「昌子さーん ぼく 独身だなんて いちどもいったことないですよねーっ!!」という主人公からのあまりにも残酷な台詞が被る。本人は全く罪の意識を持たないでこの言い回しを口にしている。男が見せるとぼけた振る舞いに相手の女性が気を許し、安易な借金の要求に容易く応じてくれる実態を掴んだ主人公は、“愛の2”でその所作を結婚詐欺として活用出来るのではないかと真剣に考えて、やがてそれを実行に移す。他の結婚詐欺師と違うのが、愛誠という名前から連想される自分にとっての“真”(字は違うが)を貫き、<名は体を表す>という諺を具現化してみせるのだ。P41上部の〈ある結婚詐欺師の手記より〉の鉄則がそれに呼応する。
「嘘をつくときはまず自分にそれが真(まこと)だと思いこませるのです 自分が信じていったことばがはじめて相手の心をとらえるのです」主人公は自分に忠実な行動を取ることで、自然と結婚詐欺に必要不可欠な要素を手元に引き寄せていたのだ。P43では自分がふと漏らした言葉で思わず涙してしまう境地にまで達する。主人公が他の詐欺師と一線を画すのはこの部分であって、自分でも嘘か本当かの見極めが付かなくなる場面が度々訪れる。
“愛の3”での〈ある結婚詐欺師の手記より〉中の「なにしろ女性は自分への賛辞はいくら聞いても聞き飽きることはないのだ」と言いながらも、心のこもっていない褒め言葉には決して気持ちを動かされることはない。この微妙な察知能力は女性独自の臭覚で鈍感な男には判らないはずだ。P50の目を真剣に向き合って述べる台詞の数々は、おそらく主人公にとってはその場で感知したことを忌憚無くありのままに語っているに過ぎない。それで女性が心を揺さぶられないのなら、こちらも諦めるといった妙な割り切りもあり、自分を卑下して相手の女性を心地よい雰囲気で包み込むことも決して忘れないのだから、女性には人畜無害な透き通った空気に近い存在のように感じられるのだろう。
やがて主人公の振舞いは段々とエスカレートし、“愛の5”で禁じ手ともいえる「ぼくと結婚して下さい!」との懇願を口にする。主人公はまるで自分が映画の主役になったよう幻覚に囚われ、自身の言辞に酔い痴れているようにさえみえる。ここに至って主人公が考えた心理ゲーム(愛情ゲーム)は、完全な犯罪へと辿り着く。この自覚は主人公にとっては結婚という夢を完成させる手段でもあった。
“愛の8”中での旅行会社の同僚との会話「というと橘さんは結婚しているってことは夢がないっていうんですか」(誠)「そうさ!だれかが結婚とは憧れを捨てることだといっていたが正に名言だね」(橘〜風貌が藤子さんにそっくりなところから推測すると、この言葉は自身の体験が反映しているのかも)結婚への幻滅、愛の喪失が切々と語られるが、主人公の心中にはP163でホステスが呟く台詞「あなたはまるっきり女に無関心かそれとも・・・・・・だれかひとりの女性をよっぽど愛しているか そのどちらかなのね」に対する答えが頭の中をちらついていたのではないか。主人公は同僚におそらくこう切り返したかったのだろう。“ぼくは結婚した女性を犯罪に手を染めてまでも深く愛しています”と。
愛する者の為には社会のルールをも犯すあたりは、同じ漫画『地獄の戦鬼』(全三巻 東史朗原作(映画評論家 西脇英夫さんの変名だが、『アウトローの挽歌』白川書院 という秀逸な評論がある)前田俊夫劇画 芸文社 〜バイオレンス物の裏代表作が『地獄の戦鬼』ならば、表は『血の罠』(全六巻 サン出版)だろう。(後半主題がぼやけるのが気になるが))に通じる。この漫画も本書同様、愛する娘の血液交換に必要な入院費用を捻出する為に、あえて殺人に加担せざるを得ない状況に主人公が追い込まれるのだが、途中で自身が漏らす「正義も真実も俺には関係ない 俺はただ俺の道を行くだけさ・・・・・・舞子と一緒の地獄道を!!」(第二巻P184)主人公はここで己れとともに娘をも地獄に落とすことを覚悟している。殺人を代償にして得た“命”は、生きていく上でそれだけ大きな罪を背負うことでもある。
片や本編の主人公誠はどうか。愛する妻優子の命を、血塗れの殺人行為などではなく、愛情を操作する心理犯罪(金銭も絡む)で救えれば二人とも自責の念から逃れられるとでも思ったのであろうか。女性の心の隙間に入り込む非難されるべき挙措を、相手の“あさはかさ”と捉え、自身から悪行の負い目を拭い去ろうとする。P169の主人公の言葉「ギャンブルもしょせんは夢の世界のものだ おぼれると夢と現実のけじめが見えなくなってしまうからな とくに女の人はね・・・・・・」がそれを助長してしている。まるで『笑ゥせぇるすまん』喪黒福造の皮肉混じりの助言のようで、バーのママさんとホステスの意地の張り合いも、蓋を開ければギャンブルの延長線上にあって、恋愛と賭け事を天秤にかける女性へのしっぺ返しは犯罪とは言えず、あたかも天罰だとでも言いたいかのようだ。その報復が自身にも降りかかるのだから皮肉な話だ。“愛の9”では声を掛けた相手の女性が同じ結婚詐欺師だったという落ちが待ち受けているのだが、これを主人公はある程度予期していたようにもみえ、あまり同情出来ない。(女性の宿泊の誘いを拒否したのも、自分の最低限のプライドをみせつけて、相手に恥をかかせたかったように思えるのだ)
様々な女性との関わり合いの中で、優子以外の女性をある程度客観視していた主人公だが、徐々に女性の心奥を探る癖が出始め、やがてそれが命取りになっていく。
“愛の10”での結婚写真などはその典型だ。出会いの発端から相手から激しく煙たがられているのも関わらず、女性の過去を詮索したがるのは最終目的のお金の無心というよりも、女(人間)の内面の複雑さをどうしても覗き見たかったからではないのか。女詐欺師との出会いあたりから男とは違った女性特有の結婚感を知ることが、自分が行なっている詐欺師の罪の重さを量る尺度になるとでも考えたのだろう。
女心を弄ぶことの罪深さは、“愛の11で決定的なものになる。優子とそっくりな女性可憐から投げ掛けられたP232の言葉「いくら似てたってあたいはその優子って女の代用品じゃないんだよ・・・以下略」続いて「どんな人間だって人それぞれ心があるんだ! あんたはあたいの心をふみにじった! だからしかえしをしてやったのさ!」ととどめを刺される。藤子さんはその次のコマで、”誠ははじめて深い痛みを感じた!!“と記す。そう、主人公は今まで罪を重ねてもそれを痛みとしては捉えていなかったのだ。
主人公の中にはお金を受け取ったとしても、常に自分の心に素直に従ったのだから、その真心が相手に少なからず伝わったはずだと思い込んでいたいや思いこもうとしていた。結果お金という心のないものを失ったとしても、相手は決して不幸になっていないと考えていたのだ。でも、それは主人公の勝手な解釈で、隠された本当の胸中は見抜けないことを、優子に瓜二つの可憐(コインの裏側が可憐ともいえる)に指摘され、心の痛苦が芽生え出す。
終章“愛の終り”では、妻優子との出会いと結婚までの道程が細密に綴られる。その中で、優子が散歩させていた子犬が猫を目がけて突如走り出し、それを追いかけた優子が車に跳ねられる件がある。偶々現場に出くわした主人公は彼女を病院に運び込み、このことをきっかけに二人は急速に接近し、やがて結婚へと結ぶ付く。主人公は交際過程の中で、優子に菫(すみれ)のブローチをプレゼントする。主人公は「スミレの花の花ことばは愛と誠です だからスミレの花はぼくの花なんです」(P242)と言い添える。
やや説明口調になってしまったが、ここで登場する犬・猫・菫(すみれ)を最近起こった私自身の出来事と強引に結び付けてみたい。但し、犬を私(男性)、猫を女性(沼正三著『ある夢想家の手帖から』全六巻 潮出版 中で女性を猫に例えるケースが多々見受けられる。二巻「家畜への変身」第五十章〜第五十四章で言及しているが、特に第五十章『犬と猫』が白眉。「猫の生は猫自身のためにある」「犬には猫のようなナルチスムスがない」「犬の生は人間への奉仕のためにある」という卓見が随所に盛り込まれており、最終的に「猫は家畜の中の自由人であり、犬は家畜の中の奴隷であるといえよう」との結論で締め括られる。“家畜“を”社会“に差し替えてみると、犬=男性、猫=女性の図式がより一層明確になってくる。社会に死ぬまで奴隷のように尽くし、やがて身も心もボロボロになっていく男(犬)に比べ、社会とは距離を保ちながら自由を謳歌することも決して忘れない女(猫)、この判然たる違いは限りなく大きい。)に置換して読んでみてほしい。
その日、庭にいた野良猫を追い払いに外へ出た。猫は驚いて素早く傍の花壇に逃げ込み、庭に植えられていた菫の花の真上からまともに腰を下ろしてしまう。踏みつけられた菫は根元から全て茎が折れてしまい、数日後あっけなく枯れ果てた。このごくありきたりの日常風景が何を意味するのか。
愛と誠の象徴たる菫、その菫が短命であることを忘れてはならない。猫という犬に比べて自由気ままな生き物に、花壇の花を荒らしたという罪悪感がないのは当然で、実は主人公自身も女性の愛は猫の気質と同様多面的であり、且つ菫のようにあっけない線香花火のようなものだとの自覚が当初からあったのではないか。犬(男)が猫(女)を必死に追いかけ、短くて儚い真実の愛を誓おうとしたが、自由奔放な猫(女)は自分の手の平からあっけなくすり抜けてしまう危うい存在でしかなかった。
巻末は「あたしの愛をとったのは だれ?」から始まり「愛をかえして・・・・・・」迄の悲壮な詩の一節で締め括られているが、主人公は本当に女達から愛をぬすんだのだろうか。実は女が逆に主人公からの愛を奪って翻弄し、ラスト頁で猫から鳥に変貌して天高く羽ばたいたのではないか。
結婚詐欺師という女性にとっては憎むべき対象を主人公に設定しながらも、多くの女性達を魅了したのは、主人公の愛ぬすびと行為が彼女達に片時の心のオアシス(清涼剤〜代償としてお金を失うが)を味わったかのような錯覚を覚えさせてくれたことによるのかも知れない。
実体のない愛は精神の奥深い場所で光り輝く神秘的なものであり、個人が容易に盗み取れるものではない。

≪付記1≫
本文中“悪の愉しみ”という一語を使用した際にふと想起したのが、『悪の愉しさ』(石川達三著 角川文庫)だった。
新聞連載の形で発表された長編小説で、掲載当初“こんな不道徳な話を新聞に載せるのはもってのほか!”といった批判の投書が殺到したらしいが、当時の世相を反映しているとはいえ、これしきの内容で目くじらを立てるのが不思議でならなかった。世間の人は自身の内奥にじっと息を潜めて住み着いている“悪魔の声(囁き)を、頭の中から完全に排除出来るとでも思っているのだろうか。このあたりの読者大衆と小説の関係は、『文壇風物誌』(十返肇著 三笠新書)中の「新聞小説の問題」P142〜で吟味されている。(機知に富んだ文章なので、一文を引いておく。「石川達三という作家には読者をイライラさせる能力があるというよりも、いわゆる流行作家にはみんなそうした能力があり、それが彼らの魅力となっているのである。」)
主人公は平凡な会社員で彼の気晴らしは、他人の虚栄心を暴き出した果て、人間が持つ卑劣さ、醜悪さが全面に立ち現れることだ。真心や親切心などは一切信用しておらず、そのようなものは恰も初めから存在しないという性悪説を自分の信条としているかのようだ。終幕主人公が殺人を犯し、罪を自白する直前「彼は憎まれることによって生き甲斐を感じ、他人の憎悪に支えられて自分の命を保って来たようでもあった。」(P403)と省察する件がある。そこには相手が自分を嫌悪し、蔑み、軽蔑するような態度をどうしても取らざるを得ないような状況にあえて追う込み、波風の立たない自らの“空虚なたましい”P103 を何とか埋めようとした節が見受けられる。
『愛ぬすびと』の主人公は、その点正反対の性善説信者で、周囲にいる人間の美点を必死に見出そうと努力するのだが、人を和ます善意の行為が主人公の意に反して、いつの間にか思いもよらなかった恨みを買い(善意と悪意は紙一重だ)、『悪の愉しさ』の主人公と同様悲惨な顛末を迎える。二人の主人公の共通点は、犯罪者という以外に、自分の意志で相手を振り回していたように思えたのが、実は裏でうまい具合にはぐらかされ、ついにその人の本音(本心)を引き出せなかったことだ。
上辺だけの恋愛遊戯に浸っている限り、心の扉は永久に閉ざされたままだ。