『愛ぬすびと』 (藤子不二雄A著) 中央公論社

草森紳一さんの初期評論に、「オバQと正ちゃんは同一人物である」(『オバケのQ太郎8』虫コミックス 1970 所収 〜HP 藤子不二雄FC “評論ロボット”の表題で検索可)という傑出したまんが評がある。藤子不二雄著『オバケのQ太郎』の構造を具体的な例を引きながら精密に考察したものだが、オバQ=正ちゃんという草森さんの奇抜な発想は、この時初めて生まれたわけではない。雑誌『COM』(虫プロ商事)に掲載されたまんが家論⑤藤子不二雄の巻−精神家医のギャグ−(1967年7月号 〜①から④の題名はまんが家研究、⑫で完結 この評論はまだ書籍化されていないようだが、全編に発見があり斬新な視点が垣間見られる。特に楳図かずお篇が傑作で、“好奇心”という言葉を手掛かりに恐怖のメカニズムの本質を解明していくあたりは、人間の不安心理を鋭く付いており圧巻。)に、そのアイデアの萌芽が窺える。(“影”の扱い方に違いが見られるが)その件を紹介してみよう。
「これら特殊能力をもった主人公たちのそばには、かならず読者の影の存在がある。『オバケのQ太郎』の正ちゃん、『怪物くん』のひろし、『忍者ハットリくん』のケン一である。」
これらの人物たちをあえて“従”と規定し、この覚束ない者を補う役目を負っているのがオバケのQ太郎達で、それ故彼等はやっと主役足り得ていると説く。一見主人公だと思われていたものが、実は脇役の存在でしかないことをさらりと見抜いてみせる分析能力には、いつものことながら舌を巻く。終盤で藤子まんがの未来を予見しているような言葉も見受けられる。
「人間は生きているかぎり変わる。生きているあいだは、まだ作品ではない。死んではじめて作品となる。」
まるで手塚まんがにも通じるような言い回しだが、以後の藤子まんがの幾多の変貌をある程度予感しているような口ぶりだ。それに引き続く文に「藤子不二雄の世界も、今後どう変わるかわからない。『シルバー・クロス』のようなハードボイルド・まんがを読んでわたしたちは、なにも驚くことはない。・・・」ここで『シルバー・クロス』を引き合いに出しているのでも判る通り、どちらかいうと藤子F不二雄さんではなく藤子不二雄Aさんのまんがの変転を暗示しているように感じらなくもない。事実、次第に青年漫画誌に力を注いでいくAさんのその後の足跡を見ればそれは明らかだ。
そんな変化を望むAさんの新たなる挑戦が女性誌への進出だったと思われる。藤子さん(以降この呼称で統一)の俗に言われる変身モノに目を通す機会に偶然恵まれ、その流れで本書に辿り着いたのだが、残念ながら『オヤジ坊太郎』(全二巻 ブッキング)『無名くん』(全二巻 リイド社)『ミス・ドラキュラ』(全七巻 ブッキング)などの変身三部作には、あまり共感が持てなかった。(『ブラック商会 変奇郎』『魔太郎がくる!!』は、同系列とは思えないので除外 〜『無名くん』『ミス・ドラキュラ』にそれぞれ一篇だけ、変身前の主人公に好感を持つ男と女の話があり(『無名くん』第二巻 P159〜、『ミス・ドラキュラ』第1巻 Episode6 P22〜)この回のみ胸騒ぎを覚えたのは、人の好みの多彩さを改めて教示してくれたからだろう)変身前の主人公に無能ぶりを同僚に見せつけ、変身後に陰で非難を浴びせていた連中が巻き込まれた災難を鮮やかな手付きで救ってみせるといった、主人公だけの自己満足に取られ兼ねない設定に、どうして賛同の意を表せなかったのだ。『魔太郎がくる!!』のように変身前の主人公を周りの連中が甚振るのではなく、隠れたところで暖かい眼差しを送ってくれているからこそ、主人公は毎度同僚達を手助けをしたくなる衝動に駆られるのだろうが、復讐心が渦巻く『魔太郎がくる!!』の凄まじい毒に犯されていた者には、救いの手を差し伸べる心安らぐ変身ものは、やはり食い足りないと言わざるを得ない。
では、『ミス・ドラキュラ』が女性誌で好評だった(全251話でも実証される)のは一体何故なのか。男性と違って主人公の親切と真心を従順に受け止める度量の深さを女性陣が兼ね備えていたことに起因しているのか。そう素直に感じ取れない節がある。『ミス・ドラキュラ』には、外見・性格ともに少々疑問符を投げ掛けたくなるような“フーコ”というOLが度々登場する。女性読者はフーコと自己を比較させ、自身の優位性(美貌・性格ともに)を再確認して、言い知れぬ愉悦を満喫していたのではないだろうか。フーコの隠された優しさや容姿が多少なりとも周りから評価されるような場面に遭遇すると少なからず違和感を覚え、それらがラストでいつも通り全てが否定されると、心の片隅で微かな笑みを浮かべていたように思えるのだ。そう、フーコを自分と照らし合わせて己れの幸せに安堵し、裏では何とも言えない悪の愉しみを実感しながら、そこにまんがを読む喜びを見出していたに違いない。極端な言い方をすれば、女性の驕慢さを満足させた結果が、高評価へと繋がったは言えまいか。少々捻くれた見方のようにも思えるが、『ミス・ドラキュラ』が評判が良かった事実を聞かされると、どうしても素直な目でみることが出来ない。フーコと酷似した役回りの佐木(『無名くん』にも登場)を男が女と同じ上から目線で見れないのは、佐木の窮状がいつ自身にも降りかかるかわからないと切実に感じているからだ。とても客観的な立場で観察する余裕はない。
以下、詳細に内容を紐解くことで、一筋縄でいかない男女の愛の機微に迫りたいと思う。
まずは、本書を読むきっかけとなった『ミス・ドラキュラ』ブッキングの最終巻の作者あとがき(『ミス・ドラキュラ』に変身するまで・・・)の一端を少々長いが引いてみる。
「『愛ぬすびと』の主人公は愛誠という名の男だ。彼には最愛の妻がいるが、彼女は不治の病にかかっている。その治療費をかせぐために、毎週女性を一人づづだましていく・・・というシチュエーションだった。“愛のために、愛を裏切る・・・”というのがキャッチコピーだった。(!?)僕の初めての女性漫画『愛ぬすびと』は幸いとても人気があった。増井さん(当時の「週刊女性セブン」編集長)に「もっと続けてほしい」とたのまれたが、その頃少年誌にやたら連載をかかえていたので、最初の約束どおり十三回で終りにした。」(P139 〜括弧内は筆者追記)
ここで注目したいのが、十三という数字である。以前『魔太郎がくる!!』の書評で、“七”の数字に拘ったが、今回も同様に数字に対して引っ掛かりを覚えた。
冒頭頁を開くと最終章は“愛の終り”で、前章は“愛の11”となっており、きちんと順を追えば、最終は“愛の12”となる。他の章に前後二回に分かれたものが含まれていれば計十三回と見做すことも可能なのだが、中身からはそれは汲み取れない。何が言いたいのかというと、藤子さんは本当は十三回でこの物語を閉じたくなかったのではないかという思いが頭を過ったのだ。十三という不吉な数字に被らせて悲惨な愛の結末を予定通り描き切った場合、そこには僅かの救いも生まれず、恵まれない人生を送った者には、永遠の愛を掴む資格がないと断定しているかのように見えてしまうのを極端に恐れたのではないだろうか。あえて十三の手前の十二で終了させることで、死の匂いが全面を覆い尽し兼ねない最終部で、僅かながらの生の可能性(匂い)をそこに残したかったように思えてならない。(HP “藤子不二雄ファンはここにいる”に、“『愛たずねびと』は全五話(連載十四回分)”と明記されており、十三は連載回数に由来した数字ではないことが判った)
またしても前振りが長くなった。
実際の物語を覗いてみたい。P12下段の仕事の事務机に座っている主人公の上半身の一コマだが、コマの周りは縦の細かい斜線で縁取られ、まるで人が檻にでも入っているかのように見える。顔は虚ろ気で、表情は塞ぎ込みがち、上司に外出許可を申し出た際「えっ? きみィ またかい」と嫌みを言われてもまるで意に介さない素振りをみせる。悪く言えば世捨て人で、他人からの忠告やアドバイスなども全て拒絶し兼ねないかのような深く暗い影を宿しているのだ。
その彼が結婚式場で知り合った女性にふと見せる寛いだ仕草(まゆげを下げる独特の表情)とのギャップにこちらは思わず戸惑ってしまう。悪魔に対する天使とまでは言えないが、この息抜きのポーズがその後頻繁に顔を出す。本人はこの瞬間の自分を天使のようだとはもちろん思っていない。(相手も主人公をそのような眼差しで見てはいないが、徐々に純真無垢な邪念のない人間だと思い込み、自然と警戒心を解いていく)“愛の1”では、お金を貸してくれた女性に入金中の妻を紹介する場面でも明らかなように、主人公は相手の女性を騙すつもりはさらさらなく、おそらくこの時点では僅かの期間お金を借用しようと心底から思っていたようだ。女性は主人公が結婚しているという事実を知らされたショックでお金を返してもらう気力を失う(呆然自失で忘れる?)悲惨な結末を招く。追い打ちをかけるように主人公は叫ぶ。逃げるように遠ざかっていく女性の足元から発せられる、“カン、カン、カン”という靴音は、まるで読者の脳髄の奥に響き渡る不快な金属音のようにも聞こえ、そこに「昌子さーん ぼく 独身だなんて いちどもいったことないですよねーっ!!」という主人公からのあまりにも残酷な台詞が被る。本人は全く罪の意識を持たないでこの言い回しを口にしている。男が見せるとぼけた振る舞いに相手の女性が気を許し、安易な借金の要求に容易く応じてくれる実態を掴んだ主人公は、“愛の2”でその所作を結婚詐欺として活用出来るのではないかと真剣に考えて、やがてそれを実行に移す。他の結婚詐欺師と違うのが、愛誠という名前から連想される自分にとっての“真”(字は違うが)を貫き、<名は体を表す>という諺を具現化してみせるのだ。P41上部の〈ある結婚詐欺師の手記より〉の鉄則がそれに呼応する。
「嘘をつくときはまず自分にそれが真(まこと)だと思いこませるのです 自分が信じていったことばがはじめて相手の心をとらえるのです」主人公は自分に忠実な行動を取ることで、自然と結婚詐欺に必要不可欠な要素を手元に引き寄せていたのだ。P43では自分がふと漏らした言葉で思わず涙してしまう境地にまで達する。主人公が他の詐欺師と一線を画すのはこの部分であって、自分でも嘘か本当かの見極めが付かなくなる場面が度々訪れる。
“愛の3”での〈ある結婚詐欺師の手記より〉中の「なにしろ女性は自分への賛辞はいくら聞いても聞き飽きることはないのだ」と言いながらも、心のこもっていない褒め言葉には決して気持ちを動かされることはない。この微妙な察知能力は女性独自の臭覚で鈍感な男には判らないはずだ。P50の目を真剣に向き合って述べる台詞の数々は、おそらく主人公にとってはその場で感知したことを忌憚無くありのままに語っているに過ぎない。それで女性が心を揺さぶられないのなら、こちらも諦めるといった妙な割り切りもあり、自分を卑下して相手の女性を心地よい雰囲気で包み込むことも決して忘れないのだから、女性には人畜無害な透き通った空気に近い存在のように感じられるのだろう。
やがて主人公の振舞いは段々とエスカレートし、“愛の5”で禁じ手ともいえる「ぼくと結婚して下さい!」との懇願を口にする。主人公はまるで自分が映画の主役になったよう幻覚に囚われ、自身の言辞に酔い痴れているようにさえみえる。ここに至って主人公が考えた心理ゲーム(愛情ゲーム)は、完全な犯罪へと辿り着く。この自覚は主人公にとっては結婚という夢を完成させる手段でもあった。
“愛の8”中での旅行会社の同僚との会話「というと橘さんは結婚しているってことは夢がないっていうんですか」(誠)「そうさ!だれかが結婚とは憧れを捨てることだといっていたが正に名言だね」(橘〜風貌が藤子さんにそっくりなところから推測すると、この言葉は自身の体験が反映しているのかも)結婚への幻滅、愛の喪失が切々と語られるが、主人公の心中にはP163でホステスが呟く台詞「あなたはまるっきり女に無関心かそれとも・・・・・・だれかひとりの女性をよっぽど愛しているか そのどちらかなのね」に対する答えが頭の中をちらついていたのではないか。主人公は同僚におそらくこう切り返したかったのだろう。“ぼくは結婚した女性を犯罪に手を染めてまでも深く愛しています”と。
愛する者の為には社会のルールをも犯すあたりは、同じ漫画『地獄の戦鬼』(全三巻 東史朗原作(映画評論家 西脇英夫さんの変名だが、『アウトローの挽歌』白川書院 という秀逸な評論がある)前田俊夫劇画 芸文社 〜バイオレンス物の裏代表作が『地獄の戦鬼』ならば、表は『血の罠』(全六巻 サン出版)だろう。(後半主題がぼやけるのが気になるが))に通じる。この漫画も本書同様、愛する娘の血液交換に必要な入院費用を捻出する為に、あえて殺人に加担せざるを得ない状況に主人公が追い込まれるのだが、途中で自身が漏らす「正義も真実も俺には関係ない 俺はただ俺の道を行くだけさ・・・・・・舞子と一緒の地獄道を!!」(第二巻P184)主人公はここで己れとともに娘をも地獄に落とすことを覚悟している。殺人を代償にして得た“命”は、生きていく上でそれだけ大きな罪を背負うことでもある。
片や本編の主人公誠はどうか。愛する妻優子の命を、血塗れの殺人行為などではなく、愛情を操作する心理犯罪(金銭も絡む)で救えれば二人とも自責の念から逃れられるとでも思ったのであろうか。女性の心の隙間に入り込む非難されるべき挙措を、相手の“あさはかさ”と捉え、自身から悪行の負い目を拭い去ろうとする。P169の主人公の言葉「ギャンブルもしょせんは夢の世界のものだ おぼれると夢と現実のけじめが見えなくなってしまうからな とくに女の人はね・・・・・・」がそれを助長してしている。まるで『笑ゥせぇるすまん』喪黒福造の皮肉混じりの助言のようで、バーのママさんとホステスの意地の張り合いも、蓋を開ければギャンブルの延長線上にあって、恋愛と賭け事を天秤にかける女性へのしっぺ返しは犯罪とは言えず、あたかも天罰だとでも言いたいかのようだ。その報復が自身にも降りかかるのだから皮肉な話だ。“愛の9”では声を掛けた相手の女性が同じ結婚詐欺師だったという落ちが待ち受けているのだが、これを主人公はある程度予期していたようにもみえ、あまり同情出来ない。(女性の宿泊の誘いを拒否したのも、自分の最低限のプライドをみせつけて、相手に恥をかかせたかったように思えるのだ)
様々な女性との関わり合いの中で、優子以外の女性をある程度客観視していた主人公だが、徐々に女性の心奥を探る癖が出始め、やがてそれが命取りになっていく。
“愛の10”での結婚写真などはその典型だ。出会いの発端から相手から激しく煙たがられているのも関わらず、女性の過去を詮索したがるのは最終目的のお金の無心というよりも、女(人間)の内面の複雑さをどうしても覗き見たかったからではないのか。女詐欺師との出会いあたりから男とは違った女性特有の結婚感を知ることが、自分が行なっている詐欺師の罪の重さを量る尺度になるとでも考えたのだろう。
女心を弄ぶことの罪深さは、“愛の11で決定的なものになる。優子とそっくりな女性可憐から投げ掛けられたP232の言葉「いくら似てたってあたいはその優子って女の代用品じゃないんだよ・・・以下略」続いて「どんな人間だって人それぞれ心があるんだ! あんたはあたいの心をふみにじった! だからしかえしをしてやったのさ!」ととどめを刺される。藤子さんはその次のコマで、”誠ははじめて深い痛みを感じた!!“と記す。そう、主人公は今まで罪を重ねてもそれを痛みとしては捉えていなかったのだ。
主人公の中にはお金を受け取ったとしても、常に自分の心に素直に従ったのだから、その真心が相手に少なからず伝わったはずだと思い込んでいたいや思いこもうとしていた。結果お金という心のないものを失ったとしても、相手は決して不幸になっていないと考えていたのだ。でも、それは主人公の勝手な解釈で、隠された本当の胸中は見抜けないことを、優子に瓜二つの可憐(コインの裏側が可憐ともいえる)に指摘され、心の痛苦が芽生え出す。
終章“愛の終り”では、妻優子との出会いと結婚までの道程が細密に綴られる。その中で、優子が散歩させていた子犬が猫を目がけて突如走り出し、それを追いかけた優子が車に跳ねられる件がある。偶々現場に出くわした主人公は彼女を病院に運び込み、このことをきっかけに二人は急速に接近し、やがて結婚へと結ぶ付く。主人公は交際過程の中で、優子に菫(すみれ)のブローチをプレゼントする。主人公は「スミレの花の花ことばは愛と誠です だからスミレの花はぼくの花なんです」(P242)と言い添える。
やや説明口調になってしまったが、ここで登場する犬・猫・菫(すみれ)を最近起こった私自身の出来事と強引に結び付けてみたい。但し、犬を私(男性)、猫を女性(沼正三著『ある夢想家の手帖から』全六巻 潮出版 中で女性を猫に例えるケースが多々見受けられる。二巻「家畜への変身」第五十章〜第五十四章で言及しているが、特に第五十章『犬と猫』が白眉。「猫の生は猫自身のためにある」「犬には猫のようなナルチスムスがない」「犬の生は人間への奉仕のためにある」という卓見が随所に盛り込まれており、最終的に「猫は家畜の中の自由人であり、犬は家畜の中の奴隷であるといえよう」との結論で締め括られる。“家畜“を”社会“に差し替えてみると、犬=男性、猫=女性の図式がより一層明確になってくる。社会に死ぬまで奴隷のように尽くし、やがて身も心もボロボロになっていく男(犬)に比べ、社会とは距離を保ちながら自由を謳歌することも決して忘れない女(猫)、この判然たる違いは限りなく大きい。)に置換して読んでみてほしい。
その日、庭にいた野良猫を追い払いに外へ出た。猫は驚いて素早く傍の花壇に逃げ込み、庭に植えられていた菫の花の真上からまともに腰を下ろしてしまう。踏みつけられた菫は根元から全て茎が折れてしまい、数日後あっけなく枯れ果てた。このごくありきたりの日常風景が何を意味するのか。
愛と誠の象徴たる菫、その菫が短命であることを忘れてはならない。猫という犬に比べて自由気ままな生き物に、花壇の花を荒らしたという罪悪感がないのは当然で、実は主人公自身も女性の愛は猫の気質と同様多面的であり、且つ菫のようにあっけない線香花火のようなものだとの自覚が当初からあったのではないか。犬(男)が猫(女)を必死に追いかけ、短くて儚い真実の愛を誓おうとしたが、自由奔放な猫(女)は自分の手の平からあっけなくすり抜けてしまう危うい存在でしかなかった。
巻末は「あたしの愛をとったのは だれ?」から始まり「愛をかえして・・・・・・」迄の悲壮な詩の一節で締め括られているが、主人公は本当に女達から愛をぬすんだのだろうか。実は女が逆に主人公からの愛を奪って翻弄し、ラスト頁で猫から鳥に変貌して天高く羽ばたいたのではないか。
結婚詐欺師という女性にとっては憎むべき対象を主人公に設定しながらも、多くの女性達を魅了したのは、主人公の愛ぬすびと行為が彼女達に片時の心のオアシス(清涼剤〜代償としてお金を失うが)を味わったかのような錯覚を覚えさせてくれたことによるのかも知れない。
実体のない愛は精神の奥深い場所で光り輝く神秘的なものであり、個人が容易に盗み取れるものではない。

≪付記1≫
本文中“悪の愉しみ”という一語を使用した際にふと想起したのが、『悪の愉しさ』(石川達三著 角川文庫)だった。
新聞連載の形で発表された長編小説で、掲載当初“こんな不道徳な話を新聞に載せるのはもってのほか!”といった批判の投書が殺到したらしいが、当時の世相を反映しているとはいえ、これしきの内容で目くじらを立てるのが不思議でならなかった。世間の人は自身の内奥にじっと息を潜めて住み着いている“悪魔の声(囁き)を、頭の中から完全に排除出来るとでも思っているのだろうか。このあたりの読者大衆と小説の関係は、『文壇風物誌』(十返肇著 三笠新書)中の「新聞小説の問題」P142〜で吟味されている。(機知に富んだ文章なので、一文を引いておく。「石川達三という作家には読者をイライラさせる能力があるというよりも、いわゆる流行作家にはみんなそうした能力があり、それが彼らの魅力となっているのである。」)
主人公は平凡な会社員で彼の気晴らしは、他人の虚栄心を暴き出した果て、人間が持つ卑劣さ、醜悪さが全面に立ち現れることだ。真心や親切心などは一切信用しておらず、そのようなものは恰も初めから存在しないという性悪説を自分の信条としているかのようだ。終幕主人公が殺人を犯し、罪を自白する直前「彼は憎まれることによって生き甲斐を感じ、他人の憎悪に支えられて自分の命を保って来たようでもあった。」(P403)と省察する件がある。そこには相手が自分を嫌悪し、蔑み、軽蔑するような態度をどうしても取らざるを得ないような状況にあえて追う込み、波風の立たない自らの“空虚なたましい”P103 を何とか埋めようとした節が見受けられる。
『愛ぬすびと』の主人公は、その点正反対の性善説信者で、周囲にいる人間の美点を必死に見出そうと努力するのだが、人を和ます善意の行為が主人公の意に反して、いつの間にか思いもよらなかった恨みを買い(善意と悪意は紙一重だ)、『悪の愉しさ』の主人公と同様悲惨な顛末を迎える。二人の主人公の共通点は、犯罪者という以外に、自分の意志で相手を振り回していたように思えたのが、実は裏でうまい具合にはぐらかされ、ついにその人の本音(本心)を引き出せなかったことだ。
上辺だけの恋愛遊戯に浸っている限り、心の扉は永久に閉ざされたままだ。

『虫づくし』(新井紫都子著) 「幻獣小説集 夢見る妖虫たち」 北宋社掲載

魅惑的なアンソロジーを編むことは難しい。幻想・怪奇分野となると、単に沢山の短編を読破していれば面白い小説集を作れるかというとそうでもない。国内そして海外にまで渡って、埋もれたまま眠っている原石を地道に掘り起こしていくのは容易い作業ではないのだ。
ここ数年では、東雅夫さん、日下三蔵さん、七北数人さん(「猟奇文学館」全3巻は異色作で、「シリーズ 日本語の醍醐味」(烏有書林)もなかなか独創的だ。)などが目覚しい成果を上げているように思われるが、それでも澁澤龍彦種村季弘中井英夫らが過去に発掘した佳品が、新たに編纂したアンソロジーの中にどうしても入り込まざるを得ないのもまた、紛うかたなき真実なのである。
今や売れっ子作家の仲間入りをしてしまった倉阪鬼一郎さんが、本職ではない日記(『活字狂想曲』)や俳句評論(『怖い俳句』は未読)が周りで話題になったことを、2013/2/12のブログ(倉阪鬼一郎の怪しい世界)で、“『活字狂想曲』以来”と題し、「『怖い俳句』をお送りしなかった俳人の方から丁重な礼状とご著書をいただき恐縮する。それにしても、こんなに評判がよかった拙著は『活字狂想曲』以来かもしれない。どちらも小説じゃないのがなんだかなあという気もしますが。」と言葉を濁しているところからも窺えるように、ご本人は気が付いていないのかもしれないが(気が付きたくないともいえるか)、多数の読者は小説よりも日記や評論の類に大いなる魅力を感じているのではないのか。
その意味で、以前も取り上げた『夢の断片、悪夢の破片』は、昨今ではやはり突出した書評集といえる。この本の批評に挑もうかとも何度も試みたが、本の天部が付箋紙で埋め尽くされ、全てに触れるとあまりに膨大なものになりそうなので途中で頓挫してしまった。本文中では、冒頭の錯綜を極めた古典怪談に果敢に挑んだ「化鳥に乗って−怪談ニッポン周遊」とラヴクラフトの本質に肉薄した「原形質への招待」−H・P・ラヴクラフトとは誰か−は、一読に値する文章かと思われる。特にラヴクラフト神経症に関わる部分や黒人に病的な嫌悪感を抱く場面(P204)や邪神・怪物がいかに身近な存在だったのかを語った件(P207)は、独身時代の倉阪さん自身を投影させているかのようにも見え、妙に生々しく感じられる。異色なのは、「南方幻想歌謡曲をめぐって 悪魔のいる昭和歌謡史」で、倉阪さん以外にはとても書けそうもない昭和歌謡の裏側に潜む、閉ざされた深い闇の断面が、実に見事に抉り取られていると言っていい。
話が思わず横道に逸れたので元に戻そう。結論から言えば、鋭利な感覚を兼ね備えた倉阪さんが選定すれば、今までにない特異なアンソロジーが誕生するような気がする。広範囲なジャンルを横断してきた人だけに、あえて怪奇系だけに絞ることもあるまい。純文学・哲学書美術書を元に選ぶことも可能なのではないか。要は小説を書く時間を出来るだけセーブし、余った時間をあまりお金になりそうもない選定作業に費やせるかどうかにかかっているのだが、シリーズ本を何冊も手掛けている今の忙しさではとても無理だろう。
他にアンソロジーを組んでほしい人といえば、翻訳家・映画評論家・殺人研究家といった様々な肩書きを持つ柳下毅一郎さんの名が上げられる。去年刊行された書評集『新世紀読書大全』も好評のようで、ファンとしては喜ばしい限りだが、柳下さんが最も得意としている殺人評論(『殺人マニア宣言』は秀逸だ)のジャンルでは、今や柳下さんを凌ぐ博覧強記な怪人物がいることを忘れてはならない。お気に入りブログにも載せている「最低映画館」「殺人博物館」「悲惨な世界」の執筆者岸田裁月さんである。メジャーでないため未だ紙本が出ておらず(国文学者高橋明彦さんの本も未だに出ない)、書かれたものをブログと電子書籍でしか読めないのが残念だが、斯界の泰斗といってもいい稀少な存在だ。(岸田さんの特異な才能は、ブログ“真花の雑記帳 Neo”の「岸田裁月という本物の天才」という一文と添付画像を目にすれば、認識出来るだろう)
この人の特徴は、読み易い文体と現実の殺人や有名人の惨憺たる末路を、単にノンフィクションとして忠実に記すのではなく、事件の裏側に隠蔽されている真実を、綿密な資料の読み解きによって自分なりに詳細に分析・解明を行ない、きちんと理論付けているところである。(多少の想像も含まれるが)この手法はまかり間違えれば単なる書き手の曲解と罵られる危険性を孕んでおり、同好の士から説得力に欠けると断定されて、そのまま切り捨てられる恐れもあるのだが、岸田さんの考察(中でも「悲惨な世界」に顕著だ)は、事件が起きた時代背景や当事者が関わった前後の事実関係を引き合いに出し、事件が当人だけに起因するものでないことを、鮮やかに立証してみせるのだ。恰も被告人に代わって見事な弁論を展開する敏腕弁護士であるかのようだ。丹念な資料調査とそれに基づく度重なる検証、岸田さんがアンソロジストとしての素養を兼ね備えているかが、これで少し判っていただけたのではないか。殺人小説(ノンフィクションも含む)アンソロジーなんていう、食指を覚えるようなわくわくする企画も可能なはずだ。後は、編集者の慧眼に期待するしかない。
現状抱くアンソロジーについての思惑を延々と書き続けてきたので、この辺で本題に接近してみよう。
本書を妖虫に纏わる怪異譚集として取り上げるには、全体的に作品の質があまりにも低レベル過ぎる。アンソロジストのさたなきあさんにも責任の一端があると推察されるが、「幻想文学」で東雅夫さんや倉阪さんとともに数多くのレビューを担っていた人らしいので、幻想・怪奇小説に関する知識は豊富なはずで、何故面白い小説が拾い出されていないのかが不思議なくらいだ。情報量の蓄積と同様に必要不可欠である妖虫への限りない愛情が希薄である点が、致命的な欠陥となっているのかも知れない。そう、アンソロジーには編集者の慈愛の念がどこかに感じられなければならないのだ。
本の総評は、烏丸のブログ“くるくる回転図書館 公園通り分館”2005/10/24 オバケの本 その十『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社を読んでいただければ十分かと思う。烏丸さんの書評は実に的確で、ほぼ的を得ているのだが、最後の締めで「本アンソロジーで、「この味付けがやや弱い」と思われたのは、先にも触れた虫の怖さのさらにもう一つ別の側面、小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう、あのおぞましさです。たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ、孵った幼虫がうごめくのが透かして見える、などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。」と記している。全編を体内に虫が入りこむ気色の悪さで貫かれるのはいかがなものか。おそらく嘔吐を催して堪えられないものになっていたのではないか。個人的には、副題の妖異繚乱が色濃く反映された香山滋『妖蝶記』のような恐怖と妖気に彩られた物語で、全て統一してほしかったというのが本音だ。
ここでいよいよ本題の新井紫都子「虫づくし」だが、この小説に関しては過去にHP上で二人の方が取り上げている。一人は、上記の烏丸さんで「「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で、個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ、これだけ密度が高いと、もはや散文詩の領域で、息を止めて数ページが限界、これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。」とあり、もう一人は”ブログ“はんなりとあずき色”の主催者overQさんで、2004/5/26三十三夜 第19夜[隧道]の中で「架空の昆虫の博物誌的な記述で、人間社会を風刺したもの。出てくる虫がどれもこれも奇想天外の極致。大傑作。」とコメントしている。申し訳ないが、overQさんの短文ではこの小説の良さは伝わらないし、“人間社会を風刺したもの”という言葉には少々疑問符が付く。(さたなきあさんの影響か)烏丸さんは、表面上この小説を評価しているようにも見えるのだが、物語性の不在(弱さ)と散文詩のような文体が息苦しくて、この長さでも読み切るのが辛いといっており、最終的にはあまり評価していないような印象を受けた。小説の感じ方は人それぞれだから、お二人の意見に対してこれ以上反論する気は毛頭ない。私はこの物語から放たれる奇妙な幻想感覚に身を委ね、そこから受け取った感情を素直に綴りたいと思っているだけだ。
十頁そこそこの短い話だが、粘着質を帯びた奔放な文体は、読み手の空想力を絶えず刺激してやまない。埴谷雄高の小説や随筆を、何度も読み返しながら読み進む際に生じる、ある種のもどかしさとともに感得する、打ち震えるような文字を追う愉悦(反復の快楽)が蘇えって来るといっても過言ではない。埴谷さんがごつごつした鉱石のような硬質な様式で、ゆっくりとした時間経過の中で綴っていくのに対し、新井さんの世界は強靭な岩ではなく、外観は一見丈夫にみえるが意外に脆いアンモナイトの化石のような華麗な光の乱反射を撒き散らしながら、ここちよいリズム感を維持して紡がれていくのだ。新井さんのセンテンスは、埴谷さんのように絶えず長いわけでは決してないのに、不思議にも同じ匂いを感じさせるのは、隣接した各文が恰も互いに深く絡み付いているかのような感覚を呼び起こすからだろう。
冒頭で、青天井・星・月・太陽・雲・風・大地を様々な虫が埋め尽くし、今まで抱いていた普遍で揺ぎ無い各々の表象を見事に打ち砕いてくれる。その意味で、飛び交う虫は嫌悪の対象というよりも、新たな生命の息吹を注ぎ込む役目を担った救世主のように見えてくる。この箇所を全て抜粋したい欲望に駆られるが、これから読む人の楽しみを削ぐことになるので、月の一節のみに留めておこう。
「月は十六枚羽根の巨大蛾で、黒繻子の羽根の片面づつにそれぞれ形のちがう金色の模様をもっている。それでノートをめくるように月齢が進んでゆく。」
詳しい解釈は不要だ。繰り返し読むことで、月が巨大な黄金色の蛾に被われて吸い込まれ、曖昧模糊とする様が鮮烈に瞼に浮かぶ。羽根を閉じる光景は月の変貌を思わせる。このイマージュの連鎖を烏丸さんは“散文詩”と名づけたのだろう。言い得て妙だが、作者は読者を自分の世界の中に導き入れるために、あえて入りこみ易い詩の世界を巻頭に配したとはいえないか。その後、突然人間本来が持つ逞しくも疎ましい存在である虫のイメージを、強烈に植え付けるような描写が続出するからだ。我々の生活に深く関わる虫が、次第に地上での領域を拡張し始めたのである。
各種のもどき虫がその代表的な例だ。地をおおい、雄が雌の尻にたかり、時々雄が食べられたりするもどき虫は、ガガンボモドキという現存する虫をヒントに作り出されたようだが、蟷螂の生態にも似た雌が雄を食う習性は、全ての動物界に共通する女性の優位性をみてとれないこともない。水溜りに浮かぶニゲアシミズ虫は、水の表面に粘液上の薄膜を張り、そこにとまって動けなくなった虫を、細い赤い槍状の吸口を延ばして体液を吸って殺すのだが、これはガガンボの幼虫と蚊を合体したように感じられ、吸い込む槍に自らの身体を委ねたくなるのは、心地よい安楽死への誘惑に駆られたからか。それともマゾヒストの性癖が成せる技か。
一節ごとに読み手の想像力を喚起してやまない表現がこれ以降も延々と続くのだが、その極致はヒントとなる虫が全く見当たらないガラス虫の存在である。作者が巻頭で、星や月の形に虫を嵌めこんで創作した心象風景とは違って、窓ガラスそのものを新たな虫として見出している部分が実に斬新なのだ。意識が混濁した時に現れる、幻想の扉の前を浮遊する淡く儚い眩暈とも言えるが。
やはりここは最小限に留めるよう注意を払いながら、文章を引くしかないだろう。
「窓の四隅を非常に注意深く観察すると、どこか一隅に一対の黒点である目と汚れに見える小さな半透明の胴がある。ガラス虫は用途に応じて正方形、長方形、円形、楕円形の各形態が開発されており、虫の成長段階の幅だけサイズがある。(途中筆者略)ガラス虫は冬眠状態にして売られており、死ぬと曇りガラスになる。処置の悪いガラス虫を買うと、非常に稀なことではあるが窓枠から逃げ出してしまうことがある。」
窓の汚れと極小の黒点に生物の存在を察知するのは、幼少時代によくあるケースだが、単に動かない物体(静物)として見るのではなく、動く生き物として見ようという強い意思が“死ぬと曇りガラスになる”と“窓枠から逃げ出す”という件で明らかになる。静(死)と動(生)を折り混ぜながら、形まで印象付けてその構造をあからさまなものにする手法は特筆すべきものがある。ガラス虫の生態が、この後の展開で大事な要素となっていることも忘れてはならない。
窓ガラスで思い出すのが、村田基の「白い少女」(『恐怖の日常』(ハヤカワ文庫)所収)である。二階の閉ざされた窓ガラスから覗かれる美しい少女の顔を眺めているまではよかったが、窓ガラスが外側に開いて、少女と青年が目を合わせた瞬間に思わぬ不幸が訪れる。きっかけは、ここでも虫(シロアリ)だ。遮断された静寂した空間をガラス虫がわざと扉を押し開けて、そばに潜むおぞましい虫の手助けをし、禍を引き入れたようにはみえないか。虫が虫を呼ぶとは正にこのことをいうのだろう。
やがて主人公は、母のいる故郷へ帰郷することになる。そこで手荷物を準備するのだが、ポケットに嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルを常備するのである。故郷に出没する人間を襲う虫(強力なハエか)対策の一環としても、もどき虫を使って空想に耽り、ガラス虫の奇妙な動きに微笑ましささえ感じている彼の心境やいかに。好意と憎悪は紙一重なのか。だが、この装置が主人公を救うのだから何とも皮肉だ。列車事故に巻き込まれ、血を流しながらレールと枕木の間に横たわっていると、切断された左下肢に虫(ハエとは規定していない)の大群が押し寄せてくるのだが、嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルによって、すんでのところで救われる。やがて彼は麻酔薬を打たれて意識を失くすのだが、その際にみる夢の断片にニゲアシミズ虫が潜む水溜りが現れ、虫籠の底に虹色の油膜が張られているのに気づく。恐らく無意識の中で、麻酔注射とニゲアシミズ虫の槍状の吸口がダブったのではないだろうか。虫の餌食になり、死骸に近づく陶酔感に浸るほど、自身の意識は虫に侵食されているのだ。
この頃から、主人公は無機物の三角形を好み出し、蒐集に勤しみ始める。特にキラキラする金属体を好み、挙句の果てにそれを口にまで含み、鋭い角が舌にあたって切れた血と金属の酸味を味わって狂喜する。ここで思い出されるのがガラス虫だ。上記では、正方形、長方形、円形、楕円形の各形状を記したのだが、ここに三角形がないことに気づいていただきたい。事故で負った怪我の傷口からガラス虫が体内に入り込み、新種の三角形ガラス虫となったとは考えられないか。人間と虫との体内共存がここに生まれる。更にニゲアシミズ虫の槍状の吸口が、血を啜っているかのような錯覚を覚え、自身の切れた舌の血を体内のガラス虫にも送り込んだかのようにもみえるのだ。
その後、事故で右足先を失くした女性と主人公は知り合う。彼女は事故の原因になった虫を憎悪し、それが原因で昆虫学者になる。最終目的は、害虫駆除の一環である強力殺虫剤の開発だ。途中過程である害虫を引き寄せる誘虫剤の研究に着手し、完成間近となったその濃縮・精製した液体をフラスコで運んでいる最中に彼女は誤って転倒し、その液体を身体中に浴び、そこにニクバエが集り即死するのだ。
普通なら分析棟への通路には姿をみせないニクバエが、何故現れたのだろうか。調査後判明したのは、連絡通路の端の一枚からガラス虫が逃げ出し、ハエを呼び込んだというものだった。あまりにも偶然にガラス虫が飛び出してはいやしまいか。そこで、私の頭にまた新たな夢想が湧き上がる。列車事故を負い、ガラス虫との共存関係が生じた主人公に関わる話だ。彼が窓枠からガラス虫を外に逃がしたのではないか。ガラス虫が害虫の範疇なのかどうかは判らないが、虫の生態系を大きく狂わせる強力殺虫剤の開発は、ガラス虫にとっても苦々しい対象だったとは言えないだろうか。白骨化した彼女を見た主人公は一応涙を流すが、すぐに高熱を浴びて単なる金属と化した三角形の義足に熱い視線を降り注ぐ。この三角形の金属(義足)を、新たなガラス虫として生まれ変わった彼女だと思い込み大事に持ち帰るのだ。殺害を誘発しておきながらも、無機物と化した人間を限りなく慈しむ複雑な心理の交錯がここにみられる。
巻末で、もどき虫の子供達が大地に建てる繊細な緑の柱が再度出没するのだが、ここで柱は微風によって左右にゆらゆら揺れ動くのだ。作者は春を象徴する“新生”という感傷的な言葉を引いているのだが、私にはこの淫靡な揺れがメトロノームの振り子を誘発させた。主人公は前半から、この揺動を見つめ続けて甘美な夢幻の世界へと引き摺り込まれ、最後に自分の幼少期の思い出(これも幻覚の一部か)に到達したのではないか。
寂しく座っている見知らぬ少年の手元には、虫取り道具とともにもどき虫(ツノタメ虫)が残した円柱殻が、傍に数個転がっている。円柱を何故少年が拾って来たのかを不審に思っていると、続いて少年の服に付いている五つの青い三角形のボタンが現出する。そう、また三角形なのである。ここでふと思い浮かべたのが、虫・自己・幻想(夢)をそれぞれに頂点とするバランスの取れた三角形のかたちなのだ。円柱は三角形を形作る夢の欠片で、少年はそれを無自覚のまま持ち帰り、昆虫セットの中に仕舞い込んだのではないだろうか。
このような勝手な憶測は作者とっては迷惑なのかもしれないが、ガラス虫・三角形・円柱と種々なオブジェが、我々の空想を煽ってやまないのもまた、動かしがたい事実なのだ。幻想小説の醍醐味とは、書き手の意図とは反したところで生起するような気がしてならない。その意味でこれほど想像力の翼を羽ばたかせてくれた小説は珍しい。唯一の瑕は、P118の夕食後の歌(あたかも倉阪さんの昭和歌謡のようだ)の中身とその後の旅行用に揃えた品々が、虫がらみで統一出来なかったこと、そしてあまりにも物語が短すぎるということくらいか。
蛇足だが、固有名詞があって本当に実在する虫を列挙してみると、スカラベ、ニクバエ、シリアガリ・コトブキが上げられる。シリアガリ・コトブキは、漫画家のしりあがり寿さんの名前の由来になっているかもしれないが、正直なところ確信は持てない。
いずれにせよ、一読いや再読で感知される、立ち昇る独特の異臭を嗅ぎ取ってもらいたいと切に願う。

≪付記1≫
澁澤龍彦著『神聖受胎』(河出文庫)の「ユートピアの恐怖と魅惑」の章中に、以下のような一節がある。
「なぜなら、人間のための技術が技術のための人間になったとき、そこにはすでに完全に反ヒューマニズムの原理が支配しているからである。ヒューマニズムを軸としてぐるりと一廻転したユートピアは、昆虫的、植物的になる。生存競争が既存の世界の没落に伴い、新しい基盤に沿って、新しい目的を追求して行くとき、すでに既存の世界の価値基準から割り出した理想社会と奴隷社会の区別がそこに無くなっているのは当然であろう。ユートピアと逆ユートピアとの差異は、あたかもサディズムマゾヒズムにおけるそれのごとく、流通自在に見分けがたいものとなり、その差異は“いわば純粋に技術的な問題、能動から受動への心理の移行にすぎなくなる。”(フロイト)」(P27)
澁澤さんとしては珍しく読み難い文体だが、心に刻まなければならい大切な言葉で埋め尽くされている。「虫づくし」の解説のさたなきあさんは、この小説を「風の谷のナウシカ」の反ユートピアの世界になぞらえているようだが、作中の情景が機械文明(技術の進歩)の果てに行き着いた末路にはどうしても見えてこなかった。澁澤さんのいう、ユートピアと逆ユートピアとの差異が判然としない状態(まだ人間と虫が対等な対場にまでなっていないからだ)といったほうが相応しいかも知れない。小説の弱さをここに指摘するのは簡単だが、このユートピアと逆ユートピアの境目に漂う、何ともいえない危うい宙ぶらりんの浮遊感、滅亡に近づく人類が遭遇した退廃的な雰囲気が、この作品の持ち味と言えるだろう。
澁澤さんと同じような角度から切り込んでみせるのが、シオランだ。『深淵の鍵』(国文社)の同題章中で、我々人間が見る甘いユートピア願望を見事に打ち砕いてみせる。
「植物や動物の救いの基盤たる無意識を嫉み、なんとか自分も無意識存在でありたいと希いながら、希いの適えられるすべもないのに激怒したあげく、人間は一転して植物や動物の破滅を画策するようになる。彼らをおのが不幸に巻き添えにし、不幸の病菌を彼らに移してやろうとする。ことに動物たちに対して、人間は深く含むところがあるようだ。」(P26)
澁澤と共通する、利潤のみを追求する人間社会への不信感と自然破壊への警鐘として特筆すべき文面だが、「虫づくし」の主人公が生身の人間との接触を拒否し、虫や感情のない三角形の物体に愛着を示すのは、言葉・感情を持たない無意識の生物(虫)と冷たい感触の固形物(三角形の金属)が元来備え持っている“不変的なもの”(変容しない)の重要性を、感受したからではないのだろうか。植物や動物との共存を試みず、欲の塊である人間達が生き延びる手段を模索する世界に、開かれた未来はないのだ。

≪付記2≫
新井紫都子さんの唯一の著作である「虫づくし」 が最初に活字化されたのは、幻想文学会刊行の雑誌「小説幻妖 弐」においてである。第二回幻想文学新人賞の佳作として掲載されたのだ。書評を記す前にある程度の情報は得ていたのだが、執筆の妨げになると思い、購入した雑誌にあえて目を通さなかった。何故か。選者が新人発掘の名手中井英夫とわが畏敬する澁澤龍彦で、読めば多少なりとも影響を受けることは間違いないと感じたからだ。
書評を載せた後に、こわごわ熟読。
選考の流れは以下の通りだ。総数百七十一編から編集部が粗選した四十三編を中井さんが改めて読み、二十編に絞り込む。その二十編から中井・澁澤の両氏が数篇の受賞作を選ぶという方法だ。選評で、二十編に対して中井さんがA (7編)・A-B、ないし、B-A(7編)・B (6編)の三パターンに区分けしたリストが添えられている。その中で「虫づくし」は真ん中のA-B、ないし、B-A・Bに入っており、決して高い評価とは言えない。ちなみにBに、倉阪さんの「百物語異聞」があった。中井さんの「虫づくし」へのコメントがないので、どの点が不満なのかが判らない。続いて、渋澤さんの評だが、「虫づくし」への比較的短くて好意的なコメントが記されているので、あえて全文引かせていただく。
「私が粗選でAクラスにランクしたところの作品である。小説らしい筋はほとんどなく、全篇が虫また虫をめぐる観察記録で、いわば散文詩のような趣きのものである。しかし、その虫の描写は偏執的で、作者の筆づかいは綿密かつ正確である。なんなら科学的といってもよい。そこで一種のポエジー(詩情)が生ずる。異色作として推賞に値すると私は思った。」
どうだろう。流石澁澤さん、短評の中に適切で絶妙な言い回しが頻繁に現れる。私が烏丸さんの言動として褒めた“散文詩”を盛り込んでいたり(単なる偶然か、烏丸さんが渋澤さんの言葉を意図的に借用したのか、昔目にした選評が記憶の底に残っていたのか、いずれが正しいか判然としない)、虫の描写を偏執的と評したり、ポエジーという通常なら明るい田園風景にでも相応しいような語彙で、この異様な空気感を描出する。渋澤さんはこの歪んだ光景にこそ、深いポエジーを感じるのだろう。
渋澤さんが「虫づくし」を強く推し、中井さんが同作品の欠点であるドラマツルギーの少なさを指摘したのかもしれないが、単に筋のなさを理由に中井さんがこの小説を否定するようには思えない。短歌・俳句・詩を嗜む中井さんには、新井さんが生み出した蠢く虫の奇矯な世界は、自分が思い浮かべる心象から僅かにはみ出ていたのではないか。そう、それくらい微妙なところで、この小説の嗜好が大きく分かれるのだ。
最後に新井紫都子さんの経歴に、職業が臨床検査技師となっていたことをお伝えしておく。さもありなんというべきだろう。

『渦』(円地文子著) 集英社文庫

暗い欲望に突き動かされた人間が織り成す三角関係の修羅場が好きだ。目の前で展開される現実の壮絶な愛欲劇ではなく、小説や映画などのフィクションでの話である。
子供の頃、親に隠れてこっそりと昼メロの淫靡な不倫(よろめき)を覗き見たり、B級怪奇サスペンス映画での悪意に彩られた浮気の数々を、深夜小型の白黒TVにイヤホンを刺して胸を高鳴らせながらじっと凝視していたことが、瞼の裏に克明に蘇って来る。何故、ここまで他人の諍いに興奮してしまうのか。狂気沙汰ともいえる夫婦の醜悪なやり取りが行われている最中に、当事者の夫に自分を置き換えて身につまされる思い浸り、被虐願望に酔い痴れるにはまだあまりにも若過ぎる。愛人との度重なる密会を妻に悟られて戸惑う夫を垣間見ながら、他人の苦悩を密かにほくそ笑んでいたからとはいえまいか。悲壮な顔をしながら極度にうろたえている人の光景ほど、波風の立たない自身のささやかな幸せを実感させてくれる瞬間は又と無いだろう。
小説における男を巡る数人の女の絡み合いを上げれば切りがないが、特に印象に残っているのは三浦朱門の『犠牲』『楕円』『人妻』『再会』(集英社文庫)の四部作だ。最終巻の『再会』だけ目を通さなかったような気がするが、この手の小説にありがちな不甲斐ない男が主人公で、煮え切らない性格が種々の誤解を生み、関わった女性達を不幸(彼女達はそう考えていない)の彼方へと追いやっていく。思い悩む男の胸中が、いかにも人間らしい(北上次郎さんがよく使うフレーズだ)とは言えば言えないこともないのだが、世間から見れば自分勝手な行動としか見做されないはずだ。
学生時代を振り返ると、自分がとんでもない性癖の持ち主だったことが今更ながら思い起こされる。一目惚れで好きになった女性に対し、自分が作り上げた理想の性格を思い描き、それ相手に強引に押し付け、彼女が身近な存在となってそのイメージに当て嵌まらないと判るやいなや、急激に恋慕(崇拝)の度合いが薄れていくのだ。この場合、女性がこちらの好意を気づかずにいてくれた場合はさして罪はない。自分の心中でのみ発生し終結した、自縄自縛の儚い恋なのだから。ただ、相手がこちらの気持ちを察知して、少なからず親しみを抱いてくれるようになっていた場合は始末に悪い。相手の女性は、何故こちらの気持ちが離れていくのかがよく判らないからだ。学生同士の恋なんて、気恥ずかしさが先行して言葉が足りないことが多い為に、素直な気持ちをうまく伝えることが出来ない。こんな中得てして、別な女性に心を寄せてしまう羽目になる。彼女が本性のよく掴めない影のある魔性の女(大体が男好き)だったりすると、男はこの怪しげな女にどうしようもなく惹かれていくものなのである。こちらから愛情の一方通行を頑なに実行に移している間は一心不乱になれるのだが、相手から好きになられると逆に腰が引けてしまう。全く持って我ながら性根の腐ったどうしようもない奴だ。こんな身勝手な私の行動に、この文章を目にしている人達が許しがたい怒りを感じるのは当然だと思うが、男女の恋愛は簡単には割り切れない複雑怪奇なものであることを少しでも判っていただきたいのである。(男の我侭と言われればそれまでだ)ただ、一目惚れした彼女の意に反した気性の荒さが後々大きなトラウマとなり、自己主張の強い感情の波の烈しい女性にしか興味が湧かなくなってしまったのは何とも皮肉だ。
ここでふとしたことが思い浮ぶ。ある時期富島健夫の性愛小説に嵌まり、ほぼ読み尽してしまったのだが、その中でも『朝だちの唄』(勁文社文庫)だけがいつも心の片隅から離れない。富島小説の特徴は、主人公の男が肉欲に溺れながらも、女の心の機微を即座に見抜いてしまう洞察力(都合の良い解釈で、たまに癇に障るが)がたびたび顔をのぞかせることだ。
後半田舎から東京に出て来た幼馴染で許婚の彼女を自分のアパートに泊めた際、同じ田舎の別な女性(許婚の女性とは友達で、主人公は許婚より先に彼女と肉体関係を持ってしまう)も同衾させて、三人で行為に及ぼうとするが、ここで主人公の鋭い感知能力はうまく発揮されず思ったように事が運ばない。許婚は女の勘で逸早く男と女友達との以前からの関係に気づくが、表面上はさも全てを許すかのような優しげな態度を取る。男もそれを素直に受け取って安心するのだが、次の日許婚は男に黙って田舎へと帰ってしまう。男は慌てて駅まで追いかけ、彼女が乗った電車に何とか同乗することが出来たが・・・
少々筋を追い過ぎてしまったが、いつもなら主人公の男が女を旨く言い包めて無理矢理三角関係を承知させてしまう形にもっていく富島さんが、ラストで男の失態をあからさまに記した稀なケースといえる。数多くの富島小説に触れないと気が付かない何気ない部分だが、今までの性愛小説の禁戒を破ってまで、男には計り知れない女の揺れ動く微細で移ろい易い心の襞をあえて書き留めておきたかったのではないだろうか。
揺れ動く女心といえば、リチャード・レイモン著『殺戮のキャンパス』(扶桑社ミステリー)の女子大生アリソンは、恋人エヴァンの肉体的な交わりを重視した愛に疑問を抱いて答えの出ない自問自答を繰り返す。
「セックスはわたしたちを結びつけていたひもの結び目みたいなものだ、とアリソンは考えた。それをほどかなきゃ。一度だけでも。わたしたちがばらばらになるかどうかを確かめるために。わたしたちを結びつけているロープに別な結び目があるかどうかを確かめるために―たとえば愛の結び目のような。」(P372)
おぞましい怪物が現れるホラーに相応しくない歯の浮くような愛情検証の言葉だが、精神的な癒しを内包した結び目が、後半のジェイクとのやや唐突な愛の芽生えを少なからず自然なものへと導いていく。死の恐怖に追い詰められた時ほど、根源的な慈悲深さに溢れた無償の愛が曝け出される。人間の体内に入り込んで自由に意思を操作する厄介な怪物(ジャック・ショルダー監督の快作『ヒドゥン』のパクリだと思い込んでいたら、映画公開と本の刊行はほぼ同時期だった。模倣したのは一体どっちだ!〜ジャック・ショルダーは変形SF物を手掛けると実にいい味を出す人で、『ラスト・カウントダウン』『タイムアクセル12:01』『サイバークローン』などは、きらりと光る佳品である)は、肉体の繋がりのみを盛んに強要する野放図な男の分身と見て取れないか。
さて、本書との出会いについてだが、『さらば雑司ヶ谷』の書評付記2でも触れた“いっせいの読書無宿”(「本の雑誌」2005年8月号掲載)で取り上げられたことによる。この文章がいかにもいっせいさんらしいストレートな口調なので、思わず噴き出してしまった。引いてみよう。
アメリカ留学から帰国した若い学者が、二人の女性をもてあそぶストーリーで、てめえこの野郎!とその男を思わず罵倒してしまう場面が続出なのだ。頭脳明晰、美形なもんだから女にモテる男だ。羨ましい・・・を通り越して、腹が立ってくる。」
これ以降は例によって”狭い空間(スペース)”という意外な方向に話は流れていくのだが、いっせいさんの見解からすれば、私も“てめえこの野郎!”の対象になるはずで、何だか妙に身につまされる。私は小説の主人公と違って頭脳明晰、美形ではないだけにいっせいさんの怒りは更なる極みに達し、「手前のツラを見てから行動しろ!」と暴言を浴びながら袋叩きにされるかも知れない。考えるだけでも空恐ろしい。
では、本題に入ろう。
いっせいさんの文章を紹介したので、細かくあらすじを追う必要はないのだが、アメリカ帰りのエリート学者(専門は応用化学)が共同研究者と合作論文を書き、アメリカで科学賞を貰っている逸材である点に注目したい。応用科学という理工系人間を主人公の恋人に配したあたりに作者円地さんのしたたかな策略が感じられ、この設定がその後頭の中を何度も過ぎるという意外な効果が生む。
序盤は、図書館に勤める意志の強い主人公絢子とその母とも子、恋人の島、そして母の友達ことを軸に話は進行する。母とも子が病気になる以外は、さして大きな事件は起こらず、むしろさざ波のような静謐な空気感が漂う。アメリカで知り合って島と肉体関係を結んだ女性美香の登場が僅かなうねりを生じさせるくらいだ。美香の帰国によって島が多少狼狽の表情を浮かべるかというと、全くその素振すら見せない。よく言えば沈着冷静で全てを受け入れて包み込むような寛大な包容力が感じられるが、悪く言えば女を手玉に取った罪の意識を少しも抱かない嫌な奴(まさにいっせいさんの指摘通り)だともいえる。この冷酷とも受け取れ兼ねない感情の起伏の無さが理工系独特の気質だと説明されれば、何となく頷ける節がある。女を抱くことは、島にとっては実験の一環であって、その結果が成功するか失敗するか(纏わり付かれるか、そのまま忘れ去られるか)はさして重要な問題とはいえないのではないか。島は恋愛のイニシアティブ を常に女性に取らせているように見える。これを今までの愛欲小説に頻繁に登場した歯切れの悪い主人公達と重ね合わせることは容易いが、島の胸底にはどす黒い邪念が見え隠れするのだ。そのカギが絢子からの手紙(母の手術のこと)を読んだ後の独白にあるような気がしてならない。少し長くなるが抜粋してみたい。
「(前文省略)それだのに、何故結婚ということになると、足踏みするのか・・・・・・恐らく絢子が嫌いなのではなくて、結婚という世間並みの鋳型に自分がもう一人の女と一緒に鋳込まれ、うち出されることに抵抗を感じているのだろう。世間の男を何度か襲う女と同棲することへの欲求が、欠けている点で、自分は不具な男なのかも知れない、と島は思った。ともかく、塒なんか要らないから、もう少しおれを自由にして飛ばせて貰いたい。独身という自由な翼の折られない間に、自分の学問に対して持つ情熱をもう少し烈しく強く燃え上がらせたいのだ、と島は思った。絢子のような妻として完全な女性は、恐らく、自分の翼を撓めて、小さい籠に押し込むのに思いの外逞しい力を持っているように思われる。・・・・・・そのことが漠然とした恐怖となって、絢子との間に黒い幕を張っていた。」この後決断するように一言囁く。「妻でなければいいんだ・・・・・・絢子はあのままで、完全な恋人なのだ。」(P55〜56)
ここまで引くかと言われそうだが、この小説のほとんどが、島のこの自己分析(願望)によって解明することが出来るといっていいくらいに重要な箇所なのである。島には決断力はある。自己を不具者と言い切った上で、はっきりと絢子と結婚する気はないと明言していることからもそれは窺える。要はそのことを相手に伝えるかどうかにかかっているのだが、伝えれば完全な恋人(愛人)を失ってしまうことが判っているだけにどうしても踏み切れない。いや、島の思考回路は自己中心的なので、最後の詰めを意識的に避けているのだろう。島は妻という本来愛情を交換し合う女性の存在価値をあまり認めておらず、その神経は学問への意欲と恋人との共同体意識(近親相姦に酷似したもの)に比重が置かれていく。一見女性に愛の主導権を委ねたように見せかけながら、肝心なところは自分が握って離さない真のエゴイストなのだ。
島の不動心は美香と母親と叔父の三人の席上でも遺憾なく発揮され、結婚を迫る美香の母親と叔父のいささか無礼な振る舞いをさらりとかわし、傷もの呼ばわりされている美香当人にその矛先を向ける。「君が自分に対して自尊心を持ってくれないと、この問題は僕をひどくみじめにするからね・・・・・・」結婚は美香自身の問題であることを、改めて遠まわしに強調するのだ。ああ言えばこう言う、正に付け入る隙がないことはこのことだ。挙句の果てに、三人の前でぬけぬけと「僕は絢子を愛しています。そんなことをいうと、美香さんには怒られるかもしれないけれども、男というのは二人の女を別々に愛することの出来る能力を持っていますね。・・・(以下略)」と断言し、この場を易々と切り抜けてしまう。雄としての本能である繁殖行為を全面に打ち出し、自分自身の問題というよりも過去の遺物である一夫多妻制の正当性を主張しているかのようにも聞こえる。
何人もの女を愛せると思い込んでいる島の魔の手は、絢子の母親とも子にまで差し延ばされる。遠ざかっていた絢子の家を久々に訪ねた際、とも子の面影をふいに思い出し、「絢子よりも母親の方を好きだったかも知れない、と島はふとベルを押しながら思った。」との感慨を抱く。もしとも子が病気にならず元気な状態であったら、物語はどのような変貌を遂げていたのだろう。姉妹のように美しい母娘に思いを馳せながらも、恋人絢子の存在を蔑ろにして母親のことを思う男の心境や如何に。
この章「ふたなさけ」の最後に、島が絢子と久しぶりの愛の営みを行なう場面があるのだが、抱擁しながら「・・・甘美な悲哀の情緒が自分の身内にも満ちて来るのをしみじみと感じた。」と島の感情が記されている件があるのだが、母親とも子の死と向かい会う悲しみに沈んだ絢子を切ないと思う慈しみの愛というよりは、前に触れたが何故かここでも近親相姦の危険な匂いが充満するのだ。島の手が肩を抱きかかえるところではいささか突飛だが、血に飢えた吸血鬼が鋭利な歯を立てて噛み付き、種族繁栄のために同胞(最愛の妹)を増やすシーンが目に浮かんだ。そう、島は絢子の体内に自分と同じ吸血鬼の極上の血が流れているのを、かなり以前から嗅ぎ取っていたのではないか。P173で二人が再び唇を重ねた際も同様の印象を強く持った。ここで青年島は“逞しい少年”のようだと表現されているが、血の渇望に素直に反応する吸血鬼はある意味汚れのない無垢な少年と同じだ。吸血鬼同志が血を欲するのは邪道だと言われればそれまでだが、本書では同族同士の妖艶な血の啜り合いが何度も行なわれているように感じられるのだ。では絢子の反撃はいうと、もう少し先の話である。
後半で、島が偶発事故で左の額から頬にかけて傷を負い、絢子は美香親子との乱闘で片頬と膝に擦り傷を負う。二人が時を同じうして災難に見舞われるのを見て、またしても近親相姦を暗示させる双生児兄妹という色合いが一層強くなる。二人が鏡を覗く時、お互いの前には自分たちが入れ替わった像が大きく映し出されていたのではないか。
ル・クレジオは鏡から井戸を連想し、ラフカディオ・ハーンは小説『鏡の乙女』で、引き摺り込まれるような錯覚を生む不思議な井戸のほの暗い水底(鏡面)に、耽美な女性の幻影を写し出してみせる。美術評論家石崎浩一郎さんは、この鏡・井戸・水を結び付け、次のような釈義を加える。「鏡の中への転落が水中への転落、そして鏡面の魅惑が水の中で溺れ死ぬことへの魅惑へと転化してあたらしい変貌を遂げている」(『イメージの王国−幻想の美学』(講談社) 鏡面感覚より〜P20)
極薄の鏡面が浮き出ている井戸を発見し、その奥に佇む清らかな水に身を晒す夢想に耽る。鏡の中にお互いの逆転した顔を見た島と絢子は、しがらみという脱出不可能な井戸の中でもがき苦しみ、やがて押し寄せて来る大量の水(聖水か濁水か)で幻惑的な死の世界へと引き込まれていく。これは避けることが出来ない宿命だったのかも知れない。
その井戸の天上からの救いの手を差し出してくれた唯一の人物が、母親の担当医だった原庭博士である。だが、絢子はこの温もりのある手に縋らず、喉元にまで及んでいる水を敢えて自ら口に含んでしまう。過去に他の男に妻を取られた心の痛みを知る慈悲深い男との暖かで穏やかな家庭生活を夢見ず、自ら火中の栗を拾う絢子の心境は、繊細な神経に欠ける非情な吸血鬼に噛まれて覚醒した(心奪われた)乙女の悲しい定めなのか。
救済の道を己から閉ざした後に絢子は決意する。「私は理性を失ってはいけない・・・・・・どんな悲運な眼に逢うことがあっても、私は自分の生きて行く力をそれによって試して見なければ・・・・・・。」
傍には沈丁花の強烈な香りが立ち込めている。沈丁花花言葉が”実らぬ恋”であることを恰も自覚しているかのように、絢子は悲恋(それ)によって試して見ようという前向きいや無謀な努力をまだ継続しようとするのだ。自らをあえて悲惨な状態に追い込んで今後の生きる活力を見出す。何ともいじらしい考えだが、恋は尽くせば全て報われるものではない。島から決定的な一言が浴びせられる。
「君には男の気持ちがまだわからないようだ。僕は君を愛すのと違った意味で美香を愛しているよ。そうして、結婚の相手としては美香のような、神経のあらい女の方が、僕には仕事に打ちこめるように思う・・・・・・それはたしかだね。」(P172)
冒頭でも触れた島の妻に対する考え方、愛情を確かめ合う関係としてではなく、癒しの空間を作り出してくれる感情を伴わない置物のようにしか見ていないことが露呈される。意志の疎通を要求されない飾り物としての妻が抱える空虚な安堵感、たびたび愛を囁き合うが永遠の同志としての恋人(愛人)に甘んじることへの歯痒い屈辱感、果たしてどちらが本当に幸せなのだろうか。
終盤絢子が結婚してくれないのなら、今夜限り逢わないと宣言する件がある。ついに女吸血鬼が牙を剥いたのだ。いつまでも自分の混じり気のない純潔な血を吸わせるわけにはいかないとでも言っているかのようだ。絢子にすれば思い切った言動だが、まともに正面切って言われると吸血鬼島の本性にも火が付く。「この女がおれを拒むなんて・・・・・・そんなことをさせてなるものか!この女は心も身体の隅々までおれによって、培われて成長して来たのだ!結婚しないにしても、おれとのつながりがなくなって、どんな実りのある生活へ踏み入れるというのか。」(P201)この傲慢の局地ともいうべき思惑は、絢子の形振り適わぬ行動が生んだ結果(成果)のように思われるが、所詮エリートも一匹の獰猛な雄でしかないことがはっきりと証明された実に生々しい場面だ。論理的な思索を得意とする人間には、こちらが感情を剥き出しにしないと中々本性を表出しないという良い例だ。沈着冷静な二人がお互いのプライドを尊重し、他人に見せない深い傷を舐め合ってきた今までの状況は、永遠に一つになることを禁じられた悲劇の兄妹愛以外の何物でもない。成就しない禁断の愛の行き着くところは、やはり彼岸しかないのだろう。
絢子の最後の呟き「長い間核心を掴めぬままその周囲を堂々めぐりしていた中心がやっと深い井戸の底のように小さく淀んだまま、絢子の目に見えて来た。そこには光らしいかげはないままに、やっと呼吸の通う程度のぬけ穴がそこにあるらしく思われた。」(P203)に、井戸の底という言葉が飛び出したのには少々吃驚したが、溜まっている水の中に僅かな澄明さを感知し、二人が手を取り合って入り込める小さな至福の扉を遂に見つけ出したに違いない。
終局で絢子が何度も島を妖精圏の住民に例えて、母の友人ことに彼がとらえどころのない歪んだ心情の持ち主である(島流にいえば不具な男)ということを判らせようとしているが、私には昼はコウモリのように大学の研究室という洞窟の闇に潜んで翼を休め、夜な夜な女の生血を吸う(女の感情を弄ぶ)ために、様々な場所に出没する自由気まま吸血鬼の生まれ変わりにしか見えない。ことが最後に島の生息する国を妖精の国ではなく、お化けの国といっている言い回しが実にしっくりくる。
ここには綺麗事でない剥き出しの激愛が鋭く抉り取られている。文芸評論家の小松伸六さんによると、円地さんは実生活でも背徳の恋にのめり込んでいたようだが、その無謀な体験がなければ、赤裸々で凄まじい我執に取り付かれた人間ドラマは書けなかっただろう。続けて、本書と同系列の作品だと思われる『人形姉妹』(集英社文庫)を読むつもりだ。さて今度はどんな修羅場が待ち受けているのやら、何とも楽しみでしょうがない。

≪付記1≫
『人形姉妹』を読了。作者円地文子の分身のような女流作家が、女子留学生と交流を持ったことからドラマは動き出していく。導入部は一見ミステリーのような雰囲気を漂わせ、読者の興味を否応なく惹き付ける。円地さんの円熟味を孕んだ流麗な文体は、他の追随を許さないほど見事なまでに張り詰めた空気を醸成している。
第二章「雛の顔」から、姉律子と染色工芸に携わっている美大生曾宮が熱情を交わす章「雛の前で」までの緊迫感は特に圧巻で、息をもつかせないとは正にこのことを指すといっても過言ではないほど素晴らしい。だが、如何せんこれ以降の展開が凡庸いやこちらの思惑を裏切らなさすぎるのだ。悪魔的な魅力を湛えた内裏雛に、秘められた呪いと狂熱の恋を絡めたあたりは安直すぎやしまいか。
巻末の解説で小松伸六さんが文頭と文末で、“よくまとまった作品(中篇小説)”と好意的な解釈を加えているが、この褒め言葉に妙な引っ掛かりを覚え、整合性が取れている分だけ逆に意気消沈してしまった。そのような観点からすれば、『渦』は小説作法から大きく外れたある意味で破綻した小説といえるのだが、個人の烈しいエゴ(主張)のぶつかり合いが予想を超えた衝撃となって襲い掛かって来る。小奇麗なまとまりは、作品としての完成度を高めるための必要条件なのかもしれないが、読み手の驚愕(インパクト)を弱めるマイナス効果を生む危険な綱渡りであることを判っていただきたい。
不満を述べたが、流石円地さんといえる箇所もある。偶然にも引こうと思っていた件を、解説の小松さんも援用していたのには少々驚いたが。
「憎悪の対象である当の女は自分が幼少の時から母代わりに慕い、真摯な愛情を注がれつづけてきたただ一人の姉であってみれば、その憎しみは切ない愛情といつも鬩ぎあって、郷子をいたたまれないほど苦しくした。」(P160)
小松さんは、姉妹のハス・リーべ(憎悪愛)から地獄絵のような肉身(肉親の間違いか)の悲劇を感受しているが、私には切り裂かれるような心の痛みが、アンディ・ウォーホル制作・ポール・モリセイ監督の怪作『処女の生血』(お気に入りブログ「最低映画館」で『悪魔のはらわた』と共に扱われ、ボロクソに貶されているが、私には最大級の賛辞にしか聞こえない)でのドラキュラ伯爵の声にならない嗚咽とダブって仕方がなかった。また吸血鬼かと言われかねないので事情を説明しよう。
映画中の吸血鬼は老いて醜く、従来のイメージであるダンディとはほど遠い存在だ。栄養源は処女の血でなければならず、普通の血を体内に吸収すると身体が拒絶反応を示す。この奇異な体質を担った吸血鬼が、処女だと偽って近づいて来た女達の汚辱に塗れた血を飲み、結果顔面蒼白となり、嘔吐と痙攣にのた打ち回る凄絶な場面がある。苦しみに喘いだ果てに迸る吸血鬼の絶叫と愛情と憎悪の入り混じった感情に精神が苛まれる郷子の悲痛な呻きが非常に酷似しているのだ。姉の吸血鬼律子が童貞青年曽宮の生血に最初手を付け、その汚れた血を妹の郷子が啜ってたまらず吐き気を催す。妹は姉が吸って淀んでしまった血を自分が口にすれば、アレルギーを引き起すことぐらい十分認識出来たにも関わらず、嘔吐の苦痛を背負う覚悟がなければ真の愛情は掴めないと断言するかのように率先して血を貪る。
吸血鬼姉妹の印象を更に深めたのは、「雛祭りふたたび」中で曽宮と響子の密会現場を見つけあとを追う嫉妬に身を焦がす姿が、眼球を充血させて相手に飛び掛ろうとする吸血鬼の形相に瓜二つに見え、「水辺の出来事」中で律子が曽宮と響子の肉体関係を察知し、以後曽宮の身体に全く触れようとしなくなったあたりが、まるで濁った血はもはや不要だと自身に言い聞かせているように感じられたからである。
曽宮と響子の前途に悲惨な顛末が待ち構えていようとも、死の幻影に怯えながら獲得した情愛は、苦難を乗り超えるための何物にも代え難い貴重な財産となるだろう。

『赤い妄想』(千草忠夫著) SMキング74年3月掲載

最近、並行的読書法(『裁判官の書斎 全五冊』書評参照≪付記2≫)で読み進めている本に倉阪鬼一郎著『夢の断片、悪夢の破片』(同文書院)がある。本書の表題ともなったE・M・シオラン著『オマージュの試み』(法政大学出版局)を解読する際に、倉阪さんが引用したシオランの言葉に心を奪われた。
「書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と生きながらえる助けになったからであり、さまざまの妄執も表現されてしまえば弱められ、ほとんど克服されてしまうからです。書くことは途方もない救済です。本を出すこともまた然り。」
この一節は、止め処もないアイデアの湧出を抑えきれない一部の特異な物書きにのみ当て嵌まる格言のように聞こえる。同属の倉阪さんもその通りだと賛同するが、続けて「こんな無防備な形で言ってしまっていいのかとちょっとうろたえたりもする。」と漏らし、この思わぬ直球発言に気恥ずかしさを隠せない。シオランの本(関連本を含む)を読破している倉阪さんと全く読んでいない私が、同一次元で対象に迫ろうとすること自体がそもそもおこがましいのだが、同項で扱っているシオラン著『四つ裂きの刑』(法政大学出版局)の簡単には読み解けないアフォリズム十三篇からすれば、驚くほど共感し易い糸口を用意しているのは紛れもない事実だ。
新な作品を生み出すわけでもない素人書評子が“書くことは途方もない救済です”に何故これほどまでに惹かれるのか。愚にも付かない本に対してこの言葉を重ねるのではなく、魚の小骨が刺さったかの如く理解不能だったにも関わらず、心の襞にこびり付いていつまでも離れない本に適用させて、自分なりの解釈を書き加えることで充足を求めたからに他ならない。独りよがりの都合の良い自己陶酔といってしまえばそれまでだが、埋められなかった感情の空白が“書くこと”によって、多少なりとも満たされる(癒される)とは考えられないか。
そのような意味では最近読み尽くした源氏鶏太さんの怪談短編小説は、ほとんど“書くこと”を求めない無味乾燥な因縁話が多く、特に期待した長編『永遠の眠りに眠らしめよ』(集英社文庫)では短編で書き切れなかった妖怪変化の瞬間を克明に書き込みながら、怨霊の原因を過去に遡って探し出して闘いを挑むといった、僅かに目先を変えただけの通俗的な物語に終始して小骨の欠片も残らなかった。
その点、遠藤周作著『蜘蛛』(出版芸術社)は、純文学として書かれたものまでも混淆させて一冊の本に纏め上げているのが実にユニークで、至るところでやたらと小骨が突き刺さる。皮肉なことに、怪奇色を前面に出した表題作「蜘蛛」や御馴染みの幽霊話「三つの幽霊」「私は見た」にはいっこうに恐怖心が湧かず、逆に事実に密着した「あなたの妻も」「ジプシーの呪」に、ぞくぞくするような人間の酷薄な側面を垣間見せられて、背筋が凍りついた。特に「あなたの妻も」の二話目、日本を舞台にした母による娘(赤ん坊)への米粒を使った残虐で陰惨な殺しの情景や犯罪現場で「コッ、コッ、コ、コ」という鶏の声がいつもとは違って、甲高く耳を劈くように感じられるところとか「ジプシーの呪」の身体に出来たいくつもの大きな腫物(指で潰して肥大化したもの)の内側から「チッ チッ チッ チッ」という不気味な音色を半鐘させ、真ん中の裂け目から噴き出てくる黄色い膿の様相などは、凡庸な幻想・怪奇作家では太刀打ち出来ないほどのレベルにまで達している。ただ、これを単純に怪奇小説と呼んでいいものかどうかは甚だ疑問だが。
思わずニヤリとさせられたのは、以前書評で触れた富岡陽夫の『まぞひすと・さじすと』(『月光のドミナ』参照)中で、生け捕りにした鼠を踏み潰しながら女が喜びを爆発させる場面があったが、「気の弱い男」のラストでも主人公の大人しい会社員が金魚を手で握り潰しながら、死ぬまでの“グニャッとした指の感触”に酔いしれるよく似た箇所があったからだ。SM行為が正に表裏一体なのを改めて思い知らされる印象的なシーンだ。遠藤さんの生理が並みの大抵の人では保持出来ない異常性を携えていることは自覚していたが、分裂症を引き起こし兼ねないようないささか度を越えた生臭い猟奇感覚は、傍目から見ても嘔吐感を催すくらい凄まじい。
いよいよ本編に取り掛かる。『D・Sダブルセンス(重層感覚)』に続く雑誌の読切小説だが、これも同様番外篇と考えていただき、取り上げることをお許し願いたい。『D・S ・・・』に遡ること約十年近く前のもう一つの複雑な妄想劇で、総ページ数二十四枚にもおよび、短編というより中篇と呼ぶほうが相応しい。実は間を置かずに二度読んだのだが、作品に潜む独特の空気感は察知出来たものの、真に意図するものがどうしても掴めず、小骨ではなく大骨が喉の奥深く入り込んで中々取れないような状態が続いた。これを打破するには、細部の裏側の隠された闇の深遠を暴き出せるかどうかにかかっている。
主人公のアダルト作家は、『D・S ・・・』と同じくスランプに陥っており、シオランの言葉“書くことは途方もない救済です”は遠い彼方に忘れ去られている。ぼやきは、書くことの苦痛をあからさまに伝える。「書くとは創造であるのに対して、読む人は作者の妄想のあとをなぞるだけに過ぎないから。」果たしてそうか。なぞる過程を否定する気はないが、作者が書き切れなかった足りない部分を読み手が空想(幻想)で埋める作業が逐次行なわれてはいないだろうか。作者の書き尽くせなかったもどかしさを解消すべく、読者も妄想の世界で悪戦苦闘を積み重ねているのではないか。ただ、この小説の主人公も書かないことが救済に繋がるとは考えていないらしく、食指を動かされるような素材にぶつからないだけで、書くことへの意欲は枯渇してないことが判る。彼は場末の酒場を彷徨しながら、何とか書くきっかけを掴もうともがき苦しむ。そんな中、見知らぬ男に出会い奇妙な話を聞かされる。数日前、自分の妻を主人公に無理矢理犯されたというのだ。主人公は身に覚えがなく、犯行が行なわれた時間帯には自宅にいたことがはっきりしている。夫婦の住んでいるアパートのドアには鍵がかかり、進入者の形跡は残っておらず、犯人(主人公?)が入って来たところや出て行ったところを、夫婦二人は覚えていない。犯罪事実を立証出来るものはなく、強姦が現実なのか幻覚なのかが曖昧のままだ。
事の経緯が重要かと思われるので要約する。
1.男(沢田直吉)と妻正子は、木造モルタル塗りの二階建てのアパートに住んでおり、強姦はこの部屋
 で行なわれた。
2.主人公(千葉昌平)は、犯行が行なわれた日の昼、あるデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所
 に座っており、そこで七階から降りてくる正子を見かけた。その際、正子を新しい小説の主人公に
 イメージしてストーリーを練った。正子は、そんな主人公の行動に 全く気づいていない。視線すら
 交わしていない。
3.その夜、主人公は昼に思い付いたアイデアを反芻しながら執筆に入った。
4.小説に記された事件が、同時刻に上記1.のアパートで実行された。
5.犯行の際に使用された緊縛用の紐が、使いならされた古びたロープだった。(小説の中で何度も使い
 回された証か)
大まかに纏めると以上にようになる。これらから導き出されるのは、ドッペルベンガーという用語だろう。主人公も、男から強姦に到るまでの詳細を耳にして最初に思い浮かべたのが、サイコキネス(念力)・トランスサポート(転送)・ドッペルベンガー(小説内ではドッペルベンゲルと記されている)といった怪奇現象で、おぼろげながらも結論を引き出す。それは、「原稿に向かって凝集された彼の思念ないし妄想が、実体となって対象の女のもとに出現する。」というものだが、非現実的だとは思いながらも、どこかでそれを信じないわけにはいかない。この理論がそのまま何の捻りもなく実行されれば、安直な幻想譚として済ませることが出来たのだが、事はそう単純に運ばないため、更に混迷の度合いを深めていく。
主人公は、男から妻の失われた性欲(恥辱の快感が忘れられないらしい)を目覚めさせる意味で、もう一度犯行を行なってほしいと頼まれ実行に移す。以降現実での凌辱模様が延々と語られていくのだが、さして突出した描写はない。前回使わなかったズボンのベルトで女を鞭打つのが唯一の見せ場となっているのだが、主人公が双臀の奥に潜むセピア色の蕾に目を奪われて、一瞬戸惑う場面だけがいささか突飛に感じられた。この蕾への凝視が、物語の後半で再び顔を出すとは思い至らない。
続いて、主人公はドッペルベンガーを自覚しながら、過去に手掛けた小説群に思いを馳せる。女優AやテレビタレントBを想定して書き上げたアダルト小説がそれだ。妄想の対象となったこの二人の芸能人には、以後確かに同じような事件に巻き込まれたかのように思わせる節があった。Aが男を知り、女優開眼したことは想像の域を出ないが、Bの強盗事件は強姦を匂わせる部分が多分にある。では、Bの犯人として主人公が訴えられたかというとそうではない。画像に映し出された虚像では主人公の妄想の翼は羽ばたかず、生身の人間を視線の先に捉えないと、欲求の矛先は無意味な空回りを起すだけのようなのだ。
主人公は再度の挑戦を試みる。正子に対して主人公が、卑猥な夢想を抱きながら、情熱的な文章を書き綴る。結果は予想に反したものだった。翌日直吉に電話をすると何も起こっていないというのだ。主人公はがっくりするのだが、読んでいるこちらの落胆はそれ以上に大きい。もうお判りかとも思うが、現象解明の端著が完璧に塞がれてしまったからだ。前二回の読後と同様もやもやとした感情が湧きあがり、再び奈落の底に引き摺り込まれそうになったので、これまでの過程を丹念に整理してメモに纏め、全体像を俯瞰した。すると、絡み合っていた糸が少しずつだが解れていくではないか。引き出された解答はこうだ。
ドッペルベンガーを生み出した凌辱小説は、遠い昔に没として未完成のまま引き出しの奥底に眠らせてしまった原稿だったのではないかと推察してみる。それを証明するかのような主人公の独白が呟かれる。「平凡なストーリーだが、平凡なサラリーマンの妻から、次第に妖婦のような魅力を身につけてゆく過程をうまく描ければ、かなり読めるものになる、踏んだ。いま目にした女のイメージは、かなり力になってくれるはずだ。」デパートの喫茶所でふと浮かんだ感覚だが、裏を返せば正子を見かけて妖艶な女の像を彷彿出来たからこそ完成した物語なのであって、想像上の女性で筆を走らせていたら、未完成のままで埋もれていた可能性が高い。話自体はいたってシンプルで、悪くいえば凡庸極まりなく、読者の興味を全くそそらないと判断して、主人公が筆を進めるのを躊躇ったとしてもおかしくはない。だが、引き出しの奥から原稿が取り出されず、新に初めから書き記されたことが思ってもみない奇矯な現象を生み出す。それがドッペルベンガーだ。ただ、小説が実際の出来事として息を吹き返したことで、眠っていた原稿に籠っていた怨嗟は消え去り、その後ドッペルベンガーは二度と起きなかった。正子を想定して、いくら感情を込めてドラマを作り上げたとしても、現実で同様の行為が再現されないのは当然なのである。もし、この解釈が正しければ、主人公が埋もれた原稿に気づき、後を書き継いで物語を完結させていたとしたならば、ドッペルベンガーは立ち現れなかったと思われる。
このような強引なひらめきに少々自省しながら、古いノート(印象深い言葉を書き写したもの)を紐解くと思わぬ文章にぶつかった。澁澤龍彦書評集成(河出文庫)に掲載されている中井英夫著『悪夢の骨碑』(講談社文庫)の書評から抜粋したものだが、今まで述べた考察が全く的外れではなかったことを実証してくれるかのような一節だった。長いが引いてみたい。
「私たちは、無意識のなかで、つねに現在あるがままの自分とは違った、べつの自分を生きている。無意識のなかでは、私たち人間はすべてドッペルベンガーなのであり、ナルキッソスなのである。私たちの無意識の貯蔵庫には、実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。時間の迷宮のなかで、私たちが出遭う“もう一人の自分”とは、これを心理的パラフレーズするならば、この死んだ胎児の生きかえった姿、グロテスクに成長した姿にほかならないであろう。」
この言葉にある「実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。」を中断した未完成原稿と置き換えてみると不思議なほど符合するのだ。これを生きかえらせ“もう一人の自分”(ドッペルベンガー)を導き出して“グロテスクに成長した姿”(一編の小説)と結び付けると旨く嵌りこむ。
ただ、実際は澁澤さんの文章は最後こう締め括られている。
中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、巨大な一個の『死んだ胎児』ともいうべきものは、じつは日本の戦後そのものなのである。作者は情熱をこめて、死んだ戦後の東京をよみがえらせる。」私のように平面的に見るのでなく、戦後の日本と東京といった大きな枠組で捉えているのだ。実をいうとこの文章は、全くの偶然なのだが、倉阪さんの『夢の断片、悪夢の破片』の「トランプ譚」論の第三章の〈悪夢〉または〈死んだ胎児〉−『悪夢の骨碑』に収められているのだ。(P109)ただ、倉阪さんは私と違い、末尾の「中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、・・・」の一文をきちんと書き添えているのだから、やはり明らかに視点が違う。
思わぬ方向に話が逸れてしまったので話を小説に戻そう。
以上の未完成原稿の件を頭の片隅に置いて、後半のもう一つのエピソードを辿っていくと興味が倍増し、ある程度先の展開が読めながらも、欲望の炎は燃え滾る。獲物は千草さんお得意の女高生で、娘の親友京子だ。主人公は京子とは自分の家で何度も顔を合わせているが、純情可憐なだけにじっくりと観察出来ないので、いつも歯がゆい思いをしている。目を合わせることすら出来ないようだ。やはり、ここでも埋もれた原稿が頭にチラつき、それを窺わせる文章の片鱗を探していることに思い至る。らしきものはあった。以下の一文だ。
「(そういえば、あの時は海水浴場を舞台にして、水着の美少女が浜茶屋のチンピラどもになぶりものになる小説を書いたんだったっけ・・・・・・)昌平は思い出した。しかしその時は、なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、かえって正反対のタイプの美少女を登場させたのだった。」
言葉からは、京子とは違った快活な美少女が犯され、その反動で沈み込んでいく典型的な転落譚を想像出来るが、京子をモデルにした小説は実際には書かれなかったようだ。だが、手掛けた匂いは感じられる。「なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、・・・」とあるように、海水浴場にいくまでの制服姿の京子をモデルにした物語が存在していたと考えられないこともない。ビキニ姿で登場した京子をみて、そのあまりの純朴さに魅了され、筆が止ったのではないか。
主人公は、京子をメインに据えた物語を書き始める前に、ドッペルベンガーの到来を恐れて自分の顔を手拭で隠す。未完成原稿の怨念(慟哭)を自覚していないのだからしょうがないともいえるが、主人公の無駄な悪あがきと判っているこちらとしては、常軌を逸した気の遣いようが返って失笑を誘う。二人の絡みの場面に没頭して目を注いでいると、合い重なる艶かしい光景が頻繁に現れるのに気づく。数箇所に及ぶ言葉の断片を切り取る。
「京子の顔は額から頸すじまで紅を刷いて、赤い蕾の唇が割れ、小鳥のようなのどの奥がのぞける。」「京子ちゃんの唇って、すごく甘い。柔らかくって、いちごみたいな匂いがして・・・・・・」「京子の処女の魅力のすべてを、あからさまに、うしろのすみれ色の蕾までを見ることができたのだった。」 
千草さん独特の流麗な文体が横溢しているが、特徴的なのは、蕾で形容した赤い唇と煌びやかな色合いで表現されたアナルだ。冒頭部で活写された正子のアナルもセピア色の蕾と謳われていた。そんな蕾のような赤い唇を思い描いていたら、夢想映画いやドッペルベンガー映画ともいうべき傑作『視姦白日夢』のタイトル画面が蘇えった。記憶が鮮明でなくて申し訳ないのだが、確か手書きで描かれた花弁に酷似した桃色の巨大な唇が、背景に写し出されていたはずだ。唇が性器をイメージしたものだということは誰しも想像が付くが、そんな安易な発想を踏み越えたところで、小説と映画は共鳴し合っている。題名の『赤い妄想』とは、蕾のような赤い唇(アナルの像は限りなく希薄だ)をじっと見詰めることで侵入が可能となる、禁じられた快楽の入り口を指しているのではないか。性器のみに捕らわれている者には、闇に浮かぶ妄想の暗い扉を永久に探し当てることは出来ないだろう。終盤、京子のストッキングが活用され、緊縛色の濃くなった章が、話の内容とはやや掛け離れた形で「視姦」と記されていたのは単なる偶然か。小説が発表された八年後に『視姦白日夢』は製作されている。監督の水谷俊之さんが、小説を読まずにこの幻惑的な映像を作り上げたのであれば、そこには時間を超越した別な意味でのドッペルベンガーが現出していたに違いない。
京子が主役の叔父と姪との濃密な性愛幻想譚が幕を閉じた後、ラストで現実の京子が主人公に囁く僅かな一語が、深い余韻をもたらす。敢えて記さないが、これは怪奇小説の見事な結末とも見間違えるくらい実に含みのある言葉だった。
妄想癖の過剰な人にお薦めしたい奇作だ。

≪付記1≫
本文で主人公が夫婦と関わりを持つまでの経緯を、必要以上に詳細に記したのには訳がある。
夫婦を題材にした小説を思い浮かべたデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所、非日常的なエロスを生み出した二階建てのアパートといったように、階段が頻繁に登場して、それが妄想を呼び起こす役目を担っているように感じられたのだ。地上ではなく、僅かでも地面から浮び上がった空間でのみ、妄執の交流が成される。では、何故二階のアパートで、現実と見間違えるようなドッペルベンガーが起きたのか。主人公は常日頃から、自宅の書斎で執筆作業を行なっているので、妄想場所は二階と規定していいだろう。夫婦のアパートと主人公の書斎という同じ二階の共有空間を使って、意思疎通が繰り返され、狂おしいまでの愛欲物語が築かれていったとは考えられないか。作家の想像力に、過剰な性欲を抱いた夫婦の想念が重なり合って、淫靡な空想を顕在化させたともいえる。
更に、共通の時空を通過しないとドッペルベンガーが現れないことが、後半の京子の自宅の叔父との絡み合いの場面からも見て取れる。主人公は京子の家を実際に目にしていないので、家の外観ははっきりと書き記されていないのだが、妄想に入る直前に以下のような文を綴っている。「もちろん犯させる場所は、昌平が聞き知った京子の勉強部屋兼寝室である。」勉強部屋兼寝室は、当然二階に設置されているはずだから、同空間を享受している可能性が高い。唯一問題となる京子の幼さを、ボーイフレンドに無理矢理処女を奪われる設定にして取り除き、快楽への憧れと恐怖の狭間で揺れ動く少女の心情を巧みに盛り込んで、女高生の性意識を主人公に近いレベルまで引き上げている。
話は少々逸れるが、階段と鏡を組合せながら、異次元の境界線を浮き彫りにした作家に源氏鶏太さんがいる。源氏さんの怪奇小説は記憶に残らないものが多いが、階段と鏡が登場すると不思議な効果が生まれ、全編に緊張感が漲る。良い例が、『鏡のある酒場』(『レモン色の月』(新潮文庫所収))だ。
主人公多木は、曲がりくねった狭い階段を降りた地下二階にある酒場「鏡」へ向かう途中で、自殺した友達の別所からいきなり声を掛けられる。この冒頭部は、源氏さんお得意の安易な幽霊物の臭いがチラつくが、酒場に入った途端に突然別所が姿を消すあたりから空気は一変する。店の正面の壁には、中間サイズ(六十糎×四十糎くらい)の鏡が掛けられており、その前のカウンターで悪魔的な魅力を纏ったマダムが立ち働いているのだが、奥の鏡の中に別所があっという間に吸い込まれてしまったような錯覚を覚える。だが、その痕跡は全く残っていない。鏡が顕世(うつしよ〜現実)と幽世(かくりょ)の境界に位置しているらしいと主人公が感じ始めた時、死の幻影は目前まで迫っていた。
鏡の先に幽世が顔を覗かせるのは、源氏さんの『鏡の向う側』(同題名の単行本所収)も同様だが、この小説では階段とのより深い繋がりを察知出来る。引いてみたい。
「同時に三沢は、自分の躯がその鏡の向う側にすうっと出たのを感じた。いちめんに真ッ暗であった。その暗闇の底へぐいぐいと強い力で際限もなく引きずり込まれていく感じは、あの地下三階の書庫のときのそれとおなじであった。いい直せば、鏡の向う側に地下三階の書庫があったのだ。」
幽世から顕世への通路を逆に辿ると、地下二階の酒場「鏡」に行き着くように、地下へ続く階段と暗黒の幽界は密接に結び付いている。宇能鴻一郎さんの初期短編にも、地下の全面総鏡張りのバーを舞台にした不可思議な物語(題名失念)があったはずで、鏡は作家に心地よい幻覚作用や甘美な死への誘いを惹起する危険な魔力を秘めているようだ。
本編でドッペルベンガーを生む起因となった部屋(二階のアパート・京子の勉強部屋兼寝室・作家の書斎)の片隅に、目立たない形で小さな鏡が掛けられているような気がするのは私だけだろうか。

『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎著) 幻冬舎文庫

約半年ぶりの書評である。(厳密には、過去の書評に付記として所々に追録しているので、決して長いブランクではないのだが・・・)どうも怠け癖が顔を見せ始めたようだ。
ここ数ヶ月に渡って読んだ本の傾向は、驚くほど似通っている。
列記してみると、権藤晋高野慎三〉著『ねじ式夜話』(喇嘛舎)、『ガロを築いた人々』(ほるぷ出版)、『つげ義春1968』(ちくま文庫)、梶井純著『トキワ荘の時代』(筑摩書房)、すがやみつる著『仮面ライダー青春譜』(ポット出版)、坪内祐三著『三茶日記』『本日記』(本の雑誌社)『酒日誌』(マガジンハウス)そして本書だ。
小説は一冊もなく、マンガ史と日常の出来事が綴られた実話で固められている。偶然そうなったのか、意識の底で巧妙な操作が成されたのかは自分でもよく判らない。
この中では、高野さんとすがやさんの本の読後感が非常に酷似していた。二人とも、一旦決めたことは、どんな障害があっても乗り越えていく強い意思を持っている。何故それらの本を書評の対象にしなかったのかというと、筆捌きがやけに理路整然として、優等生的で全く破綻がなく、完璧過ぎて口の挟み所がないといった贅沢な理由があげられる。高野さんは社会人になる前の経歴は不明だが、新聞社を辞めて小さな出版社の青林堂に入社するあたり、お金よりも自分の好きな道を突き進むといった頑強な信念は、聖人君子の如く眩いほど純粋なまでに澄み切っているにも関わらず、不思議と人間味を感じさせない。すがやさんの生い立ちも、貧しい家に生まれ落ちてから、マンガ家のアシスタントに至るまでの苦難の連続は、涙ぐましい波乱万丈の出世物語といっていいくらい掛け値なしに心を揺さぶられるのに言い知れぬ不満が残る。原因は何なのか。すがやさんの場合は、『仮面ライダー青春譜』で引っかかったある部分に隠されていた。師匠の石ノ森章太郎さんが、独立して確固たる地位を築いたすがやさんに、後年投げかけた言葉の中にある。長いが引いてみたい。
「いやあ、ホントのことを言うと、お前の好き勝手なことをする生き方がうらやましくてな。マンガ家も、所帯が大きくなればなるほど、売れる作品づくりが優先されるから、好きなこともできなくなるじゃないか。お前は、でかくなりかけた事務所も畳んで、ひとりでできる仕事に切り替えてただろう。所帯を小さくするには勇気が要るだろうが、お前は、さっさと古い店を畳んで、新しい店を出すじゃないか。そんなところを、ちょっとまぶしい思いで見ていたところもあるんだ。おれも、ときどき、ひとりになれたらなあ・・・・・・なんて思うことも多くなってな・・・・・・」(P326)
小説家や映画監督になりたかった石ノ森さんの素直な心情に満ち溢れた言動だが、小説や実用書の執筆、果ては大学での非常勤の講師まで勤めているすがやさんには、自分が石ノ森さんを少なからず超えたのだという自負が、この言葉を本の中に挟ませた遠因になっているとは思ってもみなかったのだろうが、裏に秘められた満足感(至福感)のようなものがどうしても見え隠れする気がしてしょうがなかった。石ノ森さんを含め、沢山の人に愛されたすがやさんの中では、あるいは無意識的なものだったのかもしれないが、天邪鬼な私は文面の狭間から目に見えない歪んだ心根を掬い上げてしまう。高野さんもすがやさん同様、深く関わったマンガ家達の死を振り返る際のあっけないほど冷静な一文(批評家としての厳しい視点)から非情な一面が覗く。良く言えば沈着冷静とも言えるが、追悼文にしてはあまりにも慈愛の念がないように思われた。感情の起伏が激しい欠陥人間の私の理解の範疇を超えている。人間味の希薄さは、ここに根ざしていたのか。
その点、梶井さんの『トキワ荘の時代』には、自分史と寺田ヒロオさんの半生を意識的に並行させ、成功と同じくらいの比重で失敗と挫折を浮き彫りにしている部分は、著者の感受性の豊かさが察知出来る。(『別冊新評 石井隆の世界』S53 に掲載された亀和田武さんの『淫花地獄』にみる性理解と倫理』という論争剥き出しの記事で、『ガロ』系評論家として権藤晋さん・山根貞男さん・梶井純さんの三人を引き合いに出して「<理論闘争>などという形をとってしまう作家論には、何か欠落していくものがあるのではないか、いう思いが常にある。」(P91)と批判しているのも関わらず、「おまえらの中では、最もナイーブな感覚を持っている梶井純が、劇画状況衰退の一因を“絵解き技術”のひたすらな高度化に求めていて、その見解に俺はある部分賛成してもいいと思っている」(P51)とまで言わせている。この当時、熱い血潮が全身に漲っていた亀和田さんを、一瞬でも落ち着かせる感性を梶井さんが持っていた証拠がここにある。)
トキワ荘の時代』中で、石ノ森さんの寺田さんへの思いが語られた言葉が引かれている。「今度、往時の多作傑作群が単行本として再刊されるという。あわせて、大変嬉しいことである。と、同時にその間、時の流れに乗って描き続け・・・・・・流れを変えることに出来なかった自分を思い― 寺さんの生き方を思い、恥ずかしいのである。」(P191)この発言に対して、梶井さんはこう分析を加える。「石ノ森の心のなかには、仕事に追いまくられることと引き換えに獲得した現在のポジションが、マンガ家として望むべきものとはちがうという自覚がある。いわば若描きを、こういう素直な慙愧の念とともに回顧できることもまた、才能にはちがいない。」(P192)以下も寺田さんの注意を素直に聞く石ノ森さんの姿勢に、石ノ森さんの意志的な生き方をきびしく規制した寺田さんの自省力の強さを指摘し、最終的には寺田さんという存在への畏敬をだれよりも強く実感していたのではないかと締め括る。まさに言い得て然り。石ノ森さんの悔恨の情は、すがやさんに投げかけられる前に、遠い昔から少しずつ重石のように蓄積されていったものなのだ。
まだまだ、この本には藤子不二雄Aさん(安孫子さん)の人間を捉える深い洞察力など、触れたい部分は沢山あるのだが、如何せん寺田さんの底抜けに明るいマンガに、どうしても溶け込めなかった捻くれ者の私が、これ以上感想を書き記すことは失礼かと思うので差し控えたい。ただ、トキワ荘の貴重な裏面史として、抜きん出た傑作であるとのみ言っておきたい。
いつも以上の長々とした前振りとなったが、本題に入ろう。えっ!坪内祐三さんの日記に関してまだ触れていないって。その通り、意識してあえて伏せたのです。文章の端々から立ち上る独特の悪臭(褒め言葉です)を本書と同様に放っているので、感想を記しながら折々で坪内本に触れたかったからだ。
冒頭の“はじめに”で倉阪さんが触れているが、本書は十一年間の会社(某印刷会社の校正者)勤めの間に起きた、極めて奇異な出来事の数々で埋め尽くされている。『幻想卵』という同人誌に「業界の極北で」という題で連載された時から、一部では大きな反響を呼んでいたらしい。確かに面白いエピソードが満載なのだが、一々取り上げているときりがないので、共感を覚えた部分を抜粋して、逸話の裏側の隠された真相を探り、倉阪さんの実像に少しでも迫ってみたい。
まずは、P18の「耐えがたいこと」から。
倉阪さんは漏らす。「「運動」「活動」と名のつくものはすべて耐えがたい。まずはQC活動と・・・」といった具合だ。挙句、上司に「僕はQCの考え方が嫌いですから!」とか「ほかに勉強することがありますから」とかといった切れる寸前の言葉を立て続けに吐く。実をいうと、私は前に勤めていた会社で、何度もQC担当者とぶつかり、そのたびに煮え湯を飲まされてきた。相手の決めゼリフはいつも同じだ。「こうあるべき!こうするべき!」倉阪さんじゃないが、「そのようなべき論だけで仕事が進めば、こっちは苦労しないんだよ!」と面と向かって何度罵倒したかったことか。それでも忍耐強い私は、QC担当者が匙を投げた案件を、懇切丁寧に再解析して問題を解決させたことがある。その後のQC担当者の言い分がいい。「××君、QCの仕事に適しているんじゃないの」だって。ぶざけるのもいい加減にしてもらいたい!お前がやらないからしょうがなくやったんだよ!
話が私的になって思わぬ方向に飛んでしまったが、QCの仕事に携わっている人には悪いが、個人個人がしっかりと自己管理していれば、QCなんて必要ないというのが私の自論だ。(ただ、それが難しいのだが)
また少し話が逸れるが、倉阪さんが過去の記述を読み返した後、新に追加した注(注釈)に目が止まった。P30の「くたばれクレジットカード」や「俺ァ年金なんていらないんだよね」で挟まれる“彼は昔の彼ならず”というフレーズは特にきいている。カードや年金の積み立てに関して不要論を唱えていた過去の自分に向って、素っ気無いほど無造作に投げかけられる一言が実に重い。
このような注は、坪内祐三さんの日記にもたびたび現れる。(わざわざ注の為に、下段の枠が取られているのだ〜このセンスが素晴らしい。目黒考二さんのアイデアか。)三茶日記P26の「どうしても知りたい人には教えてあげるよ。こっそりと。」とか自身に問いかけるP104のようなフレーズもある。「何があったのだろうツボちゃん。」倉阪さん、坪内さんの人情味溢れる本音だけに、やけに心に響いてくる。
P48の「私の歌手修業」では、倉阪さんの懐メロおたくぶりが垣間見れて楽しい。
駅の構内で、岡春夫の「港シャンソン」(何だこの歌は)を気持ちよく口ずさんでいたら、後ろから上司に呼び掛けられる。この瞬間倉阪さんは突如妖怪へと変貌し、「見たなァ」という心の叫びを木霊させる。怪奇作家として、面目躍如の場面である。ただ、その後が更に可笑しい。上司と別れると駅のホームでまた、「上海の花売娘」(この歌は知っている)を歌い出す。懲りない奴だね。倉阪さんは。密かな趣味のひとときを邪魔する奴は、犬にでも食われろといったところか。
次は、P53の「私は犯人じゃない」だ。
社内での連続放火未遂事件に関しての話だが、この当時倉阪さん自身が、社内のブラックリスト(放火犯)に載ったようなのだ。ふだんはおとなしいのに、ときどき怒り出す。神経科にかかっていた過去がある。など疑われる要素が沢山あるからだ。発覚していない過去の小さな器物破損事件にまで思い起こし、被害妄想に耽るあたりは深刻だ。果ては「号外の犯人は俺だぞと、人ごみの中で怒鳴ってみたい」とか「うう、僕がやりました」と自白しそうで不安だとまでいう始末。実は私にも若い頃“ふだんはおとなしいのに、ときどき怒り出す”傾向があり(今は怒る気力もないし、その分覇気もない)その上、時々無性に叫ぶたくなることが何度もあった。私も情緒不安定の危ない奴かも。
P56(無題)では、一転哲学的な言葉に思いを馳せる。(この人は分裂症か)
山本夏彦の一言「社会という言葉はたかだか百年の歴史しかないから違和感がある。浮世、世間、世の中なら腑に落ちる。」とか、江国滋の一言「二十一世紀までいく延びて前世紀の遺物と呼ばれたい」に賛同する姿勢を省みて、俺は単なるじいさんではないかと嘆きながらも、「私は早く七十の偏屈じいさんになりたいのだ。」と結ぶあたりの枯れ加減は、何とも素晴らしい。私も歪んだ意識でしかものを捉えられない悲しい性を背負って生きているが、倉阪さんを見習って、偏屈のまま年を取ろうと思う。
P78の「社内食堂にて」も頷ける光景だ。
倉阪さんは、自らを変わりものと称して、一品料理だけの食事をする。「冷や奴二皿、野菜コロッケ、ひじきの煮つけ、マカロニサラダ」を食べていると、上司がふと訊ねたらしい。「暗阪君(上司から呼ばれる時は何故か倉阪でなく、暗阪なのかが不思議だ)、それの主食は何なの?」倉阪さんは答える。「豆腐です」確かに、ご飯や麺類でなく豆腐が主食なのはおかしいが、私はここでふと既視感に襲われた。前に勤めていた会社で、隣の仕事机で風変わりな若者が黙々と食事をとっていた。それを見た上司が一言。「マカロニサラダだけでよくもつね」彼曰く、「マカロニも麺類の一種ですから」これって、倉阪さんよりももっとおかしくないか。
P87の「天皇暗殺計画」は、やはり面白い。
これは万人が認めるくらい愉快な話なので、さらっと流すが、バラすは印刷関連独特の業界用語のようにも思えるが、日本語で何か物を壊すことをすぐにバラすという殺人用語で表現するのは何故なのだろう。物をバラす(分解したり壊したり)ことで日頃のストレスを発散しているのか。じっくり考えると恐ろしい。
P98の「奇人と廃人の間」は、巧妙な図の解説に妙な説得力がある。
奇人と常人(更に、常人の真中で横に点線を引き、明暗の矢印を上下させる)と廃人を設定して、山の山頂(奇人)と麓(廃人)に例える。常人の真ん中を目指して己れをザイルで引き上げる方法には、どうしても無理があるので、麓の少し上の変人の位置に自分を安住(設定)させるのはよく判る。その位置が崩れるのが、懐メロ歌謡のカラオケなのが何とも可笑しい。この図をよく掌握してから、自分の位置(立場)を確かめて生きていくと、変人には変人の人生があることが次第に自覚されるようになってくる。
P141「極私的六曜暗唱法」は、P56同様、倉阪さんの天才気質が顔を覗かせる。
QCの提案制度(前の会社でもあったが、全く提出しなかった)の絡む一件。カレンダーの六曜(仏滅・大安・・・)、つまり今度の何日は、六曜の中で何にあたるのか(先勝か友引か)を独自の記憶法で覚えるというものだ。「仏陀・釈迦・山師」の漢字を当てて記憶するのだが、最後の用語を、小説「山師トマ」から取っているのが渋い。会社で賞を取ったことよりも、山師という用語を思い付いたことに対して拍手を送りたい。(本作が映画になっていたのは知っていたが、ジャン・コクトーの小説が原作になっていたとは思ってもみなかった。しかも、映画ではコクトーが脚本で参加し、監督が『顔のない眼』のジョルジュ・フランジュだったのには更に吃驚した。監督はロベール・ブレッソンだと思いこんでいたからだ。どうも、『ブーローニュの森の貴婦人たち』と『田舎司祭の日記』あたりが重なって、妙な勘違いをしていたようだ。〈題名が全く違うのに不思議だ〉いい勉強になった。)
P221「凍る現場」は、多少の狂気が孕んでいて怖い。
ここに書かれた意味不明の絵は、一体何なのか。頭の調子が悪くなって書いた絵は、倉阪さん自身も常人のものとは思えないと言っているくらい酷いものだが、顔のような絵の下に書かれた三の文字に見える五つの数字は何を意味するのか。そして上を指す長い矢印は何。意味不明なだけに無理にでも意味付けをしたくなってくる。そんな私も変な奴か。
P239「呪われた詩人」では、P141の発想力とは違った倉阪さんの文学的な天才肌を伺い知ることが出来る。
倉阪さんは短歌・俳句・詩・小説、全てに精通している博識家だが、ここに記された詩人達の名前もさることながら、澁澤龍彦さんが敬愛した日夏耿之介の『転身の頌』と『黒衣聖母』の序文を引き、天才と狂気が紙一重であることを立証してみせる。日夏耿之介を熟読していくうちに、次第に耿之介の苦悩(天才ゆえに凡人からは理解されない〜“頭脳の間に流す汗”が直接生活の保証に繋がらないことへの歯痒さを唱える)が、倉阪さんに次第に乗り移っていく様が楽しい。
ざっと特徴的なもの寄りだしてみたが、倉阪さんが会社ではなく、世間の中で位置付けられている居場所は、P98の「奇人と廃人の間」に准えていえば、やはり「天才と狂人の間」ということになるだろうか。天才なるがゆえの苦悶、凡人に合わせることの苦痛、それは図りしれないものがあったのではないか。凡人からすれば、何でこんなことで怒るの?といった事柄が、天才には無性に腹が立つという場合がある。終盤近く、倉阪さんが何度も上司にブチ切れるところを、この流れの中であえて取り上げなかったのは、ブチ切れ方が日記の中での坪内さんとあまりにもよく似ていたので比較してみたくなったからだ。
坪内さんには悪いが、ここで少し登場してもらおう。
『酒日誌』P70の品川駅の飲食コーナーでの話だ。坪内さんは晶文社の知人二名と飲食店に入る。少し狭いスペースだけれど、コーヒーだけだから他からイスを持って来て座っていいかと晶文社の人が店員に尋ねると、「テーブルに食事が乗り切りません。」という愛想の無い答えが返ってくる。ここでまず坪内さん少しむっとくるが、じっと我慢。そこで席を移動しようと思い、立って待っていると、店員は「そこに立っていられると他のお客さんの迷惑になるんですけど」と再び文句を言う。ランチタイムにコーヒー一杯で居座る客は邪魔だということかと、坪内さんは即座に推察。ここで坪内さんがブチ切れ、帰り際に捨て台詞を吐く。「バカヤロー、こんな店、二度と来ねえよ」
この一旦我慢しているところに、追い討ちを掛けるように怒りを煽る波状攻撃は、倉阪さんのP207の二穴パンチのロッカー投げ込み事件とよく似ていないか。過激な一言「俺は切れているんだよ!」が社内に鳴り響く。この何度かの我慢は、次の校正確認の件(P212)でもいかんなく発揮される。「一人校正しただけで果たして信用できるかなと思うんですよ。」と営業担当は言う。それを繰り返し口にしたため、三度目に倉阪さんは再び切れるのである。「なんだあの営業、口のきき方を知らないのか」
片や坪内さんだが、『酒日誌』P75の東京ドームでのガードマンとの口論なども笑えるが、『本日記』でP182の坪内・野口悠紀雄論争の最中に放たれた小坂橋二郎さんの以下の言葉に鋭く反応する、喧嘩っぱやい部分がとても好きだ。「この坪内というライターが、論争を挑むに足る相手かどうか、はたからみても少々むなしい気がしないでもない」と言い、坪内さんの文章を「悪文」(私も坪内さん同様、褒め言葉だと取りたい。今の評論家にはあまりにも毒が無さすぎる)と言ったらしい。この言葉を忘れずにいた坪内さんは、ちくま文庫から出ている小坂橋二郎の新刊を読んで、皮肉も交えて「名文で書かれたなかなかの名著だった」という。おそらく本音だろうが、小坂橋さんの文章の質が少しでも低下したら、すぐに突っ込んできそうな気がする。坪内さんは執念深そうだから・・・(実をいうと、私も相手から受けた仕打ちをいつまでも忘れない陰険な奴です)
またまた、本題から外れてしまったが、退職間際に倉阪さんがブチ切れた瞬間は、過去二回と違った様相を呈す。幾度も我慢してから暴言へ吐くといういつもの展開ではなく、校正紙の上にあったメモに不満を爆発させてしまったのだ。この流れが後々大問題を引き起こし、究極の捨て台詞「辞めてやるよ!」に繋がっていく。不満を言葉ではなく文字で発散させるという大人の対応へと進化させたことが、仇となって返って来たわけだ。世の中とは本当に不合理なものである。
以前いた会社で現場の製造担当でやたらと突然切れる奴がいた。いい年なのに今も巷で氾濫している切れる若者とそっくりなのだ。ただ、困るのは坪内さんや倉阪さんのように、我慢した果てに爆発する怒りではなく、こちらの一言に過剰に反応して瞬間でブチ切れ、椅子を蹴るわ、机を引っ繰り返すわの大立ち回り、騒ぎが収まるまで全く手が付けられない。終わると嘘のように大人しくなるので返って始末に悪い。そんな連中から見れば、坪内さん、倉阪さんの理由ある怒りはある意味清々しく、こちらも納得が出来るので共感を覚えるくらいだ。
倉阪さんは、最後のあとがきで、物書きという存在の非日常性を説いてみせ、もはや普通の社会(会社)に戻れない自分が、今更日記を書いても面白いものは書けないと締め括る。長いが引用してみよう。
「さて、物書きという存在は、民族学的に言えばマレビトである。マレビトとは共同体を活性化させるために外部からやってくる異人で、祭りのなまはげや鬼などを想像していただくといい。小説中心の物書きとなった現在では、なおさら生活の記録めいたものには食指が動かなくなった。普通の社会で鬼が暮らしていたからこそ異様な緊張感が生まれたのであって、鬼の社会を書いても面白くもなんともないだろう」と自己分析している。
鋭い指摘かとも思うが、半分合っていて、半分は間違っているような気がする。小説家という異人であれば、誰もがこのような日記を綴れたとは思えない。異人の中でも天才的な感性と知性を備えていなければ、このような特異な日記は生まれなかったということだ。倉阪さんのような突出した異人(奇人)が、今後普通の社会を特別な目で観察することはもう二度とないのではないか。
現実不適応者を自認する怪奇作家が、ほんの僅かな間だけ一般社会を覗き見た(経験した)ことが、この奇妙な余韻を残す怪作を生み出す要因になったのだろう。

≪付記1≫
坪内祐三さんの『三茶日記』P100で、本書のことが触れられている。「夜、仕事を中断して読み始めたら止らない。でも、締め切りを遅らせるわけでは行かないので、百頁ほど読んだところで我慢。この本の面白さを、例えば亀和田さん(この感覚よく判ります)や中野翠さんに伝えたい。」とある。類は友を呼ぶというが、これを心底面白いと感じるか、単に奇妙な話だと感じるかで同類かどうかが判断出来る。
つまり、坪内さん、亀和田さん、中野さんの本を愛好する人には、必読の書だということだ。

≪付記2≫
本編読了後、浅羽通明さんの解説「会社に落ちてきた男―謫仙クラサカの遍歴時代」を読む。
単行本時の解説題名「謫仙滑稽譚―会社「世間」をめぐる冒険」を何故改変したのかは判らないが、文庫のほうが意味深だ。(ただ、全体的に回りくどくて読み難い文章で、好みの文体とはいえない)特に・・・に落ちてきた男のフレーズは、ニコラス・ローグ監督・デイヴィッド・ボウイ主演の映画『地上に落ちてきた男』からの借用だと思われるが、それに纏わる解説文中の以下の一節が気に掛かった。少し引きたい。
「謫仙 倉阪鬼一郎は、単なる会社「世間」を傍観する滞在客、アウトサイダーにはとどまらない。彼自身をもその集団的一体性の中にからめとらんと、たくみに誘惑の触手を伸ばしてくる会社「世間」を相手に倉阪が繰り広げる、かっこよくかつコミカルな終わりなき防衛戦のダイナミズムが、本書をして(以下略)」(P266)
この部分を元に、浅羽さんが表題を考えたことはほぼ推測がつくのだが、世間を傍観するだけでなく、自ら世間に舞い降りてみる謫仙倉阪さんの姿が、諸星大二郎著『無面目』(『無面目・太公望伝』所収)の主人公の神仙と重なってしょうがなかった。この物語は、二人の神仙が無面目から話を聞くために、目・鼻・口・耳を顔に書き加えたことから始まる。冒頭、自らの意思で地上に身を置いた神(本名は混沌)が見た人間界の不可思議さに触れられているが、次第に自身が周りの汚れた環境におかされていく様が色濃くなる。神仙をも取り込んでしまう世間の強烈な毒は、倉阪さんには会社という枠組みの中では浸透しなかったようだが、幸せな家庭(奥さんと娘と猫)では次第に侵食しているように思えるのだ。
最近お気に入りブログに追加した「倉阪鬼一郎の怪しい世界」では、その倉阪さんの普通ぶりが窺える。確かに、囲碁・将棋や昭和歌謡への興味に変化はない(対局を見る視点は尋常ではなく、身体に良いということで始めたのであろう走ることへの情熱も通常の域を脱している。食へのこだわりも凄まじい。)ようだが、視線の暖かさは独身時代にはなかったものだ。
家庭を持った現在の環境を堕落とまでは言わないが、『無面目』の神仙のように、誰もが踏み越えることの出来ない特異な思索の領域が、徐々に狭まっているような気がしてならない。混沌がいみじくも漏らした「目を見ずとも天地のことは五行の動きを通じてわかる。へたに目でみようとする者こそ、物事の本質を見誤るのだ。」の言葉が引き受けて、最後に亡くなった混沌を見つけて、老神仙が感慨深げに呟いた一言「内部の深い冥想こそが混沌の本質じゃった。わしらはその混沌に目鼻をつけることによって、その本質を殺してしまったのじゃ。混沌は顔を持ったときに、すでに死んでいたのじゃ・・・・・・。」に何か示唆めいたものを感じる。
倉阪さんにとっての家庭という存在が、神仙が顔を持った状態と同様のものでないことを祈るばかりだ。

≪付記3≫
倉阪さんの書評集『夢の断片・悪夢の破片』に目を通してから、草森紳一著『オフィス・ゲーム』の窓に纏わる感想を、HP”その先は永代橋“5/26付のコメント欄に記したのだが、批評の中で他にも気になる箇所があった。以下の一節である。
源氏鶏太が晩年怪奇作家に転向した謎に対する解答は、おそらく本書(『オフィス・ゲーム』のこと)に潜んでいよう。明るかるべきオフィスに不意に現れる仄暗い影は、あるいはサラリーマンという名の現代の佯狂たちの“怨”の集積かもしれないのだ。」(“その先は永代橋”でも一部引用 P301)
オフィスに屯する怨霊が、明るいユーモア小説ばかり書いていた源氏さんの背後に忍び寄り、強引に邪悪な筆を執らせたかのような錯覚を呼び起こさせるような文面だ。この思わせぶりな言動に気をとめながら、関連するHPを検索していると、何と本書(『活字狂想曲』)でも源氏さんの怪談小説に触れていることが判った。あわてて本文を読み返してみると、以下の一文が目に入る。会社内で起こった偶然の死亡事故に思いを馳せ、会社の裏側に潜む真の怖さ(不気味さ)について記した後の一言だ。
「さて、源氏鶏太といえばサラリーマン小説の大家だが、後年好んで凡庸な怪談を書くようになり、読者の首を傾げさせた。なんとなく、気持ちがわかるような気がする。」(P180)“真夜中の墜死”より
この”凡庸な怪談”という言葉から、さして重要な箇所でないと思い込んでしまったようだが果たしてそうか。本当に凡庸な小説であれば、倉阪さんが二度に渡って取り上げるとは思えない。そんな複雑な感情を抱きつつ、初期の代表的な怪談集を収めた『死神になった男』(角川文庫)を読んだ。
結果を記せば、全体としては倉阪さんが指摘した通り、凡庸な怪談という言葉に尽きるのだろう。サラリーマンを主人公にしたユーモア小説に、幽霊や鬼や妖怪などを無理に結びつけた『東京の幽霊』『鬼の昇天』の何ともいえない後味の悪さは如何ともしがたく、怨念を孕ませた『死神になった男』『妖怪変化』もシリアスな部分が前面に出ている分、安手の作り話と言わざるを得ない。そんな中、怪談物の第一作『幽霊になった男』『自分の葬式を見に来た幽霊』『口ひげをはやした息子』『二号の恩返し』の心温まる交流風景は、源氏さん独特のもので、他の作家には真似出来ないものだ。
作者はユーモアと怪談という水と油の融合に、自身の新境地の開拓と今まで手掛けられなかった汚い欲望が渦巻く人間世界の表出のための重要な糸口を見出そうとしていたのではないか。ただ、この本を読む限りでは、ユーモアと怪談の結び付きは、お世辞にも成功しているとは言い難い。以後の茨の道を見越して、倉阪さんは“凡庸な怪談”と称したのではなかったのか。
怪談を手掛ける上での作者の熱い意気込みが、『死神になった男』の解説で紹介されているのだが、その内容が何とも暗示的だ。
「ユウモアを捨てた小説が私の場合、たいていつまらなくなっていることは先にも書いた。そういうことから私は、善意のユウモアでなしに、悪意のユウモアに移ろうと考えた。いい直せば、ドロドロとしたブラック・ユウモアである。そこにこそ人間社会の真実があるように思われて来た。」(P222)
奇怪な出来事が頻出する怪奇譚が、どれくらいの確率で心地よいブラック・ユーモアとして結実しているのだろうか。もう少し源氏さんの紡ぎ出す暗鬱な物語と付き合ってみるつもりだ。

≪付記4≫
一旦夢中になると、興味の対象が常に頭に浮かび、消し去ることが出来ないのが私の欠点だ。
倉阪鬼一郎さんへのこだわりが、著作群への探索を自ずと促す。Wikipediaで大まかな全体像は把握出来るのだが、何かが足りないような気がして調べていたところ、“倉阪鬼一郎 著訳書リスト”という資料に出合った。倉阪さんの初期作品は、このリストからほぼ掴むことが出来る。特に特筆すべき点は、[その他の著訳書]と題された共著の項目である。おそらく、『地底の鰐、天上の蛇』『日蝕の鷹、月蝕の蛇』『怪奇十三夜』(全て幻想文学出版局)といった本を出した直後で、時間的余裕があった時期に、アルバイト感覚で渋々引き受けた仕事のように推測される。『江川卓よ!』(大陸書房 守屋等名義)などは、いくら野球好きだからといっても好んで応じた仕事とはとても思えない。
そんな系列の他愛も無い本と信じ込んでいたのが、『珍作ビデオのたのしみ』(カルトビデオ冒険団著・青弓社)である。ただ、著訳書リストの書名横に“B級以下のホラービデオ評”と追記されているのではないか。怪奇作家がホラー映画について語っているとなれば、食指が動くのは如何ともしがたいところだ。
早速、本書を購入し目を通してみる。予感は的中した。とてもやっつけ仕事だとは思えないほど、倉阪さん自身が心の底から楽しんでやっているのが判る。最初は、ホラーでもC級の中以下、倉阪さん流に言えばそれこそクズのような映画を任されて、「何で俺がこんなクズ映画を担当しなければならないんだ!」とでも言いながら、何度もブチ切れて感想を記しているのかと思っていたら、さにあらず自分から率先して引き受けていた節が見て取れるのだ。イタリア映画『ビヨンド』(カルトホラーとして伝説化している)の一文から窺える。
「本作を入れるかどうかについて正直迷った。いかんせん知名度が高すぎるし、出来も良すぎる。なんでこんなことで悩まねばならんのかと思いつつも懊悩した。だがやはり、“怪作”という部分にこだわれば、この血まみれの金字塔を逸するわけにはいかない。文句のある物は申し出よ。」P129
締めの居直りにも似た叫びが何とも可笑しいが、冒頭の著者の苦悩ぶりで、B〜C級の上クラスの映画を敢えて省いている自分なりの頑な意思を見て取ることが出来る。常日頃から、クズ映画に深い愛着がなければ生まれない厳しい自己規制と言い換えてもいい。
そんな倉阪さんの絶え間ない歪んだ愛情が数々の名言を生み出す。題名は省略するが、言葉の断片から、映画に注ぐ限りない慈しみの視線(出鱈目な表現をも許してしまう)が感じられるのだ。
「だいたいスプラッターというもの、婦女子は襲われる側に身を置いてキャーキャーいっておるが、加害者の立場に立てばこんなに気色の良いものはない。」「ドブ川から百円玉をすくとるようにクズ映画からバクハツシーンを発掘する―それがC級マニアの陰気な楽しみなのだ。」「『血の魔術師』ならともかく、『2000年の狂人』を代表作にするような批評家などは犬に喰われるがよい。」(この文章では、本文〈『活字狂想曲』書評〉で犬に食われろと・・・記したところと言い回しが重なっていることに気づく。何という偶然。H・G・ルイス監督作品では、『血の魔術師』を代表作と思い込んでいた私は批評家ではないが、犬に喰われないですむということか。)「八十年代スプラッター・ムービーの頂点を極めた必見の病気作である。」「蛇蛇蛇蛇蛇蛇・・・・の文字を乱打させ、蛇がまとわりつくイメージを植え付けさせる」(他のHPでこの文に触れていた方がいた。流石!)
この一節を目にするだけでも、並の感覚の持ち主でないことが十分判ると思うが、計り知れないほど凄まじいクズ映画への異常な没入(偏愛)ぶりは、周りの人達にも自然に伝わる。カルトビデオ冒険団(全員で五名)の執筆者の一人伊藤勝男さんが、倉阪さんのコメントを読んだ後に発した一言に、全てが集約されている。
「倉阪君が書く、愚作は愚作としての価値観があるにしろ、声を大にして奨める訳にもいくまいと思うのだが・・・・・・。」
最後に、本書(『珍作ビデオのたのしみ』)で、倉阪さんが犯した小さなミスを指摘しておきたい。『マンハッタンベイビー』の監督ルチオ・フルチの非ホラー作品は、『続・荒野の用心棒』ではなく、『真昼の用心棒』である。(P130)博学な倉阪さんにしては、考えられない単純なミスだ。倉阪さんの人間らしさを思わぬところでみた。
蛇足だが、この本で紹介されているケビン・コナー監督『地獄のモーテル』(担当はむろん倉阪さん)を初見したが、案の定目も当てられないような惨憺たる代物だった。ただ、本作が藤子不二雄A著の『魔太郎がくる』の挿話うらみの七十九番「ボクはごちそうじゃない」や短編「北京填鴨式」(『ブラックユーモア短編集 第二巻 ぶきみな五週間』所収)を生むきっかけになったことにほぼ間違いなく、他人をも巻き込む強い影響力という部分では感心する。藤子さんも以外とC級ホラー好きなのかも知れない。(お気に入りブログに載せている「最低映画館」では、ふと見過ごしてしまうような丸秘話が記されており、それが映画を見る際の貴重な面白情報となっている。一読の価値あり。)

『吐夢がゆく』(編者 吐夢地蔵有志会出版実行委員会) 吐夢地蔵有志会

この本との出合いもまた草森紳一さんが作ってくれた。直接の要因は、前回取り上げた『彷書月刊』の諸星大二郎特集号と同様、崩れた本の山の中から(草森紳一蔵書整理プロジェクト)というブログに掲載されていた2009/1/8付の「巨匠放浪」と題した文章による。執筆者であるLiving Yellowさんは語る。「草森紳一、氏の御蔵書の中に二冊もあった、内田吐夢氏の自伝とも呼ぶべき『映画監督五十年』(三一書房、1968年初版)の頁をめくると。氏の作品も人生も。幅が広い、どころではなかったようである。」
この日記は、Living Yellowさんの吐夢監督へのオマージュや日本映画への熱い思いが、全編を通して伝わってくる感動的な文で埋められているが、どうしても気にかかるのは“草森紳一、氏の御蔵書の中に二冊もあった”という事実である。愛蔵家ではなく、蔵書家であった草森さんが、意識して同じ本を二冊も購入するとはどうしても考えがたい。未読状態となっていたが、興味の対象として常に並々ならぬものを感じており、持参していたことを忘れてまた購入したのではないかと思えるのだ。それは監督内田吐夢というよりも、人間内田吐夢への尽きせぬ探究心が導いた微笑ましい失策と言い換えてもいい。
草森さんが大学を卒業して、映画会社への就職を希望したのは有名な話だ。それも東映を希望して、最終審査の面接まで進み、社長の大川博と大喧嘩をして不合格になる。(詳細は、HP「その先は永代橋」2010/10/20付の記事を参照してほしい)特に就職先に東映を選んだのは、その当時内田吐夢が在籍していたからではないだろうか。吐夢映画を貫く個々人の熱気(全ての登場人物が、妥協せずにいつも必死に前を見据えている)に陶酔し、スタッフとして一度は付いてみたかったとは考えられないか。出版社へ就職しても、草森さんの映画への情熱は色褪せることはなかったような気がする。
あらぬ方向に話が飛躍してしまったので元に戻す。『映画監督五十年』ではなく、本書を取り上げたのは、偶然の成せる技だ。『映画監督五十年』を購入すべくネットを検索していたら、ふとこの本に目が止まった。自伝は最後の最後に読めばいい。内田吐夢の人となりや仕事ぶりを覗くのが、先決ではないかと思い至った。
そんな中、偶然吐夢監督の五部作『宮本武蔵』を、見直す機会を得た。若い頃に見た印象とは、大きく変化しており、興味を抱く箇所が全く違っていた。(このあたりの事情は、『彷書月刊』の草森紳一特集号の付記として新たに追加しているので、確認していただければ幸いだ。五部作中、最も緩慢な展開と言われた『二刀流開眼』に心惹かれたのは皮肉な話だが、現在の私の興味は惨たらしい殺戮でなく、些細な心の機微、この映画で言えば最後に武蔵が呟く「名門の子、やる相手ではなかった」という言葉の奥に潜む、相手の気持ちまでも見通してしまう、確かな心眼にこそ注がれている。)吐夢映画とは見る年齢によって進化し、変貌を遂げていくものなのかも知れない。
他の映画を見てから挑もうかとも思ったが、何故か本書の面白さが半減するような気がしたので、あえて目にしなかった。この考えは見事に的中する。戦前・戦後の名作をあえて見ないで臨んだことで、普段は隠れてしまっている制作現場に流れる濃密な空気を感じながら、昔の活気ある撮影情景を自由自在に想像する楽しみが生まれたのだ。一気呵成に走りきった映画人の生々しい現実を、改めて追体験出来る醍醐味がここにはある。
では本題に移ろう。
内田吐夢に縁のある、総勢六十六人による随筆を主に纏められた一冊。この当時、毎年のように行なわれていた吐夢を偲ぶ会「吐夢地蔵紅葉まつり」のメンバーが中心になり、有志の寄金を募って纏められた労作である。関わりのあるメンバーといっても幅広く、俳優やスタッフが中心だが、史学者まで含まれており、吐夢さん(以降、さん付けで統一)の多彩な人脈を物語る。人数が多いので、全員の文章に対して感想を記すわけにはいかない。気になった記述のみ、順不同で取り上げさせていただく。
まずは、渡辺達人さん(当時企画部長)の「思い出すままに」という文章だ。『宮本武蔵・完結篇(巌流島の決斗)』の脚本が出来た後に襲った予算問題である。当時の所長岡田茂さんが来訪して、「三千万削らねば採算に合わない」というのだ。吐夢さんは当然簡単には受け入れない。折り合わないまま解散となり、当然のように自棄酒となる。ここまではよくある話だが、その後睡眠を取るために二階に上がった吐夢さんの寝床の中から聞こえる怒声の凄まじさは、尋常ではない。やり場のない憤りが、吐夢さんの身うちを貫いて大声を上げさせるのだ。現場を統率する映画人の苦悩とはいかばかりか。
最終的には一千万を削って決着が付くのだが、予算の削減は完結篇の不自然なまでに長い冒頭のあらすじ紹介に繋がっていったのではないか。尺数をかせぐために、緊張感のない場面を撮るのであれば、かえって撮らないほうがいいと、吐夢さんは判断したような気がしてならない。ここに目に見えない吐夢さんの意地をみた。
脚本家植草圭之助さんの「チャランケの丘」は、『森と湖のまつり』というアイヌの民族問題を扱った映画の脚本を練るために、吐夢さんと旅館に籠った時の話だ。そこで植草さんは話の勢いで、自分が実際に体験した吉原遊女との出会いから死までを、余すことなく語るのである。普通の映画人なら、何も考えずに「映画化を考えましょう」とでも言うところだろう。吐夢さんは違う。長いが、吐夢さんの言葉を引いてみる。
「この素材はシナリオにするより最初は小説で書くべきじゃないかな?余計なお節介か知らんが、吉原脱走というおまけのついたラブストーリーであると同時に、日米戦争当時の時代史でもあるし、あなた自身の青春、人間生成の自分史も書き込まなければね。まあ、枚数なんかに拘らずじっくりとね。・・・・・・どうですか」
当人が自分史を脚本にする際、知らず知らずのうちに熱くなって、客観的にものを見る目を失ってしまう。小説という形で、ワンクッション入れる必要性を感じ取ったと見るべきか、自伝を脚本の題材にすることを戒めたと解釈すべきかのいずれかだろう。吐夢さんの考えは、後者にあったとみたい。このような心温まる親身で大胆な発言を、植草さんの旧友である黒澤明さんは出来ただろうか。おそらく無理なはずだ。尚、チャランケとはアイヌ語で、“とことん話し合う”という意味らしい。言い得て妙である。
鎌田房夫さん(当時助監督)の「俎上の魚」でも、吐夢さんの言葉が印象深く響く。「鎌ちゃん、監督になったらまな板の上の鯉だよ。成る様になれの精神が一番大切なんだ。そうすれば失敗はしなし、必ず成功する」鎌田さんはこの一言を、『宮本武蔵一乗寺の決斗』で武蔵が比叡山無動寺で思わず漏らす「吾れ、ことに於いて後悔せず・・・・・・」と結びつける。武蔵の剣にまつわる意思表示は、そのまま吐夢さんが映画作りの際に、たびたび迫られる苦渋の決断と何故かダブる。
俳優河原崎長一郎さんの「アンクル・トムの指」が読ませる。河原崎さんは、吐夢さんが俳優に要求していることをこう断言する。「表現とは、理屈とか、論理が通っていればよいのではなく、生きている濃度の濃さ、研ぎ澄まされた深い感受性等を、燃料にして、激しく燃え尽きるしかない。自分に自信を持ち得ない人間は表現者ではない。表現は、どんな単純な自信であれ、とにかく自信に裏打ちされていなければならない。」(一部改変)普段からの俳優としての生きる姿勢を説いた河原崎流の名言だと思うが、これを頭で考えてしまっていることを、吐夢さんは鋭く指摘する。河原崎さんを自宅に招いた吐夢さんは、こう切り出す。
「君は、確かに四部の一乗寺下がり松の決斗の撮影中、胃痙攣を起こして大変だったことは、僕もよく知っている。しかし、あの饗庭野の早朝の撮影の時、君に注意した事があるのだが、君はボォーッとして聞きおとしたが、側に居た錦之助君はそれを訊いていて、君にした注文を自分のカットの時にやってしまったんだ。君の敗けだ!!!」と太い指を突き出す。この注意の内容を、ついに河原崎さんは思い出せないが、おそらくは演技者一般に通じる心理的なアドバイスだったのだろう。だが、体調が悪い中でも、注意力・集中力を促す吐夢さんの神経とはいかなるものか。撮影中、俳優に対して僅かな安息をも許さず、絶え間ない精神の鼓舞を要求する鬼の形相(真髄)をここにみる。
キャメラマン仲沢半次郎さんの「側面瞥見」では、撮影現場の模様が語られる。『飢餓海峡』で、左幸子扮する娼婦が職探しをしているところで、“女性求む”の貼紙のアップを要求される。仲沢さんはこのカットを撮りたくなくて、逡巡する。吐夢さんの罵声が飛び交うかと思うと、仲沢さんの肩を押さえて「半次郎、解ったよ、このカットは止めよう。・・・・・・わしも永い間、時代劇ばかりだったからなあ」と言う。仲沢さんは、これを吐夢さんの臨機応変で、柔軟な対応と考えたようだが、果たしてそうか。部分的には当たっていると思うが、その時点で自分の間違えを即座に感じ取ったのではないだろうか。ただ、自分で指示した手前、後には簡単には後には引けない。そこで、時代劇ばかりだったという言葉でそれを濁し、自分の優柔不断さを揉み消して、周りのスタッフ達に納得させたようにみえる。
三国連太郎さん・左幸子さん・(司会)鈴木尚之さんの「対談・『宮本武蔵』と『飢餓海峡』の周辺」では、三国さんの一言が光る。
「結論めくけれども、僕は吐夢さんが亡くなってからも、いろんな監督と仕事をやってるわけですけどね、感じることは、上手に撮ることはみんな出来るんだけれども、人間の痛みを撮ることを知らないですね、今の監督は。」
武蔵五部作中の一本に、吐夢さんと喧嘩して現場へ行かずに出演しなかった(おそらく『二刀流開眼』だと思われる)人だけに重みのある言葉で、吐夢さんはスタッフ・キャストの弱い部分はどこなのだろうかと、常に考えていた節がある。相手をやり込めるための道具に使うのではなく、人間らしさを引き出すきっかけとして意識的に探っていたような気がするのだ。武蔵の疑心・小次郎の驕りなどは、人の痛み・弱さに降り注ぐ公平な目線があればこそ、浮き彫りに出来たように思える。
柿田清二さん(当時映画監督協会事務局長)の「監督協会の内田吐夢監督」は、吐夢さんの別な顔が見られる。監督協会が出した最終案「映画は映画監督の単独著作物との主張を打ち出す」に関して、吐夢さんは「監督は、著作権=複製権を、映画会社は興行・上映権をそれぞれ持つ」という妥協案を考える。だが、著作権とは経済的利用権を指すので、当然狭い意味合いを成す複製権を、協会が了解するわけない。最終的には、吐夢さんは折れて、著作権は映画監督のものとして決着が付くのだが、ここに映画会社とスタッフの板挟みを乗り越えてきた人が見出した、柔軟な考え方を見ずにはいられない。会社側の視点で物事を見がちな監督という職業意識を捨て、あえて映画会社とぶつかることを選んだ一人として、ふと浮かんだ最後の迷いには、裏を返せば相手のことを思い図るすべを身に付けている者の悲哀といったようなものが見え隠れする。吐夢さんの優しさを写す一コマだ。
東宝専属の美術中古智さんの「吐夢随想」は、本書の中でも白眉といっていい一文。吐夢さんの遺作『真剣勝負』の仕事が終盤に差し掛かった頃に、吐夢さんから贈られて来た「手作りのペン皿」に関する一件である。木箱の蓋に古紙を張ったもので、なかなか良く出来ていたようだ。蓋裏の皿面に書かれた独特の“夢”の文字と左隅に片仮名で記された、ウチダトムの文字と吐夢さんの朱印を押した落款があった。(P169に写真があるが、残念なことに落款が不鮮明)このまま美的感覚を働かせて、じっと目を凝らすだけの人であれば、吐夢さんはこのペン皿を送ったりはしなかっただろう。
中古さんはその期待に答えるかのように、このペン皿を見ながら妄想を試みる。夢の一字を見ながら、中国の隠子の像と重ねるのだ。陶淵明のような孤独な文人でなく、酒を子に好む竹林七賢の隠者の一人頑籍(おそらく阮籍のことだろう)と比較し、吐夢さん風に「飲酒二斗、吐夢数蜒」と読み変える。やがて空想は、現実的な文字表現にまで及ぶ。額裏(夢文字の逆側)に貼られている漢籍の反古紙の文字を詳細に観察し、それが書経の一部で『心之憂危、若蹈虎尾、渉子春冰』(心の憂ひ危ふきこと、虎の尾を蹈み春の冰を渡るがごとし)との文面を見つける。挙句、この部分の虎尾と書かれた箇所が、額表の夢という文字の下部分タの真ん中に位置する点(、)に丁度重なっていることを発見する。引き伸ばされたタの必要以上に長い線は意識的なものだったのだ。点(、)を虎の尾に見立てる吐夢さんも凄いが、それを見抜く中古さんも素晴らしい。この意図を見破る相手にこの品物を贈るという、吐夢さんの眼力たるや恐れ入る。更に、夢の文字と側に押された落款の夢の印字との対比を掲げて、吐夢さんが語った論理の弁証法「二ツにして一ツ、一ツにして二ツ」を引き、それを武蔵の二刀流開眼の要諦に結びつける。果ては吐夢さんを思い浮かべ、二つの夢字に正と負、生と死の二面性が籠められていたのではと夢想するあたり、何か草森紳一さんの随筆を読んでいるかのような錯覚に陥った。
ちなみに、このペン皿(扁額)は、現在吐夢さんの遺品としてフィルムセンターに保管されているようだ。(中古さんは寄贈したとは記していないが、文面からはそう解釈出来る)
東映京撮スタッフの吐夢監督を偲ぶ座談会」は、監督・キャメラマンなど総勢九名による座談会だ。
引用すると、長くなるので一々引かないが、P14の監督の倉田準二さんが、「内田さんはなぜこう撮るのかを全部話してくれるわけです。」からキャメラマンの吉田貞次さんが、吐夢さんの著作『映画監督五十年』を引き合いに出して、「もっと矛盾だらけの人だった。その人が矛盾論を説くのやからおもしろいけど。」までのくだりは、吉田さんがマイナス材料として触れている『映画監督五十年』を、まだ読んでいないので何とも言えないが、おそらくスタッフの意見を十分に聞いているようにみせながら、自分の意見をしっかり持っていて簡単にはぶれない為、ならば初めから聞かなくてもいいのではないかと思う部分を指して、矛盾と称しているのだろう。ただ、自分の意見を上回るものがスタッフから出た場合(倉田さんの場合がそうだ)は、それを聞き入れる物分りのよい部分もあったように見受けられる。やはり、人間これ矛盾の塊といっていいのではないか。(矛盾論については、P188で監督の鈴木則文さんが綿密に解明してみせる)
美術の鈴木孝俊さんが、「こざかしい芝居と言うか芝居上手、そういう芝居は嫌いやな。セリフはとちっても芝居はやれる・・・・・・きっと、人間ということが気になるんやろね。」と言い、それを受けた片岡照七(当時進行主任)が「下手な下手な若葉ちゃんみたいな・・・・・」と答える。この後、入江若葉の成長や高倉健が、よく叱られていた話が出るのだが、倉田さんが締めのような言葉を呟く「だから上手い、不味いじゃない、存在そのものが好きだったのですね。」確かに宮本武蔵の第一作の入江さんは非常にぎこちなく、お世辞にも上手とは言えないが、何か一生懸命さがこちらに伝わってきて、それが一途な愛(純愛)を物の見事に体現してみせているのだ。当人にそこまでの余裕はなくとも、吐夢さんの目にはそう写っていたのではないのか。吐夢さんの内なる心の言葉「そうそうそれでいい」が聞こえてくる。圧巻は、この本に関わった全員が思っている言葉を代弁したかのような、吉田さんの重い一言だ。
「人間にはね、未知数の力もあるだろうけど、それほど力なくて表現出来ん場合だってある。だけど内田吐夢という監督に会って、何か自分にないものが引っ張り出されたというのは事実だ。仕事の楽しさ・・・・・つまり、仕事は苦しいのに楽しいということを味わせてくれたのも内田吐夢さん、これは最高やった。」この自分から得体の知れないものが、引き出されるような感覚を抱かせる人物こそ、正に映画監督と呼ぶに相応しいのではないだろうか。作品に多少の出来不出来あったにせよ、実験精神ゆえの意欲的な空回りだと十分に推測出来る。そこに新しいことに挑戦する向上心を見ないではいられない。
最後になったが、唯一の傷に触れなければならない。それは、巻頭の白井佳夫さんの「日本的リアリズムの人・内田吐夢論」という文章だ。どうしても、心に響かなかった。この人は、口癖のように〜的とか〜リアリズムと題する言い回しを連発する傾向が強く、中身も作品や人間の本質に迫っていないように感じられる。何か傍観者の域を脱していないのだ。これならば、現存している評論家であれば、川本三郎さんにでも依頼すべきではなかったのか。そんな不満を抱きつつ、これから読もうと思っている『映画監督五十年』の巻末を開く。井沢淳さんの「怪物・内田吐夢論」と題された文に目がいく。これが実にいいのである。
自分と吐夢映画との壮絶な出会い(自分の皮膚が一枚一枚はげていく感覚)、映画記者として対面した際の高ぶりは、その光景が浮かんでくるぐらい、リアルで的確に綴られている。吐夢さんと飲んでいるといつも最後に聞かされる「オレはダラクしないぞ」という言動の奥に秘められた、中国十年の忍耐の日々と四十年の壮絶な闘いの日々での熱き感情を垣間見る。
白井さんも意識的にか井沢さんと同様、中国映画『白毛女』を引いているのだが、『白毛女』を「中国大陸での革命の進展と、それが生み出した結実に、中国でたちあった内田吐夢監督は、東洋人として、多くのものを学んだはずである。」と纏める。『白毛女』がその後の吐夢さんの戦後映画に大きな影響を及ぼしたというのだ。かたや井沢さんは吐夢さんから「あれは中国でいっしょに仕事をしていた仲間たちが作ったのだ」と耳にしているにも関わらず、独断と偏見を承知で、「ボクはいまでも、中国映画の傑作『白毛女』には内田監督の息がかかっていると頑なに信じている。」と述べる。私は確固とした証拠がなかろうが、井沢さんを支持したい。日本の愚かな中国侵略の責任を取り、終戦後すぐに帰国せず、しばらくの間中国に留まったせめてもの罪滅ぼしに、『白毛女』の手助けを行なうことは、決して考えられないことではない。相手の中国側も、その真意を汲み取ったような気がするのだ。安易に、『白毛女』を戦後の吐夢さんの映画と結びつける白井さんの姿勢には反論したい。
実は、井沢さんには、今まで良い印象を持っていなかった。数多くの映画を見ていた学生時代に、性と暴力の描写を極端に嫌う、融通のきかない堅物な評論家といったイメージしかもっておらず、評論もほとんど読んだことがなかった。だが、この内田吐夢論を読む限り、井沢さんが只者ではないことが判る。生前書籍になったのは、『映像という怪物』(学芸書林)一冊だけだったところみると、あまり世渡りがうまくなく、様々ところで衝突していた結果なのでないかと思えてくる。底に流れる闘争心に、草森さんと同じものを感じるが、草森さんには多くの仲間がいた。井沢さんは、孤独な戦士だったのではないだろうか。井沢さんの生前の批評が、改めて纏められることを希望してやまない。
思わず話が逸れてしまったが、『映画監督五十年』を読み『大菩薩峠』三部作を見た後、この映画の中で与八が彫ったお地蔵さん(吐夢地蔵)が安置されている京都化野の念仏時に、一度供養に行きたいと思っている。数多くの映画人を巻き込み、その良い部分を全て吸収してしまう秘術を見せた、怪物・内田吐夢の実像に迫る快著として大いに薦めたい。

≪付記1≫
『古田式』古田敦也周防正行著書 2001年発行(太田出版)の野球に関する本(対談集)がある。古い本の整理をしていたら、段ボールの一番底の隅すら出てきたのだが、忙しさにかまけて、未読のまま埋もらしてしまったらしい。ざっと目を通すと、十年という時間が経過したせいか、内容に新鮮味が感じられなかったが、気に掛かる箇所に出くわした。P31〜P32にかけての対話だ。周防さん独特の絵コンテならぬ字コンテの話が発展して生まれた部分だが、興味深いので引用してみよう。
古田− 「でも、普通監督をやりたいとおっしゃる方というのは、自分の主張がかなり強い方が多くて・・・。」と古田さんは、周防さんへわざと言葉を濁して語りかける。それを受けた周防さんは、次のように返答する。(一部省略)
周防− 「映画監督の醍醐味は、他人に預けてしまうことです、僕の場合はね。(中略)映画は、なかには監督でカメラをやる人もいるけど、僕はカメラもやらなければ、照明もやらない、衣装も美術もやらないわけですよね。そのときに自分の頭にあるイメージだけを彼らに押し付けるんだったら、小説を書くのと同じになってしまう。そうではなくて、僕が字で書いたものをポンと他人に預けたときに、どういう答えが返ってくるか、こんなセットを考えていたの!とか。それがまったく違って嫌なものだったり、思いもつかなかった素晴らしいものである可能性もあるから、選択まで楽しみたいじゃないですか。それが人と一緒に仕事をすることの楽しみだから。(中略)よく、監督は気持ちいいでしょうとかいわれますけど、僕が楽しむ映画作りとはちょっと違う。」長々と引いてしまったが、この後、古田さんは野球の監督も同様だと共感する。
これを読んでいて、何故か吐夢さんの映画への姿勢と相通じるものを感じずにはいられなかった。仕事場で楽しみを感じることは並大抵のことではないが、吐夢さんの後期作品『宮本武蔵』五部作や『真剣勝負』には、独自の緊張感を画面に孕ませながらも、心休まる安息のひと時が必ずどこかに挿入されており、物作りが愉悦(楽しみ)の境地にまで達していることを伺わせる。
監督(映画・野球問わず)は、英断することも大事かとは思うが、やはりいかに他人の有意義な意見を汲み取れるかが、勝負を大きく左右するのではないだろうか。ただ、冷厳に徹して、ある部分を切り捨てる(野球なら投手交代か)ことが重要になってくる場合もある。BS放送日本シリーズを見ていた際、元日本ハムの梨田監督が、ソフトバンクの秋山監督の投手起用(確か摂津が投げていた時だと思うが)を見ながら、「私はあんな非情な采配は出来ませんでしたから・・・」とふと漏らしていたのが、全てを象徴しているように思えた。ペナントレースでの新人斎藤佑樹の起用には、不自然なほどのいたわりと気遣いが感じられた。これではヘッドコーチや投手コーチは、安易に口を挟めなくなってしまう。そう、自由な意見交換の場が生まれてこないのだ。細やかな配慮が、全てを物語っているわけではないが、ある部分では冷たく突き放すことも必要だったような気がする。(中田翔の扱いとはえらい違いだ)
監督としての決断を、楽しみという感情にまで昇華させるのは非常な困難を伴う。監督とは、癖のある個性派集団を纏め上げる孤立無援な指揮者のようでもある。日本ハムの栗山新監督は、果たして沈着冷静な采配を振うことが出来るのだろうか。疑問の余地が残る。

≪付記2≫
本文で取り上げた美術監督の中古智さんと評論家蓮實重彦さんの対談集『成瀬巳喜男の設計』を遅ればせながら読了。映画美術にはあまり興味を持っていなかったが、中古智さんの隠れた実像を知りたくなり、本書を手に取った。内容は中古さんの美術に関わる発端から、やがてほとんどの成瀬巳喜男さんの映画を手掛けるまでの経緯が、舞台裏のエピソードを交えて懇切丁寧に語られている。組まれたセットの風景を、言葉から推測していくのは多少辛い部分もあったが、己の想像力を飛躍させるための良き鍛錬の場だと考えると、これもまた密かな愉しみとなる。
中古さんは、装置(美術)と照明とキャメラ(撮影)の関係を、映画監督のような視点で捉えて読み込んでいく。その中でも、美術の久保一雄さん(山中貞雄監督『人情紙風船』を担当)の助手として付いた成瀬監督の『妻よ薔薇のように』での葡萄棚の下に落ちる影が、久保さんの狙いだったのではないかと推測するところが目を引く。(P74)撮影現場での話なのか試写での印象なのかが判然としないが、久保さんの想像力はここで止らずに、ディオニューソスという葡萄酒の神を引き合いに出し、ディオニューソス=生命の木=夫婦和合の象徴に結び付けて、蓮實さん顔負けの読み解きを披露してみせる。この解釈を、評論家ハーバート・リードの言葉(「芸術家の活動を支配するものは知的なものではなく、本能的なものだ」)を使って、久保さんの意図がそこに隠れていると持っていくあたりには、師匠が手掛けた細やかな仕事への限りない敬愛ぶりが窺える。美術の久保さんの妥協を許さない硬直な資質が、中古さんの“美術は装置のみに心を傾ければいい”という安易な姿勢を、徐々に頭の片隅から排除していったような気がするのだ。
昭和十二年頃、東宝の脚本部に、後のシュルレアリスト滝口修造さんが在籍していたという話も印象深い。脚本部にいたにも関わらず、美術について斬新な示唆を投げかけてくれたようだ。当時積極的に美術への提言を行なう人はいなかったところを見ると、既にこの時期から話の整合性よりも、隠喩を孕んだ舞台装置の重要性を、滝口さんは察知していたのではないか。興味は尽きない。
『めし』について」(P133)でのセット(障子を介した玄関と台所と居間の関係)の件が、本書の最大の見せ場だと思うが、ここに触れると突飛な妄想を延々と記すことに成りかねないので、ここは中古さんの深い配慮が小道具の隅々まで行き届いているとだけ言っておきたい。
P177の『真剣勝負』の絵で描かれた三十三間堂の存在感も、負けずに魅力的だ。仏堂前の立ち合いを京都で撮ることが出来ず(『一乗寺の決斗』では実物を使えたが、本作では予算の関係で、使用許可が下りなかったのだろう)、東京でも撮れるような場所がない。監督の内田吐夢さんは、早急な決断を迫られる。中古さんは、ミニチュアのセットなどで仏堂を作るのだろうと想像を巡らすのだが、吐夢さんは「絵でいきましょう」と言うので吃驚してしまう。三十三間堂の長大な距離を絵(書割り)で描いた場合、観客にすぐに露見してしまうのは必須だからだ。吐夢さんはこの苦境を、キャメラの方向と高さ、スモーク流しと粉雪を降らせることで見事に乗り切ってしまう。美術監督の達人中古さんも、これには唖然とする。成瀬組ではありえない手法も、美術ではきちんと成立するのだとの思いを新に抱いた瞬間だ。この手法は、成瀬監督の『コタンの口笛』で僅かながらだが生かされることになる。
まだまだ触れたい箇所は沢山あるのだが、付記で長文を書くこと自体が違反だと思っているので、ここら辺で冒頭の中古さんの小文「『巳喜男と卓』−序にかえて」への感慨を記して終わりとしたい。
中古さんの文体は、固くて多少手読みづらい感があるが、本書を読み終えてから再読すると、何故か深く心に染み渡ってくるから不思議だ。特に、最後の文章「この大地は生命の木を育み養っている。決して止ることなく世界の内部まで延びて、木末が求める深所の水を探っている。この水は逃れ去ることはないだろうか、成瀬の杞憂はそこにあったのだろう。成瀬映画のフェイドイン・フュイドアウトは、生命の木の再生と死の無時間的な循環意味していないか。」は、奥深い意味を内包している。P190のエリアーデに通じる自然の摂理を、成瀬映画にダブらせているようにも感じ取れるが、中古さんが書かれた水という言葉に、「古い撮影所が培った技術」をどうしても見ずにはいられない。“生命の木の再生と死の無時間的な循環”は、今や儚く消え去ろうとしているのだ。伝統を打破して新しいことに挑戦するのも重要だが、職人技術の継承もそれ以上に大切なのではないだろうか。改めて様々なことを省みさせてくれる貴重な一冊である。

≪付記3≫
長く生きていると通り一遍の在り来りな文章では、なかなか感動や驚きを覚えなくる。これが年齢による感性の劣化というのであれば、認めたくない悲しい現実だ。
そんな中、偶然精神を高揚させるような一文に出くわした。週刊朝日2012/2/10増刊号に連載されている嵐山光三郎さんのコラム『コンセント抜いたか』で記された「探訪記者松崎天民」と題された文章のことである。読むことの快楽とはこのようなことを指すのだとつくづく思う。内容は、坪内祐三著の新刊『探訪記者松崎天民伝』を紹介する形をとっているが、嵐山さん自身が本書を読んで興奮した有様が手に取るように判り、そのためか数々の名言が散りばめられている。“記者になりたいという一念は岩をも通す”とか“惚れて入れこんだ女が、とんだくわせ者だったという失落感に似ている”とか“これは迷宮願望の探偵中毒症で、調査をすることに熱中して、連載記事はどうでもいいという気になる”とか、ワクワクするような言葉で埋め尽くされているのだ。
天民が筆一本で次々と新聞社を渡り歩く様をみていると、自分が書く記事に対する揺ぎ無い自信が見え隠れする。この自信は、常に読み手の興味を惹く目新しい記事を書かなければ、次は書かせてもらえないといった切羽詰った状況から生まれてきたのではないのか。自分をわざと窮地に追い込み、そこから最善のものを引き出す術を会得していったように感じられる。
本文を読みながら、天民の記者魂が坪内さんに乗り移り、果ては嵐山さんにまで取り付いたかのような錯覚に陥った。こういった魂の転移を、嵐山さん自身は“坪内氏にとりついた天民の霊は、これで解き放たれる”といった鮮やかな言葉で締め括ってみせるのだが、霊は嵐山さんにひっそりと移行したように思えてならなかった。今後、嵐山版の天民伝が書かれるのではないかという気さえする。ただ、残念なことに『探訪記者松崎天民伝』では、雑誌連載時の内容がかなり削られてしまっているようなのだ。嵐山さんは、「削った部分に旨みがあるのだが、まあ、それは単行本の紙背ににじんでいるから、目に見えぬ隠し味である」と好意的に解釈しているようだが、連載を読んでないこちらとしては、どうしても完全版を読みたくなってしまうのが心情だろう。もし増刷が繰り返された場合は、完全版を新に出してもらいたいと切に願う。まだ読んでいない本のことをこれだけ熱く語ってしまうところをみると、私にも天民の霊が取り付いてしまったのかも。気をつけねば。
松崎天民の天衣無縫な生き様は、内田吐夢の生き方と重なるような気がしないか。戦前の俳優から監督への道程、戦後に関わった日活・東映東宝での歩み、そこには信念を曲げない松崎天民同様の一匹狼の匂いを感じ取ることが出来る。『飢餓海峡』のカット事件などで見せる気概は、半専属契約のような形を東映と結んでいれば安定した収入を確保出来るのに、あえてそれを望もうとはしないことに繋がる。晩年は家族と離れ、小さなアパートで一人暮らしをしていたという。(「資料に頼る仕事の方法も変えて、本も処分して、小田原あたりに引っ越したいと思っている。」と晩年に語っていたという草森紳一さんの気持ち【HP「その先は永代橋」2012/5/12付の日記より抜粋〜全編、心に染み入る文章で綴られている】を察すると、吐夢さんの死生観に共鳴した草森さんの秘められた人生の一端が浮かび上がってくる)撮りたいものだけを撮るといった強い決心が、何故か孤独を呼び込むのだ。生涯の友、田坂具隆も日活で撮った『陽のあたる坂道』『若い川の流れ』の尺数問題で揉めた直後に、あっさりと日活と手を切り東映に移ったように、妥協を許さない頑な人の周りには同資質を持った者達が自然に集う。
松崎天民内田吐夢田坂具隆・坪内さん・嵐山さんに(ここに草森紳一さんも加えたい)、共通する粘り強い職人気質を感じるのは私だけだろうか。

『彷書月刊』(2005年7月号 特集・このさき諸星大二郎一丁目) 彷徨舎

いやはや本当に参った。これほど諸星大二郎さんの漫画に嵌るとは思ってもみなかった。
読み始めるきっかけとなったのは、崩れた本の山の中から(草森紳一蔵書整理プロジェクト)というブログに掲載されていた二つの文章だ。マンガ担当のLiving Yellowさんが2009/4/21付の「会社」と題された日記で、「草森紳一先生の御蔵書中、数多い諸星大二郎先生の著書の一つ、本書(集英社、1993年)の表題作、『不安の立像』がふと頭に浮かぶ」と触れ、続けて『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』も収録された、「ユリイカ」(青土社)2009年3月号での特集も好評のようだ。」とこちらを別世界へ引き摺り込むかのような魅惑的な文章が添えられていた。この時は、奇怪な絵柄の『妖怪ハンター』のあの作者のことかと、わざと目を瞑って見て見ぬふりをするつもりでいた。(諸星大二郎さんの絵柄が本来好きではなく、あえて避けていた部分もあった)だが、追い討ちを掛けるように、2009/6/18付でEMIKOさん(草森さんの娘さん)が、「NO MORE BOOKS ! 13 陶淵明 番外編 −漫画『桃源記』」からと題して、諸星大二郎の『地獄の戦士』(ヤングジャンプCOMICS)を手にした感想を克明に綴っているのを目にしてしまった。この続けざまの呼び水には、流石に勝てなかった。心に深く刻まれる文章なので、少し長いが引用してみたい。(一部省略と筆者注釈)
「ページを開くと・・ 両脇を山に囲まれた河とそこを渡る小さな一艘の舟の絵、上に「東晋の頃 −江南の地」と書いてある。二ページめくると大きなタイトル『桃源記』が目に飛び込んできて、そして右側に「桃花源の記」という詩の引用と合せて‘陶淵明’の文字が。ざわざわ、ざわざわ、胸が騒いだ。たちまちこの漫画をめくってみると、これは陶淵明についての、というだけでなく何と「形影神」の詩で最後がしめくくられていた。「形影神」の内容が、ある種全体の主題にすらなっている漫画だと気がつき、もう大声で円満字さん(【注】蔵書整理プロジェクトのメンバー)を呼んでしまった。『地獄の戦士』は六篇の作品から成る短編集だけれど、「ここをみなさい」と言わんばかりに父が貼ってあった付箋、恐るべし。漫画『桃源記』を読むと「形影神」の世界がヴィジュアルの情報をぐんと加味して拡がり、さらに容易く咀嚼できないものが見えてきてしまう。物語では淵明と共に行動するもう二人の人物(潜、元亮)が、実は他者ではなく淵明の分身でもあったという形で「形・影・神」のバランスが描かれる。」
EMIKOさんの陶淵明への心酔のほどが感じられる愛情溢れる繊細な文章だが、同時に草森さんの埋もれた蔵書から発せられる言葉にならない雄叫び(この記事に目を留めてほしいという呻き声)を背後で聞いたような錯覚に陥ってしまった。この叫声を耳にした側としては、草森さんが敬愛してやまなかった諸星大二郎の世界にどうしても踏み込まざるを得ない。そこで、当然のように必要となってくるのが、手引きとなる案内書だ。冒頭で触れた「ユリイカ」の特集号を、資料として取り上げることも考えたのだが、何故か発行日の古い本書を扱う必然性を強く感じ取った。言葉では言い表せない直感というか予感めいたものだといっていい。この予感はやがて確信へと変わっていく。
それにしても、「桃花源の記」という短い詩から、ここまで陶淵明の世界に踏み込むことが出来るものなのか。EMIKOさんではないが、諸星大二郎恐るべし。
またまた、長い前置きになってしまった。早速本題に入ろうと思うが、「ユリイカ」の特集号も並行して読んだので、ところどころで比較検証しながら、諸星ワールドに迫ってみたい。(本書に掲載された漫画は一応ほぼ目を通したが、『西遊妖猿伝』『マッドメン』『諸怪志異』と小説二冊ついては、未読だということを断っておく)本書は、以前取り上げた草森紳一さんの特集号と違い、中身はいたってシンプルで、巻頭のインタビュー記事と諸星作品に思い入れのある筆者が筆を取る構成は、いささか凡庸といっていいくらいだ。だが、その中身はきわめて濃い。執筆者のメンバーも考え抜かれた上で人選されたことが、記事の内容からも窺われる。
まずは、インタビュー記事から。
意気込んでいると、初っ端からはぐらかされる展開となる。そう、表題に「なんだか、変わってないんですね」とあるように、家の外観や本人の会話が意外にも普通なのである。インタビュー場所は、客間とおぼしき地下一階だ。聞き手の鈴木さんは、諸星漫画が生まれた土壌を少しでも解明したいと意気込んでやってきたはずだが、会話は一向に熱意を帯びず淡々しており、少々戸惑い気味だ。漫画の登場人物のように、怒涛のような言葉が奔流する展開はここではみられない。諸星さんは自分の作品に関して語ることが少々苦手なようだ。聞き手も、最後は諦めたように漫画の本筋から離れて、当たり障りのない家のことについて触れ始め、やがて一階の仕事場へと移動することになる。(P8の下段からP9まで)不思議なことに、このあたりから諸星さんの肩の力が抜けてきて、妙に生き生きとして微笑すら浮かべ始めるのだ。そんな中、ハーちゃんと名づけられた猫の変わった行動が目を引く。諸星さんの言葉を借用しながら、猫の生態に迫ってみたい。
「どうぞ。普段からもっときれいにしとけばいいんですけどね。ハーちゃん、そこにいたの。近寄るとハーッて怒るからハーちゃん。ヘン名前でしょう。ちょっと人を怖がるんですけど、もう一匹の猫はムカデをとってきたり、最近はヘビをとってきたらしい。」このもう一匹のネコの名前がムサシで、だいぶ年寄りだということが諸星さんの口から語られるのだが、そんなに年をとって爬虫類をとって食べる(遊ぶ?)なんて、こちらとしてはどうしても『栞と紙魚子』の一編「ポリスの獲物」に出てくる、ヨグという化け物を連想せざるを得ない。諸星さん宅には、作者と同じように異質な匂いを嗅ぎ取る動物しか寄り付かないような気さえしてくる。P9の上部写真で、諸星さんの暗い足元に隠れて、顔が黒っぽく写っているのがハーちゃんなのだが、あえて写真を撮られるのを避けるように、わざと伏せているあたりが可笑しくて少々不気味だ。気味が悪いと感じるのは、『妖怪ハンター』のプロローグで登場する真っ黒い生き物にも見えるからだ。
次は、備え付けの本棚のことに触れられていて、その本棚がP8に掲載されているのだが、意外なほどすっきりと本がきちんと収まっている。パソコンはほとんど使わず手画きで作業し、ネットで資料を探したりすることもないらしい。そこで、私はあらぬ幻想に襲われることになる。地下室の壁の隅に秘密のドア(一見どこにあるのか判らないような狭い扉)が取り付けられていて、そこを開くと本棚から溢れ出した膨大な量の書籍の山がいくつも点在しており、『栞と紙魚子』の初期作「古本地獄屋敷」に現れる謎の古本屋敷と全く同じように、下部に位置する本を抜こうとするとあっという間に山が崩れてしまう状態なのだ。周りを見渡すと堆く積まれた書籍の山々が数え切れないほど沢山見受けられる。諸星さんは、この書籍の山から必要な資料(本)を意図も簡単に取り出す。そう、何万冊という蔵書のある位置を全て記憶しているらしい。地下なので本の大敵である湿気を防ぐために、室温が常に一定に保たれるよう空調機までもが完備されている。このまま妄想を膨らますときりがないのでこの辺でやめにするが、このような奇妙な幻覚症状に捕らわれた原因は、現実の書斎が信じられないくらい、あまりにも綺麗に整理整頓が成されているからだ。
妄想を振り払う意味で、インタビュー記事の脇に掲載されている諸星漫画の僅かなコマを目にすると、それが非常に印象的な場面だというのに気づく。初期の傑作『生物都市』の主人公の少年が、金属と溶け合った父を目の当たりにする場面は、いつ見ても哀れみを誘うが、片や『栞と紙魚子』のショート・ショート「立読みゆうれい」という足のない幽霊を追い払う他愛の無い話をあえて選び、その後の展開が気になるように、わざと含みを持たせる形で載せているのが何とも心憎い。(最後のおちには笑ってしまったが)
次は、意外にも諸星さんの短編小説『キョウコのキョウは恐怖の恐』の分析だ。担当は、ホラー作家の倉阪鬼一郎さん。一流のプロの作家が、まだ一冊しか手掛けていない(現時点でも二冊)漫画家の小説について触れることは、困難を伴う作業のはずで、受ける人も人だが、依頼する人も人だという変な思いを抱いてしまう。だが、倉阪さんの歯に衣を着せぬ言い回しが心地よく、その分析結果をすんなりと受け止めることが出来る。
凶子と名乗る娘が、物語の流れとは別に突然現れるらしいのだ。倉阪さんはそこに違和感を覚え、その理由が詳細に記される。少し引いてみよう。
「「おまえはどうしてそこにいるんだ」凶子に対しては、そんなツッコミを入れたくなる場面がなくもない。ここでコミックと小説の文法の差異という問題が浮上する。栞と紙魚子は絵で描かれている。その絵を観た瞬間、栞と紙魚子は問答無用でそこに立ち現れる。絵というものはそれだけ現前性が強いわけだ。小説の登場人物は基本的に違う。読者が想像力によって補わなければ強く立ち現れない。」
と述べ、凶子が唐突に現れて物語を推進していく手法は、小説ではなくコミックの文法だと指摘する。続けて、視点を変えれば、凶子はフレームを超えているのであり、凶子が登場する部分だけコミックのコマが浮かぶと畳掛ける。小説を読んでいない側としては、この凶子の登場を自然なものとして受け入れられるかどうかの判断は付けられないが、確かに漫画のコマの運びではごく普通に思えたことが、小説だと異質に感じられる可能性は否定出来ない。特に、諸星さんの怪奇やSF漫画は突拍子もない方向へ話が転がっていく場合が多いからだ。(特に『栞と紙魚子』がそうだ)おそらく倉阪さんは、この従来の小説作法を度外視した語り口を見て、最初新鮮な驚きを隠せず、僅かな嫉妬を抱いたのではないか。その後熟読し、その異質な手法にぎくしゃくした歪みのようなものを察知して、逆に安堵したように思える。
最後に、倉阪さんは「行間が希薄で現前性が強い絵は、リーダビリティを含む受容度が高い。だが、諸星さんのいくつかの小説には行間を読まなければ何が起きているかつかめない。」(一部筆者改変)と言い、凶子の現れない『濁流』にはこの見えない行間(空白)を無理に読まなくても十分に理解出来る範疇の小説ということで評価出来ると結論付ける。あざやかな論考のように見えるが、諸星さんには唐突な凶子を出現させた上で、行間に濃厚な余韻が漂うような小説にあえて挑戦してほしいと願う。倉阪さんに反発したような形で締め括ったが、本業が小説家でなく、今後ライバルになるかもしれぬ人の本を、懇切丁寧に読み解いていくあたりの真摯な姿勢には感服した。
その点、『ユリイカ』で同じように諸星小説を取り上げた永山薫さんは、正直いただけない。本題ではないので簡単に記すが、巻末の不必要な註から始まり、小説のあらすじを延々二頁に渡って載せ、挙句の果てに一人称視点と三人称多次視点で作品を安直に切り捨てる方法には、思わず目を覆いたくなった。註3で、自分はプロではないが、漫画を書いた経験があるといった自慢めいた話も鼻に付く。こんな人に小説の分析を依頼するユリイカ編集部の姿勢を問いたい。倉阪さんの詳細な解析文にきちんと目を通していれば、これ以上諸星小説に立ち入る必要はないと考えるのが当たり前だ。
さて、高まった興奮を鎮めて先に進もう。
諸星さんの存在を知るきっかけとなった映画『妖怪ハンター ヒルコ』を監督した塚本晋也さんの登場だ。私はデビュー当時からのファンで、この映画を観たのも原作が諸星さんだからというわけではなく、監督が塚本さんだったからだ。今ではそんなに非難を浴びていないようだが、公開当時は塚本ファンからも諸星ファンからも見放されていた映画だったように思う。塚本さんが本文では、「ファンの方からおおむね何のバッシングもなかった。多分あまりに違うので異論を挟む気にもならなかったのだろう。」と書いてあるが、そんなことはなかったはずだ。確かBSでの公開討論か何かで、ある人がこの映画は塚本さんが商業主義におもねいた映画だといい、作品内容の判り易さを指摘し、嘆いていた記憶がある。諸星ファンの意見は残念ながら覚えていないが、塚本ファンとは逆な意味でこの躍動する疾走感に馴染めず、諸星漫画の重要な要素である静謐さが全くないといって怒っていたような気がするのだ。だが、この映画を最近二回見直したところ、新たな発見があったので、本題から少し外れてしまうが触れてみたいと思う。
塚本さんの文章にもあるように、この映画は『妖怪ハンター』の「黒い探求者」と「赤い唇」を原作として作られている。「赤い唇」の月島令子は、原作と全く違った形で取り入れられているのだが、見る側は、冒頭の月島の赤い唇に奇異な感じを抱くが、やがてそれが赤=血へと結びついていくあたりから、自然なものとして受け止められるようになっていく。原作との大きな違いは、映画では八部まさおという少年の背中に、自分の周りで死んだ者(肉親や友達)の人面顔がいくつも現れるが箇所だ。これは原作にはない。だが、『暗黒神話』の主人公の少年、山門武の体に刻まれる八つの蛇形の聖痕(八は、八俣の大蛇とか八頭の竜といった伝説へと結び付く)とまさおと人面顔がどうして重なってくるのだ。最後に壮大な飛躍の要素となる八つの蛇形の聖痕と違って、まさおの人面顔はヒルコを封じ込めると綺麗に消滅するあたり、陰陽といった両極をなすもののように見える。このあたりは、塚本さんが諸星さんからインスパイアされているように見えるが、塚本さんも負けてはいない。
本文にも書いてあるが、映画が公開された後に掲載された『妖怪ハンター』の新作漫画の中で、女生徒に「ねえねえ、稗田礼二郎って沢田研二に似てなーい?」と言わせている。これは、明らかにこの映画を諸星さんが気に入っている証拠である。(現に本誌のインタビューの中で、諸星さんは「塚本さんの「ヒルコ」、あれ原作とは違っていたから、逆に楽しめましたけど。」と述べている)もう一つ塚本さんが諸星さんに影響を及ぼしたと思われる部分がある。ともに制作された時期(1990年)がほぼ重なるので断言出来ないのが少々辛いが。『妖怪ハンター』番外篇ともいうべき「天神さま」(文庫『妖怪ハンター 天の巻』と『彼方より』に掲載)にそれは現れている。最後天神裏のお堂の中に少女千鶴子が吸い込まれる(P100〜P107)のだが、礼二郎が傍にいる沢口という少女に飛びついて千鶴子から遠ざけ、川島姉弟が千鶴子をお堂に潜んでいる精霊(悪霊?)から身を挺して(飛びながら)防ぐのだ。諸星漫画には珍しく激しい動きのある場面だが、実は映画ヒルコで、八部高史と月島令子が呪文を使って石室の扉を開いた後、二人が古墳の中へ宙を浮きながら、凄まじい勢いで引き込まれる部分に非常に酷似している。このスピード感が一瞬ではなく、何頁もの分量を割いて描き込んでいるあたり、何か映画への対抗意識のようなものを感じずにはいられない。
栞と紙魚子』の巨大な顔を持つクトルーちゃんの母親や新作「何かが街にやって来る」の化け物の形を成した姫君などに、映画ヒルコの空飛ぶ幻想の怪物を重ね合わせたり、映画の礼二郎と八部まさおのボケと突っ込みに、栞と紙魚子の面影を見たり、塚本さんと諸星さんの作品上での相互交流は、見えないところで頻繁に行なわれているようだ。
さて、本題に塚本さんの文章だが、自作の脚本を全て自分で書く人だけに、文章も手馴れて非常に上手い。プロデューサーから原作ものの話があった時、始めに気がない返事をしていながら、原作が諸星さんと判ると、手のひらを返すように低姿勢になるあたりの描写は、切ない心情がひしひしと伝わってきて妙にリアルだ。ここでも転載された『妖怪ハンター』の漫画の一場面が利いている。山の木々と一体化したヒルコ(比留子)が現れる瞬間を捉えたコマだが、右下の礼二郎の惚けた顔立ちからいって、普通はあまり掲載しない構図のように思えるが、あえてこれを載せるあたりの感性が素晴らしい。
ここまで、既に膨大な量になってしまったので先を急ごう。
『諸怪志異』の世界に迫った平岡正明さん文章だ。中国史に詳しい平岡さんだけあって少々難解で、歴史に疎い私には一回読んだだけでは内容を十分に汲み取ることが出来なかった。(この時点では、『孔子暗黒伝』を読んでいなかったせいもある)自分の勉強不足を大いに恥じ入りながら再度の熟読に挑戦。すると薄っすらだが、実像が浮かび上がってきた。特に竹中労さんと『水滸伝・窮民革命のための序説』を共同で執筆しているだけあって、水滸伝に収められなかった逸話に触れ、「竹中労と俺の水滸伝理解は、水滸伝という本は梁山泊党と方臘の反乱者の双方に、同士討ちはやめろという作者施耐庵の願いがこめられていることを強調するものだから、『諸怪志異』におけるエピソードの挿入のしかたに共感するものがある。」と語る。うるさ型の平岡さんにここまで言わせる諸星さんの構想力も凄いが、中国の怪奇小説『捜神記』『山海経』『聊斎志異』だけでなく、『水滸伝』までを網羅する『諸怪志異』とは一体どんな漫画なのか、益々興味は尽きない。
横道に逸れる平岡さんらしく、古今亭志ん生の落語『疝気の虫』『庚申待』に触れ、挙句庚申待から道教へと到る。庚申待の元祖ともいうべき話だが、天帝のスパイを人は身体の中に飼っていて、この虫にスパイ活動をされてはかなわないから、庚申の夜は眠らずに見張っているという。人の罪を天帝に報告行くというところから、庚申の夜に生まれた子供は泥棒になると言い伝えられているらしい。これを元にした落語『庚申待』を通しで聞いてみたい気もするが、いかにも中国の怪奇譚に相応しい話のように思える。最後の項では、漫画を読んでいた思い出深い場所(ラーメン屋・ジャズ喫茶・喫茶店)のことが記され、気楽に接している様子が窺えた。
これを読んだせいかどうかは判らないが、『ユリイカ』の巻末の編集後記で(舞)さんが、以下のようなことをコメントを載せているのには少々驚いた。「特集を組んでおいて言うのもなんだけど、諸星大二郎をしかつめらしく「読む」ことほどその魅力から遠ざかることもないのではないかと思う。」 (以下略称)このあと言い訳めいたことが綴られていくのだが、私は平岡さんのようにある程度歴史に精通している人ならいざ知らず、諸星漫画を気軽に「読む」ことは出来ない。通常の漫画は、「読む」よりも「見る」ことに重きが置かれているが、諸星漫画は小説のようにある程度意識的に対峙して読む必要があるとあえて言いたい。
次は、細野晴臣さんへのインタビューだ。
記憶に残ったのは、「諸星さんのマンガって、好きになった人はきっと一生好きになると思うんだけど、触れるまでに時間がかかるというか、きっかけが必要なんだろうと思う。」と述べられたところだ。正に私がその通りで、映画をきっかけに嵌りそうになっても不思議ではなかったのに、絵柄のせいか今まで手に取るきっかけが掴めなかった。“触れるまでに時間がかかる”とは本当に言い得て妙だ。
SF小説家の愛沢匡さんの文章は、本筋から逸れた奇妙なイギリスの女性詩人の行動に興味を抱いた。愛沢さんが、ある画家から聞いた話らしいが、個展を開いたその画家の絵を前にして、ひとりの女がしゃがみこんでいたらしい。女はやがて絵の表面に顔を寄せてぺろぺろと舐めはじめたので、驚いた画家は何事かと問い詰めると、あなたの絵を堪能しているというのだ。そんな鑑賞の仕方を知らなかったと画家で言うと、画家のくせにと笑われたというのだ。それからきちんと彼女は絵の感想まで述べている。愛沢さんは、こんな奇想天外な彼女に諸星漫画を読ませたら、きっと本の端っこでも齧り始めるのではないかと想像したようだ。
実際に、本を読みながら頁の端を破いて口に入れていたのが、幼少の倉田卓次さんだ。(『続・裁判官の書斎』「本を汚して読むこと」より)倉田さんの奇癖は、本の大切さを説く父親の影響もあってか、学童後期には直っていたらしいが、イギリスの女性詩人のこの性癖は大人になるまで、誰からも咎められなかったせいか、直ることはなかったようだ。ただ、日常生活の中では、こういった変わった行為はあまり見られなかったのかも知れない。単に視覚を超越した特異な味覚の持ち主なのか。彼女を奇怪な行為に駆り立てるものが一体何なのかが、どうしても気になる。
諸星漫画へのオマージュを連ねた古書店天谷伝さんは、海外の幻想怪奇小説との深い繋がりを語り、過去の読書体験に思いを馳せているあたりは、いかに本が好きであるかを鮮明に物語っている。
最後は、漫画家山岸涼子さんへの諸星さんに関するQ&Aだ。実は、山岸涼子さんという人のことを全く知らなかった。漫画に疎いのでご勘弁願いたいのだが、Wikipediaによると『舞姫 テレプシコーラ』という漫画で、諸星さん同様に、手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した凄い人らしい。そんな著名な方が諸星さんへの質問を投げかけると、何故か恋する乙女状態なるのが微笑ましい。印象的なのは、「Q.十秒間目を閉じてください。思い浮かんだ諸星作品のひとコマを。」と言われ、「『妖怪ハンター』の一作目(「黒い探求者」)で、こうはなりたくないと思いました」とコメントして、怪物ヒルコの似顔絵を描いているのだが、怪物が冷や汗を掻いているのが、妙にコミカルで可笑しかった。
本書は、諸星大二郎の入門書というよりも、本筋から外れた隠れた諸星漫画の魅力を補う役目を果たしてくれる。文中でも触れたが、数多く差し挟まれる漫画の一場面が、妙に的を得ているように見えるのは、編集発行人の故田村治芳さん以下、スタッフのセンスの良さが影響しているように思えてならない。多くの刺激的な記事を提供してくれた編集部の人達に深く感謝致します。また、諸星さんが保有している魅惑的な闇の世界に導いてくれた草森紳一蔵書整理プロジェクトの方々(特にEMIKOさん)にも、合わせて感謝の意を表します。

≪付記1≫
本文では僅かしか触れなかった『ユリイカ』の記事に関して、感想を少し書き留めてみたい。幻の初期作品『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』の掲載は、素直に褒め称えたい。当時のゼロックスコピーのコピーなのでいささか不鮮明だが、読むには全く支障がない。冒頭から中盤までシリアスな展開で進むので、結末にはいささか唖然とせざるを得ないが、途中までの緊迫感はやはり雑誌に掲載されるだけのことはある。後年のブレイクの匂いを、僅かだが感じさせてくれる。
夏目房之介さんと都留泰作さんの対談は教えられることが多い。特に気になったのは、夏目さんが知り合いの奥田鉄人という小説兼漫画家の人が、諸星さんのアシスタントをしていたという話で、本人は手伝いもせず、何もしないで遊んでいたらしい。この後で、「夏目さんはそもそも諸星さんの絵はアシスタントを使えるのかというくらい独特でしょ。」と続ける。
このアシスタント論に興味を惹かれたのは、古代史物とSF・怪奇物では何故か絵柄が違うようにどうしても感じられたからだ。諸星さんの絵は、よく下手な部類に入ると言われるが、古代史物(『暗黒神話』『孔子暗黒伝』)の筆捌きは上手いというレベルに十分達しているように思える。暗黒シリーズを雑誌に掲載していた時は、相当先まで先行して描き溜めをしていたと語っている(『彷書月刊』で自身が触れている)ところから考えると、余裕をもって仕事をすれば端正で綺麗な絵が描けるような気がするのだ。ただ、古代史物とSF・怪奇物の絵を意識的に描き分けているとすれば、この安直な理論は成り立たないし、アシスタントも当然不要だ。入念に絵を確認すればするほど、常に絵のタッチが気に掛かって仕方がない。
竹熊健太郎さんの会話形式の文章は面白い。特にP134下段の文章が、諸星さんの意外な側面が見受けられて興味深かった。長いが引用してみる。
「それから、『世界』(ムック本『西遊妖猿伝の世界』のこと)のなかにも載せたけど、部屋の壁に昔の長安の地図と現在の山手線の路線図を重ねたものが貼ってあったのをよく覚えています。長安の地図をトレーシングペーパーにトレースして、同じ縮尺の山手線の路線図の上にのせたものですけど、それを見て、「玄武門が巣鴨のあたりだったらここは芝だな」といった感じで実際に歩いてみて、当時の長安の距離感覚を知ろうとしていたそうです。」この距離感を参考にして漫画に生かすなんて、普通は考えないはずだ。やはり、諸星さんは常人じゃない。
評論に関しては、どれも感心しないものが多かった。安心して読めるのは、やはりベテランの巌谷國士さんと東雅夫さんだ。(呉智英さんは作品論ではないので対象外)ただ、巌谷國士さんの文章は、20代から30代にかけて読んだ時にはもっと楽しめたのに、今回は物足りなさが残った。絵の解読と作品の内部に迫った分量が、六:四ぐらいの比率のように見て取れ、明らかに絵の分析に重点が置かれているように感じられた。澁澤龍彦さんならそのバランスを自由自在に操ることは可能なのだろうが、巌谷さんは絵の構図(美術)に思い入れが深いだけに、どうしても比重は絵の分析へと傾いてしまうのだろう。年齢を重ねた私の好みが次第に変化していったのだとは思うが、今ではどうしても草森紳一さんが得意の長い雑文形式で諸星論を書いたとしたらと、あらぬ妄想に捕らわれてしまうのである。不謹慎な話だ。
他の評論では、海老原豊さんのSF論は凡庸で、永山さん同様いらない註が多すぎる。(1)〜(3)は、誰が見ても不要だし、参考資料もここまで明記する必要はないだろう。
伊藤剛さん、石岡良治さん、師茂樹さんの構造分析も正直面白くない。評論に不可欠な“書くことの快楽”が読む側に全く伝わってこない。執筆者側が書く行為に愉悦を感じなくなった場合、読む側にもそれは伝達し、わくわくする心の高揚感が萎んでしまうことを判ってほしい。中田健太郎さんに関しては、非常に読みやすい文章なのだが、一昔前の蓮実重彦さんや松浦寿輝さん、文献を引いている加藤幹郎さんの映像論などの批評の枠組みから一歩も出てしない気がした。あえて言えば、新しい発見のない文章だと言える。
その点、医師の肩書きを持つ、春日武彦さんの作品論は読ませる。医師の目から見た「感情の可視化」が生んだ深い喪失感と無気力の奥に潜む恐怖(反ユートピア)が、やがて本当の病気を生む危険性を孕んでいると説く。精神科医ならではの思考が隅々まで張り巡らされている。
漫画家ひと手間かけ子さんは、『太公望伝』の阿姜と呂尚(のちの太公望)の会話と構図(動き)による読み取りの奥深さに感心。続く、竜児女の分析とともに、漫画家ならではの細かな視線が温かみを感じさせる。
最後になったが、高橋明彦さんの『孔子暗黒伝』に関する作品論は異色だ。他のメンバーの退屈な文章にいささかうんざりしていただけに、この論文からは実に新鮮な感銘を受けた。期待していなかっただけに喜びも大きかった。これこそ“書くことの快楽”と“読むことの愉悦”が結合した文章だ。この論文に出会えただけで、本書を購入した甲斐があったというものだ。
巻頭から間もなく、「ストーリーが明確に現れにくい作品であり、今あらためて考えるに、高度に注釈的に読まない限りさっぱりわからない作品である。」との一文が提示される。そこで継続的・断続的対象を一つの連続・完結したストーリーを構築するために必要な能力である記憶力のことに触れられていく。
高橋さんは直感的受動的な認知と意識的暗記の二つの極端な形式について説明する。判りやすい作品(一般漫画)は、この二つに大きな差異はみられないが、難解になるに従って意識的暗記が必要となってくる。意識的暗記は再認(再読)を積み重ねることによって形成されていくのだが、この手法は思った以上に神経を疲れさせる。(私も途中で休まなければ、この読書法は継続困難と感じた)また、P182・183の詳細にコマを追いながら、張り巡らされた伏線を間に挟みながら解読していく手捌きは実に切れ味がいい。伏線の解釈に意識的暗記を要求しないケースと必要になるケースを織り交ぜ、『孔子暗黒伝』の伏線に絡んだ考察の困難さを提起する。
論文の後半、『孔子暗黒伝』は陰と陽、光と影、善と悪といった二元論的対立を反復的に用いているが、根本においては太極一元論であると述べている。それを証明するのが、『孔子暗黒伝』のラストが『暗黒神話』の冒頭へと繋がる部分で、二つの別な話が繋がること自体が神話のあり方だと指摘する。そして、決定打として、「諸星の二進法的プロセスに従えば、太極へと至る収束のプロセスが神話化ということである。」と括られる。妙に納得出来る論拠ではないか。
最後は、駄目押しのように新案を提示する。諸星大二郎は、都賀庭鐘であるというのだ。私は知識不足なので、都賀庭鐘なる人物のことを知らなかった。江戸時代の読本作家らしいのだが、高橋さんによると、諸星さん同様、中国古典を独自の解釈で翻案して、日中が融合した説話を生み出したらしい。だが、如何せん作品を読んでいないので、諸星さんと酷似しているかどうかの判断出来ない。このいささか突飛な仮説を、P190の半頁から判断するのはいささか困難だが、良質な論文はそこに紹介された作家の本を無性に読みたくなるという自説を適用させてもらえれば、この文面から都賀庭鐘の本を確かに読みたくなるのだから、独創的な意見といっていいように思える。参考文献として、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、バルト、レヴィ=ストロースなどではなく、ベルクソンを掲げているあたりも興味をそそられる。
PCで高橋さんのことを検索したところ、ユリイカで何篇か評論を書いている(P184で余談として触れている楳図かずおの「わたしは真悟」の“おいてけぼり感”を目にしただけで、全文を読みたくなってしまう。【ちなみに『彷書月刊』で塚本晋也さんが「わたしは真悟」について言及している。偶然にしては出来すぎだ。】)だけで、まだ単独著作は一冊も出ていないようだ。出版社の真意やいかに。
他の論考は、果たして私の波長に合うのだろうか。覗いてみたい誘惑に駆られる。今後が楽しみな書き手の一人だ。

≪付記2≫
倉田卓次著『続・裁判官の書斎』のP155「水滸伝−誤訳の読み比べ−」の章に、以下の一文が載っているのを偶然目にした。(一部省略して引用)
「私は、マンガ文化も認める人間なので、例えば『西遊妖猿伝』が『西遊記』を下敷に史実と古伝説とをどういう風に利用しているか、一席ぶてる位にはマンガ劇画にも関心を持っている。」
この貴重な一文を、安易に見過ごしてしまったようだ。毎度のことだが、倉田さんは抑えるべきところはきちんと抑えている稀有な人だ。改めて敬服。

≪付記3≫
栞と紙魚子』の文庫四巻に掲載されている「井戸の中歌詠む魚」は、深い余韻が残る作品だ。
近作ではマンネリ回避のためか、主役の二人を脇に配するケースが多くなった。そんな中、久しぶりに彼女達をメインに据えた物語が生まれた。
舞台は寂れた一軒家。栞と紙魚子の友達瑞希の家族が、改築のために一時的に間借りした家だが、そこは至る所に奇妙な短歌の落書きが施されてあった。その不思議な匂いを漂わせた歌を巡って話は進む。家の中で化け物を目にした瑞希は、案の定この手のものが得意な栞と紙魚子を呼ぶことにする。短歌や奇妙な絵が点在する場所を丹念に調べながら、詳細な配置図を作成し、隠された謎を紐解いていく紙魚子の機敏な行動は、いつもながら清々しい。陰湿な物語に新な命が吹き込まれていくかのようだ。
やがて、萱間魚水という貧乏歌人と妻の悲惨な生活が浮かび上がってくるのだが、萱間の死後に刊行された歌集(紙魚子が自宅の古本屋から持ち出したものだろう)が意外な緩和剤になり、奥さんの思い入れが窺われる歌「蒼天に井戸の水底 照り映えて 我があこがれの竜宮の空」を地でいくような女性主導の流麗なラストへと結びつく。妻の昔描いたアンコウ(メスがオスよりずっと大きくて、オスはメスに寄生し、二匹は死ぬまで離れない)の絵と夫の歌との幸せな合体がここで成されたわけだ。鮮やかな幕切れといえる。
シリーズも終幕が近づいているかと思われたが、これを見る限りまだまだ続けられそうな気がする。継続を強く希望したい。ちなみに私は紙魚子のファンです。