『彷書月刊』(2005年7月号 特集・このさき諸星大二郎一丁目) 彷徨舎

いやはや本当に参った。これほど諸星大二郎さんの漫画に嵌るとは思ってもみなかった。
読み始めるきっかけとなったのは、崩れた本の山の中から(草森紳一蔵書整理プロジェクト)というブログに掲載されていた二つの文章だ。マンガ担当のLiving Yellowさんが2009/4/21付の「会社」と題された日記で、「草森紳一先生の御蔵書中、数多い諸星大二郎先生の著書の一つ、本書(集英社、1993年)の表題作、『不安の立像』がふと頭に浮かぶ」と触れ、続けて『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』も収録された、「ユリイカ」(青土社)2009年3月号での特集も好評のようだ。」とこちらを別世界へ引き摺り込むかのような魅惑的な文章が添えられていた。この時は、奇怪な絵柄の『妖怪ハンター』のあの作者のことかと、わざと目を瞑って見て見ぬふりをするつもりでいた。(諸星大二郎さんの絵柄が本来好きではなく、あえて避けていた部分もあった)だが、追い討ちを掛けるように、2009/6/18付でEMIKOさん(草森さんの娘さん)が、「NO MORE BOOKS ! 13 陶淵明 番外編 −漫画『桃源記』」からと題して、諸星大二郎の『地獄の戦士』(ヤングジャンプCOMICS)を手にした感想を克明に綴っているのを目にしてしまった。この続けざまの呼び水には、流石に勝てなかった。心に深く刻まれる文章なので、少し長いが引用してみたい。(一部省略と筆者注釈)
「ページを開くと・・ 両脇を山に囲まれた河とそこを渡る小さな一艘の舟の絵、上に「東晋の頃 −江南の地」と書いてある。二ページめくると大きなタイトル『桃源記』が目に飛び込んできて、そして右側に「桃花源の記」という詩の引用と合せて‘陶淵明’の文字が。ざわざわ、ざわざわ、胸が騒いだ。たちまちこの漫画をめくってみると、これは陶淵明についての、というだけでなく何と「形影神」の詩で最後がしめくくられていた。「形影神」の内容が、ある種全体の主題にすらなっている漫画だと気がつき、もう大声で円満字さん(【注】蔵書整理プロジェクトのメンバー)を呼んでしまった。『地獄の戦士』は六篇の作品から成る短編集だけれど、「ここをみなさい」と言わんばかりに父が貼ってあった付箋、恐るべし。漫画『桃源記』を読むと「形影神」の世界がヴィジュアルの情報をぐんと加味して拡がり、さらに容易く咀嚼できないものが見えてきてしまう。物語では淵明と共に行動するもう二人の人物(潜、元亮)が、実は他者ではなく淵明の分身でもあったという形で「形・影・神」のバランスが描かれる。」
EMIKOさんの陶淵明への心酔のほどが感じられる愛情溢れる繊細な文章だが、同時に草森さんの埋もれた蔵書から発せられる言葉にならない雄叫び(この記事に目を留めてほしいという呻き声)を背後で聞いたような錯覚に陥ってしまった。この叫声を耳にした側としては、草森さんが敬愛してやまなかった諸星大二郎の世界にどうしても踏み込まざるを得ない。そこで、当然のように必要となってくるのが、手引きとなる案内書だ。冒頭で触れた「ユリイカ」の特集号を、資料として取り上げることも考えたのだが、何故か発行日の古い本書を扱う必然性を強く感じ取った。言葉では言い表せない直感というか予感めいたものだといっていい。この予感はやがて確信へと変わっていく。
それにしても、「桃花源の記」という短い詩から、ここまで陶淵明の世界に踏み込むことが出来るものなのか。EMIKOさんではないが、諸星大二郎恐るべし。
またまた、長い前置きになってしまった。早速本題に入ろうと思うが、「ユリイカ」の特集号も並行して読んだので、ところどころで比較検証しながら、諸星ワールドに迫ってみたい。(本書に掲載された漫画は一応ほぼ目を通したが、『西遊妖猿伝』『マッドメン』『諸怪志異』と小説二冊ついては、未読だということを断っておく)本書は、以前取り上げた草森紳一さんの特集号と違い、中身はいたってシンプルで、巻頭のインタビュー記事と諸星作品に思い入れのある筆者が筆を取る構成は、いささか凡庸といっていいくらいだ。だが、その中身はきわめて濃い。執筆者のメンバーも考え抜かれた上で人選されたことが、記事の内容からも窺われる。
まずは、インタビュー記事から。
意気込んでいると、初っ端からはぐらかされる展開となる。そう、表題に「なんだか、変わってないんですね」とあるように、家の外観や本人の会話が意外にも普通なのである。インタビュー場所は、客間とおぼしき地下一階だ。聞き手の鈴木さんは、諸星漫画が生まれた土壌を少しでも解明したいと意気込んでやってきたはずだが、会話は一向に熱意を帯びず淡々しており、少々戸惑い気味だ。漫画の登場人物のように、怒涛のような言葉が奔流する展開はここではみられない。諸星さんは自分の作品に関して語ることが少々苦手なようだ。聞き手も、最後は諦めたように漫画の本筋から離れて、当たり障りのない家のことについて触れ始め、やがて一階の仕事場へと移動することになる。(P8の下段からP9まで)不思議なことに、このあたりから諸星さんの肩の力が抜けてきて、妙に生き生きとして微笑すら浮かべ始めるのだ。そんな中、ハーちゃんと名づけられた猫の変わった行動が目を引く。諸星さんの言葉を借用しながら、猫の生態に迫ってみたい。
「どうぞ。普段からもっときれいにしとけばいいんですけどね。ハーちゃん、そこにいたの。近寄るとハーッて怒るからハーちゃん。ヘン名前でしょう。ちょっと人を怖がるんですけど、もう一匹の猫はムカデをとってきたり、最近はヘビをとってきたらしい。」このもう一匹のネコの名前がムサシで、だいぶ年寄りだということが諸星さんの口から語られるのだが、そんなに年をとって爬虫類をとって食べる(遊ぶ?)なんて、こちらとしてはどうしても『栞と紙魚子』の一編「ポリスの獲物」に出てくる、ヨグという化け物を連想せざるを得ない。諸星さん宅には、作者と同じように異質な匂いを嗅ぎ取る動物しか寄り付かないような気さえしてくる。P9の上部写真で、諸星さんの暗い足元に隠れて、顔が黒っぽく写っているのがハーちゃんなのだが、あえて写真を撮られるのを避けるように、わざと伏せているあたりが可笑しくて少々不気味だ。気味が悪いと感じるのは、『妖怪ハンター』のプロローグで登場する真っ黒い生き物にも見えるからだ。
次は、備え付けの本棚のことに触れられていて、その本棚がP8に掲載されているのだが、意外なほどすっきりと本がきちんと収まっている。パソコンはほとんど使わず手画きで作業し、ネットで資料を探したりすることもないらしい。そこで、私はあらぬ幻想に襲われることになる。地下室の壁の隅に秘密のドア(一見どこにあるのか判らないような狭い扉)が取り付けられていて、そこを開くと本棚から溢れ出した膨大な量の書籍の山がいくつも点在しており、『栞と紙魚子』の初期作「古本地獄屋敷」に現れる謎の古本屋敷と全く同じように、下部に位置する本を抜こうとするとあっという間に山が崩れてしまう状態なのだ。周りを見渡すと堆く積まれた書籍の山々が数え切れないほど沢山見受けられる。諸星さんは、この書籍の山から必要な資料(本)を意図も簡単に取り出す。そう、何万冊という蔵書のある位置を全て記憶しているらしい。地下なので本の大敵である湿気を防ぐために、室温が常に一定に保たれるよう空調機までもが完備されている。このまま妄想を膨らますときりがないのでこの辺でやめにするが、このような奇妙な幻覚症状に捕らわれた原因は、現実の書斎が信じられないくらい、あまりにも綺麗に整理整頓が成されているからだ。
妄想を振り払う意味で、インタビュー記事の脇に掲載されている諸星漫画の僅かなコマを目にすると、それが非常に印象的な場面だというのに気づく。初期の傑作『生物都市』の主人公の少年が、金属と溶け合った父を目の当たりにする場面は、いつ見ても哀れみを誘うが、片や『栞と紙魚子』のショート・ショート「立読みゆうれい」という足のない幽霊を追い払う他愛の無い話をあえて選び、その後の展開が気になるように、わざと含みを持たせる形で載せているのが何とも心憎い。(最後のおちには笑ってしまったが)
次は、意外にも諸星さんの短編小説『キョウコのキョウは恐怖の恐』の分析だ。担当は、ホラー作家の倉阪鬼一郎さん。一流のプロの作家が、まだ一冊しか手掛けていない(現時点でも二冊)漫画家の小説について触れることは、困難を伴う作業のはずで、受ける人も人だが、依頼する人も人だという変な思いを抱いてしまう。だが、倉阪さんの歯に衣を着せぬ言い回しが心地よく、その分析結果をすんなりと受け止めることが出来る。
凶子と名乗る娘が、物語の流れとは別に突然現れるらしいのだ。倉阪さんはそこに違和感を覚え、その理由が詳細に記される。少し引いてみよう。
「「おまえはどうしてそこにいるんだ」凶子に対しては、そんなツッコミを入れたくなる場面がなくもない。ここでコミックと小説の文法の差異という問題が浮上する。栞と紙魚子は絵で描かれている。その絵を観た瞬間、栞と紙魚子は問答無用でそこに立ち現れる。絵というものはそれだけ現前性が強いわけだ。小説の登場人物は基本的に違う。読者が想像力によって補わなければ強く立ち現れない。」
と述べ、凶子が唐突に現れて物語を推進していく手法は、小説ではなくコミックの文法だと指摘する。続けて、視点を変えれば、凶子はフレームを超えているのであり、凶子が登場する部分だけコミックのコマが浮かぶと畳掛ける。小説を読んでいない側としては、この凶子の登場を自然なものとして受け入れられるかどうかの判断は付けられないが、確かに漫画のコマの運びではごく普通に思えたことが、小説だと異質に感じられる可能性は否定出来ない。特に、諸星さんの怪奇やSF漫画は突拍子もない方向へ話が転がっていく場合が多いからだ。(特に『栞と紙魚子』がそうだ)おそらく倉阪さんは、この従来の小説作法を度外視した語り口を見て、最初新鮮な驚きを隠せず、僅かな嫉妬を抱いたのではないか。その後熟読し、その異質な手法にぎくしゃくした歪みのようなものを察知して、逆に安堵したように思える。
最後に、倉阪さんは「行間が希薄で現前性が強い絵は、リーダビリティを含む受容度が高い。だが、諸星さんのいくつかの小説には行間を読まなければ何が起きているかつかめない。」(一部筆者改変)と言い、凶子の現れない『濁流』にはこの見えない行間(空白)を無理に読まなくても十分に理解出来る範疇の小説ということで評価出来ると結論付ける。あざやかな論考のように見えるが、諸星さんには唐突な凶子を出現させた上で、行間に濃厚な余韻が漂うような小説にあえて挑戦してほしいと願う。倉阪さんに反発したような形で締め括ったが、本業が小説家でなく、今後ライバルになるかもしれぬ人の本を、懇切丁寧に読み解いていくあたりの真摯な姿勢には感服した。
その点、『ユリイカ』で同じように諸星小説を取り上げた永山薫さんは、正直いただけない。本題ではないので簡単に記すが、巻末の不必要な註から始まり、小説のあらすじを延々二頁に渡って載せ、挙句の果てに一人称視点と三人称多次視点で作品を安直に切り捨てる方法には、思わず目を覆いたくなった。註3で、自分はプロではないが、漫画を書いた経験があるといった自慢めいた話も鼻に付く。こんな人に小説の分析を依頼するユリイカ編集部の姿勢を問いたい。倉阪さんの詳細な解析文にきちんと目を通していれば、これ以上諸星小説に立ち入る必要はないと考えるのが当たり前だ。
さて、高まった興奮を鎮めて先に進もう。
諸星さんの存在を知るきっかけとなった映画『妖怪ハンター ヒルコ』を監督した塚本晋也さんの登場だ。私はデビュー当時からのファンで、この映画を観たのも原作が諸星さんだからというわけではなく、監督が塚本さんだったからだ。今ではそんなに非難を浴びていないようだが、公開当時は塚本ファンからも諸星ファンからも見放されていた映画だったように思う。塚本さんが本文では、「ファンの方からおおむね何のバッシングもなかった。多分あまりに違うので異論を挟む気にもならなかったのだろう。」と書いてあるが、そんなことはなかったはずだ。確かBSでの公開討論か何かで、ある人がこの映画は塚本さんが商業主義におもねいた映画だといい、作品内容の判り易さを指摘し、嘆いていた記憶がある。諸星ファンの意見は残念ながら覚えていないが、塚本ファンとは逆な意味でこの躍動する疾走感に馴染めず、諸星漫画の重要な要素である静謐さが全くないといって怒っていたような気がするのだ。だが、この映画を最近二回見直したところ、新たな発見があったので、本題から少し外れてしまうが触れてみたいと思う。
塚本さんの文章にもあるように、この映画は『妖怪ハンター』の「黒い探求者」と「赤い唇」を原作として作られている。「赤い唇」の月島令子は、原作と全く違った形で取り入れられているのだが、見る側は、冒頭の月島の赤い唇に奇異な感じを抱くが、やがてそれが赤=血へと結びついていくあたりから、自然なものとして受け止められるようになっていく。原作との大きな違いは、映画では八部まさおという少年の背中に、自分の周りで死んだ者(肉親や友達)の人面顔がいくつも現れるが箇所だ。これは原作にはない。だが、『暗黒神話』の主人公の少年、山門武の体に刻まれる八つの蛇形の聖痕(八は、八俣の大蛇とか八頭の竜といった伝説へと結び付く)とまさおと人面顔がどうして重なってくるのだ。最後に壮大な飛躍の要素となる八つの蛇形の聖痕と違って、まさおの人面顔はヒルコを封じ込めると綺麗に消滅するあたり、陰陽といった両極をなすもののように見える。このあたりは、塚本さんが諸星さんからインスパイアされているように見えるが、塚本さんも負けてはいない。
本文にも書いてあるが、映画が公開された後に掲載された『妖怪ハンター』の新作漫画の中で、女生徒に「ねえねえ、稗田礼二郎って沢田研二に似てなーい?」と言わせている。これは、明らかにこの映画を諸星さんが気に入っている証拠である。(現に本誌のインタビューの中で、諸星さんは「塚本さんの「ヒルコ」、あれ原作とは違っていたから、逆に楽しめましたけど。」と述べている)もう一つ塚本さんが諸星さんに影響を及ぼしたと思われる部分がある。ともに制作された時期(1990年)がほぼ重なるので断言出来ないのが少々辛いが。『妖怪ハンター』番外篇ともいうべき「天神さま」(文庫『妖怪ハンター 天の巻』と『彼方より』に掲載)にそれは現れている。最後天神裏のお堂の中に少女千鶴子が吸い込まれる(P100〜P107)のだが、礼二郎が傍にいる沢口という少女に飛びついて千鶴子から遠ざけ、川島姉弟が千鶴子をお堂に潜んでいる精霊(悪霊?)から身を挺して(飛びながら)防ぐのだ。諸星漫画には珍しく激しい動きのある場面だが、実は映画ヒルコで、八部高史と月島令子が呪文を使って石室の扉を開いた後、二人が古墳の中へ宙を浮きながら、凄まじい勢いで引き込まれる部分に非常に酷似している。このスピード感が一瞬ではなく、何頁もの分量を割いて描き込んでいるあたり、何か映画への対抗意識のようなものを感じずにはいられない。
栞と紙魚子』の巨大な顔を持つクトルーちゃんの母親や新作「何かが街にやって来る」の化け物の形を成した姫君などに、映画ヒルコの空飛ぶ幻想の怪物を重ね合わせたり、映画の礼二郎と八部まさおのボケと突っ込みに、栞と紙魚子の面影を見たり、塚本さんと諸星さんの作品上での相互交流は、見えないところで頻繁に行なわれているようだ。
さて、本題に塚本さんの文章だが、自作の脚本を全て自分で書く人だけに、文章も手馴れて非常に上手い。プロデューサーから原作ものの話があった時、始めに気がない返事をしていながら、原作が諸星さんと判ると、手のひらを返すように低姿勢になるあたりの描写は、切ない心情がひしひしと伝わってきて妙にリアルだ。ここでも転載された『妖怪ハンター』の漫画の一場面が利いている。山の木々と一体化したヒルコ(比留子)が現れる瞬間を捉えたコマだが、右下の礼二郎の惚けた顔立ちからいって、普通はあまり掲載しない構図のように思えるが、あえてこれを載せるあたりの感性が素晴らしい。
ここまで、既に膨大な量になってしまったので先を急ごう。
『諸怪志異』の世界に迫った平岡正明さん文章だ。中国史に詳しい平岡さんだけあって少々難解で、歴史に疎い私には一回読んだだけでは内容を十分に汲み取ることが出来なかった。(この時点では、『孔子暗黒伝』を読んでいなかったせいもある)自分の勉強不足を大いに恥じ入りながら再度の熟読に挑戦。すると薄っすらだが、実像が浮かび上がってきた。特に竹中労さんと『水滸伝・窮民革命のための序説』を共同で執筆しているだけあって、水滸伝に収められなかった逸話に触れ、「竹中労と俺の水滸伝理解は、水滸伝という本は梁山泊党と方臘の反乱者の双方に、同士討ちはやめろという作者施耐庵の願いがこめられていることを強調するものだから、『諸怪志異』におけるエピソードの挿入のしかたに共感するものがある。」と語る。うるさ型の平岡さんにここまで言わせる諸星さんの構想力も凄いが、中国の怪奇小説『捜神記』『山海経』『聊斎志異』だけでなく、『水滸伝』までを網羅する『諸怪志異』とは一体どんな漫画なのか、益々興味は尽きない。
横道に逸れる平岡さんらしく、古今亭志ん生の落語『疝気の虫』『庚申待』に触れ、挙句庚申待から道教へと到る。庚申待の元祖ともいうべき話だが、天帝のスパイを人は身体の中に飼っていて、この虫にスパイ活動をされてはかなわないから、庚申の夜は眠らずに見張っているという。人の罪を天帝に報告行くというところから、庚申の夜に生まれた子供は泥棒になると言い伝えられているらしい。これを元にした落語『庚申待』を通しで聞いてみたい気もするが、いかにも中国の怪奇譚に相応しい話のように思える。最後の項では、漫画を読んでいた思い出深い場所(ラーメン屋・ジャズ喫茶・喫茶店)のことが記され、気楽に接している様子が窺えた。
これを読んだせいかどうかは判らないが、『ユリイカ』の巻末の編集後記で(舞)さんが、以下のようなことをコメントを載せているのには少々驚いた。「特集を組んでおいて言うのもなんだけど、諸星大二郎をしかつめらしく「読む」ことほどその魅力から遠ざかることもないのではないかと思う。」 (以下略称)このあと言い訳めいたことが綴られていくのだが、私は平岡さんのようにある程度歴史に精通している人ならいざ知らず、諸星漫画を気軽に「読む」ことは出来ない。通常の漫画は、「読む」よりも「見る」ことに重きが置かれているが、諸星漫画は小説のようにある程度意識的に対峙して読む必要があるとあえて言いたい。
次は、細野晴臣さんへのインタビューだ。
記憶に残ったのは、「諸星さんのマンガって、好きになった人はきっと一生好きになると思うんだけど、触れるまでに時間がかかるというか、きっかけが必要なんだろうと思う。」と述べられたところだ。正に私がその通りで、映画をきっかけに嵌りそうになっても不思議ではなかったのに、絵柄のせいか今まで手に取るきっかけが掴めなかった。“触れるまでに時間がかかる”とは本当に言い得て妙だ。
SF小説家の愛沢匡さんの文章は、本筋から逸れた奇妙なイギリスの女性詩人の行動に興味を抱いた。愛沢さんが、ある画家から聞いた話らしいが、個展を開いたその画家の絵を前にして、ひとりの女がしゃがみこんでいたらしい。女はやがて絵の表面に顔を寄せてぺろぺろと舐めはじめたので、驚いた画家は何事かと問い詰めると、あなたの絵を堪能しているというのだ。そんな鑑賞の仕方を知らなかったと画家で言うと、画家のくせにと笑われたというのだ。それからきちんと彼女は絵の感想まで述べている。愛沢さんは、こんな奇想天外な彼女に諸星漫画を読ませたら、きっと本の端っこでも齧り始めるのではないかと想像したようだ。
実際に、本を読みながら頁の端を破いて口に入れていたのが、幼少の倉田卓次さんだ。(『続・裁判官の書斎』「本を汚して読むこと」より)倉田さんの奇癖は、本の大切さを説く父親の影響もあってか、学童後期には直っていたらしいが、イギリスの女性詩人のこの性癖は大人になるまで、誰からも咎められなかったせいか、直ることはなかったようだ。ただ、日常生活の中では、こういった変わった行為はあまり見られなかったのかも知れない。単に視覚を超越した特異な味覚の持ち主なのか。彼女を奇怪な行為に駆り立てるものが一体何なのかが、どうしても気になる。
諸星漫画へのオマージュを連ねた古書店天谷伝さんは、海外の幻想怪奇小説との深い繋がりを語り、過去の読書体験に思いを馳せているあたりは、いかに本が好きであるかを鮮明に物語っている。
最後は、漫画家山岸涼子さんへの諸星さんに関するQ&Aだ。実は、山岸涼子さんという人のことを全く知らなかった。漫画に疎いのでご勘弁願いたいのだが、Wikipediaによると『舞姫 テレプシコーラ』という漫画で、諸星さん同様に、手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した凄い人らしい。そんな著名な方が諸星さんへの質問を投げかけると、何故か恋する乙女状態なるのが微笑ましい。印象的なのは、「Q.十秒間目を閉じてください。思い浮かんだ諸星作品のひとコマを。」と言われ、「『妖怪ハンター』の一作目(「黒い探求者」)で、こうはなりたくないと思いました」とコメントして、怪物ヒルコの似顔絵を描いているのだが、怪物が冷や汗を掻いているのが、妙にコミカルで可笑しかった。
本書は、諸星大二郎の入門書というよりも、本筋から外れた隠れた諸星漫画の魅力を補う役目を果たしてくれる。文中でも触れたが、数多く差し挟まれる漫画の一場面が、妙に的を得ているように見えるのは、編集発行人の故田村治芳さん以下、スタッフのセンスの良さが影響しているように思えてならない。多くの刺激的な記事を提供してくれた編集部の人達に深く感謝致します。また、諸星さんが保有している魅惑的な闇の世界に導いてくれた草森紳一蔵書整理プロジェクトの方々(特にEMIKOさん)にも、合わせて感謝の意を表します。

≪付記1≫
本文では僅かしか触れなかった『ユリイカ』の記事に関して、感想を少し書き留めてみたい。幻の初期作品『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』の掲載は、素直に褒め称えたい。当時のゼロックスコピーのコピーなのでいささか不鮮明だが、読むには全く支障がない。冒頭から中盤までシリアスな展開で進むので、結末にはいささか唖然とせざるを得ないが、途中までの緊迫感はやはり雑誌に掲載されるだけのことはある。後年のブレイクの匂いを、僅かだが感じさせてくれる。
夏目房之介さんと都留泰作さんの対談は教えられることが多い。特に気になったのは、夏目さんが知り合いの奥田鉄人という小説兼漫画家の人が、諸星さんのアシスタントをしていたという話で、本人は手伝いもせず、何もしないで遊んでいたらしい。この後で、「夏目さんはそもそも諸星さんの絵はアシスタントを使えるのかというくらい独特でしょ。」と続ける。
このアシスタント論に興味を惹かれたのは、古代史物とSF・怪奇物では何故か絵柄が違うようにどうしても感じられたからだ。諸星さんの絵は、よく下手な部類に入ると言われるが、古代史物(『暗黒神話』『孔子暗黒伝』)の筆捌きは上手いというレベルに十分達しているように思える。暗黒シリーズを雑誌に掲載していた時は、相当先まで先行して描き溜めをしていたと語っている(『彷書月刊』で自身が触れている)ところから考えると、余裕をもって仕事をすれば端正で綺麗な絵が描けるような気がするのだ。ただ、古代史物とSF・怪奇物の絵を意識的に描き分けているとすれば、この安直な理論は成り立たないし、アシスタントも当然不要だ。入念に絵を確認すればするほど、常に絵のタッチが気に掛かって仕方がない。
竹熊健太郎さんの会話形式の文章は面白い。特にP134下段の文章が、諸星さんの意外な側面が見受けられて興味深かった。長いが引用してみる。
「それから、『世界』(ムック本『西遊妖猿伝の世界』のこと)のなかにも載せたけど、部屋の壁に昔の長安の地図と現在の山手線の路線図を重ねたものが貼ってあったのをよく覚えています。長安の地図をトレーシングペーパーにトレースして、同じ縮尺の山手線の路線図の上にのせたものですけど、それを見て、「玄武門が巣鴨のあたりだったらここは芝だな」といった感じで実際に歩いてみて、当時の長安の距離感覚を知ろうとしていたそうです。」この距離感を参考にして漫画に生かすなんて、普通は考えないはずだ。やはり、諸星さんは常人じゃない。
評論に関しては、どれも感心しないものが多かった。安心して読めるのは、やはりベテランの巌谷國士さんと東雅夫さんだ。(呉智英さんは作品論ではないので対象外)ただ、巌谷國士さんの文章は、20代から30代にかけて読んだ時にはもっと楽しめたのに、今回は物足りなさが残った。絵の解読と作品の内部に迫った分量が、六:四ぐらいの比率のように見て取れ、明らかに絵の分析に重点が置かれているように感じられた。澁澤龍彦さんならそのバランスを自由自在に操ることは可能なのだろうが、巌谷さんは絵の構図(美術)に思い入れが深いだけに、どうしても比重は絵の分析へと傾いてしまうのだろう。年齢を重ねた私の好みが次第に変化していったのだとは思うが、今ではどうしても草森紳一さんが得意の長い雑文形式で諸星論を書いたとしたらと、あらぬ妄想に捕らわれてしまうのである。不謹慎な話だ。
他の評論では、海老原豊さんのSF論は凡庸で、永山さん同様いらない註が多すぎる。(1)〜(3)は、誰が見ても不要だし、参考資料もここまで明記する必要はないだろう。
伊藤剛さん、石岡良治さん、師茂樹さんの構造分析も正直面白くない。評論に不可欠な“書くことの快楽”が読む側に全く伝わってこない。執筆者側が書く行為に愉悦を感じなくなった場合、読む側にもそれは伝達し、わくわくする心の高揚感が萎んでしまうことを判ってほしい。中田健太郎さんに関しては、非常に読みやすい文章なのだが、一昔前の蓮実重彦さんや松浦寿輝さん、文献を引いている加藤幹郎さんの映像論などの批評の枠組みから一歩も出てしない気がした。あえて言えば、新しい発見のない文章だと言える。
その点、医師の肩書きを持つ、春日武彦さんの作品論は読ませる。医師の目から見た「感情の可視化」が生んだ深い喪失感と無気力の奥に潜む恐怖(反ユートピア)が、やがて本当の病気を生む危険性を孕んでいると説く。精神科医ならではの思考が隅々まで張り巡らされている。
漫画家ひと手間かけ子さんは、『太公望伝』の阿姜と呂尚(のちの太公望)の会話と構図(動き)による読み取りの奥深さに感心。続く、竜児女の分析とともに、漫画家ならではの細かな視線が温かみを感じさせる。
最後になったが、高橋明彦さんの『孔子暗黒伝』に関する作品論は異色だ。他のメンバーの退屈な文章にいささかうんざりしていただけに、この論文からは実に新鮮な感銘を受けた。期待していなかっただけに喜びも大きかった。これこそ“書くことの快楽”と“読むことの愉悦”が結合した文章だ。この論文に出会えただけで、本書を購入した甲斐があったというものだ。
巻頭から間もなく、「ストーリーが明確に現れにくい作品であり、今あらためて考えるに、高度に注釈的に読まない限りさっぱりわからない作品である。」との一文が提示される。そこで継続的・断続的対象を一つの連続・完結したストーリーを構築するために必要な能力である記憶力のことに触れられていく。
高橋さんは直感的受動的な認知と意識的暗記の二つの極端な形式について説明する。判りやすい作品(一般漫画)は、この二つに大きな差異はみられないが、難解になるに従って意識的暗記が必要となってくる。意識的暗記は再認(再読)を積み重ねることによって形成されていくのだが、この手法は思った以上に神経を疲れさせる。(私も途中で休まなければ、この読書法は継続困難と感じた)また、P182・183の詳細にコマを追いながら、張り巡らされた伏線を間に挟みながら解読していく手捌きは実に切れ味がいい。伏線の解釈に意識的暗記を要求しないケースと必要になるケースを織り交ぜ、『孔子暗黒伝』の伏線に絡んだ考察の困難さを提起する。
論文の後半、『孔子暗黒伝』は陰と陽、光と影、善と悪といった二元論的対立を反復的に用いているが、根本においては太極一元論であると述べている。それを証明するのが、『孔子暗黒伝』のラストが『暗黒神話』の冒頭へと繋がる部分で、二つの別な話が繋がること自体が神話のあり方だと指摘する。そして、決定打として、「諸星の二進法的プロセスに従えば、太極へと至る収束のプロセスが神話化ということである。」と括られる。妙に納得出来る論拠ではないか。
最後は、駄目押しのように新案を提示する。諸星大二郎は、都賀庭鐘であるというのだ。私は知識不足なので、都賀庭鐘なる人物のことを知らなかった。江戸時代の読本作家らしいのだが、高橋さんによると、諸星さん同様、中国古典を独自の解釈で翻案して、日中が融合した説話を生み出したらしい。だが、如何せん作品を読んでいないので、諸星さんと酷似しているかどうかの判断出来ない。このいささか突飛な仮説を、P190の半頁から判断するのはいささか困難だが、良質な論文はそこに紹介された作家の本を無性に読みたくなるという自説を適用させてもらえれば、この文面から都賀庭鐘の本を確かに読みたくなるのだから、独創的な意見といっていいように思える。参考文献として、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、バルト、レヴィ=ストロースなどではなく、ベルクソンを掲げているあたりも興味をそそられる。
PCで高橋さんのことを検索したところ、ユリイカで何篇か評論を書いている(P184で余談として触れている楳図かずおの「わたしは真悟」の“おいてけぼり感”を目にしただけで、全文を読みたくなってしまう。【ちなみに『彷書月刊』で塚本晋也さんが「わたしは真悟」について言及している。偶然にしては出来すぎだ。】)だけで、まだ単独著作は一冊も出ていないようだ。出版社の真意やいかに。
他の論考は、果たして私の波長に合うのだろうか。覗いてみたい誘惑に駆られる。今後が楽しみな書き手の一人だ。

≪付記2≫
倉田卓次著『続・裁判官の書斎』のP155「水滸伝−誤訳の読み比べ−」の章に、以下の一文が載っているのを偶然目にした。(一部省略して引用)
「私は、マンガ文化も認める人間なので、例えば『西遊妖猿伝』が『西遊記』を下敷に史実と古伝説とをどういう風に利用しているか、一席ぶてる位にはマンガ劇画にも関心を持っている。」
この貴重な一文を、安易に見過ごしてしまったようだ。毎度のことだが、倉田さんは抑えるべきところはきちんと抑えている稀有な人だ。改めて敬服。

≪付記3≫
栞と紙魚子』の文庫四巻に掲載されている「井戸の中歌詠む魚」は、深い余韻が残る作品だ。
近作ではマンネリ回避のためか、主役の二人を脇に配するケースが多くなった。そんな中、久しぶりに彼女達をメインに据えた物語が生まれた。
舞台は寂れた一軒家。栞と紙魚子の友達瑞希の家族が、改築のために一時的に間借りした家だが、そこは至る所に奇妙な短歌の落書きが施されてあった。その不思議な匂いを漂わせた歌を巡って話は進む。家の中で化け物を目にした瑞希は、案の定この手のものが得意な栞と紙魚子を呼ぶことにする。短歌や奇妙な絵が点在する場所を丹念に調べながら、詳細な配置図を作成し、隠された謎を紐解いていく紙魚子の機敏な行動は、いつもながら清々しい。陰湿な物語に新な命が吹き込まれていくかのようだ。
やがて、萱間魚水という貧乏歌人と妻の悲惨な生活が浮かび上がってくるのだが、萱間の死後に刊行された歌集(紙魚子が自宅の古本屋から持ち出したものだろう)が意外な緩和剤になり、奥さんの思い入れが窺われる歌「蒼天に井戸の水底 照り映えて 我があこがれの竜宮の空」を地でいくような女性主導の流麗なラストへと結びつく。妻の昔描いたアンコウ(メスがオスよりずっと大きくて、オスはメスに寄生し、二匹は死ぬまで離れない)の絵と夫の歌との幸せな合体がここで成されたわけだ。鮮やかな幕切れといえる。
シリーズも終幕が近づいているかと思われたが、これを見る限りまだまだ続けられそうな気がする。継続を強く希望したい。ちなみに私は紙魚子のファンです。