『奇譚クラブの人々』(北原童夢・早乙女宏美共著) 河出文庫

戦後数多く発刊されたSM雑誌の走りとも言える「奇譚クラブ」に携わった人達を、随筆形式で紹介したものである。沼正三著の『ある夢想家の手帖から』について書いた時にも感じたことだが、エッセイは紹介するのが非常に困難で、内容を詳細に取り上げようとすると、そのまま文章を抜き出してしまう危険性すらあって厄介だ。今回はやや偏向的かもしれないが、思わず頷いたり、新たな指針を与えてくれた、印象に残る章のみを抜粋して取り上げていきたい。
まずは、「『奇譚クラブ』の育ての親 須磨利之」についてだが、須磨さんが奇譚クラブや裏窓の編集者で、喜多玲子や美濃村晃として挿絵や小説を書いていたことは、以前から知っていたのだが、竹中英二郎として竹中英太郎さんそっくりの絵を書いていたことまでは知らなかった。須磨さんは、英太郎さんの大変なファンであったらしいが、完成された作品を見ていると自分独自の世界に引き込んで模写していたことが、細やかな筆遣いから感じ取れる。まさに、竹中英太郎さんが怪奇ではなく、エロスを漂わせる世界を書いたならば、必ずやこんなタッチで書いたと思わせるほど秀逸ものだった。(P16・17掲載)特に「硝子便所」「続硝子便所」の二枚は、様々な妄想を抱かせる傑作だといえる。
竹中英二郎の絵を目にしたことで本家英太郎さんに興味を持ち、鈴木義昭著(この人の著作には何故か縁がある)の「夢を吐く絵師」を読んで過去の英太郎さんの足跡を辿らせてもらい、そこから竹中英太郎記念館を知り、画集(現在も記念館で販売中)を購入し、不思議亭文庫という素晴らしいHP 《平野義久さん主催》を発見して、英太郎さんの見落としていた記事に出会うという幸運に恵まれた。奇譚クラブの英二郎の幻想味豊かな絵(今なら盗作問題に発展すると思うが)を目にしたことが、多くの出会いを生んだと今でも思っている。
一項目で思わず長々と書いてしまったが、次は奇譚クラブの定番ともいえる「縛られた女たち」から、この部分は他のカストリ誌マニアのHP“懐かしき奇譚クラブ”で多くの方が触れているので、若輩者の私は本来多くを語る資格はないのだが、この時代の白黒写真が、独特の淫靡な匂いを醸し出していたことは十分に察知出来る。素人のモデルが無理に縛りつけられたことによって、本物の傷みや辛さが表情の狭間から立ち上ってくる凄さもある。特に梨花悠紀子さん(私は彼女のファンだ)の気だるい顔は、気高い貴婦人が極悪非道の悪人に捕まって、全てを諦めてしまったかのような憔悴感に満ち溢れていて絶品だ。
次は、「黒髪への憧れ 伊藤晴雨」だが、特に晴雨の縛りに力点を置くのではなく、艶やかな黒髪が絵と写真の中でいかに重要であるかを解いた、北原さんの分析が見事だ。変態もここまでくれば、際物とか邪道とかといった言葉を封じ込めてしまう本物の凄さを感じる。
続いて「猿轡への執着」という項目、ここでも北原さんの筆が冴える。縛りにあまり興味のない私だが、猿轡にはこの文章を読んで非常に興味を抱かされた。欧米ではギャグと呼ばれている拘束具は奥が深く、布製(手ぬぐい・ハンカチ)・皮製・ラバー(ゴム)製や特注品のものまで、非常にバリエーションに飛んでいる。戦後のSM小説での使用は当然だが、戦前の古典文学者である滝沢馬琴山東京伝が、頻繁に小説や戯曲の中で用いていることも気づかされた。この教示は、奇譚クラブに掲載された新川裕夫の「さるぐつわ−この美しきものの詩と真実(1974年11月号〜1975年3月号まで)」で詳細に記されている。古典文学からの引用(二回目から)に関しては、北原さんが文中で紹介しているので、ここでは奇譚クラブで掲載された猿轡写真を、細部にまで渡って緻密に分析している一回目に少し触れてみたい。
塚本鉄三さんのフォトの中から、特に猿轡をされた女性の表情の魅力を様々な角度(視点)から紹介していく様は、写真と文章が正に一体化しているように感じられ、読んでいると奇妙な陶酔感に襲われる。この評論は、写真・文学・絵画・映画などでまだまだ書き続けられる要素を持っていたのに、残念なことに奇譚クラブの廃刊とともに記事は打ち切られてしまった。また、惜しむらくは、一回目記載されている文章と写真が一致していないものが多いことで(xx年x号からとのみ記載〜この号の奇譚クラブを持っていない者には読むのは辛い)、文章を読みながら手元にない写真を想像しなければならないのは、やはり少々きつかった。
いよいよ最後の項目だが、いつか書きたいと思っていた「革による拘束 四馬孝」についてだ。一部の人達は四馬さんのことを、本当の縛りが判っていない(縄の緩みなどを指摘)で筆を取った人だと揶揄しているが、北原さんも書いているが、四馬さんの特徴は限りない革への偏愛なのであって、縄への愛執の念ではないのだと言いたい。縄での縛りではなく、題名にもあるように革による“拘束”が、四馬さんには重要だったのではないか。掲載された革に包まれた女性の絵は、痛みがやがて愉悦にまで昇華したかのような錯覚さえ起こさせる。
確かに晴雨のように苦痛に歪まない顔は、SMを遊戯として捕らえているような誤解を生むかも知れない。しかし、ジョン・ウィリーをおそらく敬愛していたと思われる四馬さんは、血生臭い拷問など、本当は描きたくなかったのではないだろうか。有名な「花と蛇」の後半の挿絵に、少々筆の荒さが見受けられるのは、自分が入り込めない世界を書くことに対する、苛立ちや悲痛が原因だったように思えてならない。
ここまで書いて気づいたことは、触れている章に長文を寄せているのが、北原さんだけだということだ。共著の早乙女さんには、この仕事は少々荷が重かったような気がする。数々の特異な視点から性を論じている北原さんの良さが、遺憾なく発揮されている本だと言いたい。
出来れば、北原さんにはあとがきで触れている「倒錯のエロス」という題名で、追加補填して奇譚クラブそして裏窓・風俗奇譚まで食指を延ばして、新刊を出してもらえると嬉しい。
まあ、これは一読者のわがままとして、すんなり聞き流してください。

≪付記1≫
須磨利之や伊藤晴雨や四馬孝ら、魅力的なSM画家について記しながら、ふと現在BShiで放送中の「大胆不敵な水墨画」と題する、埋もれた古典絵師(芦雪・雪村まで放送)を掘り起こす意味深い番組の存在が頭を過ぎった。今更だが、同じ画家なのにアダルトという閉ざされたジャンルに足を踏み入れた為に、これからも陽の当たる場所では絶対に取り上げられないであろう者達の悲哀を、改めて感じないではいられなかった。
この番組の特徴とも言える、”模写”(現代の水墨画家が模写を行ない、古典絵師の筆遣いの奥深さと気概のようなものを味わう)をアダルト絵画でやったら、さぞかし面白いのにという卑猥な妄想に耽ってしまった。