『魔太郎がくる!! 新編集 全十四冊』(藤子不二雄A著) ブッキング

「このうらみはらさでおくべきか!!」のフレーズで陰惨な復讐の幕が開く、藤子不二雄Aさんの裏の代表作である。そう、表ではなくあくまで裏。深い闇に埋もれた中で、人知れずひっそりと咲く危険で魅惑的な暗黒界の毒花なのだ。眩しいばかりの白昼に花開いているのが、『怪物くん』『忍者ハットリ君』『プロゴルファー猿』『少年時代』『まんが道』だとすれば、昼間は蕾を閉じ森閑とした深夜にのみ花開くのが、『黒ィせぇるすまん』(後に『笑ゥせぇるすまん』と改題)『ブラック商会 変奇郎』(後に『シャドウ商会 変奇郎』と改題)』そして本作だ。
日頃あまり漫画を読まない私が興味をそそられたのは、草森紳一さんのユニークな漫画評がきっかけだった。小説などと違い、絵が主体の漫画にはこちらが空想を介入させる余地が少ないと勝手に思い込み、感想を書く対象として真正面から捉えてはいなかった。その考えを一変させたのが、立風漫画文庫『黒ィせぇるすまん』の「ドーン 図星でしょう」という草森紳一さんのあとがきだった。喪黒福造をファウストに見立てるいつもながらの鋭い視点も然ることながら、現代人が「ドーン」に弱いのは、“現代人の不安というのが、微温的な不安だからだ”と説く切込み方が実に斬新だ。私達がいつも具体的な不安が何なのかをなかなか掴めない中、微温的な日常の驚くべき正体(秘密や欲望)に照明光をあてて拡大するのが、喪黒の「ドーン」だと指摘する。
この言葉に耳を傾けて「勇気は損気」という物語に目を凝らすと心に響く。微温的な日常を逸脱するような強烈な武勇伝を残して、新聞記事の一面に載る夢を抱くしがないイラストレーターが主人公だ。この小心者にいつものように喪黒が近づくのだが、今回は雑誌の編集長もありきたりな日常からの脱却を期待して、“今の生活からの変貌”を言葉巧みに挑発するのだ。今やそそのかす側は、心の隙間を埋めるために近づく喪黒だけではなく、人の弱みを見つけて強引に抉じ開けて入ってくる無遠慮な知人にまで及んでいる。この奥深い草森評は、読み捨てという意識が強かった漫画への安易な概念を見事に突き崩し、文学と酷似した想像力を刺激して止まない作品がまだ数多く埋もれていることを教示してくれた。
そんな地下に潜んだ秀作漫画の中でも、群を抜いた出来栄えをみせるのが本書だ。ここ数ヶ月興味を抱き続けている黒魔術を活用ながらも、それを全面に押し出すことなく影の部分として位置付け、最後に現出する場面で衝撃度を倍加させる。巧妙に張り巡らされた罠をいかに見破れるかが、作品を紐解く重要な鍵である気がする。細部に拘りながら、可能な限りの探索を試みたいと思う。
まずは、うらみの一番「うらみはらさでおくべきか!!」を覗いてみる。
いきなり登校時間に目を奪われた。学校の時計が何とAM7:01を指しているのだ。初めはこちらの見間違いかとも思ったが、二話目がAM7:05とはっきりと示されていることから見れば、間違いではないことが判る。何が言いたいのかといえば、通常の始業時間が各学校でばらばらだとしても、現実の学校はAM8:00〜8:30の間が始業のはずで、このAM7:01の時間指定はおそらく何かを暗示しているのではないかということなのだ。そこでいささか突飛だとは思ったが、ヘブライ密教カバラ」について調べてみた。澁澤龍彦さんによれば、カバラリストたちは精霊を呼び出し、言葉と数字の魔力によって信じがたい奇跡を実現したとされ、キリスト教天地創造の意味を知ることが出来ず、ひたすら贖罪によって救われたとされている。カバラ的な異端の教義によれば、人間は知識(ソフィア)によって宇宙の秘密に迫り、神と等しく小規模な創造を行なうことが出来たというのだ。(澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』〜「カバラ的宇宙」より)
そこで、言葉と数字=知識に隠された秘密があるような気がして、数字に関して調べようとしたが、『黒魔術の手帖』にはカバラ数字のことが詳しく書かれていないので、ネットで検索したところ、”カバラ数秘術”というHPにぶつかった。誕生数という項目に七として、マイナス要因に神経過敏、自己中心的、尊大、冷酷、分裂的、反逆的、皮肉屋、孤独が掲げられ、七の感情分析として、「感情型の数字は恨むと恐ろしいのですが、七の成功への執念は怨念のようであり、成功のためなら自分さえも犠牲にし、ビジネスに関しては冷酷です。でも、自分を犠牲にして突き進めば孤独が付きまとい、感情を殺し続ければ辛さは増すばかりで、失うものが多すぎます。七の本来の願望は精神世界を理解してもらうことにあり、反逆精神の強さは本来そっちに向けるものです。」と記され、誕生数ではない数字の属性⇒感情型、奇数 >属性 感情型(二、六、七、十一、三十三)としては、「傷つくことを恐れるので秘密主義で、大切なものは目立たないよう大切に隠しておく特徴がありますが、スピリチュアルなものが好きでオカルト方面に詳しい人も多く、この分野は常に隠されてきた分野です。そのため非現実的と言われる分野で目立つタイプです。このタイプの人生のテーマは人の心なので、占いや心理学、哲学方面に向かう人も多く、ミステリアスなものが好きで、不思議な世界を追求することにロマンを感じます。鋭い感性の持ち主なので、霊感が強いとまで行かなくても何かを感じ取っており、不思議な体験をする人が多いのもこのタイプです。」と付け加えられていた。
やや強引な気がしないこともないが、藤子さんの中では魔太郎の登場は、この暗く歪んだ孤独と怨恨を孕んでいる七という数字からどうしても始まらなければならなかった気がしてしょうがない。01(一分)にはそれほどの重きは置かれていなかったのもしれないが、辻褄を合わせる意味で無理矢理解釈すれば、うらみの“う”の変形とは言えないだろうか。下のつを数字の七と見て、上の点は数字の一を指しているというわけだ。無謀なこじつけで失笑を買いそうだが、藤子さんの登校時間へのこだわりを何故か感じざるを得ない。
登校時間の解釈で膨大な分量を割いてしまった。急いで中身に触れようかと思っていると、絶句するようなシーンが現れる。冒頭、校長と担当教師に対して、魔太郎の母親が喋った何気ない一言がそれだ。「おはずかしいんですが、魔太郎はチビのうえに、人一倍気が弱く・・・」と言うのだ。母親だからと言って、自分の息子をチビ呼ばわりしていいのか。背が低くて・・・ならまだしも、母親からこんな差別用語が飛び出るとは思わなかった。ただ、藤子さんはこのチビという言葉をわざと押し込んだ節があるようなのだ。中公文庫版の一巻目(実をいうとこの本が魔太郎との最初の出会いだ)のあとがきで、藤子さんは小さい頃の悲惨な思い出を述べている。長いが引用してみよう。
「ぼくは子供の頃、クラスでも一番か、二番のチビだった。小学生の時、先生が入ってきて、級長が「起立!」と号令して皆がいっせいに立った。一番前の席にいたボクもモチロン起立した。すると、先生がぼくを見て「アビコ(ぼくの本名)、なぜ立たないんだ」といった。ぼくは「た・・・立っています!」と答えて教室中の同級生が大笑いしたことがある。ぼくはその時の恥ずかしさを今でも忘れない。そして、自分がチビだということをとてもくやしく思ったのだ。」
この話を耳にすると、藤子さんがチビという差別用語にいかに過敏に反応していたかを伺い知ることが出来る。そう、魔太郎の母親の言葉は、何気ない会話の中に差し挟まれているので、ここまで意味深いニュアンスを感じさせはしないが、不思議と心の奥に引っ掛かる。
初期の物語では、魔太郎は、ある程度のいじめを許容する姿勢を見せている。「・・・ぐらいなら許してやった」とか、「こんど何か俺に悪さをしたら」とか、「あいつになぐられたことは何とも思っていない」などと呟くあたりは、ある程度の苛めを快感にまで消化させる術を持っていたのではないかと勘ぐりたくなるくらいだ。その姿勢は、魔太郎の中で友人由紀子の占める比重が大きくなっていくに従って次第に崩れていく。由紀子は魔太郎にとってどんな存在なのか。永遠に気持ちを伝えられない理想の恋人なのか。それとも信頼のおける唯一の友人なのか。その答えは、うらみの二番に現れる魔太郎のノート見れば判る。「まるで、ジャンヌ・ダルクのようだ」と記されているところから想像するに、信念を曲げずに正義を貫き、苦しい時に救いの手を差し延べてくれる、言わば聖母か女神のような存在として捉えている。では、魔太郎はそれを黙って見詰める市井の臣として甘んじてしまうのか。否、やや強引な解釈をさせていただければ、ジャンヌ・ダルクの傍に常に寄り添い、彼女の名声を影で支えたジル・ド・レエこそが魔太郎と重なり合う人物にようにみえる。
ジルは幼児殺戮者、美少年愛好家、男色家として名高い人物だが、一筋縄ではいかない奥深い知性を保持していた。『黒魔術の手帖』やユイスマンス著『彼方』でその人物像を垣間見ることが出来るが、残虐性や好色性以外の部分として、文芸愛好家(珍奇なものの愛好者)、神秘主義者(キリスト崇拝・教会堂の建設)、悪魔礼拝の探求者という部分も兼ね備えている。魔太郎の古美術への傾倒(うらみの十三番、十六番)、純粋な心を持った人への敬意(うらみの十九番、九十三番)、悪魔の呼び出しへの警告(うらみの二十四番、五十五番)などはジル・ド・レエが抱いていた隠された影の一面を彷彿させる。『黒魔術の手帖』でも触れられているが、神秘思想と悪魔礼拝とは一見矛盾している考えなのだが、コインの表裏のように紙一重の存在だ。(以前『悪魔王国の秘密』の書評でも触れたが、神も、キリスト教徒に試練を与えるために、時には悪魔の力を利用することがある)ジルが以前から興味を持っていた悪魔崇拝に神秘思想が加わったのは、やはりジャンヌの影響が大きいらしい。ジャンヌが魔女裁判で処刑された後に、ジルの悪魔崇拝錬金術への耽溺が急速に進み、やがて虐殺と歪んだ性欲の探求へとのめり込み、奈落の果てに落ちていったように、魔太郎の前から由紀子がいなくなれば、魔太郎はとめどない自己崩壊を引き起こして、悪童の大虐殺まで行なう可能性を秘めている。この自己崩壊をぎりぎりのところで塞き止めている貴重な存在が由紀子なのだ。(『黒魔術の手帖』では、ミシュレの『妖術使論』を引用しながら、ジルの狂気を説明しているのだが、同じ方法を使って魔太郎の未来を予測させてもらえば、「最初はいやいやながら魔王の助けを借りて苛めを実行した人間を懲らしめていたのが、やがて悦んで自分の欲望(復讐の貫徹)を満足させるために相手を痛めつけるようになる。苦痛よりも死に近い瀕死状態を楽しむようになる。」といったように被虐行為に愉悦を感じるようになるかもしれないのだ。)
最終話に、悪魔の一族の手下から魔太郎に、由紀子への犯罪をそそのかす非情な指令が出される。この指令に従うか両親の命を助けるか究極の二者択一を魔太郎は迫られる。結論は書かないが、両親と同等の存在まで高められるほど気高く汚れのない崇高な女神、それがジャンヌ・ダルク由紀子だ。
ここからは具体的な物語を覗きながら、魔太郎の世界に迫ってみたい。
本書はいくつかの共通の主題を扱っている。その中に苛められている生き物に対する限りない愛情がある。
果敢な片目のネズミ左膳が活躍する「うらみの九番 ネズミがネコをかむ!!」や紀州犬シロの格闘ぶりが目を引く「うらみの九十九番 犬の飼い方教えます」がメジャーだが、あえてマイナーな「うらみの二十五番 ぼくのペットは吸血コウモリ!」を取り上げたい。
吸血コウモリのペット話は、多くの人からみれば気味の悪い生き物に愛情を注ぐ偏奇趣味の匂いを感じ取るかも知れない。ただ、コウモリを見続けていくと、それが次第に可愛らしい存在に思えてくるから不思議だ。魔太郎が愛着を抱くのは、残忍な飼い主が与えた餌を食べずに、わざと悪童の手に噛み付くところや、悪童に痛めつけられる魔太郎を見ながら、キキーッと鳴きながら同情を示すシーンを目にしたことによる。悪童が餌を与えていないために、衰弱しきって横たわっているコウモリに、魔太郎は自分の手を差し出して生血を吸わせる。この決死の覚悟も凄いが、直前の台詞が輪を掛けて壮絶だ。「おいっ!きみっ!しっかりしろ!」と言うのだ。もはや、コウモリは魔太郎とって、人間と同等の存在なのだ。全ての生き物を差別せずに、自分の身を投げ打って命を助ける。我々が忘れてしまった、真の動物への愛情表現がここにはある。
次は、コレクター(収集家)が遭遇した悲惨な顛末を扱ったものだ。
古い武器を実際に使いたくなる衝動を抑えられなくなった「うらみの十三番 秘密兵器も使いよう!!」 や陰湿な切手収集家のずる賢いまでの悪意を漂わせた「うらみの十六番 きたない切手集めは許さない」が代表的な作品かと思うが、ここは怪奇趣味とコレクター物を合体させたような異色作「うらみの九十三番 フランケンシュタインを愛する男」に触れたい。
ある日電車の中で、魔太郎はフランケンシュタインにそっくりの強面の男に出会う。男は外見とは違い、心優しいフランケンシュタインマニアだった。まずマニアの薀蓄(藤子さんの知識だと判っていても)が素晴らしい。特に怪奇俳優ポリス・カーロフに関するくだりは、気持ちが入り込んで熱弁口調になっているのが判る。このカーロフの映画の詳細が載っている本に纏わる話が続く。熱く語られた話の後だけに頷ける展開だ。この後は、ネタバレになるので詳しくは書けない。探していた本を手に取った時の何とも言えない喜びは、収集家でないと判らないはずだ。だからこそ、逆にその喜びが打ち砕かれた時の絶望は限りなく深く、落胆の度合いは地獄へ落ちるような錯覚を覚えるほどだ。マニアの心の機微を丹念に汲み取っていく、藤子さんのデリケートな感情を伺い知ることが出来る好篇だ。
次は共通の主題というわけではない。ある映画へのオマージュとも言えるようなものが、いくつかのエピソードの中に垣間見れたので、その件について少し記したい。
その映画とは、伝説の怪奇映画『テラー博士の恐怖』だ。イギリスのマイナーなアカミスプロが制作しているためか、ストーリーの洗練さよりも、見る側の恐怖を最大限に盛り上げることに全精力が注ぎ込まれている。監督のフレディ・フランシスは駄作が多い人だが、今回は五つのオムニパス映画の形式取っているためか、凍りつくような緊張感が、画面の隅々にまで漂っているのだ。(残念なことにこの映画は、未だDVD化されておらず、ビデオテープでしか見ることが出来ない)
話が少々横道に逸れたが、本書と雰囲気が似ているものが三話ある。それぞれを比較し、浮かび上がってくる恐怖の質の違いを探ってみよう。
「うらみの七十七番 手の花が咲いた!」と映画「殺人植物」に見受けられる共通項は、どちらも植物に感情を持たせたことにある。漫画は可愛らしい小さなサボテンに感情が生まれ(ただ魔太郎だけにしか反応しない)、この植物が次第に強い自我を発揮して、次第に魔太郎を困らせていく。映画では、突然思考能力を持ったが植物が庭に生え、その奇怪な植物が家の周りを取り巻いて、次第に人間を追い詰めていくのだが、出来は明らかに漫画のほうが上だ。特定の人間にしか愛情表現を示さないことが、独特の恐怖を呼び覚まし、同時に奇妙な愛着を抱かせ、軽妙な効果を生む。
「うらみの六十一番 魔教ブードーののろい」と名前も同じ映画「ヴードゥー」の比較だ。魔太郎はブードーのろい人形を使って因縁を付けてきた男を呪い殺すのだが、その後の展開は切人の微笑ましい悪戯へと転化されてしまうので、恐怖の度合いは半減する。「ヴードゥー」は、ヴードゥー教を信仰する部族の音楽(楽譜)を盗んだ若者が、勝手に自分の作品として発表したために、部族の一味から執拗く追い回される。悲惨な状況が何度も出没するので、心に深く刻まれてなかなか離れない。これは、映画のほうが上か。
最後の比較は、「うらみの百一番 手を売る男」と映画「死んだ芸術家の手の復讐」だ。
魔太郎は、暗いトンネル中で奇怪な格好をした物売りから左手の紙ばさみを買う。この日から魔太郎は奇妙な夢を見てうなされる日々が続くようになる。魔太郎が手にした不気味な紙ばさみに隠された謎とは・・・ 怪奇やの覆面おやじの細密な分析や深夜十二時に動き出す左手の不気味な動きなど、恐怖と推理を融合させた怪作だ。「死んだ芸術家の手の復讐」は、美術評論家の主人公が自分の名誉を汚されたとして、有名な画家を轢き殺そうとするのだが、望みを果たせずに画家の利き手のみを潰した過失事故として処理される。やがて絶望した画家は自殺する。事故で失った画家の利き手は、評論家の幻覚として何度も現れ、復讐の対象を闇に包まれた地獄へと引きずり込もうとする。幻覚が恰も現実のもののように感じられるくらい生々しく、人を殺した後に絶え間なく現出する死の幻影(悪夢)を想起させ、一層の恐怖心を煽る。この勝負は引き分けと見た。これは勝手な想像だが、藤子さんも私同様、『テラー博士の恐怖』には、強い思い入れがあったような気がしてならない。確認してみたい事柄だ。
ここまで書いて来たが、まだまだ語り尽くせない感がある。悪魔サターンの呼び出し法、悪魔術から見たうらみ念法(変身術)、向かいの隣人切人の正体、切人の弱点由津子の秘密など上げればきりがないので、お気に入りの二作に触れて口惜しいが幕を閉じたい。
これは、コレクター物として扱うべきものなのだが、あえて残しておいた。心に染みる一作「うらみの十七番 ぼくの親友はガンマニアだ!!」だ。
まず、冒頭木製のモデルガンの細部の名称をわざと英語表記しているところが、かなりマニアックで、同好の趣味人を多分に興奮させる。その銃をギターケースで学校へ運ぶあたりも、十分に考え抜かれている。モデルガンでも学校への持ち込みはもちろん厳禁で、ましてや販売すれば犯罪行為の一種とみなされるはずだ。このガンマニアの巌呉次(この名前が痺れる)と魔太郎は友人になるのだが、巌はある時にこう呟く「きみとはなぜか気が合うんだ。この部屋へはママさえ入れたことはないのに・・・」これを受けて魔太郎が言う。「きっときみもぼくも孤独だから・・・気が合うんだよ・・・」平凡で何気ない台詞のやり取りだが、一部の人間にしか心を開かないもの同士の意識の交換が窺える。やがて、巌が作ったモデルガンが強盗事件で使用されたことが発覚する。これを苦にした巌は、警察への出頭を決意する。友情の印として受け取った巌の最後の作品(シュマイザー機関銃)を手に、魔太郎は悪意に満ちたガンマニアとの対決の場に向かう。魔太郎のうらみ一念と巌の怨念が生み出す相乗効果は思わぬ結末を生む。裏切り・友情・勇気と盛り沢山に詰め込まれた人生の教訓が、最後に晴らすことの出来ない暗い感情となって見事に集結するのだ。単純なうらみ念法を超えた情念の噴出がここにはある。
もう一作は、涙腺が思わず緩む名品「うらみの十九番 空中に浮かぶ魔法の岩よ」だ。
これは、藤子さんが敬愛するシュルレアリスムの代表的な画家ルネ・マグリットに材をとった作品だ。マグリットに心酔しきっている売れない画家純野が、魔太郎にマグリットの良さを説明している印象深いシーンから始まるのだが、魔太郎は悪魔が備える飛躍的な想像力で、その作品の魅力をすぐに感知する。その後、魔太郎は純野が書いたマグリットに酷似した絵の良さをも理解し、この絵が二束三文で売られるはずがないことを直感で見抜く。そう、純野の友人モヒカンがその絵のスポンサーを見つけて、自分の絵として販売していたのだ。魔太郎に連れられて、モヒカンの展示会(全て純野の作品だ)をやって来た純野が、モヒカンに面と向かって喋った言葉に魔太郎は唖然とする。「モヒカンくん、いいんだよ。そんなこと気にしなくって。」「きみがぼくのためを思ってしてくれたことだ。あの絵はきみの絵ということにした方がいいよ!」だが、このキリストのように汚れを知らない純野の清らかな心を、モヒカンは徹底的に踏みにじる。当然うらみ念法が炸裂するのだが、魔太郎の心はどうしても晴れない。優しい気持ちを抱き続けた純真無垢な正直者は、最後まで救済されることはないのか。魔太郎の自問自答は永遠に続く。神秘思想(キリスト)と悪魔崇拝(サタン)の二面性を持つジル・ド・レエ魔太郎の苦悩は深い。耐え忍ぶことの困難といじめられる側の深い心の痛みを物語の底辺に据えて、復讐した側の埋められない空しさも同時に浮き彫りにしてみせる藤子さんの手碗には、ほとほと敬服させられた。
魔太郎なら、最後はきっとこう締め括るはずだ。
「こんな面白い本、読まさずにおくべきか!!」

≪付記1≫
いつものように、上記の書評を書き終わってから、『魔太郎がくる!!』関連のHPを検索。
「魔太郎が狂ゥ!!」で、私も取り上げた“フランケンシュタインを愛する男”について記されていたので熟読。コレクターは酷似した感情を抱き、同じような悲劇に遭遇するものなのか(ただ、目の前にあった一点物の商品を買われた経験はないが)としみじみと実感。
題名もそのものズバリの「うらみはらさでおくべきか!!」のHPで、秋田書店の旧版の修正箇所と新装版(新編集)で削除された二十五篇の紹介が成されているのが嬉しかった。ただ、修正・削除されたエピソードが完全な形で紹介されていなかったのが惜しまれる。数篇のエピソードを書き込んだところで、出版社から何らかのクレームがついたのだろうか。主催者に確認してみたいところだ。
秋田書店の旧版(全十三巻)は、値段や状態を気にしていると一生手に入らないかも知れない。まだ、購入する気はなれないが、いつか是非読んでみたいと思う。
特に気になっていた「うらみの二番 鉄のキバがひきさいた夜」のラストが、旧版とは大幅に違っていることを知った。新版では、「うらみ念法!怪獣変わり!!」と魔太郎が発した後に、突如悪童二人が怪獣に追いかけられる場面になり、一瞬呆然と佇んでしまった記憶があるだけに、旧版のラストの展開は多少悲惨だが妙に納得してしまった。こう考えると、やはり旧版を読まなければ、魔太郎の隠れた秘密のベールを剥ぎ取ることは出来ないのだろう。無念だ!

≪付記2≫
本文で触れたHP「カバラ数秘術」で、特に数秘術講座が数字への興味を呼び覚してくれる。ところどころ専門用語が挟まれていて多少戸惑うが、丹念に調べれば解読は可能だ。是非一度覗いてみることをお勧めする。
ただ、この手の秘術は嵌ると抜けられなくなる魔力も潜んでいるのでご注意を。