『月光のドミナ』(遠藤周作著) 新潮文庫

私は軽症の観念マゾヒストである。自称なので、他人からは軽症に見えないかも知れない。この症状を自覚したのは、第一回目の書評で取り上げた私のバイブル(常に読み返す稀な本だ)ともいうべき本、沼正三著の『ある夢想家の手帖から』を読んだことによる。
著者は、戦時中に在外で捕虜になった際に、相手の司令官夫人から訓練を受けて生まれもつかぬマゾヒストとして復員した経歴を何度となく語っている。この確かな経験に基づいた古今東西マゾヒズムの文献紹介は深く心に刻まれ、特に数多く紹介された雑誌の投稿記事などでは、自分があたかも登場人物と同化してしまうような錯覚に幾度も陥り、マゾヒスト願望が密かに内包していることを気づかせてくれた。ただ、私も沼さん同様、行動派ではなく観念派なので、文字を追い永久に叶えられることのない欲望を満たしている。その意味で、実生活と虚構の世界でマゾヒズムの観念と行動を旨く融合させ、小説という形で見事に結実させたマゾッホ谷崎潤一郎は、マゾヒストとしては理想の人物だったように思える。このような幸運な輩は他に見当たらない。
本書を知ったのは、『ある夢想家の手帖から』の十二章「象徴としての皮膚の色」という、遠藤さんの小説『アデンまで』を元に白人への劣等感(やがて白人崇拝に繋がる)に迫った文章に目を通したことに端を発する。そこには、マゾヒズムというよりも肌の色による人種差別(白・黒・黄)が引き起こす屈辱が克明に記されている。「階級対立は消すことはできるだろうが、色の対立は永遠に拭うことはできぬ。俺は永遠に黄いろく、あの女は永遠に白いのである。」とまで言い切る男の心情には、追い詰められた被虐を感じるが、主人公は日本人の女には抱くことが出来ない蔑まされたことによる異常な愉悦を逆に見出す。これこそマゾヒストの真骨頂といえるのではないか。踏みにじられ痛め付けられることで、研ぎ澄まされる感覚というものもまたあるのだとつくづく思う。
『アデンまで』に続く『白い人、黄色い人』もまた、白人に対して生じた自虐感を扱ったもので、ここまで作者が白人崇拝に拘っていることを見ると、自身がキリスト教徒であったことが少なからず影響しているのはないかと、変な勘ぐりを入れたくなるほどである。遠藤さんという作家は、作品とは離れた生立ちから見詰め直さないと掴み取ることの出来ない歪んだ気質を、心の暗い闇の奥に沈殿させているような気がする。
ここから本作に触れたい。十一篇からなる短編集である。その中から、表題作(ほとんどが20〜30頁の掌編だが、本編は50頁近い)のみを取り上げることにしたい。
旧作の『アデンまで』『白い人、黄色い人』に比べて、白人崇拝の主題は奥底に隠れおり、最後までなかなか表立って現れることはない。いや白人崇拝以外の主人公の行動すらも、全てがオブラートに包まれているようで、こちらの感情が直接的な行動から揺さぶられることはほとんどないといっていい。表面上だけ見ると、妙に歯がゆい行為が延々と綴られていくような感じをうけるが、自分が保持する性癖への苦悩という、誰もが少なからず背負っている重い十字架の存在が見え隠れするのだ。そこで今回は多少危険な試みかとは思われるが、空白のベールで閉ざされたように感じられる箇所については、敢えて自分の突飛な妄想(空想)を強引に差し挟んで、作品世界をこちらに引き寄せて語ってみたい。
パリの日本人留学生専門のアパート薩摩会館に、主人公の遠藤(作者自身)が転居してきたことから物語は始まる。初めて出会った背の低い陰気で頭の薄い青年千曲と主人公の関係がメインで話は進む。部屋の異様なニンニク臭、鉛色の顔色、赤黒く魚の血のような唇の色と、千曲に関わるものは全て気味が悪いのに、主人公は彼の行動を何故かいつも気にかけている。男色家の観察行為とは明らかに違う。自分と共通の気質を感じ取って、妙な親密感を抱いたようなのだ。そんな中、ある裁判所の傍聴席で主人公は千曲を見かける。千曲は被告人の女を見て言う。「あの女は継子を台所に入れてガス栓を捻ったのよ。そして隣の部屋に行って自分の男と寝たのよ。そのイボンヌの気持ち・・・」千曲は好奇心に駆られ、イボンヌの家に押し掛ける。そこで、犯行のあった現場を見て想像を膨らませ、挙句の果てに「継子の体を煙草の火で焦がしたり・・・」と常軌を逸した行動まで思い浮かべるのである。主人公ではないが、この異常な感情はどこらか湧き起こってくるものなのかと疑いたくなる。千曲は虐待された幼い頃の自分とガスで殺された子供をどうも重ね合わせてようで、愛人との肉欲は、異常な悦楽にまで到る卑猥な妄想へと発展する。
この愛欲図は、奇譚クラブの創設メンバー須磨利之さんの母と叔父が土蔵の二階で行なっていた淫靡な縄責めの記憶が、少年の須磨さんをサディズムへと駆り立てたこととどうしても繋がってしまう。須磨の記憶は多分に誇張が含まれていると思うが、気品溢れる母が汚辱に塗れた女へと転落した暗い過去の記憶を、少年がどうしても拭い去ることは出来ないこともまだ事実なのだ。
千曲の不気味さは、自分の部屋で飼っている二匹のモルモットについて呟く一言で更にエスカレートする。「ぼくあ、子供の時からモルモットなんか、手で握った時の感触が好きなのよ。」このあたりから、次第に言い回しが女性口調の度合いが増し、更に気味が悪くなるが、モルモットを握ったやや暴力じみた感触(握り潰したい願望)へと移行する部分は、やや猟奇的な様相まで呈する。殺された子供に思いを重ねるマゾヒズム感覚からすれば、一見矛盾するように見えるモルモットを握り締めるサディズムは、自分をモルモットに投影させていると解釈すれば容易に説明がつく。妄想は、直接的に目に入った行為からではなく、間接的な想念から呼び起こされ、やがて思いもしなかった膨張を見せ始める。
動物をSMの対象として扱った例に、富岡陽夫の『まぞひすと・さじすと』(奇譚クラブ1953年11月号 〜『秘密の本棚Ⅱ・マズヒストの歓び』徳間文庫掲載)が上げられる。全体的には緊張感のない凡庸な物語なのだが、冒頭の一章で、生け捕りにした鼠をアルコール漬けで瀕死状態に追い込み、いたぶりやがて踏み潰して殺すまでの主人公の妻の残虐行為が描かれ、妙にリアルで凄まじく強烈な印象を残す。鼠を踏み潰しながら彼女は言う。「骨のくだけて行く感触って、いいわね」次に、主人公の独白が続く。「彼女は中々やめなかった。目の前で荒れ狂う二本の白い美しい脚を眺めているうち、死んだ鼠がむしょうに羨ましくなった。そうして妬ましくさえなった。」そう、この男も動物に自分を置き換えているのだ。
日本に帰ってきた主人公に、千曲から郵便で一冊の古びたノートが送られてくる。送った相手は、学生時代の主人公ではなく、作家になった主人公に対してのものだと判明する。そこには、作家は人間を偏見なく見る義務があるとまで書かれている。千曲は、幼い過去の思い出の中で、自分の中にマゾヒズム(手紙の中に「モルモットを握ることも、イボンヌの家を歩きまわったことも。僕あ、いつも情欲の暗い衝動に押されてやったんです。」と書かれているが、マゾヒズムとは一言も書かれていない。そうこの小説にはマゾヒズムサディズムという言葉一切使われてないのだ。)が育成されていった経緯を詳細に書き留めていく。
そこに書かれた第一の思い出は、幼稚園で知った房子という髪の長い暴君のような少女のことだった。千曲はいじめにあっているところを少女に救われ、それ以来彼女の傍で行動を共にするようになる。いわば下僕のような存在だが、彼はそんな自分を卑下しない。かえって快感のようにさえ感じている。唾だんごをいう遊び(煉瓦を石で擦って赤い粉を作り、その粉の中に唾を入れてだんごをつくる遊びらしい)の中で、房子が唇をすぼめて白い唾を吐くところを、少年は眩暈が起きるような感覚の中で見つめる。何か自分に吐き掛けられるのをじっと待っているようにも思われる箇所だ。ただ、幼い少年には好意を持つ少女の唾は、神聖な聖水と同様に清らかなものに思えたのかも知れない。その貴重なものを手に入れる偶然の出来事が少年に訪れる。彼女が口に含んだゴム製の酸漿をうっかり落してしまうのである。その唾に濡れた酸漿を、少年は誰にも気づかれないようにそっと拾い上げる。家に持ち帰った少年が行なう行為は、言わずもがなのことなので、あえてここには記さない。唾という汚物ともいえるべきものが、光り輝く極上の宝物へと変貌していくこの過程には、軽いフェティシズムの要素が含まれている。
第二の思い出は、母方の妹の叔母の悪口を、親父の母親の祖母に言い付ける行為を何度も行なっていた少年が、祖母がいないある時に、叔母から腕を千切れるほど強く抓られる。日頃の仕返しだ。この後、少年は祖母への告げ口をしないことを、叔母に約束させられるのだが、その後の少年の独白が、彼の症状が更に進行していることを確信させる。
長いが引用してみよう。「僕は眼に泪の溢れているのを感じた。けれども、その泪にくもった眼の中に、まだ唇をゆがめ残酷な微笑を浮べた叔母の顔が残っていたんだ。その夜、僕は祖母に何も言わなかった。叔母が怖かったからじゃない。叔母にあのような形でまた愛されたかったんだ。」泪が流れるほど強く抓られても、それが愛されているからこそだと好意的に受け取るこの感情を、少年は生涯の下地(種〜初期症状)と感じているのだが、憎しみと愛情の境目がもはや見えなくなるほど悪化した中期段階として捉えるべきなのではないだろうか。
悪意を込めた残酷な微笑が、天使の微笑みにも見える歪んだ瞳は、夏休み大磯の夜の海岸で見かけた白人の女性の甘美な幻影見ることにやがて結び付いていく。これが、第三の思い出というわけだ。ただ、ここで幻影を書いたのは、この白人の意味のない平手打ち(裸を見られたことによる羞恥心から出た行為というにはあまりにも不自然だ)を受けた後の少年の何とも言えない陶酔感が、どうしても現実のものとして感じ取ることが出来なかったからだ。ここも引用してみよう。「口惜しさも怒りも僕は感じなかった。なにか暗い世界に引きこまれ、落ちていくようなきがする、その暗い世界は人間が死後、すいこまれていくあの涅槃のようなもの、考えることも苦しむこともなくただ眠ることのできる涅槃に似ていた。・・・(以下略)その人の足はもう眼の前にはなかった。(ドミナ)という言葉がその時、流星のように僕の頭を横ぎった。」なぜ悟りの境地とも言える涅槃という言葉がここで出来たのか。平手打ちをした女性を突然ドミナ(通常は女主人の意だが、ここでは女王と解すべきだろう)と崇めて絶対的な存在として位置付けるのか。これが現実の出来事だとは私には解釈出来ない。日中、大磯の海岸で目にした白人女性が理想的な風貌と体形を成し、そこに強い女のイメージとして残っている第一・第二の思い出が入り込み、魅惑な絶対君主のドミナ(女王)を生んだとは言えないだろうか。
以後、千曲は存在しない架空の白人ドミナを求めてパリ、リヨンなどを彷徨ことになるが、一般女性にこの行為(意味もなく叱ったり叩かれたり)が受け入れられるわけはなく、娼婦に恥辱プレイを頼むが、真実味に欠ける偽装行為は欲望の充足には繋がらない。そんな中、子供を殺して愛人と肉欲に耽る異常なほど驕慢な犯罪人イボンヌに理想のドミナを重ねて夢想することは無理からぬことではあった。
ここで一冊目のノートが終わるが、やがてリヨンから帰った留学生から二冊目のノートを受け取ることになる。千曲の死を知った中でノートに目を通すと、欲望を癒してくれそうなリヨンの一軒家(高級淫売屋ではないようだ)を、同類の嗜好を持つ男から紹介されたことが記されていた。商売のためでなく、マゾヒストを癒すことに主眼を置いたロック夫人が取り仕切っているこの家の秘密とは何か。肝心なこの家での出来事は、何も書かれていない。おそらく、遠藤さんはこの空白部分を読者の想像に委ねたのだろう。そこで、私の勝手な推測(極端な妄想)を書いてみたい。
前項で触れた『秘密の本棚Ⅱ』の中に、三原寛の『奴隷を求む』(奇譚クラブ1964年10月号)という小論(小説ではない妄想譚といったもの)が載っている。新築の一軒家がある。そこに住んでいる横暴な権力者である女王魔美は、入居を希望する奴隷達に、下記のような過酷な条件を提示する。
1.動産でも不動産でも兎に角財産を処分して、現金に換え、裸一貫で、私の所に一生を投げ出して来る事。
2.私を受取人として生命保険をかける事に異議のない者。
3.その生命保険は完全に私の自由とする事。
  たとえ私に生命を奪われても、或いは私に自殺を命じられても喜んで従う事。
4.私の命令はたとえどのような事でも絶対に服従すること。
5.私にいつ捨てられても異議のない者。
お金に関する部分が頻繁に見受けられるので、ロック夫人の家での生活とは重ならない部分も多々あるかもしれないが、上記と酷似した契約書が、ロック夫人と千曲の間で交わされたことは有り得ないことではない。
官能小説によくある女マゾヒストが声に出して読み上げる恥辱の奴隷誓約書(特に秀逸なのは、杉村春也さんの小説群だ)を、男マゾヒストが強引に結ばされるのだ。これはプレイというには、あまりにも残酷で厳しい。飽きられれば捨てられるのは、自明の理なのだから。ただ、この緊張感の中でも、きちんとマゾヒストが望む最低限の要求は聞き入れられる。“苦痛の方か、凌辱の方か”を選択することが出来るのだ。主人公は、沼正三さんやクラフト・エビングがマゾヒストの本道と説く凌辱を選ぶのだが、精神的な凌辱が肉体的な苦痛をある意味で超えるような痛みを呼ぶことをやがて知り、精神的な苦痛が次第に肉体までも衰弱をさせていくことになる。この選択によって、ロック夫人とその女友達が、マゾヒスト達の被虐の欲望を満たすべく命令を下すのだが、この光景はソフィア伯爵夫人著・沼正三訳『マゾヒストの会』(奇譚クラブ1953年5月号 〜『秘密の本棚Ⅱ』同上)を思わせる。ソフィア夫人が、ジャンという男性との結婚を承諾するための条件として提示した、「義務」と「罰」と記された四十条以上にも及ぶ取り決めが記されているのだが、ロック夫人の家で交わされる契約には、こちらのほうが相応しい気さえするぐらい細かくて厳格だ。
千曲の未来の肉体的な衰弱を予測するかのように、ロック夫人の家に入るまで続く、自身の心の悲痛な叫びは止まらない。最後に「では行きなさい。私には辛いことだけれどもその情欲がいつかお前に私を求めさせるだろう。情欲の底の底まで沈んだ時、お前は私に手を差し延べるかも知れぬ。たとえ誰もがお前を見捨てようとも、私だけはお前を忘れはしない」と呟いたきり、そのまま声は途絶える。だが、ついにロック夫人の家でも追い求めたドミナは見つからない。当然だ。それは、自分が見た理想の幻影なのだから。最後までそれに気づかずに死んだ千曲の魂は救済されるか。
心の声をキリストに例えて、主人公は司祭に聞く「キリストは私たちの一番辛い苦悩、私たちの肉欲の苦しみを知らないでしょう」と。司祭は「いいえ、彼らは我々の肉欲の苦しみも背負ってくれているのです・・・・(反復)」と答える。本当にそうなのだろうか。では、なぜ死期が近い千曲に心の声は再び聞こえてこなかったのだろうか。
私には、肉の誘惑から逃れるために、自らの意思で去勢する行為を行なったロシアのスコプツィ派(〔もう一つの異端「スコプツィ」派〕澁澤龍彦著『秘密結社の手帖』より)の禁欲主義のほうが、まだ頷ける節がある。極端な禁欲主義に走ったスコプツィ派を全面的に賛成するわけにはいかないが、古くはアレクサンドレイアのキリスト教神学者オリゲネスも実行していることからも判るように、キリスト教には肉欲を完全に隠蔽することは不可能で、永遠に解決出来ない重くて困難な課題だったのではないのだろうか。そう思わずにはいられない。
もしかしたら、遠藤さんの膨大な随筆の中に、それを解く鍵が隠されているのかも知れない。