『さらば雑司ヶ谷』(樋口毅宏著) 新潮社

「カッコ良すぎるぜ!毅宏さん!!」読後感は、この一言に尽きる。
まず、この本の装画(牧かほり)と装幀(新潮社装幀室)が洒落ている。天地と腹部分の小口は真っ黒で、手垢の汚れもわからないくらいだ。カバーを外すと、表裏の上段に英語で小さく白文字でGOOD−BYE と書かれ、下段には横文字でZOSHIGAYAと枠一杯に書き込まれる。この装幀にはセンスの良さというだけではすまされない、物語の隠喩が張り巡らされている。文字の間のどす黒い空白には、主人公が雑司ヶ谷を去るまでの凝縮された生々しい闘いの記録が、目に見えないが克明に刻み込まれているのだ。ページの表記も左のページに7|6と書かれているが、右のページには一切記されていない。何気ないページ表記にも思えるが、妙にキマっているのだ。
本体のメインが黒なのに対して、カバーは鮮明な赤がメインだ。ただ、描かれた男の左目は銃で撃ち抜かれた(貫通)のように、バックの赤色を浮かび上がらせている。口から鼻にかけて飛び散っている血(次ページまで及ぶ)は、赤ではなく黒だ。この男が主人公を指しているのか、他の登場人物を指しているのかは判らないが、途轍もなく貪欲な人間達が、闘いの果てに零れ落とす薄汚れた大量の血は、赤ではなく真っ黒が相応しい。
次に、この本を読むことになったきっかけに触れてみたい。今年の初め、新刊本(『さらば雑司ヶ谷 R.I.P.』)の巻末に、“公立図書館の半年間の貸し出しを控えてほしい”というコメントを載せた作家の小さな新聞記事にふと目が止まった。今どき珍しいほど、一本気な作家魂に強く興味を抱かされた。内容は切実な年収事情や図書館の貸し出し待ち四十四人を耳にした際の絶望感が綴られていて、深く胸に染み込んだ。だが、この時点ではまだこの本を新刊で読んでみたいという欲望には駆られなかった。ネットでは水道橋博士の大プッシュ本と絶賛されていたが、芸能人嫌い(水道橋博士さんは、決して嫌いじゃないが)の私には、宣伝文句は耳に届かぬ空しい遠吠えにしか感じられなかった。そんな状況下、偶然樋口毅宏がインタビューを受けているHPの記事に出くわした。長くなるが引用してみたい。
《出版社に就職した後も書き続けていた。(小説のこと)そんなある時、白石一文氏の『一瞬の光』を読んで衝撃を受け、ほどなく氏にインタビューを申し込んで会う機会が訪れた。
「挨拶をした後、いきなり“あなたはどんなものを書いているんですか”って言われて、もうびっくりして。小説を書いているなんて誰にも言っていなかったのに」その取材以降、新刊の感想をしたためて送るなど交流が始まり、五十枚の短編を書きあげて送付したところ「あなたは書ける人だから長編を書きなよ」と言われ、一年かけて八百枚書いた。その際、模索するなかで、今の文体が形作られていった。・・・以下略
「遠いところではブッシュなんていう男が自分の私利私欲のために戦争をやって、何の天罰もくだらない。それがもう許せなかった。その時自分にできることといったら、文字を書くことしかなかった。最初の一文は“感謝してほしい。 君たちが僕の銃の下に眠らぬことを”だった。俺は銃のかわりに、パソコンで人を生かすも殺すもしようって、その情熱と衝動で書いたんです」出来上がった小説を読んだ白石氏から「すごいよ」と絶賛の連絡があり、編集者を何人か紹介してもらったが、ラスト五十枚を書き換えるようにとの指示に応じなかったため、出版にはいたらなかった。》
この記事を読んだ時に、何故か熱い胸騒ぎを覚えた。一流の作家が文才を認めることほど確かなものはない。(草森紳一さんが認めた村松友視さんしかり(当時は編集者だった))ラスト五十枚を書き換えれば即書籍化に結びついたのに、編集者の要望を受け入れずにそのチャンスをいとも簡単に潰してしまう。自分が編集長(白夜書房〜若い頃雑誌を随分読み漁った)だったことによる意地ではない、自分の身を削って書いた小説に対する揺ぎ無い自信と信念(ラスト五十枚には、作者の悲痛な雄叫びが込められていたはずだ)を貫き通す凄まじい意気込みを感じ取った。こんな意志の強い作家の作品を読まずして何を読むのか。この本は、正に手に取るべくして手に取ったといった感がある。神津恭介流に言うなら、避けて通ることは出来ない運命だったのだ。
最近の書評は、どうしても前置きが長くなる傾向にあるが、今回はどうしても外観の素晴らしさと手にしたきっかけをきちんと伝えてから中身に触れたかった。その気持ちを察知してもらいたい。
では、本筋に入ろう。物語は中国から日本(雑司ヶ谷)に帰った太郎のモノローグで綴られていくのだが、出だしは妙にぎくしゃくした感が否めない。特に印象に残った部分は、市川雷蔵主演の古い映画『忠直卿行状記』に触れた箇所だ。名家に生まれた忠直が些細な事柄を発端にして、自己のアイデンティテーの崩壊を引き起こしていく様に、太郎は自分を重ね合わせていく。これは傍目には自虐願望にも見える危険な妄想だ。少々違和感を起こさせるこの映画話が、後々まで尾を引くことになるとはこの段階では全く予想もつかない。
そんな中、怪しげな宗教団体、泰幸会を牛耳っている祖母の泰から仕事を依頼される。二ヶ月前の大雨の際、下水道の水量急増が原因で作業員五人が死んだのだが、この事故には裏があるようなので、隠された真相を究明しろというのだ。一種の探偵物になるのかと感じたが、巻頭で知らされた友達京介を殺したZOMBIEを率いる芳一への復讐物語の色合いが、次第に濃くなっていくのだ。下水道事故の真実解明は、やがて付属物と化していく。
ここら辺から文体の狭間から立ち込める空気感が、何故か北野武監督『その男・凶暴につき』(北野作品では唯一好きな作品だ〜他の作品は好みではない)に似通っていることに気づく。だが、樋口さんが凄いのは暴力描写に行き着くまでに挿入される、市井の臣が交わす何気ない日常会話の奥深さにある。一見薄っぺらなコラージュとしか思えない、甘味処「よしの」の常連客の会話がそれだ。ジョン・レノンマイルス・デイヴィスはどっちが凄いかを延々と論戦している客を相手に、女将香代が口を挟んで一番は小沢健二だと言ってのける。読んでいるこっちも呆気に取られる件だが、その理由を女将が『さよならなんて云えないよ』の一節を引いて説明し出すのには更に驚いた。話はいいとものタモリさんの一言にまで及ぶ。長いが引用してみよう。(第十章)
「むかし、いいともにオザケンが出たとき、タモリがこう言ったの。『俺、長年歌番組やってるけど、いいと思う歌詞は小沢くんだけなんだよね。あれ凄いよね、“左へカーブを曲がると、光る海がみえてくる。僕は思う、この瞬間は続くと、いつまでも”って。俺、人生をあそこまで肯定出来ないもん』って。あのタモリが言ったんだよ。四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わない人間が!まともな人ならとっくにノイローゼになっているよ。タモリが狂わないのは、他人に何も期待していないから。そんな絶望大王に、『自分にはあそこまで人生を肯定できない』って言わしめたアーティストが他にいる?」この後に歌詞の注釈が僅かに入るが、底の浅い芸人としか思わなかったタモリさんの何気ない一言から、何も期待せずに、穏やかで平坦な日々を受け入れる術を身に付けている人間の限りない絶望の深淵を掴み取るあたりは、樋口さんが自分を同じ境遇(絶望の果てまで)に身を置くことが出来る人間であることを証明しているとも言える。
特に印象深いコラージュとして現出したのが、第十六章・第十七章を割いてまで語られる『ごころ』という架空小説だ。コラージュというにはあまりにも良く出来ている物語で、深く心に刻まれるような言葉で溢れかえっている。P87の「人を傷つけたことに気づいた者には、自らにも同じ傷を与えようとする。心に落ちた石はどこまでも波紋を広げ、決して止むことはない。しかし人は本来、他人を踏み躙ることでしか生きていけないものなのかもしれないと、ごころは思う。」と、P88のごころの父親が口にする「溺れている人に船から浮き輪を放り投げて、『自分はただ見ているだけではなかった』と言い逃れをするのではなく、自分も海に飛び込んで溺れた人を助けてあげなさい。強い意志と行動を続ければ、必ず不幸の連鎖を断ち切ることが出来るよ」のこの二つの言葉は、絶望と希望(再生)を暗示している。
絶望大王タモリさんに、仄かな希望の光が煌くのを瞬時に感じ取ったように、樋口さんは『ごころ』で、絶望の深さよりも希望の果てしない広大さこそ重要なのだと言いたかったのではないのか。書評の冒頭で触れた、ラスト五十枚を書き換えなかったために出版されなかった本とは、『ごころ』のことではなかっただろうか。あらすじだけで、これほど生々しくて切なさを感じさせた小説は見当たらない。最後に占い師の言葉が当たって、突然悲劇が起こり、やがて季節が巡り、立ち直ったごころに明るい未来の兆しが見えてくるところで完結する。しかし、悲劇の死を遂げていたはずの主人公の恋人は実は生きていたのだった。このあまりにもドラマチックな展開が、汚れた感情に満ちた編集者にはわざとらしく感じられたのではないか。もし、この想像が当たっていたとしたら、その編集者に強く反論したい。”事実は小説より奇なり”という諺があるが、逆説もまた真実なりというべきで、”事実を超えた小説もまた真なり”といいたい。
また、本筋と大きく掛け離れてしまった。強引に戻そう。芳一への復讐が遂げられない中、悪夢のような中国での壮絶な男色行為(嫌悪を催すほどだが)の回想シーンや下水道事故が北京オリンピックの開会式を晴天にするために打ち上げられたロケットが起因していることが序々に判ってきたり、昔の恋人雅子との変態的な性交を交わすといった部分は、寂れた探偵物の様相を呈する。だが、雅子から漏れる「太郎ちゃんの絶望が京介よりも大きく、深かったから。京介なら掬い上げることはできても、太郎ちゃんだと、一緒に堕ちていきそうな気がしたから」、この言葉を耳にした途端、太郎は自分を救済してくれる存在がこの世にいないことを自覚し、復讐という破滅への道を率先して選ぶ。ここからは、文体だけでなく目に浮かぶ残虐な光景までもが、『その男・凶暴につき』と重なってくる。
第三十二章のバスケットのコートで芳一のスパイの定を締め上げるシーンは、主人公の刑事我妻諒介が殺し屋清弘(冷酷な殺人者の筆頭に上げられる)に行なう血塗れの拷問を想像させる。だが、定は清弘のように拷問の嵐を延々と受けるわけではない。一見、定を救いの手を差し延べるような素振りを見せながら、太郎は諒介以上の凄まじい暴力を振るう。髪の毛にライターで火を付けるのだ。太郎は独白する。これでは、たけし軍団の「ガンバルマン」と同じだと。そう、『その男・凶暴につき』の暴力シーンの原点は、「ガンバルマン」にあったのだ。笑いを含んだ言葉のいたぶりとねちっこい拷問は、単なる暴力の連射よりも人間の神経を極限まで追い込んでいくことを証明してくれる。寡黙が生み出す沈黙の恐ろしさを頑なに信じていた私には、饒舌が作り出す騒々しさの恐怖を改めて思い知らされた。
ラストは、昔遊び場だった雑司ヶ谷霊園での凄まじい死闘だ。墓地を舞台にした芳一と閣鉄心と太郎の三人の殺し合いは、セルジオ・レオーネ監督『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』の決闘シーンを想起させる。ただ、違っているのは三人とも身体に傷を負っている部分か。この一見格好悪い泥だらけの死闘は、妙にリアルで重厚感すら漂う。闘いの勝負を分けたのは、下水道事故を引き起こした大雨を降らせた男の存在だ。あえて名前は伏せるが、この男が重要な役割を担っている。最後の最後、太郎と芳一のどしゃぶりの雨の中での決闘は、この手の小説でも語り草になってもおかしくないような名場面で埋め尽くされているが、ここでも意外なほど豊饒な言葉が飛び交う。特に芳一が、京介をどうやって殺したかをありのまま発露するところは、脳髄の奥まで悪に染まり切った人間の捨て台詞にしか聞こえないような汚辱でまみれている。残酷非道の言葉を発した芳一と瀕死の太郎の勝負は、この後呆気ない幕切れを迎える。土のぬかるみがもたす一瞬の幸運は、どちらに微笑んだのか。結果は読んでからのお楽しみだ。
最後に『ごころ』の作者が明らかになるのだが、途中までその正体は全く判らなかった。この物語に込めた思いを最後に作者本人が語る。「私心なく尽くしてくれた友人への感謝を捧げた物語だ」と。ただ、友人を生き返らせることは小説の中では出来たが、現実には当然無理だった。事実そうだったのか。いや、作者の心の中には、友人はまだ確実に生きているのだ。永遠に生き続けていくのだと思う。『ごころ』の作者同様、樋口さんは一度考えたこの夢想の物語のけじめを、ここで付けたかったのだろう。私にはそう思えてならない。
冒頭の映画『忠直卿行状記』では、主人公は悲惨な末路を迎えるが、太郎は最後にまだ信じられる人間が残っていたことで清々しい安堵感に満たされる。それが再生の道を歩み出すきっかけになるのだ。血生臭い『さらば雑司ヶ谷』と人を信じる大切さを謳う『ごころ』を同時に語る振り幅の広さには驚かされるが、底に流れるものはともに酷似しているような気がする。バイオレンスを扱いながらも、人との深い関わり(信頼出来る人を見つける)の重要性を露に表出せず、わざと奥に隠蔽しているのだ。
やっぱり、「カッコ良すぎるぜ!毅宏さん!!」

≪付記1≫
書評を記した後、いつものように他のブログを覗いた。小沢健二さんに関してのそれぞれの熱い思いが数多く書かれていたが、正直私にはピンと来なかった。(私はビートルズ世代なので)
架空小説『ごころ』に関しては、書評サイトBook Japanの主宰者杉江松恋さんが、減点材料として取り上げていたのには吃驚した。「中途で挿入される作中作『ごころ』は作者が思っているほどにはおもしろくないし、」と厳しく否定し、挙句に「無駄な寄り道が随所にある」とまで指摘する。確かに、『ごころ』は多少センチメンタリズムに陥りすぎた印象があり、暗黒小説としては、余分な寄り道としか感じられないような箇所が多々見受けられるのかも知れない。ただ、この回り道の文体が不思議と心地良いのだ。(探偵小説やハードボイルド小説の本道は、寄り道の美学にあるのではないのか)
杉江さんは落ちのつけ方も気に入らなかったようで、「予定調和の域を出ない終わり方なのだ。ただし、百二十八ページで出てくる、太郎がある女性とセックスする場面を書いた時点で、作者はすべきことをすべて終えたとも言える。あとの部分はすべて小説を終わらせるための付け足しなのかもしれない。」と述べている。この恋人雅子とのセックスは、主人公が死を決意させるための踏み台でしかないのだ。だからこそ、太郎と小指(泰幸会所属の用心棒)の二人が墓場へ向かうラストシーンは、『昭和残侠伝』の高倉健池部良や『ローリング・サンダー』のウィリアム・ディベインとトミー・リー・ジョーンズの死を覚悟した道行きを思い起こさせるほど盛り上がり、単に小説を終わらせるための付け足とはとても感じられない。(脇役の小指の扱いには不満が残るが)
同サイトの酒井貞道さんの書評には、頷ける部分が多かった。”逆も真なり”という私と同じような言い回しの言葉が出て来たのには少々驚いたが、「普遍性を求めるあまり、ネタの部分に目くじらを立てるばかりでは人生つまらないとも思うのだ。『さらば雑司ヶ谷』を十分味わうためには、真面目な読みと、お気楽な読みがどちらも要求される。」という部分には大いに賛同出来る。
真面目な読み方のみを施行し、冷酷無比な暴力小説として樋口さんの小説を受け止めている人達は、今後は付き合わないほうが良いように思う。書評でも書いたが、真面目と不真面目(酒井さん流に言えば、お気楽)のこの急激な落差を自在に往復出来る感性こそが、樋口毅宏さんの最大の魅力であるからだ。

≪付記2≫
古本を廃棄する為に整理していたら、「本の雑誌」のバックナンバーが大量に出てきた。何冊か手に取ってみると、2005年2月号に掲載されていた、“いっせいの読書無宿”(このコラムは、いっせいさんが本を一冊の本を紹介するのだが、話はすぐにその本から離れていっせいさんの日常の周りで起こった様々な出来事にスポットライトが当てられ、ある時は下ネタにまで飛躍する奇妙なエッセイで当時はその魅力が判らなかったが、再読すると対象への切込みが実に斬新で、他の人には書けない独特のリズムを醸し出している。ただ、非常にアクが強くやや暴言に近い言葉を頻繁に口にするせいか、競馬コラムニスト以外の文筆家としての評価は意外に低いようだ。いっせいさんを引っ張り出して、このコラムを担当させたのは競馬繋がりということから推測すると、目黒さんあたりなのだろうと思うのだが、いっせいさんの偏向的ともいえる特異な思考法を即座に見抜いたとすれば、いつもながらその眼力には感服せざるを得ない。“いっせいの読書無宿”は是非一冊の本にしてほしいものだ。)の欄で、かなざわいっせいさんが紹介していたロバート・コルビー著『復讐のミッドナイト』(ハヤカワ文庫)に興趣を覚え、早速目を通すことにした。だが、このことが最近顕著に起きている小説(古典を除く)への興味の薄れを、一層増長させる結果になったのは何とも皮肉な話だ。
結論から言えば、いっせいさんが批判している、翻訳者の朝倉隆男さんが「あとがき」で連発する“B級サスペンス”というフレーズに大いに納得し、いっせいさんの「わしなんてB級物件とはほんのちびっとも思わずストレートにメ滅茶苦茶楽しかった、そいでもって面白かったし興奮しまくったのである」という言葉に対しては、如何せん疑問を呈しざるを得なかった。
復讐の動機が甘いことや、復讐の対象が何故恋人を殺した暴漢者二人(二人とも途中事故であっけなく死んでしまう)でなく、カールと恋人が襲われている現場を遠くから見ていた五人(全員が見て見ぬ振りをしていたとは、一概に解釈出来ない箇所がある)に向けられるのかがどうしても理解不能で、感情移入が出来ないのだ。もっと単純に処刑人カールの心情に溶け込んで、一人一人の殺人場面をぎらぎらした眼差しで見詰めればいいかのかもしれないが、いかんせん殺しの対象となる相手がひ弱で(最初のターゲットは二人の女性)、傍観者として一番罪の深いメルに対して行なった愛犬を使った殺人も、煮えたぎる怨念を解消するにはあまりにも安易な方法のようにみえた。最後は、案の定巻き込まれた形の主人公ブラッドとカールとの対決になるのだが、この闘いも一方的なブラッドの勝利で、今まで行なったカールの慎重な殺人の手口からすれば、計画に多くの落ち度が見受けられた。だが、この結末の呆気ない幕切れは、戦いに向かう最中にカールに湧き起こる情感によって、ある程度は予測出来たともいえる。
P251でカールは独白する。「別にこの世に未練があったわけではない。復讐を終えたら生きていくつもりはなかった。ただ、追手の手が伸びないところに身をおきたかったのだ。自由でいるかぎり、決定はすべて自分でできる。しかし、いったん、囚人となれば、彼の運命は相手しだいだ。それだけは避けなければならない。」この軟弱な考えは、肝心なブラッドとの対決の場で増幅される。P255の独白が決定的となる。「―すべてはここで終わることを覚悟しなければならない。しかし、まだチャンスはある。それをつかむために彼は行動を起した。」周りを警備している警官連中に察知されることを恐れ、ブリーフケースに仕込んだ銃身を短くしたショットガンを使わないのだ。この油断がブラッドに対して、死を呼ぶ壮絶なリンチともとれる血みどろの攻撃を許すことになる。
作者コルビーは、主人公をブラッドにさせお門違いな復讐を企てるカールを否定する立場に立ち、我々に犯罪者の悲惨な末路を見せつけているかのようだ。だが、わざと読者の興味を削ぐようなことをしながら、物語の中でカールに殺人の手段は一回ずつ違った方法を取るほうが楽しいなどと不可解な台詞を吐かせている。憎悪を燃焼させる術を知らない善人コルビーの作家としての限界が浮き彫りになっているといいたい。
それに比べて、付記1でも触れたジョン・フリン監督『ローリング・サンダー』や山本迪夫監督の会心作『野獣の復活』の主人公達の死を覚悟した壮絶な殴り込みを見よ。『復讐のミッドナイト』と同じく主人公は銃身の先を切り落としたショットガン(散弾銃)を手にしているが、『ローリング・サンダー』で力を貸す女が指摘する「銃身を短くしたら、射程がなくなる」の言葉が示しているように、銃身を縮めると極端に弾丸が届く距離が短くなり、自分の身を危険に晒すことになるのだ。そうまでして銃に手を加えるのは、至近距離で発砲して散弾の範囲を広げ、数多くの敵を倒すためにある。そう、映画の主人公達はカールと違って、生き延びることなど全く考えてはいないのだ。復讐を貫徹させるには、何をも厭わない精神。カールのように「自由でいるかぎり、決定はすべて自分でできる」などといった、気の迷いとの取れるような死への甘い幻想は微塵も抱かない。カールの銃の使用法を見ると、拳銃を改造した理由がブリーフケースに入れるための安易な行為としか思えないのが何とも口惜しい。
自分の死ぬまでの道程などがふと頭の中を過ぎる時、復讐という目的に破綻が訪れるのは当然のことなのかも知れない。『さらば雑司ヶ谷』の最後の死闘で浮び上がってくる、拭い去ることの出来ない怨念の深さがいかに凄絶なものであったかを改めて思い知らされた。今も瞼に焼き付いて離れない。