『刺青殺人事件』(高木彬光著) 光文社文庫

推理小説ファンの間では知る人ぞ知る、高木彬光さんのデビュー作である。
当時高木さんは、何かに取り憑かれたような状態に陥り、僅か三週間で一気に書き上げたらしい。その後、高木さんは発表の場に困り、江戸川乱歩さんに直接原稿を送って、意外にも好評を博し、文壇の重い扉が開かれたのは、一部では有名な話である。
ただ、高名な小説であればあるほど、何故か遠のけてしまう偏屈人間である私は、この小説を読んでみようという気には中々なれなかった。食指を動かされたのは、倉田卓次さんが「この人が、仙花紙(カストリ紙)の『宝石』の『刺青殺人事件』で登場して以来の愛読者だったんですが・・・」(『続々・裁判官の書斎』より)と話されているところを目にしたことによる。
読後、その期待は裏切られることなく、微に入り細に入り書き込まれた伏線の張り巡らせ方にほとほと感心させられてしまった。ここには、単なる推理小説を逸脱した奥深い人間ドラマがある。
話は刺青に纏わる過去の文献などの薀蓄から始まり、その魅力が懇切丁寧に語られるあたりから、この物語が推理小説であることを読者は忘れてしまう。
寂れた酒場で絹枝が囁く、「蛇は蛙をのみ、蛙は蛞蝓をのみ、蛞蝓は蛇をとかしてしまう」といったメビウスの輪ともとれる意味深な言葉を吐くに到り、この魅惑の物語は読者を思いも掛けない刺青に纏わる夢幻の世界へと読み手を導いていく。彫安の子供達の肌に刻まれた刺青が、「大蛇丸、自雷也、綱手姫」であることが次第に明らかになり、絹枝がふと漏らした言葉を改めて裏付けていくことになるのだが、そこには意外な罠(事実)が隠されていたのだ。
この後を、推理小説ファンは、ネタバレをせずに鮮やかな手付きで、あらすじを説明していくことが出来るのだろうが、私は根っからの文系ということもあって、理系の人達のように筋道を立てて旨く話のあらましを紹介することが出来ない。そこで、この物語のポイントと思われる箇所に重点を絞って見ていきたい。
まず、読み進んで三分の二近くになって、かの有名な理学博士・神津恭介(名探偵)がやっと登場する。この異例の展開に驚くとともに、まずは賛辞の意を評したい。ここまでの分量を割いてワトスン役の松下研三を活躍させ、全ての事件の材料を引き出しておいて、読者に“この謎が解けるものなら解いてみれば!”と真正面から挑戦状をぶつけてくるのだ。だが、神津がバラバラに絡まった何本もの糸(材料)を、綺麗に一本ずつ説き解していくあたりの手際よさは、少々超人的に見えないこともない。それでも、作者が推敲に推敲を重ねたことを匂わせるのは、文末で犯人が判った後も、延々とその手口を行なった理由付けを、執拗いくらいに事細かく、神津が研三に説明する姿勢からも十分に見てとれる。
この物語を一層興味深いものにしたのは、刺青収集家(現実には居そうもないだけに面白い)の早川平四郎の存在だと言いたい。この早川が漏らした非ユーグリット幾何学という言葉が意味するところ(はっきりと書けないのは辛いが、刺青の本質を探らないと真実は解明出来ないということだ)を神津が丹念に調査して暴くあたりの頭脳合戦は、対峙する早川の知能指数の高さを思い知らされる。また、早川と将棋を、最上久と将棋を打って、その防御と攻撃法を見ながら、二人の隠された奥深い気質を読み解くあたりも大きな見せ場だ。
正直、ネタをばらさずに、推理小説の感想をここまで書けるとは思って見なかった。それは、この小説が推理小説の範疇を超えた、非常に魅惑的な心理合戦のドラマだったことによる。
高木さんの推理小説家としての才能は言うまでもないが、占い好きが功を奏して、人間心理の奥底を鋭く覗き見る特異な資質が生まれたような気がしてならない。
未読の人には是非一読をお薦めする。

≪付記1≫
HP上に坂口安吾さん「『刺青殺人事件』を評す」と題する一文が掲載されていた。
昭和24年に雑誌「宝石」に掲載された記事のようだ。
この中で坂口さんは高木さんの小説を、「なぜ密室にする必要があったか」とか 「女から包みを渡され、女が殺され、包みをひらいて刺青した三人の写真が現れた時には、もう犯人は分ってしまう。このトリックはあまり幼稚すぎる。」と罵倒とも取れる激しい批評を投げ掛けている。この部分は流石、論客の坂口だけあって頷けないこともない。ただ、「三分の二が解決篇みたいなもので、その冗漫が、つらい」とか「いわんや将棋などやる必要は毛頭ない」と言い切っている部分には、素直に賛同出来ない。確かに、最後まで種を明かさないのが、推理小説の常套手段かもしれないが、この小説の良さは丹念に謎を紐解いて行き、それが何故行なわれなければならなかったのかが、きちんと整理されていくところにあるのだ。やや突拍子にも思える囲碁や将棋のシーンも、相手の隠れた資質を読み解く意味では、やはり重要な部分と言える。
やや言動が熱くなってしまったが、坂口さんは最後には「私は、この作者は、未来があると思っている。ケレンがなく、頭脳が論理的だからである。」ときちんと好意的な文章で括ってる。抑えているところは抑えているのだ。
坂口さんは、横溝正史さんを異常なくらいに高く評価して、高木さんに「横溝君に弟子入りして、テクニックを学ばれるがよい。」とまで言っている。ここで、横溝ファンの私が反論するのも可笑しな話だが、戦前横溝さんが海外の小説の翻訳を手掛けている時期に、その一部を模倣して、自分の小説の中で何度も使用していたことを、坂口さんは知っていたのだろうか。(沼正三さんが『ある夢想家の手帖から』の中で触れている)知っていたならば、海外の探偵作家達を、ここまで手酷く罵倒は出来なかったように思う。ただ、戦後横溝正史さんの文章が洗練度を増して、細部の人物描写に深みが加わったことに関しては全く異論はない。
≪付記2≫
扶桑社文庫から、『初稿・刺青殺人事件』が出ていることを知った。初稿版が昭和23年、改稿版が昭和28年で、文庫はその初稿版を掲載したものだ。一部のマニアの間では、未だに初稿版が掲載された『宝石』が、古本市場で高値で取引されているらしい。この辺りの詳細は、貴重なHP「『刺青殺人事件』はなぜ改稿されたのか」に詳しく書かれているので、参照していただければよいかと思う。
私は、この初稿版が、付記1で触れた坂口さんの指摘を踏まえて、改稿されたのかどうかという一点に興味があった。この考えは、少々的外れだったようだ。『初稿・刺青殺人事件』の解説をされた杉江松恋さんは、改稿版では“人称を変えることで過度な装飾を取除いたこと、文章を整然と構成しなおしたこと、過去の探偵小説に対する言及を削ったこと“などを上げられていたようだ。
過去の探偵小説に対する言及を削ったことは、「『刺青殺人事件』はなぜ改稿されたのか」の筆者と同様、残念に思う。削除は行なうべきではなかったのではないか、という気がしてならない。ただ、自分の目で確かめないと何とも言えないので、この初稿版はいつか手にして読んでみたいと思っている。
この文庫の解説を、杉江さんが担当されているあたりを見ると、この初稿版の文庫化に、杉江さんが尽力していたのではないか、という考えがふと頭を過ぎった。