『家畜小屋』 (池田得太郎著) 中央公論社

この小説を知ったのは、敬愛するHP 「書肆月詠」に掲載された、『金羊毛』という「季刊幻想文学」の前身となった同人誌(創刊号)の紹介記事を見かけたことによる。そこに書かれた、”内容は池田得太郎『家畜小屋』(中央公論社)を発掘したりと、かなりマニアックである”との一文に何故か惹かれるものを感じ、古書店を到るところ探したが、如何せん手が届かないほど古書価が高かった。そこで、筑摩書房現代文学大系六十六巻「現代名作集(四)」を購入して、その中の一編『家畜小屋』を読むことにした。
純文学を読むのは数年ぶりだが、噂に違わぬ奇怪な小説だった。この読後感は、今まで一度も味わったことがないものだ。暫く奇妙に沈殿する重苦しい思いを、簡単に拭い去ることが出来なかった。重苦しい沈殿物の正体を探り、この異界を何とか読み解きたいという強い思いに駆られ、あえて二度読みを行なった。
冒頭の淀んだ空気感を、丹念に且つ粘っこい筆致で語るあたりから、作者がわざと読者の間口を極端に狭めている様子がひしひしと伝わってくる。まるで、“この異界の扉は無理して開けなくてもいいですよ“とでも言っているかのようだ。長文形式の文体は、埴谷雄高さんや金井美恵子さんの随筆や小説で、十分に慣れているつもりだったが、正直この文体に溶け込むのには、思った以上に時間が掛かった。会話以外の描写が粘着質を帯びていて、皮膚の襞に纏わり付いてくるような違和感があり、一筋縄ではいかない陰湿な重みを感じさせるのだ。だが、長文を何度も読み返すことで生まれる、独特の愉悦が次第に呼び覚まされて、自然と心地よい快感が全身を包み込んでくる。
この小説を説く鍵は、文頭の以下の言葉にあるような気がした。
「家畜の血の微粒子はオゾンにかわって空気の構成物質となり、川沿いの人々の肺の泡沫に充満し、やがてひそかに細胞ににじみこんで、そこに家畜の血の胆石をつくるのだ」
少々長めの引用になったが、川の上流にある、主人公が勤める屠殺場から流れ出す家畜の血と脂肪の残骸が、下流へと流れ込み、主人公を含めた下流住民の神経を少しずつ麻痺させ、生きていく気力を削いでいく。主人公は、この後に自分が置かれる急激な環境変化に戸惑いながら、家畜と人間の存在が次第に曖昧になり、人格を破戒される奈落の道程を辿っていくのだ。
屠殺場で鳶口を使って、動物の鼻梁の上端の急所に射ち込むことが出来なくなったあたりから、物語はざわめき始める。屠殺の場での視界の錯乱を守る時に念じる、「なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ・・・・」という浄土真宗の唱え(作者は呪文と言っている)は、これは家畜の成仏を念じているのではなく、自分に人間としての意識を覚醒させ、家畜と違う一段上高い立場に身を置いているという認識を抱かせるための自己暗示の言葉のように聞こえる。
やがて主人公は、屠殺人の職を奪われ、排泄物の清掃人へと格下げになり、屈辱的な嘲笑の対象になってしまう。これが自分と家畜の距離を、否が応にも近づける。今まで遠ざかっていた家畜が、意識的に自分との距離を狭めて、傍に寄ってくるような錯覚(被害妄想)まで呼び起こすことになる。
主人公が自分を人間と自覚するのは、下流の家に帰って飼育する豚(牡)と妻に接する時だけになる。だが、横たわって涎の跡を残す妻に、家畜の面影を見たことで、その抑えきれない怒りが妻を人間としてではなく、家畜として扱うことへの強い衝動(欲望)を主人公に芽生えさせていく。
自分が自由に出来る家畜二匹を養うことで、何とか人間の尊厳をぎりぎりで保とうとするのだ。妻を豚と罵倒することで、主人公が自分の置かれた優位性を維持しているように見えたのだが、それは異常な快楽へと足を踏み入れるきっかけを作ってしまう。(サディスムとは違った、マゾヒズムを誘発する冒涜を伴なった陶酔感)家畜二匹の餌を間違って一緒に混ぜてしまうあたりは、汚辱への感情が自然と現れたものと言っていい。妻の立場は、頭から忘れ去られており、一匹の太った家畜としかその存在を認めていないようにすら感じる。
妻が排泄物をして自分で始末しない理由(家畜は糞を自分で処理しない)を主人公が感知して、しぶしぶ汚物を掃除するあたりは、“自分の蒔いた種”が跳ね返って来たように見えて、奇妙なペーソスが漂う。このままの生活が続けば、異常だが主人公の精神の均衡は何とか保たれることになるが、家畜二匹が親密度を深めていくあたりから、主人公の神経は微妙に揺らぎ狂い始める。 “共同体”、そう家族しての親密さを家畜達が持ち始めたことによって、爪弾きにされたことを主人公が意識し出すのだ。屠殺場で孤立し、家に帰ってまで孤立する。挙句に家畜が接合した後の残骸や呻き声を聞いて、失っていた性欲を滾らせる自分が、次第に心底情けなくなってくる。ここには獣姦という変態的な行為を、興味本位で捕らえるのではなく、家畜という存在に身を置いた人間(妻)が家畜(豚)に対して共同体の意識を深める行為だと見て取ることが出来る。
孤立した主人公は、やがて家畜達と共に新たな共同体を作る(参加)ことを提案する。だが、その主人公の要望は、妻の一言で呆気なく崩れ去る。「そうよ。あたしたち結婚したんだから」、このおぞましくも強烈な一言で、主人公の意識がやっと目覚めるのかと思いきや、「じゃ俺も家畜になる」と言い出す。そう、三匹の家畜として共同体で生きていくことを選ぶのだ。
もはや主人公は、家畜でも人間でもどうでもよくなっている自分に改めて気づく。しかし、妻は主人公の要望に最後まで応じずに、共同体の牡豚の死をきっかけに、一匹の家畜として他の家へ売られていくことを決意するところで話は終わる。
少々あらすじを追った感があるが、扱っているものは汚物や獣姦という通常だと目を背けたくなるような題材だが、屠殺に手を染める人間に果たして尊厳はあるのか、人間は死を何とも思わない非情な感情を持つ家畜より醜いけだものなのではないか、汚物に塗れているが自然に身を任せて生活する家畜のほうが人間よりも純粋で尊い生き物といえるのではないか、といった様々な問いを投げかけてくる、ある意味で根源的かつ宗教的とも言うべき崇高な問題を扱った、次元を超えた比類なき物語の様相を呈す。
作者が処女小説発表後、沈黙を経て仏教方面で改めて筆を取るのも妙に頷けるような気がした。
この異常な家畜物語を、際物小説として“面白い”という簡単な一言で片付けてしまうことは決して出来ない。一個の動物としての自分を、新たに見詰め直す機会を与えてくれた作者に大いに感謝したい。

≪付記1≫
『家畜小屋』は「中央公論」第三回新人賞発表(昭和33年11月号)で、選外佳作という異例の賞を受ける。
審査員は、伊藤整武田泰淳三島由紀夫の三人で、三島さんが選評の中で『家畜小屋』の“気持ちの悪さに匹敵する感覚の気持ちの良さ”という言葉で評価するのだが、他の二人の同調はなかなか得られない。両人は、当選作『喪失』(福田章二/後の庄司薫)の小説としての完成度の高さばかりを話題にする。挙句に、伊藤さんは「『家畜小屋』のようなものは、どっちかというと書きやすいんだな。」という驚くべき暴言まで吐く。(伊藤整さんに、このような小説が書けるとはとても思えない)三島さんは『喪失』を、「唯一の文学的なものだということは認める。ただ、色が白くて七難隠しているような感じもありはしないかな。」と柔らかく否定しているのだが、二人は意に介さない。
そこで武田さんが三島さんの顔色を探り、「『家畜小屋』も何かの形で一緒に出したらどうだい。色の黒いのは七難隠すで。」と譲歩案を出す。この主張に伊藤さんが乗るといった、選評が文学の本質を鋭くつきながらも、最終的には上辺をなぞっただけで、突き詰めた討論にはならなかったことを伺わせる。最後は、三島さんはやや投げやりな姿勢を見せ、諦めたかのようにこの小説には触れなくなる。そんな暗い雰囲気を編集部が察知して、選外佳作(佳作でなく、選外と前置きするあたりの意味合いは図りかねる)で掲載させることを提案して審査は終了する。三島さんが感得した『家畜小屋』の嫌悪を催し兼ねない気持ち悪さに匹敵する感覚の気持ち良さが、一体何に起因しているのかを探る気構えは、伊藤・武田両人には全くないことがこの選評で十分に判った。
現代文学大系六十六巻「現代名作集(四)」に、この小説の掲載を働きかけて好意的な解説を加えている奥野健男さんには、改めて敬意を表したい。沼正三著『家畜人ヤプー』といいこの小説といい、三島さんと奥野さんが好む小説の傾向が、かなり近いことが再認識された。
ちなみに、芥川賞の選評で井上靖さんが唯一評価していることを付け加えておきたい。
≪付記2≫
小説の感想を書いた後、まだ読みきれていないのでないかといったわだかまりの気持ちが多少残るで、ある文献と出会った。それは絡まっている糸を丹念にほぐしてくれる役目を果たしてくれた。
その文章とは、澁澤龍彦著『悪魔術の手帖』の中の「夜行妖鬼篇」という章だ。
主人公が、屠殺場で鳶口を使って動物の鼻梁の上端の急所に射ち込む作業が、西洋の高等魔術の原理から読み解かれた夢魔の一種ラルヴァ(怨霊)を永遠に封じ込める行為と重なり、“なんまいだ・・・”という呪文が悪魔祓いに端を発しているように聞こえてくるのだ。
このラルヴァ(怨霊)は、“無益に消費された呪われた生命の種子などが有機体のほろびた後までも、執拗に存在しつづけようとするときその怨念、執念があやしい存在の影となって人々を悩ます“らしい。このラルヴァは、孤独者とか抑圧された人間とかのまわりに集まってくる傾向にあり、その上寝ている最中に夢となって現れる。後半、主人公が何度か夢の中で半獣半人間(生物の顔は全て彼の記憶の含まれた人間である)や動物達にうなされるシーンは、“ラルヴァと闘うパラケルススの図”(『悪魔術の手帖』(河出文庫P67 第十八図参照)と、どこか符合していて気味が悪いくらいだ。
澁澤さんは、更にラルヴァ延長上にある情交に絡む夢魔として、スクブス(淫夢女精)とインクブス(男性夢魔)の存在を紹介しているのだが、この二つは異教の半獣神とも言われているらしい。そこで気がついたのだが、小説の中盤に家畜と化した妻が、空腹のあまり牡豚の餌を奪い取ったために、牡豚が死にそうになるシーンがある。この時、意識が朦朧とした牡豚の中に、インクブス(男性夢魔)が入り込んだとは考えられないだろうか。インクブスは、男性の悪魔で女と情交するとされる。そうなると、納屋の獣姦は、牡豚が人間に仕掛けた行為と見て取れないこともない。
神話の怪物は、人間と動物が情交した結果であるとの解釈にも澁澤さんは触れている。そこから、“妻の腹に入り込んだ豚の糊のような精液は、どんな半獣半人間(怪物)となって生まれ変わるのだろうか”といったとんでもない悪夢のような考えが浮かんで来た。この物語には、突飛な思考の飛躍を促す、魔力が兼ね備わっているのかも知れない。本当に恐ろしい小説だ。

≪付記3≫
皆川博子の初期作『獣舎のスキャット』(猟奇文学館2『人獣怪婚』所収』)を読む。
同じ“獣姦”系列ということで手にしたわけではないが、期待していなかっただけに凄まじい衝撃を受けた。
噂に違わぬ前代未聞の怪作だ。『家畜小屋』の主人公が時間を経過するに従って、次第に神経を病んでいくのとは裏腹に、この主人公は既にある種の精神の破綻をきたしてしまっている自分の性癖を、恥ずかしげもなく曝け出すころからみても、出発点に大きな隔たりがある。
冒頭から『家畜小屋』を彷彿させるような語り口が、読者を夢幻の世界へと引き摺り込む。
「〈N初等少年院〉 それは、決して、外来者に陰惨な印象を与える場所ではなかった。頭が重くなるようなうっとうしさは、場所のせいではなく、湿気をたっぷり含んだ空気が、濡れた真綿のように肌にまといつくためだ。」
この息苦しいほどの退廃感が、以後全編を覆い尽くすことになる。
少年院を退院する弟を、主人公の姉が迎えに行く場面から物語は始まる。一見優しく振舞う姉は、弟の私生活を仔細に覗き見て、密かに苛めの材料になるところを捜し求める冷淡な女だった。その手段として使われたのが盗聴器だ。だが、この盗聴器から聞き取った秘密をネタに弟を強請るといった安易な行動には出ず、籠の中に入った小動物をじっくりと甚振るかのように、弟の悪への転落を黙って見守るのだ。盗聴の最中、彼女は幼少の頃のことを思い出す。弟の性器を弄り、手のひらでじっと眺めていた時、母親に見つかり酷く怒られる。それ以来、彼女にとって陰部はサンクチュアリ(聖なる場所)となるが、母親から叱責されたため一転凌辱すべき対象へと変貌し、神聖な象徴物から叱責行為へ、そして凌辱願望に辿り付く道筋が完成する。
やがて、姉は弟への殺意の感情が単なる殺人衝動という情欲の発露でなく、己の歪んだ愛(近親相姦)の表出が原因になっていることに、少しずつ気づき始める。彼女は考える。「与える愛ではない。奪う愛であった。踏みにじり、陵辱し、意のままにすることによって、満たされる愛であった。」(P294)今までの弟に対する心情は、家族への慈愛ではない異形愛、永遠に成就しない恋愛感情に近いものだったのだ。友達の妹(恋人)への深爪行為から生まれた妖艶な指しゃぶりや・・・さんと名前を叫びながら、自慰する際に思い浮かべる牝豚の面影などへの激しい嫉妬が、盗聴器の仕掛けや変態性欲(獣姦)の暴露へと繋がっていくのは当然か。
あからさまな真相告白は、意外な結末を招く。姉は弟が逆上して自分を殺害する(愛憎関係)のではないかと不安に苛まれていたはずだが、予想だにしなかったことが起きる。意識を失った状態で、牡豚との性交を強要されたのだ。死より苦しい非情な仕打ちに涙を流しながら、泥に顔を埋めた主人公の朦朧とした脳裏に浮かんだのは、何度も耳にしていたピンク・フロイドの歌詞だったのではないか。
When that fat old sun  In the sky is fallin‘ ・・・・ ぶよぶよで皺だらけの赤黒い太陽(デブでよろよろの太陽)が、地平のむこうに落ちていく。(P289)
・・・・ Life is a short warm moment And death is a long cold rest  You get your chance to try in the twinkling of an eye ・・・・ 暖かい人生は束の間、死は長い冷たい休息。−私の人生は、あまり暖かくないものになりそうだ。そして、チャンスは・・・・。(P293)
「“明日”なんて、言葉の上に存在するだけなのだ。実際にあるのは、“昨日”と“今日”だけだ。」(P306)と嘯く彼女に、果たしてチャンスは巡ってくるのか。孤独を好み、他人との付き合いを極力避けた、暗闇に閉ざされた絶望的な人間の行く末を鋭く暗示した、ラストが持つ意味はあまりにも深く大きい。