『ショージ君不滅の100名作』(東海林さだお著) マガジンハウス

東海林さだおさんの初期代表作を纏めた一冊。
東海林さだお傑作集」の『トットキ漫画傑作選』と「週間漫画」に連載された『新漫画文学集』から抜粋した物を中心に構成されている。
本書を購入した十年近く前は、『ショージ君』に夢中になっていた時期で、立風漫画文庫が置いてある書店を捜して随分歩き回ったことを、今でも鮮明に思い出す。
サラリーマン生活を経験せずに、何んでこんなに本質に迫ることが出来るのかが不思議でしょうがなかった。その当時は、サラリーマンを外側から見ている人のほうが多方面から人間観察が出来て、面白い部分を掬い上げることが可能なのかもしれないなどという他愛の無い考えを思い浮かべて、勝手に納得していたように思う。
そのように東海林さんをサラリーマン物(ショージ君・タンマ君・アサッテ君・サラリーマン専科)に特化した漫画家だと決め付けていた私に、この本は強烈な一撃を与えてくれた。ただ、衝撃の度合いがあまりにも常識の枠を超えていたせいか、肝心な話の趣旨が充分に理解出来ない箇所が多く、途中で投げ出して十年間眠らせるという皮肉な結果を招いてしまう。
今回、何気なく手に取って再読したところ、これが何とも言えず面白くて一気に読了。昔途中で匙を投げたのが信じられないくらい、東海林さんの不合理ワールド(本書では、不条理漫画と命名されているが、確かに言い得て妙だと思う)にどっぷりと浸かり込んでいた。この景観をどこかで見かけたような気がしていたら、ふと思い当たった。そうだ、赤塚不二夫の『天才バカボン』のパパの行動にそっくりではないか。案の定、この感覚が的外れではないと悟ったのは、本の後半に掲載されている東海林さんへのロングインタビューの中で、きちんと赤塚さんについて触れていたからだ。(P768)少しだけ引いてみよう。
東海林さん曰く、「そうそう、『トントコトントン物語』の釘打ちおじさん、よーく見てみると、バカボンのおやじに似ています。」聞き手曰く、「そういえば、そうですね。ヒゲの感じとか。」(そういう問題じゃないんだが)続いて東海林さん曰く、「完全に影響されています。赤塚さんがいなかったらああいうのは描けなかったと思う。」
そう、外見でなく“これでいいのだ”という正当性のない不条理感が、非常に酷似しているのだ。この身勝手なおじさんキャラは、『海辺の光景』のふんづけおじさん、題名そのままの『ブツカリおじさん』、『気まぐれバス』のどこへもいかない運転手(これには落ちがあるので、多少の正当性はあるが)、『ポカポカおじさん』や『ある日私は』のラーメンの屋台を引く変なおじさんへと継承されていく。
ハチャメチャなおじさんが登場する物語を、読者に飽きが来ないように(東海林さん曰く、「読者って飽きよう飽きようとしているんですよ。この人はもうわかった。次はだれ、というのが読者」)、同じパターンと続けないで、忘れた頃に少しずつ似たようなキャラクターを差し挟んで来るあたりが何とも心に憎い。ただ、この同じ行為を繰り返さないことが、東海林さんの貴重な財産となり、救いの道へと繋がる。
救いの道とは何か。赤塚さんが『天才バカボン』を頂点として、その後急速に作品の質が低下していったのは、不条理世界に嵌りこんだことで、その後に起承転結がはっきりした話が書けなくなってしまったことにある。不合理な物語は底無し沼のような魔力が潜んでいて、入り込むと容易に抜け出すことの出来ない危険な領域なのだ。東海林さんがその魔力に引き込まれなかったのは、不条理物(漫画文学全集シリーズ)を手掛けながらも、読者に飽きられない為サトウサンペイさんに影響されたサラリーマン物を継続的に描いて、日常感覚を見失わなかったことにある。救いの道は、偶然でなく必然的に生まれたものだった。読者の飽き易い気質に敏感に反応する東海林さんは、自分でも気が付かない内に危険を回避する術を身に付けていたのだ。
本題の漫画にほとんど触れずにここまで足早に書いて来てしまったので、ここで数篇触れてみたい。ただ、出来ればこの本のインタビュー記事や夏目房之介さんが触れていないものを拾い上げたかったのだが、百篇中十九篇まで取り上げられてしまっている関係上、多少のダブりが生じるのは致し方ないと思う。ご容赦願いたい。
まずは、『お気に召すまま』から。食に煩い変なおじさんが、食べている青年に順番や方法を押し付けていくのが妙にリアルで、食事の場面が途中からボクシングの試合と化してしまうあたりは、食事も一種の格闘技だということを、改めて再発見させてくれる。(昔、おかずを食べ終わってから、ご飯を食べる不思議な友達がいた。何故かと聞くと、両方に手を付けると要らん神経を使って疲れるからと言う。友達は、最初から戦うことを放棄していたのだ。)
『不安の時代』は、私が好きな狂乱物。ある会社の社長が、会社の将来に不安を抱いて狂う様を描いたものだが、その狂乱ぶりが半端なく面白い。社長が「タクアンがチョーチョにのってとんで行く」と言うと、社員の二人が「チョーチョがタクアンにならまだ救いがあるんだが」「ソ」「タクアンがチョーチョにでは・・・」「もはや」というくだりは、狂気の質を問題視しているようで、笑いながらも深く本質を捉えているように感じられ空恐ろしい気さえした。
『蓼食う虫』も妙に思い当たる節があって可笑しい。ブスがもて過ぎる不合理さを描いているのだが、傍観者の青年が最後に問う。「どうしてこんなことになっちまったんだろう」。そして、この言葉が続く、“そのときこの問いに答えるかのようにこの部屋のスミから一匹の虫がはいだしてきたのである。それはタデ食う虫であった。そして、その虫はたしかにこう鳴いたのである。スキズキ、スキズキ”。
この展開を架空の絵空事(こんな虫は存在しない)と言うことなかれ。私達はこんな不可思議な恋愛の形を今まで何度も目にして来て、心の奥底で密かに呟いたはすだ。”スキズキだ”と。そう、好みは人それぞれなのだ。
『蝮の絡み合い』は、東海林さんが得意とする踏まれたい人(東海林さんはもしかしてマゾヒスト好き?)が登場するマゾ物。土建屋の強面社長が、ハイヒールの変わりに最後机の脚で頬を突かれて、ソープ嬢から「だいぶ陥没しちゃたわネ」と言われ、社長が今までの甘えた姿勢から一転「なに陥没?」、その後直ぐに部下へ電話をして「オー吉田か、四丁目の道路の陥没箇所ナ、あれ大至急修理しとけよ」と怒鳴るくだりは、一瞬耳にした言葉が、正気への変貌を促す見事なきっかけとなっている。他愛も無い言葉の響きが、驚くほどの変転を生む。
『禁漁区』は、私の大好きなヨイヨイヨイおじいさんが登場する一編。買い物籠を抱えて、年を取って手が震えたおじいさんが職探しにやって来て、ギャングのボスに殺し屋として雇われることになるのだが、ボスが勝手におじいさんを過大評価して、「ムムムするとコーガものだナ」と言うと、おじいさんは手を震わせながら、「ハイコーガンが胃がんで膨れあがっておりますが」とわけの判らないことを言う。この馬鹿馬鹿しさから始まり、次々に殺しを手際よく終わらせて、最後は定番とも言える雇われたボスに逆に殺される段になって、あっけなく老衰で死ぬあたりは、悲惨だが何故か爽快な印象を残す。ただ、ヨイヨイヨイおじいさんの良さは、まだこの時点では百パーセント発揮されているとは言えない。
『山女にゃほれるなよ』は、電車内から見た最初の青年の鑑賞眼《ブスブス・ブス・まあまあ・美人》のレベルが田舎に滞在する時間が長くなって行くしたがって、美人の鑑賞眼の順位がカチャカチャッと間逆になっていく様が誠に面白い。この感覚が都会に着いた途端に元に戻るのは、男の心理を鋭く射抜いて絶妙だ。
この延長戦にあるのが、『BAR 「メチャ・メチャ」にて』だろう。ブスと長い時間一緒にいると、段々とブスが美人に見えて来て、しまいに本当の美人がブスに見えて「コワイー」と言う男の感情が噴き出る場面は、“美人は三日見れば飽きるが、ブスは三日で慣れる”を地で行く展開で妙に納得させられる。
『晩年』は、ヨイヨイヨイおじいさんの不条理な行動が最高潮に達した一作。ここでは、おじいさんは手を振るわせるだけで一切言葉を発しない。様々な場所に顔を出してヨイヨイヨイをするだけで、周りは何故だか混乱状態に陥っていく。そう周りが必要以上に過敏に反応しておじいさんの行動に勝手な意味と解釈を加えようとするのだ。最後に警察署に連れて行かれて、署長が「アこれね。これは木曽の仲則さんだよ」と言う。そこで署長が歌い出す。「木曽のなーなかのりさん、木曽のオンタケさんは、ナンジャラホイ・・・と、夏でも寒い、ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイと」傍にいる警察官は呟く、「これでいいのかなァ」。私は言いたい、これでいいのだと。『トントコトントン物語』の釘打ちおじさんは、行動は不条理だが台詞があった。このヨイヨイヨイおじいさんは、ヨイヨイヨイ以外の言葉は全く口にしない。不条理漫画は、台詞を完全に無くすことで更なる進化を遂げたのだ。
『嘔吐』『生まれ出づる悩み』『風はどこから』など、まだまだ触れたい作品は多いのだが、とめどもなくなるので止めよう。
インタビュー記事に戻ると、漫画文学集は大半が漫画を描いた後に、文庫の目録を捲ってタイトルを探していたと、東海林さんが告白しているのには正直驚いた。確かにタイトルが始めにあって、それに合わせた内容の漫画を描くのは、かえって辛い作業になるのかもしれないと思い直したが、タイトルがこうも漫画にぴったりと当て嵌まっていると、この時期の東海林さんの漫画は古典文学の域にまで達していたのではないかという憶測さえ思い浮かんで来た。
P769の東海林さんの言葉に、「そうですよ。しかも、みんなせいぜい一ページとか四コマなのに四ページ、六ページとかやったでしょ。だから水増しだとかそういう感覚があったのでしょうね。事実水増しなんですよ(笑)。それは認めるけど、昔の人にしてみたら、心血を注いで一ページに短縮するとかやっていたのに、なんだ、あんな水増しで原稿料稼いでって絶対にあったと思う。デッサンもなってないし、読んでみると大して面白くないしって思われてたでしょうね。」とある。これは、やや東海林さんの投げやりな姿勢が多分に見受けられるようで、東海林さんの本音とはとても思えない。
続いて、東海林さんは僅かだが本音を漏らす。「でもね。物理的なものがあるんです。ナンセンス物で、二ページっていうのは、考えられない。三ページでも無理。四ページでもちょっと無理かな。最低六ページくらい無いと出来ないんです。一つの世界を見せないといけないから。」(P770)ここでは、周囲の状況に気を配りながらあえて自分を謙り、不条理漫画への揺ぎ無い自信の一端をほんの少しだが垣間見ることが出来たような気がした。東海林さんは、人を思いやる気持ちを持った心優しい人なのだ。
単行本で厚さが五センチもある(ほとんど巨大な弁当箱状態)ので、読んでいて手に負担が掛かり、危うく腱鞘炎になりそうだったが、貴重なロングインタビューや『トントコトントン物語』の飯沢匡さんの舞台台本、夏目房之介さんのいつもながらの鋭い解説など、内容には十分に満喫させられ文句の付け所がない。
ここには、サラリーマンを含めた市井の人達のごくありふれた日常風景に見掛けられる奇妙奇天烈な一断面が、鮮やかな手捌きで切り取られている。東海林さんの尽きることの無い才能を、改めて感じさせる選りすぐりの傑作群だ。
東海林さだおさんのファンで、未読の方がいれば是非お薦めしたい。