『粘膜人間』(飴村行著) 角川ホラー文庫

このブログの題名の由来になり、一部のマニアが絶賛した『粘膜人間』の登場だ。本書は、飴村行さんのホラー大賞への投稿作であり、デビュー作でもある。

このミス(このミステリーがすごい!)を読まなくなって十年近くにもなるが、この手の小説を読み落してしまうことを考えると、やはり頻繁なチェックは怠るべきではないのかも知れない。
ホラー大賞の選考で物議を醸し出したのは、高見広春の『バトル・ロワイアル』 以来だったようだが、小説の内容から見れば良識派の人達には到底受け入れられない、卑猥で汚辱に溢れた文章が渦巻いている。選評で林真理子さんは、”まるで悪夢のような拷問シーンが実に不愉快で、作者はかなり危険なところに近づいている気がする。パソコンを打ちながら、このシーンに酔っているのではないか。・・・・”と述べ、高橋克彦さんは大賞の『庵堂三兄弟の聖職』のみにしか触れていない。
想像だが選考委員会では、『粘膜人間』を強く推したのは荒俣宏さん一人だけで、反対する二人を強引に押し切った形での受賞だったのではないかとさえ思えてしまう。林さんの選評を読んだ人がブログ上で、”この小説を不愉快と感じるのなら審査員を降りるべきだ”との烈しいコメントを書いているのを見かけたが、一概にそうとはいえないだろう。自分にとっての良識の範囲を越えたものを批判することは誰もが持っている権利だし、様々なジャンルから審査員が選ばれないと偏ったものしか評価されなくなってしまう危険性があるから、これはこれで有効な選考方法といっていいのではないか。飴村行さんの小説は万人には受け入れられない小説であり、またそこに大きな魅力がある。受け入れる読書の間口が狭ければ狭いほど、入り込んだら抜け出せない甘美な悪夢の世界がそこには存在しているのだ。
思い入れが強い作品なので、思わず前置きが長くなってしまったが、本編は飴村さん本人が述べているように、河童と巨大な小学生が戦うグロテスク・スプラッタ・ホラーと言えるものだが、血が吹き出る汚辱の連続シーンかというとそうではない。
話は二本のレールが引かれていて、一つは兄弟二人が凶暴な義理の弟一人を河童の手を借りて殺そうと企てる話で、二つ目は兄が戦争を拒否したために非国民の烙印をおされた妹が、兄の行方を聞き出そうとする憲兵に延々と拷問を受ける話だ。この二本のレールが途中で交錯する形で話は展開する。
非国民の烙印をおされた少女が隠された部分を暴露する後半は、貴志祐介の『黒い家』を思わせ多少新鮮味にかけるが、秘密を聞き出すそうとする憲兵が少女に《髑髏》という死を実感させる魔薬を打ち、そこで少女が見る壮絶な悪夢体験は、素晴らしい妄想をかき立ててくれる。自分が少女に乗り移ってしまったかのような錯覚さえ覚えてしまう。
架空のマーテル教の踏み絵検査から、学校に隣接された映画館へと場面が移り、最後は民衆の前での全裸の磔刑となって終焉する夢想の奔流は、昔見たピンク映画『視姦白日夢』(水谷俊之監督)を思い起こさせた。
この映画は、成人映画という枠を遥かに飛び越えた無限地獄ともいえるような悪夢に嵌りこんだ男の日常を、シュールな感覚で描き切った至極の傑作だった。ある時を境に、理想の女を犯す幻覚に取り付かれたセールスマンが、次第にその幻覚をエスカレートさせて、挙句の果てに自分の妻をナイフでメッタ刺しにして殺すというものだ。最後は、今までの出来事が現実なのか夢なのかが曖昧模糊となり、覚醒しないまま呆然と立ち竦んだサラリーマンの顔のアップで終わる。セールスマンとこの小説の少女の幻覚には、内容的にはダブることは一切ないのだが、どうしても同じ匂いを感じ取ってしまうのだ。
河童のモモ太と雷太の道行きは、コミカルで笑わせ、一瞬の安堵感が漂う。これは全編息詰まるような死闘の連続で、読者に一瞬の安息をも取らせなかった『バトル・ロワイアル』との大きな違いだ。作者にとっては、暴力と笑いは紙一重のところで存在しているのなのかも知れない。話題になった《グッチャネ》《便所女》《髑髏》《ハンバカ》《クソ漏れる》などの単語は、差別や猥褻用語のようにも聞こえるが、特異で魅力的な独創性をたたえていて、血生臭い暴力シーンを心地よく軽減して、一時だが日常の安息な空気を垣間見させてくれる作用をもたらす。唯一惜しまれるのが、二本のレールとなってる話の接合が僅かな瞬間でしかなかったことだ。モモ太と少女の会話が生まれていたら、もっと新しい息吹が小説の中に吹き込まれていたのではないか。
最後に題名の『粘膜人間』とは、妖怪キチタロウのことを指すのか、脳味噌が半分飛び出してグチャグチャになった様子が粘膜状態に見えた怪童雷太を指すのかが判らなかった。(おそらく雷太を指しているのだろう)
そんなことより、妙に波長が合ってしまった幸福なこの小説との出会いを、素直に喜ぶべきなのだろう。残りの”粘膜シリーズ”二冊と最新作『爛れた闇の帝国』を読んで、このブログに掲載させようと思っている。今からわくわくして、高まる興奮を抑えることが出来ない。

≪付記1≫
上記の感想は、HPやブログなどに数多く掲載されている書評や飴村さんへのインタビュー記事を見ずに、先入観がないところで書いたものだ。その後、書評家杉江松恋さんが、飴村さんへインタビューをした記事を早速読んだところ、題名に関する以下のコメントが載っていた。
「粘膜というと卑猥なイメージがあるでしょう。グロテスクで、さらに卑猥というイメージ。河童が代表例なんですけど、この小説の登場人物はみんなそういう、グロテスクでどこか卑猥という印象があると思います。だから、登場人物をすべて象徴する言葉として粘膜を当ててみたわけなんです。」
”脳味噌が半分飛び出してグチャグチャだから雷太では・・・”と言った私の安易な発想は、木っ端微塵に打ち砕かれた。もう少しきちんと読み解かないと駄目だと、深く反省をした次第。
≪付記2≫
角川文庫の解説を担当しているのは、北上次郎さんが認める数少ない書評家・池上冬樹さんだったが、今回の解説に関する限りあまり感心しなかった。
あらすじを紹介するのに半分近くを割き、後は選評のことや自分の僅かな感想で締め括る。そこには、この作品に対する思い入れや愛情は微塵も感じられない。このような駄文なら解説は、『粘膜人間』への限りない愛着を示す杉江さんに頼むべきだったのではないか。(実際、二作目の『粘膜蜥蜴』の解説は、杉江さんが担当している)編集者から依頼されたので、渋々解説を受けたというのであれば、北上さんのように、自分の興味のある本(例えば、飴村さんの二作目・三作目に触れる)を語ってしまうといった、掟破りの手法を取ってもよかったのではないかとさえ思えてくる。
解説というのは、読者を次の小説に誘う、水先案内人の役目を果たす重要なものである。
≪付記3≫
モモ太が捕まえた毒猫の爪の切り口から滴り落ちる、緑茶そっくりの緑色の猛毒作用のある液体は、澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』の「サバト幻景」の章で触れられている、ガマ蛙から抽出した媚薬を連想させる。この媚薬も緑色の液体で、濃縮された溶液が着物に触れただけでも人は直ちに死んでしまうらしい。
飴村さんには、天性の錬金術士としての素養があるのだろうか。興味の尽きない共通項だ。
≪付記4≫
正直、『粘膜蜥蜴』の感想を付記で書くとは考えてもみなかった。(心が揺さぶられない小説は、今後も書評欄では扱わない方針だ)日本推理小説協会賞やこのミスでも堂々の第六位と前評判が上々だっただけに、落胆の度合いは大きかった。
まあ、前評判なんてものは当てにならないということだ。多くの人達に絶賛された小説だからと言って、好評価を付ける気は毛頭ない。今後も、嗜好に合った小説を紹介していくという基本ポリシーは変えないつもりだ。
付記なので、長くならないために早速本題に入るが、この小説は『粘膜人間』に比べて非常に綺麗に纏まり、話の展開も無理はなく、そこには有無を言わせない説得力すらあるのだ。この言い回しは、他の作家なら褒め言葉になるところだが、飴村さんの小説では非難として降り注がれる言葉だと解釈していただきたい。
飴村小説の良さは、少々の話の破綻をも恐れない、辻褄を無視した傍若無人なまでの絶え間ない暴走と破壊が乱舞する破天荒なドラマであったはずだ。しかし、ここには意外なほど繊細で緻密、且つ落ち着きのある重厚な雰囲気が全編を覆い尽くす。この辻褄のあった展開は、飴村節を抑圧して押し潰す作用にしか働いていない。悪い箇所を具体的に説明出来ないのが少々辛いが、一言で言えば筋立てに納得出来れば出来るほど、逆に真綿で首を絞めつけられているような感覚になり、徐々に作品の血の気が失われて、魅力的な要素が削り取られていくのだ。
飴村用語ともいえる、独特の卑猥で汚辱を含んだ言葉の羅列は、前作同様ここでも健在だが、暴言を吐く雪麻呂や間宮の二人が、僅かに見せる人間的な弱さ(隠れている善人意識)は、二人への同情という感情よりも驕慢さを失った人間の惨めな情けなさを感じる。どんでん返しのような形で、最後に明らかになる富蔵の秘密には、過去の富蔵の言動数々(前作のモモ太と同じように、笑いをそそる突飛な言葉を次々に連発する)を考えると非常に無理がある。
前作の興奮が蘇る部分は、雪麻呂、清輔、魅和子の三角関係によって、やむなく戦いの場に引き摺り出された、代理人熊田軍曹と元力士富士丸の陰惨で壮絶な血みどろの決闘シーンにおいてだった。この情景を目にしただけで、第三作目の『粘膜兄弟』を読みたいという期待感が新に高まって来た。飴村さん独自の狂気と悪夢の孕んだドラマが、次回復活してくれることを祈っています。
≪付記5≫
『粘膜兄弟』を読了。
この作品も付記で記すことになるとは思わなかった。ただ、嫌な予感が少なからず燻っていたのも否めない。
前二作に比べて文章はこなれており、格段に上手くなっている。今まで駆使した並行する二つの話を途中から融合させる手法をあえて伏せ、直球勝負で一つの話に絞ったことも、小説家としても決意のほどが窺えて清々しい。その直球も、コースぎりぎりを狙って三振を取りに行くようなことせず、ど真ん中に剛速球を投げ込んでいるのも嬉しい。
では、何が問題なのか。付記4でも少し触れたが、話の整合性が取れるほどその魅力が削がれていくという、他の小説ではありえない不可思議な現象が、やはりこの作品でも起きていたのだ。ここには、飴村さんが陥りつつある危うい現実(本人は気づいていないはずだ)が見え隠れするような気がしてならない。
嘗て実際に起きた数多くの特異な事件を映画にして、世間から注目を浴びた若松孝二というピンク映画の監督がいた。(今も現役だ)足立正生大和屋竺という強力なブレーンを携えながら、その猟奇的ともいえる素材を実に巧みに使って観客の興味を惹き、作品を量産し続けていたが、『天使の恍惚』という連合赤軍に関わった映画を作ってから、その力が急激に衰え始める。盟友松田政男さんの言葉を借りれば、現実の出来事が映画を凌駕する事態にまで突出してしまった為だ。これ以降同じような形で作品を制作しても、興味本位のゴシップ記事を扱った底の浅い映画としか見なされなくなっていく。
思わず話があらぬ方向に逸れたが、当時の若松プロの求心力の低下と飴村さんの無難な創作活動が何故か重なって見えてしまう。矢太吉に何度も降り注がれる暴力の嵐は、前二作を上回るほど壮絶で凄まじいのだが、意外にも衝撃度は薄まっている。原因がどこにあるのかなかなか判らなかった。だが、それが作品の背景にあるように次第に感じられてくる。仮想の異次元世界では、血みどろな殺戮行為は架空の絵空事として、割り切って作品に身を委ねることが出来るが、今回のように現実により近いところを舞台にすると、現出する嗜虐行為が単にグロテスクなものにしか見えず、作品の中に自己を投影させることがどうしても出来ないのだ。主人公と同化出来ない状態の中で行なわれる惨たらしい蹂躙の数々は、その行為に多少の必然性があっても、実在感に乏しく深く心に刻まれることはない。このように飴村さんが舞台の場を安易に現実に接近させればさせるほど、他のホラー作家との境界線が曖昧になり、独特の怪奇度が失われていくように思える。
今後、飴村さんはどんな方向へ歩みを進めていくのだろうか。不安だが見守っていきたい。