『ある夢想家の手帖から 全六巻』(沼正三著)潮出版社
戦後のカストリ雑誌『奇譚クラブ』に連載されていた作品を、ほぼ完全な形で纏めた本である。(都市出版社や太田出版から出ているものは抄録本で、”ほぼ”と記したのは不定期連載「沼正三便り」の一部と、ヤプーの「中絶お詫びのご挨拶」記事、告発ともいえる高橋鉄氏への尖鋭な批判文などが抜け落ちている為だ。〜高橋氏への文面は馬仙人さんのHP”女性上位時代”で確認可。最近気が付いたのだが、索引の所々に誤記が見受けられ、あとがきで沼さん自ら記しているが、「雑報」と「沼便り」が索引対象から外れている事実も見逃せない)現在、取り上げられた記事の関係で復刊は困難な模様で、そのせいか古書価も高い。
私は偶然学生時代に、何か得体の知れないものに導かれて購入し、ずっと本棚の奥にしまい込んでいた。今年に入って長期の余暇が取れた為、全巻読むことが可能になった。やはり、噂に違わぬ怪書だった。基本はマゾ関連の古今東西の文献紹介だが、その披露形式が半端ではなく、多岐多様な事柄にまで渡っているのだ。著者の博覧強記たるや物凄いものがある。古典物の掘り起しもさることながら、当時発刊されていた他のカストリ雑誌(裏窓・風俗奇譚など)や週刊誌・細かな新聞報道など、ありとあらゆる文字という文字に目を通したのではないかと思われるような所が数多く見受けられる。
良い随筆(文献情報)には、紹介されている本を読者がどうしても手に入れたくなってしまう不思議な魔力というか圧倒的な吸引力のようなものが潜んでいて、どうしてもそれを抑えることが出来なくなる。(北上次郎さんの書評にも、同様の魅力がある)その逃れられない力に誘われて、本書で紹介された本や雑誌を多数購入してしまった。まだ半分も目を通していないが、通読した書物は何らかの刺激をもたらしてくれた。横溝正史による戦前の掌編『丹夫人の化粧台』(第九十章「閨房の備品になった男」)などもその手の一篇で、おかげで横溝さんの怪奇短編をほとんど読破する羽目に陥った。
まだまだ、この本に関しては語り尽くせないことが沢山あるが、内容分析や沼さんの人物像に関する丁寧な検証は、馬仙人さんや白乃勝利さん(”マゾヒズム文学の世界”)のHPによって成されているので、興味のある方はそちらを覗いてみることをお薦めする。沼さんの正体に関しては、馬仙人さんやゴミムシさん(”私はあなたのトイレです”主催〜中々の炯眼の持ち主)とほとんど同意見なので、ここではあえて触れないでおきたい。
私は未だに何度も読み返しているが、読み落してしまった箇所があることにそのたび気づき、単なる博学な知識の羅列でない、言葉の持つ奥深さを存分に感じさせてくれる。マゾに興味がない人でも、非常に面白くて魅力的な本といえるだろう。
≪付記1≫
書評を記した者の責任として、ポイントとなる箇所には触れるべきではないかと思い至り、付記として追加させていただくことにした。
前半の章では、『家畜人ヤプー』の構想へと繋がる第十六章の『家畜化小説論』が最も重要かと思われる。
冒頭部分から、・・・ここでこそ彼は完全に人格を無視せられた存在になり得るのです。(後略)までの一節は、奇譚クラブ1956年9月号に掲載された沼さんの比較的短い文章『家畜化小説の登場を喜ぶ』から抜粋されたものだが、全文を読むと、自分が今まで夢想して来たものが徐々にだがやっと具現化されたことに対するこみ上げる喜悦が感じられる。だが、それと相反して過去に発表されたマゾ小説に対する不満を口にする。
「叙述の上では女が男の意志を圧伏して責め虐げるように書かれても、その前提が動かない限り、本質はサド・マゾ・プレイを合意でやっているのと大差ないことになってしまいます。」と述べ、決定的なのは女の側に罪障感が免れ得ないことだと指摘し、この感覚を抱かないための手段の必然を説き、黒人奴隷が白人に対して抱く劣等感の喪失を取り上げて、“劣等感否定のための劣後性肯定”(卑下の状態は当然なので、劣等感の必要はないという無意識操作)という心理を得る意味からも、優劣二集団の制度が不可欠であると主張する。
「集団内空想」(制度的に固定した劣位集団への所属)と「制度化空想」(自己が所属する集団の制度的な劣位性)の二つがそれだ。「集団内空想」はゴーテの奴隷制小説(『鞭打つ女たち』【未訳】)に、「制度化空想」はSF小説(異星人が人類を襲い、人間を家畜化する〜『山椒魚戦争』『ペット・ファーム』【未訳】『ピラミッド』【未訳】)などに多く見掛けられる光景であることを示してくれたおかげで、優劣二集団の理解度はより深まる。
沼さんはここで“異性人による家畜化”ではなく、“人間による人間の家畜化”を考える。前提になるのは、白人崇拝だ。『家畜化小説の登場を喜ぶ』の中で、賞賛された土路草一さんの小説『潰滅の前夜』にはこの傾向は見られず、飼育者が白人ではないY国人と想定している点に少なからず不服を漏らし、第十六章で同じ土路さんの手による『魔教圏NO.8』に登場する白人女性の存在を無条件に喜んで、家畜化小説と白人崇拝の密接な関係を示唆する。ただ、『家畜化小説の登場を喜ぶ』の結びで、「今までの私自身の空想では常に”白人種の家畜たる日本人”がテーマだったのですが、白人種でないY国人(『潰滅の前夜』)への隷属にもこの位昂奮したということから、”白人崇拝”と”家畜化願望”を無意識の中で結合させてしまったことを自覚させられたのも、私としては収穫でした。」と締め括っているところから、『潰滅の前夜』が出現した時点で、すでに「白人種の家畜たる日本人」という狭い枠組みで踏み留まっていたものが、「白人崇拝=有色人種家畜観」の広範な図式によって、理想の家畜化小説のイメージに接近していたことが判る。
『魔教圏NO.8』に現れる白せきのユーマ美女は、『家畜化小説の登場を喜ぶ』を読んだ土路さんが沼さんの嗜好に歩み寄った結果生まれたものと解釈出来ないこともない。土路さんの中に沼さんと同様の白人崇拝の感情が急に芽生えたとは考えにくく、沼さんの「“自己の属する集団(日本人)の制度的な劣位化”の思想が飼育者としての白人種を要求せざるを得なかったからだ。」とか「日本人マゾヒストの白人崇拝は、有色人種を白人種の家畜とする空想に、その最終最高の表現を見出すのである。」と規定するくだりは、白人崇拝意識に通常の範疇からいささか逸脱しているところが見受けられる。沼さんが言うように、「集団内現実」(おそらく敗戦国としての日本のことだろう)が少なからず影響して、家畜化小説では白人種を飼育者に据えるのかも知れない。
このように僅かな疑念を抱いていると、都市出版社版の第一巻のあとがきで沼さんが自身のことを「いわばフェチスト的とでも形容すべき種類のマゾヒストに比べれば、かなり関心圏の広い正統なマゾヒズムであるが、この白人崇拝のモメントにおいては偏りがあると自覚する。」と記し、その後これには原因があるのであるが・・・と濁すことで、復員兵として過去に味わった西洋人からの凄絶な屈辱行為の数々を暗示する。己れのいささか異常な気質をきちんと把握し、それをも分析の対象にする沼さん独特の反芻思考が窺える箇所だ。
『家畜人ヤプー』が生まれた土壌をじっくりと考える上では、『家畜化小説論』は非常に有益な章である。是非熟読玩味を薦めたい。
《付記2》
付記1で記した沼さんの言葉「・・・この白人崇拝のモメントにおいては偏りがあると自覚する。これには原因があるのであるが、」を引き継いだわけではないのだが、中盤以降で目を引くものは、第四巻『奴隷の歓喜』中の一篇、百六章「奴隷の喜び」だろう。
ただ、この章は沼さんのコメント(「・・・(省略)敢えてここに書くのは、既に≪奇譚ク≫誌上の永年の寄稿者として文献による実録と空想に基く創作とを峻別して来た私の実績というものが、多少は私の味方をしてくれるだろうという期待を持っているからである。」〜P111)にあるように、自分が白人ドミナから受けた様々な実体験を赤裸々に語っているだけに、詳細な分析を施しても単にあらすじをなぞることに成り兼ねないので、ここでは体験談に深く関わっている貴重な二つの章、百十八章「苦痛より凌辱を」と百十九章「手段化法則」に触れながら、「奴隷の喜び」を解読してみたいと思う。
英軍に降伏して武装解除させられ、復員を待っていたある日本の部隊の話である。沼さんは英軍司令官の伝令勤務を命じられる。一瞬沼さんの顔が強張る。理由は三日前に司令官宅を訪問し、つい先日まで同宅で勤務していたKの死骸を引き取りに行ったことが、頭の片隅を過ぎったからだ。自分も同じ目に合うのではないかという恐怖心が芽生える。Kは司令官宅で夫人に無理難題な用件を言い渡され、その言いつけに背いた態度をとって射殺されたらしいのだ。そのため、沼さんは何を言われても絶対服従を貫き通すことが生きる術なのだと悟る。この時から、下僕に近い存在として仕える沼さんの悪戦苦闘の日々が始まる。勤務初日に司令官夫人から、突然意味不明の乗馬鞭の一撃を食らう。その時の思いを沼さんはこう語る。
「このとき私は、焼けつくような顔の痛みと同時に、かつて味わったことのない一種の陶酔感に囚えられた。全く抵抗する力なしにこの女の鞭を受けなければならない。(略)・・・言うことを聞かなければ射殺されてしまう。−涅槃というのがこんな気持ちかもしれない。自分の主体性がゼロになってしまった、という恍惚感、エーリッヒ・フロムのいわゆる「マゾヒズムの主旋律としての無力感」、これを感じたのだった。」(P117)
その後以下の文章が付け加えられる。「いわば私は粘土であった。この一撃以後、彼女は粘土に濡れ気(しめりけ)を加えながら、適度な鞭の使用で思いどおりにこねまわした。」(P118)
ここまでの文面と符合する箇所は、百十八章「苦痛より凌辱を」の以下の件である。長いが引いてみよう。
「晩年のフロイトは、マゾヒズムをサディズムの内向化と見た初期の見解を改め、強迫反復の現象を快楽原則から独立させると同時に、涅槃原則ないし、死の本能こそ生命体にとって根元的なものであり、マゾヒズムとはその破壊衝動が性に即して顕現したものに外ならず、サディズムはこの根元的マゾヒズムの外向化に過ぎぬと見た。」(P227)〜補足(H・エリスも「純粋なマゾヒストの中にサディズムの要素が発見されることは殆んどない。」(P226〜百十八章の題辞より)と語っている。)
フロイトの語法は、哲学者特有のまわりくどい言い回しを援用しているが、主旋律はマゾヒズムにあり、人間の本質的な涅槃意識(寂滅)は実に貴重なものであって、その死に近い破壊衝動が性と結び付いた時、初めてマゾヒズムが現出するという論理なのである。沼さんの涅槃から無力感へと至るプロセスは、肉体と精神の破壊行為から生まれた死への接近(涅槃原則の表出)以外の何物でもない。ただ、この時点では、まだ性とは直結しておらず、その繋がりは夫人から排泄される汚物摂取による自尊心の溶解(P116)とその果てに生まれた羞恥心のない犬の意識の萌芽によって完成をみる。正に濡れ気を伴った粘土のこねまわし作業が行なわれたわけだ。
沼さんは百十八章で、真のマゾヒストには緊縛自体を快楽の源泉と考える「肉体的受苦」よりも、「精神的凌辱」中の手段である「羞恥心の剥奪」が必要だと訴える。緊縛や鞭撻は「精神的凌辱」の表現形式としか見ていない。つまり、夫人に両手を前に出して親指を揃えて細い針金を巻きつけられる緊縛(P118)は、精神的凌辱を反映させた羞恥心の剥奪行為と捉えているのだ。決して肉体的受苦を性的快感と見做したわけではない。結果、肉体的受苦を主に据えた者をアルゴラグニア(受動的苦痛愛好)と呼び、精神的凌辱に力点を置いた者を狭義のマゾヒストだと規定する。そして、後者こそが真正マゾヒズムなのだと唱える。
更に、狭義のマゾヒズムの本質が「被虐者が他の人間の手段(道具、材料)とされる程度が高いほど、マゾ的な昂奮が大きくなる」手段化法則(P232〜百十九章「手段化法則」より)に潜んでいることを説く。そこでは、相手を「否定さるべきもの」として高く評価している(人格を認める)復讐とか憎悪の感情は、マゾ的感興を削ぐ作用にしか働かないと言い、その上カントの道徳原理「・・・(略)決して手段としてのみ取り扱わぬように行為せよ」に背いた扱いを受けたいと望む者こそが、狭義のマゾヒストの名に値すると断言する。この手段化法則こそが、羞恥心の剥奪の一翼を担っているといっていいのではないか。特徴的な話として、百十九章の付記第二の「人間土嚢」が上げられる。詳しくは記さないが、英軍が半死半生の日本兵を土嚢の代替物として使用するのだ。この死体冒涜とも思える非道な扱いから、手段化法則(人間土壌化=物化妄想)を適用して、マゾ意識を高ぶらせる沼さんの感性は尋常ではない。
付記としては、今回もまた膨大な量になったが、最後に百六章「奴隷の喜び」の追記に触れて結びとしたい。
浅羽やすしの『天使とブタ』(奇譚クラブ1970年3月号掲載)中で、北欧風の兄嫁に対して湧き上がる汚物憧憬の危うい感覚を、ヨアヒム・パウリの報告とともに検証している。主人公の受験生が「兄貴(夫)にもできない方法で女をものにした」心情を抱き、対象人格化(アポテオーゼ)を伴った「自分がはずかしめられると同時に相手を冒涜した感じ」という神聖冒涜の境地にまで思いを巡らす。浅羽さんの小説は一度目を通しているのだが、沼さんが持ち得たような崇高な想念を思い描くに至らなかった。軽症観念マゾヒストには味わうことが出来ない遥か彼方の出来事なのか。