『蒼眸の悪魔 全二巻』(千草忠夫著) 日本出版社

本書は、千草忠夫さんの代表作というわけではない。千草本は未読が多いので、あえて印象に残った小品を取り上げてみた。

千草さんは、英語教師という肩書きを持ちながら、雑誌「奇譚クラブ」に随筆を投稿したことから文筆業に携わるようになった人である。団鬼六の「花と蛇」へのオマージュ、エロスの定義、丹羽文雄の愛欲小説に漂う淫靡な匂いなどに触れた「奇譚クラブ」の文章は、単なる思いつきの随筆に留まらない熱気を孕んだものだった。その文面からは、相当数の小説(特に恋愛物)を読み込んでいることが窺われる。
その読み込みの深さが、「奇譚クラブ」誌上で、他の小説家にはない奇妙な味わいのある短編を生むことになる。『幻のプレイ〜一枚の写真』が、その一例だ。一枚の緊縛写真が縁で知り合った同好のSM愛好家とともに、体験する幻覚のような一夜を綴ったこの小説は、独特な異臭を放っていた。

さて本編だが、今ではアダルト小説でさして珍しくなくなった魔性の美少年が、次から次に女を縛って犯しまくる話である。出だしは姉との近親相姦から始まり、その姉を使って次の獲物を罠に嵌めていくプロセスは、あらすじだけ書くと陰惨で惨たらしいものに感じるが、文章から立ちのぼってくるのは、神経の隅々にまで行き届いた文体で貫かれた、甘美で極上なエロスの世界なのだ。美少女が何度泣き喚こうが、その情景は汚辱に満ちた目を背けたくなるようなものには一切ならず、読者を蕩けるほど魅力的な快楽の彼方へと誘って行く。獲物が穢れを知らない純真無垢な美少女であればあるほど、美少年の容赦の無い拷問は壮絶なものになり、それが却って極度の愉悦を生む。

どうしてもあらすじを追うことが出来ないが、最後に”あっ!”と驚く、正に悪魔にしか思いつかないような恐怖の結末が待っていることを、付け加えておきたい。何度も言うが、千草小説の良さはストーリー展開ではなく、端々に差し挟まれる千草淫語(HP「不適応者の部屋」では、ちぐ単として紹介されている)というべきものが、随所に散りばらめれていることに大きく起因すると言っても過言ではない。

≪付記1≫
何気なく呟いた一言が、相手の人生を狂わせ、殺意にも似た深い憎みを芽生えさせることがある。その言葉は、一生消えない心の傷となって精神を蝕み、やがて怨恨の情を表出せざるを得ない状況を作り出す。
千草忠夫の『爛れた遊戯』(短編集『甘美な浮遊』所収)中で、父親の職業を継いで産婦人科医になった哲也は、上流階級で大切に育てられた令嬢冴子に求婚する。医者というハイレベルな職に就き、常に高いプライドを持った哲也は、まさか自分が断られるとは思ってもみない。だが、結果呆気なく断られてしまう。才媛と誉れ高い冴子にはきっと別に好きな人がいるのだろうと、半ば諦めかけていた矢先、ある噂が哲也の耳に入り込んでくる。哲也の求婚が受け入れられなかった理由が、「あんないやらしい職業の人の妻になんか、死んでもならないわ」という誰もが予想だにしない冴子の暴言によって明らかになったのだ。
この出来事が、哲也を復讐の鬼へと変貌させる。計画は積み木細工を重ねていくように、念入りに土台から固められていく。最終段階で、罠に嵌った獲物の姿を、微笑みながら観察する哲也の視線が怖い。そこに千草さんの名文が挟まれる。「医師としての冷徹さが復讐の冷酷さに力をそえるのだ」(P55)冷え切った感覚のみに覆われた孤独な男の鬱屈した心情を、これほど的確に捉えた表現はないだろう。
冴子を内診(不妊症かどうかを確認)するために、石鹸を付けて恥部を剃毛し、泡を流す洗浄ノズルの先から発射する噴流に刺激されたかのように、続く検査器具のペリカンの嘴を挿入する場面で、哲也に心の叫びが湧き上がり、堪えていた口舌の奔出を促される。「いやらしい職業で悪かったな、冴子」(P58)
復讐の終着点は、架空の人工授精用具を使っての精子の着床だが、ここに至って何故か『蒼眸の悪魔』の主人公哲也(『爛れた遊戯』の主人公と同じ名前なのは単なる偶然か)の悪行の数々が甦って来た。悪魔の申し子とも言うべき美少年哲也とプライドを粉々に打ち砕かれた青年医師哲也の歪んだ鬱憤は、ある一線を踏み越えて悪逆無道の領域に入り込んだようだ。
復讐をきっかけに、闇の奥に潜む邪悪な精神が開示される時、千草さんが生んだ登場人物達は、悪の化身となって密やかに蠢き始める。