『奇譚クラブの人々』(北原童夢・早乙女宏美共著) 河出文庫

戦後数多く発刊されたSM雑誌の走りとも言える「奇譚クラブ」に携わった人達を、随筆形式で紹介したものである。沼正三著の『ある夢想家の手帖から』について書いた時にも感じたことだが、エッセイは紹介するのが非常に困難で、内容を詳細に取り上げようとすると、そのまま文章を抜き出してしまう危険性すらあって厄介だ。今回はやや偏向的かもしれないが、思わず頷いたり、新たな指針を与えてくれた、印象に残る章のみを抜粋して取り上げていきたい。
まずは、「『奇譚クラブ』の育ての親 須磨利之」についてだが、須磨さんが奇譚クラブや裏窓の編集者で、喜多玲子や美濃村晃として挿絵や小説を書いていたことは、以前から知っていたのだが、竹中英二郎として竹中英太郎さんそっくりの絵を書いていたことまでは知らなかった。須磨さんは、英太郎さんの大変なファンであったらしいが、完成された作品を見ていると自分独自の世界に引き込んで模写していたことが、細やかな筆遣いから感じ取れる。まさに、竹中英太郎さんが怪奇ではなく、エロスを漂わせる世界を書いたならば、必ずやこんなタッチで書いたと思わせるほど秀逸ものだった。(P16・17掲載)特に「硝子便所」「続硝子便所」の二枚は、様々な妄想を抱かせる傑作だといえる。
竹中英二郎の絵を目にしたことで本家英太郎さんに興味を持ち、鈴木義昭著(この人の著作には何故か縁がある)の「夢を吐く絵師」を読んで過去の英太郎さんの足跡を辿らせてもらい、そこから竹中英太郎記念館を知り、画集(現在も記念館で販売中)を購入し、不思議亭文庫という素晴らしいHP 《平野義久さん主催》を発見して、英太郎さんの見落としていた記事に出会うという幸運に恵まれた。奇譚クラブの英二郎の幻想味豊かな絵(今なら盗作問題に発展すると思うが)を目にしたことが、多くの出会いを生んだと今でも思っている。
一項目で思わず長々と書いてしまったが、次は奇譚クラブの定番ともいえる「縛られた女たち」から、この部分は他のカストリ誌マニアのHP“懐かしき奇譚クラブ”で多くの方が触れているので、若輩者の私は本来多くを語る資格はないのだが、この時代の白黒写真が、独特の淫靡な匂いを醸し出していたことは十分に察知出来る。素人のモデルが無理に縛りつけられたことによって、本物の傷みや辛さが表情の狭間から立ち上ってくる凄さもある。特に梨花悠紀子さん(私は彼女のファンだ)の気だるい顔は、気高い貴婦人が極悪非道の悪人に捕まって、全てを諦めてしまったかのような憔悴感に満ち溢れていて絶品だ。
次は、「黒髪への憧れ 伊藤晴雨」だが、特に晴雨の縛りに力点を置くのではなく、艶やかな黒髪が絵と写真の中でいかに重要であるかを解いた、北原さんの分析が見事だ。変態もここまでくれば、際物とか邪道とかといった言葉を封じ込めてしまう本物の凄さを感じる。
続いて「猿轡への執着」という項目、ここでも北原さんの筆が冴える。縛りにあまり興味のない私だが、猿轡にはこの文章を読んで非常に興味を抱かされた。欧米ではギャグと呼ばれている拘束具は奥が深く、布製(手ぬぐい・ハンカチ)・皮製・ラバー(ゴム)製や特注品のものまで、非常にバリエーションに飛んでいる。戦後のSM小説での使用は当然だが、戦前の古典文学者である滝沢馬琴山東京伝が、頻繁に小説や戯曲の中で用いていることも気づかされた。この教示は、奇譚クラブに掲載された新川裕夫の「さるぐつわ−この美しきものの詩と真実(1974年11月号〜1975年3月号まで)」で詳細に記されている。古典文学からの引用(二回目から)に関しては、北原さんが文中で紹介しているので、ここでは奇譚クラブで掲載された猿轡写真を、細部にまで渡って緻密に分析している一回目に少し触れてみたい。
塚本鉄三さんのフォトの中から、特に猿轡をされた女性の表情の魅力を様々な角度(視点)から紹介していく様は、写真と文章が正に一体化しているように感じられ、読んでいると奇妙な陶酔感に襲われる。この評論は、写真・文学・絵画・映画などでまだまだ書き続けられる要素を持っていたのに、残念なことに奇譚クラブの廃刊とともに記事は打ち切られてしまった。また、惜しむらくは、一回目記載されている文章と写真が一致していないものが多いことで(xx年x号からとのみ記載〜この号の奇譚クラブを持っていない者には読むのは辛い)、文章を読みながら手元にない写真を想像しなければならないのは、やはり少々きつかった。
いよいよ最後の項目だが、いつか書きたいと思っていた「革による拘束 四馬孝」についてだ。一部の人達は四馬さんのことを、本当の縛りが判っていない(縄の緩みなどを指摘)で筆を取った人だと揶揄しているが、北原さんも書いているが、四馬さんの特徴は限りない革への偏愛なのであって、縄への愛執の念ではないのだと言いたい。縄での縛りではなく、題名にもあるように革による“拘束”が、四馬さんには重要だったのではないか。掲載された革に包まれた女性の絵は、痛みがやがて愉悦にまで昇華したかのような錯覚さえ起こさせる。
確かに晴雨のように苦痛に歪まない顔は、SMを遊戯として捕らえているような誤解を生むかも知れない。しかし、ジョン・ウィリーをおそらく敬愛していたと思われる四馬さんは、血生臭い拷問など、本当は描きたくなかったのではないだろうか。有名な「花と蛇」の後半の挿絵に、少々筆の荒さが見受けられるのは、自分が入り込めない世界を書くことに対する、苛立ちや悲痛が原因だったように思えてならない。
ここまで書いて気づいたことは、触れている章に長文を寄せているのが、北原さんだけだということだ。共著の早乙女さんには、この仕事は少々荷が重かったような気がする。数々の特異な視点から性を論じている北原さんの良さが、遺憾なく発揮されている本だと言いたい。
出来れば、北原さんにはあとがきで触れている「倒錯のエロス」という題名で、追加補填して奇譚クラブそして裏窓・風俗奇譚まで食指を延ばして、新刊を出してもらえると嬉しい。
まあ、これは一読者のわがままとして、すんなり聞き流してください。

≪付記1≫
須磨利之や伊藤晴雨や四馬孝ら、魅力的なSM画家について記しながら、ふと現在BShiで放送中の「大胆不敵な水墨画」と題する、埋もれた古典絵師(芦雪・雪村まで放送)を掘り起こす意味深い番組の存在が頭を過ぎった。今更だが、同じ画家なのにアダルトという閉ざされたジャンルに足を踏み入れた為に、これからも陽の当たる場所では絶対に取り上げられないであろう者達の悲哀を、改めて感じないではいられなかった。
この番組の特徴とも言える、”模写”(現代の水墨画家が模写を行ない、古典絵師の筆遣いの奥深さと気概のようなものを味わう)をアダルト絵画でやったら、さぞかし面白いのにという卑猥な妄想に耽ってしまった。

『粘膜人間』(飴村行著) 角川ホラー文庫

このブログの題名の由来になり、一部のマニアが絶賛した『粘膜人間』の登場だ。本書は、飴村行さんのホラー大賞への投稿作であり、デビュー作でもある。

このミス(このミステリーがすごい!)を読まなくなって十年近くにもなるが、この手の小説を読み落してしまうことを考えると、やはり頻繁なチェックは怠るべきではないのかも知れない。
ホラー大賞の選考で物議を醸し出したのは、高見広春の『バトル・ロワイアル』 以来だったようだが、小説の内容から見れば良識派の人達には到底受け入れられない、卑猥で汚辱に溢れた文章が渦巻いている。選評で林真理子さんは、”まるで悪夢のような拷問シーンが実に不愉快で、作者はかなり危険なところに近づいている気がする。パソコンを打ちながら、このシーンに酔っているのではないか。・・・・”と述べ、高橋克彦さんは大賞の『庵堂三兄弟の聖職』のみにしか触れていない。
想像だが選考委員会では、『粘膜人間』を強く推したのは荒俣宏さん一人だけで、反対する二人を強引に押し切った形での受賞だったのではないかとさえ思えてしまう。林さんの選評を読んだ人がブログ上で、”この小説を不愉快と感じるのなら審査員を降りるべきだ”との烈しいコメントを書いているのを見かけたが、一概にそうとはいえないだろう。自分にとっての良識の範囲を越えたものを批判することは誰もが持っている権利だし、様々なジャンルから審査員が選ばれないと偏ったものしか評価されなくなってしまう危険性があるから、これはこれで有効な選考方法といっていいのではないか。飴村行さんの小説は万人には受け入れられない小説であり、またそこに大きな魅力がある。受け入れる読書の間口が狭ければ狭いほど、入り込んだら抜け出せない甘美な悪夢の世界がそこには存在しているのだ。
思い入れが強い作品なので、思わず前置きが長くなってしまったが、本編は飴村さん本人が述べているように、河童と巨大な小学生が戦うグロテスク・スプラッタ・ホラーと言えるものだが、血が吹き出る汚辱の連続シーンかというとそうではない。
話は二本のレールが引かれていて、一つは兄弟二人が凶暴な義理の弟一人を河童の手を借りて殺そうと企てる話で、二つ目は兄が戦争を拒否したために非国民の烙印をおされた妹が、兄の行方を聞き出そうとする憲兵に延々と拷問を受ける話だ。この二本のレールが途中で交錯する形で話は展開する。
非国民の烙印をおされた少女が隠された部分を暴露する後半は、貴志祐介の『黒い家』を思わせ多少新鮮味にかけるが、秘密を聞き出すそうとする憲兵が少女に《髑髏》という死を実感させる魔薬を打ち、そこで少女が見る壮絶な悪夢体験は、素晴らしい妄想をかき立ててくれる。自分が少女に乗り移ってしまったかのような錯覚さえ覚えてしまう。
架空のマーテル教の踏み絵検査から、学校に隣接された映画館へと場面が移り、最後は民衆の前での全裸の磔刑となって終焉する夢想の奔流は、昔見たピンク映画『視姦白日夢』(水谷俊之監督)を思い起こさせた。
この映画は、成人映画という枠を遥かに飛び越えた無限地獄ともいえるような悪夢に嵌りこんだ男の日常を、シュールな感覚で描き切った至極の傑作だった。ある時を境に、理想の女を犯す幻覚に取り付かれたセールスマンが、次第にその幻覚をエスカレートさせて、挙句の果てに自分の妻をナイフでメッタ刺しにして殺すというものだ。最後は、今までの出来事が現実なのか夢なのかが曖昧模糊となり、覚醒しないまま呆然と立ち竦んだサラリーマンの顔のアップで終わる。セールスマンとこの小説の少女の幻覚には、内容的にはダブることは一切ないのだが、どうしても同じ匂いを感じ取ってしまうのだ。
河童のモモ太と雷太の道行きは、コミカルで笑わせ、一瞬の安堵感が漂う。これは全編息詰まるような死闘の連続で、読者に一瞬の安息をも取らせなかった『バトル・ロワイアル』との大きな違いだ。作者にとっては、暴力と笑いは紙一重のところで存在しているのなのかも知れない。話題になった《グッチャネ》《便所女》《髑髏》《ハンバカ》《クソ漏れる》などの単語は、差別や猥褻用語のようにも聞こえるが、特異で魅力的な独創性をたたえていて、血生臭い暴力シーンを心地よく軽減して、一時だが日常の安息な空気を垣間見させてくれる作用をもたらす。唯一惜しまれるのが、二本のレールとなってる話の接合が僅かな瞬間でしかなかったことだ。モモ太と少女の会話が生まれていたら、もっと新しい息吹が小説の中に吹き込まれていたのではないか。
最後に題名の『粘膜人間』とは、妖怪キチタロウのことを指すのか、脳味噌が半分飛び出してグチャグチャになった様子が粘膜状態に見えた怪童雷太を指すのかが判らなかった。(おそらく雷太を指しているのだろう)
そんなことより、妙に波長が合ってしまった幸福なこの小説との出会いを、素直に喜ぶべきなのだろう。残りの”粘膜シリーズ”二冊と最新作『爛れた闇の帝国』を読んで、このブログに掲載させようと思っている。今からわくわくして、高まる興奮を抑えることが出来ない。

≪付記1≫
上記の感想は、HPやブログなどに数多く掲載されている書評や飴村さんへのインタビュー記事を見ずに、先入観がないところで書いたものだ。その後、書評家杉江松恋さんが、飴村さんへインタビューをした記事を早速読んだところ、題名に関する以下のコメントが載っていた。
「粘膜というと卑猥なイメージがあるでしょう。グロテスクで、さらに卑猥というイメージ。河童が代表例なんですけど、この小説の登場人物はみんなそういう、グロテスクでどこか卑猥という印象があると思います。だから、登場人物をすべて象徴する言葉として粘膜を当ててみたわけなんです。」
”脳味噌が半分飛び出してグチャグチャだから雷太では・・・”と言った私の安易な発想は、木っ端微塵に打ち砕かれた。もう少しきちんと読み解かないと駄目だと、深く反省をした次第。
≪付記2≫
角川文庫の解説を担当しているのは、北上次郎さんが認める数少ない書評家・池上冬樹さんだったが、今回の解説に関する限りあまり感心しなかった。
あらすじを紹介するのに半分近くを割き、後は選評のことや自分の僅かな感想で締め括る。そこには、この作品に対する思い入れや愛情は微塵も感じられない。このような駄文なら解説は、『粘膜人間』への限りない愛着を示す杉江さんに頼むべきだったのではないか。(実際、二作目の『粘膜蜥蜴』の解説は、杉江さんが担当している)編集者から依頼されたので、渋々解説を受けたというのであれば、北上さんのように、自分の興味のある本(例えば、飴村さんの二作目・三作目に触れる)を語ってしまうといった、掟破りの手法を取ってもよかったのではないかとさえ思えてくる。
解説というのは、読者を次の小説に誘う、水先案内人の役目を果たす重要なものである。
≪付記3≫
モモ太が捕まえた毒猫の爪の切り口から滴り落ちる、緑茶そっくりの緑色の猛毒作用のある液体は、澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』の「サバト幻景」の章で触れられている、ガマ蛙から抽出した媚薬を連想させる。この媚薬も緑色の液体で、濃縮された溶液が着物に触れただけでも人は直ちに死んでしまうらしい。
飴村さんには、天性の錬金術士としての素養があるのだろうか。興味の尽きない共通項だ。
≪付記4≫
正直、『粘膜蜥蜴』の感想を付記で書くとは考えてもみなかった。(心が揺さぶられない小説は、今後も書評欄では扱わない方針だ)日本推理小説協会賞やこのミスでも堂々の第六位と前評判が上々だっただけに、落胆の度合いは大きかった。
まあ、前評判なんてものは当てにならないということだ。多くの人達に絶賛された小説だからと言って、好評価を付ける気は毛頭ない。今後も、嗜好に合った小説を紹介していくという基本ポリシーは変えないつもりだ。
付記なので、長くならないために早速本題に入るが、この小説は『粘膜人間』に比べて非常に綺麗に纏まり、話の展開も無理はなく、そこには有無を言わせない説得力すらあるのだ。この言い回しは、他の作家なら褒め言葉になるところだが、飴村さんの小説では非難として降り注がれる言葉だと解釈していただきたい。
飴村小説の良さは、少々の話の破綻をも恐れない、辻褄を無視した傍若無人なまでの絶え間ない暴走と破壊が乱舞する破天荒なドラマであったはずだ。しかし、ここには意外なほど繊細で緻密、且つ落ち着きのある重厚な雰囲気が全編を覆い尽くす。この辻褄のあった展開は、飴村節を抑圧して押し潰す作用にしか働いていない。悪い箇所を具体的に説明出来ないのが少々辛いが、一言で言えば筋立てに納得出来れば出来るほど、逆に真綿で首を絞めつけられているような感覚になり、徐々に作品の血の気が失われて、魅力的な要素が削り取られていくのだ。
飴村用語ともいえる、独特の卑猥で汚辱を含んだ言葉の羅列は、前作同様ここでも健在だが、暴言を吐く雪麻呂や間宮の二人が、僅かに見せる人間的な弱さ(隠れている善人意識)は、二人への同情という感情よりも驕慢さを失った人間の惨めな情けなさを感じる。どんでん返しのような形で、最後に明らかになる富蔵の秘密には、過去の富蔵の言動数々(前作のモモ太と同じように、笑いをそそる突飛な言葉を次々に連発する)を考えると非常に無理がある。
前作の興奮が蘇る部分は、雪麻呂、清輔、魅和子の三角関係によって、やむなく戦いの場に引き摺り出された、代理人熊田軍曹と元力士富士丸の陰惨で壮絶な血みどろの決闘シーンにおいてだった。この情景を目にしただけで、第三作目の『粘膜兄弟』を読みたいという期待感が新に高まって来た。飴村さん独自の狂気と悪夢の孕んだドラマが、次回復活してくれることを祈っています。
≪付記5≫
『粘膜兄弟』を読了。
この作品も付記で記すことになるとは思わなかった。ただ、嫌な予感が少なからず燻っていたのも否めない。
前二作に比べて文章はこなれており、格段に上手くなっている。今まで駆使した並行する二つの話を途中から融合させる手法をあえて伏せ、直球勝負で一つの話に絞ったことも、小説家としても決意のほどが窺えて清々しい。その直球も、コースぎりぎりを狙って三振を取りに行くようなことせず、ど真ん中に剛速球を投げ込んでいるのも嬉しい。
では、何が問題なのか。付記4でも少し触れたが、話の整合性が取れるほどその魅力が削がれていくという、他の小説ではありえない不可思議な現象が、やはりこの作品でも起きていたのだ。ここには、飴村さんが陥りつつある危うい現実(本人は気づいていないはずだ)が見え隠れするような気がしてならない。
嘗て実際に起きた数多くの特異な事件を映画にして、世間から注目を浴びた若松孝二というピンク映画の監督がいた。(今も現役だ)足立正生大和屋竺という強力なブレーンを携えながら、その猟奇的ともいえる素材を実に巧みに使って観客の興味を惹き、作品を量産し続けていたが、『天使の恍惚』という連合赤軍に関わった映画を作ってから、その力が急激に衰え始める。盟友松田政男さんの言葉を借りれば、現実の出来事が映画を凌駕する事態にまで突出してしまった為だ。これ以降同じような形で作品を制作しても、興味本位のゴシップ記事を扱った底の浅い映画としか見なされなくなっていく。
思わず話があらぬ方向に逸れたが、当時の若松プロの求心力の低下と飴村さんの無難な創作活動が何故か重なって見えてしまう。矢太吉に何度も降り注がれる暴力の嵐は、前二作を上回るほど壮絶で凄まじいのだが、意外にも衝撃度は薄まっている。原因がどこにあるのかなかなか判らなかった。だが、それが作品の背景にあるように次第に感じられてくる。仮想の異次元世界では、血みどろな殺戮行為は架空の絵空事として、割り切って作品に身を委ねることが出来るが、今回のように現実により近いところを舞台にすると、現出する嗜虐行為が単にグロテスクなものにしか見えず、作品の中に自己を投影させることがどうしても出来ないのだ。主人公と同化出来ない状態の中で行なわれる惨たらしい蹂躙の数々は、その行為に多少の必然性があっても、実在感に乏しく深く心に刻まれることはない。このように飴村さんが舞台の場を安易に現実に接近させればさせるほど、他のホラー作家との境界線が曖昧になり、独特の怪奇度が失われていくように思える。
今後、飴村さんはどんな方向へ歩みを進めていくのだろうか。不安だが見守っていきたい。

『ある夢想家の手帖から 全六巻』(沼正三著)潮出版社

戦後のカストリ雑誌奇譚クラブ』に連載されていた作品を、ほぼ完全な形で纏めた本である。(都市出版社や太田出版から出ているものは抄録本で、”ほぼ”と記したのは不定期連載「沼正三便り」の一部と、ヤプーの「中絶お詫びのご挨拶」記事、告発ともいえる高橋鉄氏への尖鋭な批判文などが抜け落ちている為だ。〜高橋氏への文面は馬仙人さんのHP”女性上位時代”で確認可。最近気が付いたのだが、索引の所々に誤記が見受けられ、あとがきで沼さん自ら記しているが、「雑報」と「沼便り」が索引対象から外れている事実も見逃せない)現在、取り上げられた記事の関係で復刊は困難な模様で、そのせいか古書価も高い。
私は偶然学生時代に、何か得体の知れないものに導かれて購入し、ずっと本棚の奥にしまい込んでいた。今年に入って長期の余暇が取れた為、全巻読むことが可能になった。やはり、噂に違わぬ怪書だった。基本はマゾ関連の古今東西の文献紹介だが、その披露形式が半端ではなく、多岐多様な事柄にまで渡っているのだ。著者の博覧強記たるや物凄いものがある。古典物の掘り起しもさることながら、当時発刊されていた他のカストリ雑誌(裏窓・風俗奇譚など)や週刊誌・細かな新聞報道など、ありとあらゆる文字という文字に目を通したのではないかと思われるような所が数多く見受けられる。
良い随筆(文献情報)には、紹介されている本を読者がどうしても手に入れたくなってしまう不思議な魔力というか圧倒的な吸引力のようなものが潜んでいて、どうしてもそれを抑えることが出来なくなる。(北上次郎さんの書評にも、同様の魅力がある)その逃れられない力に誘われて、本書で紹介された本や雑誌を多数購入してしまった。まだ半分も目を通していないが、通読した書物は何らかの刺激をもたらしてくれた。横溝正史による戦前の掌編『丹夫人の化粧台』(第九十章「閨房の備品になった男」)などもその手の一篇で、おかげで横溝さんの怪奇短編をほとんど読破する羽目に陥った。
まだまだ、この本に関しては語り尽くせないことが沢山あるが、内容分析や沼さんの人物像に関する丁寧な検証は、馬仙人さんや白乃勝利さん(”マゾヒズム文学の世界”)のHPによって成されているので、興味のある方はそちらを覗いてみることをお薦めする。沼さんの正体に関しては、馬仙人さんやゴミムシさん(”私はあなたのトイレです”主催〜中々の炯眼の持ち主)とほとんど同意見なので、ここではあえて触れないでおきたい。
私は未だに何度も読み返しているが、読み落してしまった箇所があることにそのたび気づき、単なる博学な知識の羅列でない、言葉の持つ奥深さを存分に感じさせてくれる。マゾに興味がない人でも、非常に面白くて魅力的な本といえるだろう。
≪付記1≫
書評を記した者の責任として、ポイントとなる箇所には触れるべきではないかと思い至り、付記として追加させていただくことにした。
前半の章では、『家畜人ヤプー』の構想へと繋がる第十六章の『家畜化小説論』が最も重要かと思われる。
冒頭部分から、・・・ここでこそ彼は完全に人格を無視せられた存在になり得るのです。(後略)までの一節は、奇譚クラブ1956年9月号に掲載された沼さんの比較的短い文章『家畜化小説の登場を喜ぶ』から抜粋されたものだが、全文を読むと、自分が今まで夢想して来たものが徐々にだがやっと具現化されたことに対するこみ上げる喜悦が感じられる。だが、それと相反して過去に発表されたマゾ小説に対する不満を口にする。
「叙述の上では女が男の意志を圧伏して責め虐げるように書かれても、その前提が動かない限り、本質はサド・マゾ・プレイを合意でやっているのと大差ないことになってしまいます。」と述べ、決定的なのは女の側に罪障感が免れ得ないことだと指摘し、この感覚を抱かないための手段の必然を説き、黒人奴隷が白人に対して抱く劣等感の喪失を取り上げて、“劣等感否定のための劣後性肯定”(卑下の状態は当然なので、劣等感の必要はないという無意識操作)という心理を得る意味からも、優劣二集団の制度が不可欠であると主張する。
「集団内空想」(制度的に固定した劣位集団への所属)と「制度化空想」(自己が所属する集団の制度的な劣位性)の二つがそれだ。「集団内空想」はゴーテの奴隷制小説(『鞭打つ女たち』【未訳】)に、「制度化空想」はSF小説(異星人が人類を襲い、人間を家畜化する〜『山椒魚戦争』『ペット・ファーム』【未訳】『ピラミッド』【未訳】)などに多く見掛けられる光景であることを示してくれたおかげで、優劣二集団の理解度はより深まる。
沼さんはここで“異性人による家畜化”ではなく、“人間による人間の家畜化”を考える。前提になるのは、白人崇拝だ。『家畜化小説の登場を喜ぶ』の中で、賞賛された土路草一さんの小説『潰滅の前夜』にはこの傾向は見られず、飼育者が白人ではないY国人と想定している点に少なからず不服を漏らし、第十六章で同じ土路さんの手による『魔教圏NO.8』に登場する白人女性の存在を無条件に喜んで、家畜化小説と白人崇拝の密接な関係を示唆する。ただ、『家畜化小説の登場を喜ぶ』の結びで、「今までの私自身の空想では常に”白人種の家畜たる日本人”がテーマだったのですが、白人種でないY国人(『潰滅の前夜』)への隷属にもこの位昂奮したということから、”白人崇拝”と”家畜化願望”を無意識の中で結合させてしまったことを自覚させられたのも、私としては収穫でした。」と締め括っているところから、『潰滅の前夜』が出現した時点で、すでに「白人種の家畜たる日本人」という狭い枠組みで踏み留まっていたものが、「白人崇拝=有色人種家畜観」の広範な図式によって、理想の家畜化小説のイメージに接近していたことが判る。
『魔教圏NO.8』に現れる白せきのユーマ美女は、『家畜化小説の登場を喜ぶ』を読んだ土路さんが沼さんの嗜好に歩み寄った結果生まれたものと解釈出来ないこともない。土路さんの中に沼さんと同様の白人崇拝の感情が急に芽生えたとは考えにくく、沼さんの「“自己の属する集団(日本人)の制度的な劣位化”の思想が飼育者としての白人種を要求せざるを得なかったからだ。」とか「日本人マゾヒストの白人崇拝は、有色人種を白人種の家畜とする空想に、その最終最高の表現を見出すのである。」と規定するくだりは、白人崇拝意識に通常の範疇からいささか逸脱しているところが見受けられる。沼さんが言うように、「集団内現実」(おそらく敗戦国としての日本のことだろう)が少なからず影響して、家畜化小説では白人種を飼育者に据えるのかも知れない。
このように僅かな疑念を抱いていると、都市出版社版の第一巻のあとがきで沼さんが自身のことを「いわばフェチスト的とでも形容すべき種類のマゾヒストに比べれば、かなり関心圏の広い正統なマゾヒズムであるが、この白人崇拝のモメントにおいては偏りがあると自覚する。」と記し、その後これには原因があるのであるが・・・と濁すことで、復員兵として過去に味わった西洋人からの凄絶な屈辱行為の数々を暗示する。己れのいささか異常な気質をきちんと把握し、それをも分析の対象にする沼さん独特の反芻思考が窺える箇所だ。
家畜人ヤプー』が生まれた土壌をじっくりと考える上では、『家畜化小説論』は非常に有益な章である。是非熟読玩味を薦めたい。
《付記2》
付記1で記した沼さんの言葉「・・・この白人崇拝のモメントにおいては偏りがあると自覚する。これには原因があるのであるが、」を引き継いだわけではないのだが、中盤以降で目を引くものは、第四巻『奴隷の歓喜』中の一篇、百六章「奴隷の喜び」だろう。
ただ、この章は沼さんのコメント(「・・・(省略)敢えてここに書くのは、既に≪奇譚ク≫誌上の永年の寄稿者として文献による実録と空想に基く創作とを峻別して来た私の実績というものが、多少は私の味方をしてくれるだろうという期待を持っているからである。」〜P111)にあるように、自分が白人ドミナから受けた様々な実体験を赤裸々に語っているだけに、詳細な分析を施しても単にあらすじをなぞることに成り兼ねないので、ここでは体験談に深く関わっている貴重な二つの章、百十八章「苦痛より凌辱を」と百十九章「手段化法則」に触れながら、「奴隷の喜び」を解読してみたいと思う。
英軍に降伏して武装解除させられ、復員を待っていたある日本の部隊の話である。沼さんは英軍司令官の伝令勤務を命じられる。一瞬沼さんの顔が強張る。理由は三日前に司令官宅を訪問し、つい先日まで同宅で勤務していたKの死骸を引き取りに行ったことが、頭の片隅を過ぎったからだ。自分も同じ目に合うのではないかという恐怖心が芽生える。Kは司令官宅で夫人に無理難題な用件を言い渡され、その言いつけに背いた態度をとって射殺されたらしいのだ。そのため、沼さんは何を言われても絶対服従を貫き通すことが生きる術なのだと悟る。この時から、下僕に近い存在として仕える沼さんの悪戦苦闘の日々が始まる。勤務初日に司令官夫人から、突然意味不明の乗馬鞭の一撃を食らう。その時の思いを沼さんはこう語る。
「このとき私は、焼けつくような顔の痛みと同時に、かつて味わったことのない一種の陶酔感に囚えられた。全く抵抗する力なしにこの女の鞭を受けなければならない。(略)・・・言うことを聞かなければ射殺されてしまう。−涅槃というのがこんな気持ちかもしれない。自分の主体性がゼロになってしまった、という恍惚感、エーリッヒ・フロムのいわゆる「マゾヒズムの主旋律としての無力感」、これを感じたのだった。」(P117)
その後以下の文章が付け加えられる。「いわば私は粘土であった。この一撃以後、彼女は粘土に濡れ気(しめりけ)を加えながら、適度な鞭の使用で思いどおりにこねまわした。」(P118)
ここまでの文面と符合する箇所は、百十八章「苦痛より凌辱を」の以下の件である。長いが引いてみよう。
「晩年のフロイトは、マゾヒズムサディズムの内向化と見た初期の見解を改め、強迫反復の現象を快楽原則から独立させると同時に、涅槃原則ないし、死の本能こそ生命体にとって根元的なものであり、マゾヒズムとはその破壊衝動が性に即して顕現したものに外ならず、サディズムはこの根元的マゾヒズムの外向化に過ぎぬと見た。」(P227)〜補足(H・エリスも「純粋なマゾヒストの中にサディズムの要素が発見されることは殆んどない。」(P226〜百十八章の題辞より)と語っている。)
フロイトの語法は、哲学者特有のまわりくどい言い回しを援用しているが、主旋律はマゾヒズムにあり、人間の本質的な涅槃意識(寂滅)は実に貴重なものであって、その死に近い破壊衝動が性と結び付いた時、初めてマゾヒズムが現出するという論理なのである。沼さんの涅槃から無力感へと至るプロセスは、肉体と精神の破壊行為から生まれた死への接近(涅槃原則の表出)以外の何物でもない。ただ、この時点では、まだ性とは直結しておらず、その繋がりは夫人から排泄される汚物摂取による自尊心の溶解(P116)とその果てに生まれた羞恥心のない犬の意識の萌芽によって完成をみる。正に濡れ気を伴った粘土のこねまわし作業が行なわれたわけだ。
沼さんは百十八章で、真のマゾヒストには緊縛自体を快楽の源泉と考える「肉体的受苦」よりも、「精神的凌辱」中の手段である「羞恥心の剥奪」が必要だと訴える。緊縛や鞭撻は「精神的凌辱」の表現形式としか見ていない。つまり、夫人に両手を前に出して親指を揃えて細い針金を巻きつけられる緊縛(P118)は、精神的凌辱を反映させた羞恥心の剥奪行為と捉えているのだ。決して肉体的受苦を性的快感と見做したわけではない。結果、肉体的受苦を主に据えた者をアルゴラグニア(受動的苦痛愛好)と呼び、精神的凌辱に力点を置いた者を狭義のマゾヒストだと規定する。そして、後者こそが真正マゾヒズムなのだと唱える。
更に、狭義のマゾヒズムの本質が「被虐者が他の人間の手段(道具、材料)とされる程度が高いほど、マゾ的な昂奮が大きくなる」手段化法則(P232〜百十九章「手段化法則」より)に潜んでいることを説く。そこでは、相手を「否定さるべきもの」として高く評価している(人格を認める)復讐とか憎悪の感情は、マゾ的感興を削ぐ作用にしか働かないと言い、その上カントの道徳原理「・・・(略)決して手段としてのみ取り扱わぬように行為せよ」に背いた扱いを受けたいと望む者こそが、狭義のマゾヒストの名に値すると断言する。この手段化法則こそが、羞恥心の剥奪の一翼を担っているといっていいのではないか。特徴的な話として、百十九章の付記第二の「人間土嚢」が上げられる。詳しくは記さないが、英軍が半死半生の日本兵を土嚢の代替物として使用するのだ。この死体冒涜とも思える非道な扱いから、手段化法則(人間土壌化=物化妄想)を適用して、マゾ意識を高ぶらせる沼さんの感性は尋常ではない。
付記としては、今回もまた膨大な量になったが、最後に百六章「奴隷の喜び」の追記に触れて結びとしたい。
浅羽やすしの『天使とブタ』(奇譚クラブ1970年3月号掲載)中で、北欧風の兄嫁に対して湧き上がる汚物憧憬の危うい感覚を、ヨアヒム・パウリの報告とともに検証している。主人公の受験生が「兄貴(夫)にもできない方法で女をものにした」心情を抱き、対象人格化(アポテオーゼ)を伴った「自分がはずかしめられると同時に相手を冒涜した感じ」という神聖冒涜の境地にまで思いを巡らす。浅羽さんの小説は一度目を通しているのだが、沼さんが持ち得たような崇高な想念を思い描くに至らなかった。軽症観念マゾヒストには味わうことが出来ない遥か彼方の出来事なのか。

『蒼眸の悪魔 全二巻』(千草忠夫著) 日本出版社

本書は、千草忠夫さんの代表作というわけではない。千草本は未読が多いので、あえて印象に残った小品を取り上げてみた。

千草さんは、英語教師という肩書きを持ちながら、雑誌「奇譚クラブ」に随筆を投稿したことから文筆業に携わるようになった人である。団鬼六の「花と蛇」へのオマージュ、エロスの定義、丹羽文雄の愛欲小説に漂う淫靡な匂いなどに触れた「奇譚クラブ」の文章は、単なる思いつきの随筆に留まらない熱気を孕んだものだった。その文面からは、相当数の小説(特に恋愛物)を読み込んでいることが窺われる。
その読み込みの深さが、「奇譚クラブ」誌上で、他の小説家にはない奇妙な味わいのある短編を生むことになる。『幻のプレイ〜一枚の写真』が、その一例だ。一枚の緊縛写真が縁で知り合った同好のSM愛好家とともに、体験する幻覚のような一夜を綴ったこの小説は、独特な異臭を放っていた。

さて本編だが、今ではアダルト小説でさして珍しくなくなった魔性の美少年が、次から次に女を縛って犯しまくる話である。出だしは姉との近親相姦から始まり、その姉を使って次の獲物を罠に嵌めていくプロセスは、あらすじだけ書くと陰惨で惨たらしいものに感じるが、文章から立ちのぼってくるのは、神経の隅々にまで行き届いた文体で貫かれた、甘美で極上なエロスの世界なのだ。美少女が何度泣き喚こうが、その情景は汚辱に満ちた目を背けたくなるようなものには一切ならず、読者を蕩けるほど魅力的な快楽の彼方へと誘って行く。獲物が穢れを知らない純真無垢な美少女であればあるほど、美少年の容赦の無い拷問は壮絶なものになり、それが却って極度の愉悦を生む。

どうしてもあらすじを追うことが出来ないが、最後に”あっ!”と驚く、正に悪魔にしか思いつかないような恐怖の結末が待っていることを、付け加えておきたい。何度も言うが、千草小説の良さはストーリー展開ではなく、端々に差し挟まれる千草淫語(HP「不適応者の部屋」では、ちぐ単として紹介されている)というべきものが、随所に散りばらめれていることに大きく起因すると言っても過言ではない。

≪付記1≫
何気なく呟いた一言が、相手の人生を狂わせ、殺意にも似た深い憎みを芽生えさせることがある。その言葉は、一生消えない心の傷となって精神を蝕み、やがて怨恨の情を表出せざるを得ない状況を作り出す。
千草忠夫の『爛れた遊戯』(短編集『甘美な浮遊』所収)中で、父親の職業を継いで産婦人科医になった哲也は、上流階級で大切に育てられた令嬢冴子に求婚する。医者というハイレベルな職に就き、常に高いプライドを持った哲也は、まさか自分が断られるとは思ってもみない。だが、結果呆気なく断られてしまう。才媛と誉れ高い冴子にはきっと別に好きな人がいるのだろうと、半ば諦めかけていた矢先、ある噂が哲也の耳に入り込んでくる。哲也の求婚が受け入れられなかった理由が、「あんないやらしい職業の人の妻になんか、死んでもならないわ」という誰もが予想だにしない冴子の暴言によって明らかになったのだ。
この出来事が、哲也を復讐の鬼へと変貌させる。計画は積み木細工を重ねていくように、念入りに土台から固められていく。最終段階で、罠に嵌った獲物の姿を、微笑みながら観察する哲也の視線が怖い。そこに千草さんの名文が挟まれる。「医師としての冷徹さが復讐の冷酷さに力をそえるのだ」(P55)冷え切った感覚のみに覆われた孤独な男の鬱屈した心情を、これほど的確に捉えた表現はないだろう。
冴子を内診(不妊症かどうかを確認)するために、石鹸を付けて恥部を剃毛し、泡を流す洗浄ノズルの先から発射する噴流に刺激されたかのように、続く検査器具のペリカンの嘴を挿入する場面で、哲也に心の叫びが湧き上がり、堪えていた口舌の奔出を促される。「いやらしい職業で悪かったな、冴子」(P58)
復讐の終着点は、架空の人工授精用具を使っての精子の着床だが、ここに至って何故か『蒼眸の悪魔』の主人公哲也(『爛れた遊戯』の主人公と同じ名前なのは単なる偶然か)の悪行の数々が甦って来た。悪魔の申し子とも言うべき美少年哲也とプライドを粉々に打ち砕かれた青年医師哲也の歪んだ鬱憤は、ある一線を踏み越えて悪逆無道の領域に入り込んだようだ。
復讐をきっかけに、闇の奥に潜む邪悪な精神が開示される時、千草さんが生んだ登場人物達は、悪の化身となって密やかに蠢き始める。