『D・Sダブルセンス(重層感覚)』(乾正人〔千草忠夫〕著) S&Mスナイパー84年8月掲載

雑誌掲載の小説(未単行本化)を書評するのは掟破りかとも感じたが、この小説に自分なりのけじめを付けたい意味もあり、非難を承知であえて取り上げることにした。
数年前に、購入した古本雑誌に掲載されていたこの短編に目を通した最初の印象は、“千草さんが、珍しくスランプにはまっている“という予想外の展開に対しての居心地の悪い焦燥感だった。面白いという感情は、この時には全く沸いてこなかった。ただ、重苦しい余韻が残る奇異な物語だったことだけが、記憶の奥底にはっきりと刻み込まれていた。
先日、溜まった古本雑誌を整理していた際に、たまたま手にしたのをきっかけに再度読み直してみた。読後のすっきりしない感慨は前回と変わらなかったのだが、神経症を孕んだ陰鬱な文章の端々が、こちらの過敏な神経を逆撫でせず、逆に心地良い刺激を与えてくれたことに気づいた。
物語は、病気を抱えながらも、書く行為を永遠に継続しなければならない、全ての作家が背負う奥深い悩みが中心に据えられている。この時期、実際に千草さん自身が狭心症にかかり、精神が不安定になって、自閉症とノイローゼを併発させていたのではないかと思えるほど、脱力感・無力感が文体の狭間から、切実な嘆きとなって伝わってくる。ただ、書けない作家の苦悩を延々と読まされることは、読み手に過酷な苦痛を強いることになるのだが、そこは千草さんだけあって筆が進まない苦難の日々の中で起る、日常の奇妙な幻覚を見事に掬い取ってみせ、決して飽きさせない。
ある時主人公は、自宅の凹の字をした奥の二階部屋の天上部分から、見知らぬ女の嬌声を聞きつける。最初は、この声を単たる幻聴として聞き流していたのだが、毎日午前三時頃に耳にするうちに、次第に女の次の動向が気になっていく。だが、午前三時起きは神経に障り、狭心症患者には良くないので、数日間この日課をやめて、女の声を強制的に自分の耳から遮断させることにする。
といっても、毎日の定例と課した行為を抑制すると、返って無性に実行に移したくなるのが人間の習性だ。久しぶりに早起きをした主人公は、再び耳にした女のよがり声の思わぬ変貌に驚愕の様相を呈す。交わっている男性(声は聞き取れない)との激しいSMプレイを行なうまでにエスカレートしていたのだ。原稿を書かずに神経を過敏に反応させ、エロスの幻聴に聞き耳を立たくなる気持ちはよく判るが、見知らぬ男女の淫靡な声を繰り返し聞いて、性的興奮はこれから先も継続可能なのだろうかという余計な心配すら浮かんで来た。
そんな中、主人公は奇妙な感覚を覚える。自分が昔どこかで実践したことのある光景(幻想)の再現にように感じられはしないかと。既視感(デジャヴュ〜ここでは正しくは既聴感だが)をきっかけに、より鮮明な過去の記憶を呼び覚まされ、隠された異常な日常が表に曝け出されて来るのだ。その記憶が明確になったのは、夏場に女が手首に痣が残るのを恐れ、毛糸を編んで捻り、それを縄のように見せて縛る方法を提案にて実行に移すシーンを耳にしたことによる。これは、正に主人公が妻に懇願された緊縛手法だった。
過去に、自分が残忍な縛り行為を犯したことによる後悔の念が生んだ幻聴なのか、再度そんな女を求めたいという自己の奥底に沈殿している邪悪な意識(潜在願望)の現われなのか。
最後にこの症状の原因が、病気によって衰弱した脳が多次元空間の障壁を脆弱にして、このような幻聴が生まれたという結論へと強引に導かれていく。「つまり、凹の字型の側面を中央から折りたたむと、前二階(主人公は、以前凹の字をした手前の二階部屋〔今は子供部屋〕に寝ていた)と後二階とはピッタリ重なるのである。言い換えれば、あの時代の時間空間が何らかの理由で折れ曲がって裏二階に重なったのではないか。」といったように、多次元の時間空間が曖昧になり現出した幻だと、主人公は規定するのだ。女の声の違いは、時空のひずみを通過して聞こえたので、こちらには違って聞こえたと補足される。確かに、SF的な解釈で時空の歪みが生み出す怪奇現象として証明されないこともないが、それを呼び起こした原因が、建物の位置関係(昔と今の居住空間の配置の相違)にあったというのは何か腑に落ちなかった。
でも、流石千草さん、様々な解釈が出来る最後の糸口をきちんと残しておいてくれる。ラストで一階に寝ている妻の症状を盗み見た時に妻が示す表情の中に、その意味が隠されていたのだ。「妻はキチンと仰向けに横たわったまま眼をカッと見開いていた」と書かれている。見開いていた瞳が直視しているのは天井の先、そう二階だったのである。
私には過去に毎夜行なわれていた淫靡なSMプレイを、今も妻が期待して待ち望んでいるような感じがしてならない。ただ、多忙な夫には、その希望を叶えることはもはや出来ないだろう。過去の幻影に縋り付くしかない妻が、自分の身体を一人寂しく慰めていたとしても、別に不思議ではないのだ。この悲痛な喘ぎ(妄想)が、多次元空間の障壁を揺るがす大きな要因になったとは言えないだろうか。
一見、作家の書くことの苦痛を赤裸々に開陳したように見せかけながら、その苦悩の果てに見える怪しげで魅惑的な幻覚・幻聴の正体を鮮やかに掴み取って読者の前に披露する。やはり、千草さんは只者ではない。

≪付記1≫
学生時代に、中山潔監督・夢野史郎脚本の『指と舌ぜめ』というヒッチコックの『裏窓』に着想を得たと思われる奇怪なピンク映画を見た。安易な男女の恋愛ではなく、主人公が窓から覗き見たアパートの一室で行なわれている異常なSMプレイの光景が、あたかも日常空間から全く切り離された別世界の出来事のように思え、欲望とか快楽といった甘美な性衝動の範疇を遥かに超えた、悪夢のような迷宮に引き摺り込まれた。
この独特な異次元空間の匂いが本書にもある。小説・映画ともに、主人公は隔絶された場所にいるので、女の嬌声が聞こえてくるはずはないのだが、時空を越えて耳奥に密かに鳴り響くかのような感覚を呼び起こさせてくれる。偶然の符合にしては、少々出来過ぎだ。
≪付記2≫
千草忠夫著『悪魔の刻印(上・下)』を読む。長文の書評を予定していたが、読後思っていたような愉悦感が生まれなかったので、付記として記することにした。
悪魔国の支配者(佐野享平)、生贄への刻印(恥部への剃り込み)、磔柱、マジックミラーのある調教部屋、冷酷非情な悪魔の手下(時田兵六)、同性愛(レズ)、儚くも美しい悲惨な時代劇絵巻の夢想にほぼ一章を割いた「妖かしの舞」などの数多くの魅惑的な素材を元に、現在の関心事である悪魔術や秘密結社のグノーシス派集団、薔薇十字団、フリーメーソンで行なわれた秘密儀式(入社式など)を旨く絡めて論じれば、刺激的な批評が書けると思っていた。
だが、生贄(美女)を無闇に増やした為に、肝心の悪魔の所業が後半生温いものになってしまい、書評の筆を取る意欲がついに沸かなかった。第八章「瑠璃色 六人の女」の残虐芝居も、第二章「妖かしの舞」を引き継いだものだと思うが、残念ながら愛欲場面(見せ場は串刺しの刑)は空回りしている感が拭えない。
意余って言葉足らずといった印象を受けた。

『悪魔王国の秘密』(監修 佐藤有文) 立風書房

HP「書肆月詠」で紹介された年少者向けの悪魔学本である。内容は児童書とは思えないくらい、邪悪な匂いを沸々と漂わせている。
「書肆月詠」によれば「ビッグジャガーズスペシャル」と銘々され、佐藤有文さんの監修で『ソロモン王の魔法術』と本書の二冊が刊行されたらしい。但し、古書価は現在も上がっているようで、簡単に購入することが出来ない状態になっているのがとても残念だ。そのような本を紹介するのは少々気が引けるが、感想を書き留めておきたい欲望をどうしても抑えることが出来ないほど惹き込まれたので、あえて取り上げることにした。
つい数ヶ月前に、澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』を再読した際に感じたことなのだが、学生時代には全くと言っていいほど頭に残らなかった言葉の断片が、水に浸した布のように自然に浸透してくるのがとても不思議に感じられた。最近の書評で、この本の引用が多くなったのはそのせいだ。澁澤本の読後余韻を引き摺ったまま、本棚の片隅に埃塗れになって埋もれていた『悪魔王国の秘密』を偶然手に取った。購入時には、さらっと目を通しただけで熟読しなかったせいか、その内容は思いがけない新鮮な驚きと感動を与えてくれた。
まず、秋吉巒さんの表紙絵と挿絵の数々が素晴らしい。秋吉さんは、戦後のカストリ雑誌やSM雑誌の挿絵画家としての印象が強いので、何故このような怪奇児童書に挿絵が掲載されることになったのかが奇妙に思えた。この本の出版が1987年で、秋吉さんが亡くなったのが1981年なので、明らかに本書のために書いた挿絵ではないことが判る。
こう考えると、秋吉さんの幻想・怪奇絵画を以前から目にしていた監修の佐藤有文さんが、秋吉さんの親族から挿絵掲載の了解を強引に取り付けたとしか考えられない。(秋吉さんは少々気難しいところ〔生前一枚も画を売らなかった〕があったようなので、生前では掲載の了解は得られなかったかも知れない)その佐藤さんの熱意のせいか、秋吉さんの挿絵に添えられた佐藤さんの筆による短文が、非常にうまく嵌っていて、精巧で頑強な悪魔王国の建設に一役も二役も買っている。ほとんどがSM雑誌に掲載された物の再録だと思われる挿絵だが、その画が紆余曲折の末に辿り着いた場所が、心地よい天命の地だったかのような感慨を抱かせる。まさに、本と挿絵との目に見えない絆のようなものを思い起こさせる至福の瞬間だ。
秋吉さんは、その淫靡で深淵な悪魔の世界を、細密で柔らかい独自の筆使いで丹念に仕上げているのだ。特に妖術使達のサバト(夜宴)と題された図(P29)は絶品で、一枚の淫猥な怪奇絵画として描かれたのではなく、画面の奥に仁王立ちする悪魔は、サバトを催す魔王レオナルドの存在を、強烈に意識して書かれたものであることが実感出来る。このまま秋吉さんの絵画のことを語っていると、とりとめがなくなるので切り上げるが、紡ぎ出される賞賛の言葉を無理に封じ込めると、胸が息苦しくなってしまうほど愛おしい挿絵群である。
さて、本の内容だが、澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』と多分に重なっている部分が多い。当然、監修の佐藤さんが澁澤さんの本を熟読して、それを補う(澁澤さんに対して、このような言い回しは恐れ多いが)意味で書き始めたと思われる形跡が随所に受けられる。
悪魔サタンの誕生の経緯についてだが、澁澤さんが紹介する聖ヒエロニュモスによると、悪魔サタンは天上と追われたとき、配下の天使たちの1/3を引き連れてきたので、地獄にはおびただしい数の悪魔がいるとされ、ヨハネの黙示録では、天に戦争が起り、ミカエルおよびその使たち(天使)が竜と戦い、竜が負けてその後悪魔と呼ばれ、その悪魔がサタンとなり、その使たち(竜の仲間)も共に落されたとされている。この説以外にも、サタンとルシフェルは同じ人物とか、アダムとキリストを誘惑するために、二回だけ悪魔が地上に出てきたとか、様々な説があるようだが、佐藤さんは前説を採用し、更に補足としてサタンは十三番目の天使長で、名前も最初はサタンではなくサマエルだったと規定している。そのサマエルが地上界の人間を戒める役目を押し付けられるが、異議を唱えたために天使界と戦争になり、敗北した結果、地上界に追いやられたのだというのだ。天界の神々に復讐を誓ったサタンは、反キリスト教を掲げて、人間達を悪魔の誘惑で堕落させることに精力を注ぐことになる。海外で十三が不吉な数字ということになっているのは、ここら辺りの言い伝えが強く影響しているといっても過言ではないだろう。
ただ、渋澤さんも指摘している通り、キリスト教徒に試練を与える(人類を苦しめる)ことは、戒めの必要性から言っても不可欠で、悪魔の活動は天使の仕事を手伝っているという皮肉な結果を生んでしまうことにもなる。
「悪魔を呼び出す法」と題された部分で触れられる、魔法円の利用と書かれた図(P36)には、少々疑問が感じられる。魔法円の外に呼び出される悪魔の位置がはっきりと規定されていないのだ。この図では、魔術師と助手といけにえの人間側の配置しか示されていない。澁澤さんの『黒魔術の手帖』のP251(文庫版)にある位置設定には、悪魔の現れる場所もしっかりと示されており、JHS(おそらく何か悪魔の怒りを買った際に、逃げ道の役目を果たすのだろう)も円の外側に書かれていて、十分に納得出来る図になっている。魔法道具が、詳細に説明されているだけに惜しい欠陥だ。佐藤さんは、この澁澤さんの魔法円を見ていないはずはないので、意図的に独自性を出そうとしたのかもしれないが、思わぬ不備が生じていると言わざるを得ない。
第四章の「悪魔王国の組織と悪魔軍団」だが、HP「書肆月詠」でも触れられているが、悪魔軍団を縦割りの組織表にして、その幹部七十八名のメンバーを出来る限り詳細に紹介している部分が圧巻だ。ここも澁澤さんは、地獄譜の章で「地獄ではおびただしい数の悪魔がおり、ちゃんと位階制度や軍隊も出来ているということである。ヨハン・ヴァイエルの書物や、1522年アヴィニョンで出た『赤竜』という有名な魔法書には、この悪魔の位階制度が詳しく分析されている。」ときちんと指摘しているのである。ただ、その『赤竜』やこれも澁澤さんが触れているコラン・ド・プランシイの『地獄大辞典』などを手繰って、この組織図を製作したと思われる佐藤さんの執念と努力は、単なる児童書という枠を遥かに超えて、凄まじい情熱を節々に感じさせる。
第一軍団から第二軍団にかけては、下に配属される部下までも紹介されていて、その上悪魔の容姿、紋章とその効果、その悪魔が黒魔術を使うか白魔術を使うかまで懇切丁寧に記載してある。(第四軍団のエリゴスだけ、黒魔術の印が抜け落ちているのが惜しい)
悪魔達の中では、恐怖と狂気の大王バラムの存在が特に興味を惹く。 黒魔術と白魔術を両方駆使するので、人間に一方的に害をもたらすわけではないのだが、紋章の効果には、“めったに使わないほうがよい”と記載されているのだ。佐藤さんが亡くなっているので最早確認出来ないが、とても気になる言い回しだ。また、地獄帝国の長官ベールゼブブ(澁澤さんは、ベルゼブルと明記)が髑髏の印を押した蝿の化物が、帝王サタンと友好条約を結ぶとされるところから、巨大な悪の力を持っていることを再認識させられる。
首を傾げたくなるのが、魔女集会サバトの太守レオナルドの引用画だ。この挿絵は、澁澤さんの『黒魔術の手帖』にも載っているが、エレファス・レビィの本に掲載された両性神バフォメットと全く同じなのだ。確かにサバトから発展にした黒ミサで、キリスト教異端アルビ派が崇拝した両性神なので、見当はずれではなくむしろ非常に近い存在と言って良いかもしれないが、サバト(夜宴)が頻繁に行なわれていた十六・十七世紀に姿と現わした司祭レオナルドは、山羊の化物のような悪魔というだけで、両性具有の神ではなかったように思われる。佐藤さんは、単に山羊の化物という共通項を元に、レオナルドを両性神と結び付けてしまったのではないのか。ここら辺りが、ウィキペディアのフリー百科事典で、“資料(引用する絵画)の正確性において疑問を呈される”と指摘される所以なのだろう。
第五章の「悪魔の超能力と正体を見抜く法」と題された部分は、サタンは部下に七つの超能力を与えたとされている。どおりで、悪魔軍団の幹部七十八名のメンバーの能力紹介が被っているわけだ。特に2.の人間の心を奥深くまで読み取り、過去と未来を知る千里眼は、数多くの悪魔が保持している隠れた特殊能力と言える。
「悪魔の嫌いなもの」として、聖水・十字架・塩・印章・呪文・聖書・太陽の光といった事柄を目にすると、吸血鬼の苦手なものと奇妙に重なるが、反キリストを掲げる悪魔集団は、やはり神(天使)からのまともな攻撃を受けた場合は、吸血鬼同様ひとたまりもないのかも知れない。
P104の「悪魔の紋章と呪文」の項にある紋章を、メダルに刻んでおいて悪魔の魔力を借りたり、指輪に刻んで悪魔から身を守るという使用方法はとても興味深い。悪魔が同じ紋章でも、人間が身に付ける形をいろいろと変化させると、その効力も違ってくるというのは通常だと信じ難いが、壮観とも言える七十八種の紋章一覧(P106・107)を見ていると、思わず信じたくなってしまうから不思議だ。
「悪魔の好物」(P108)では、人間の心臓、髪の毛、爪、歯などが悪魔の好んだものとして紹介され、その好物の人骨、髪、爪などを使って、蛇、蛙、虱、蝿を作り出すと書かれている。サタンは、この虱や蚤を子分や魔術師、魔女達へ仲間のしるしとして与えていたそうだ。この部分は、雨宮慶太監督の快作『ゼイラム』の中で、怪物ゼイラムが巨大な植物の種のようなものから生み出す、手下の軟体奇形人間を連想させ、生命体の多様な増殖形態を感じさせる。
髪の毛、爪、歯は、憎い相手を呪う材料としても使われる。(澁澤さんの本では、題名もそのものずばりの「蝋人形の呪い」の章で触れられている)佐藤さんの場合は、呪う相手の蝋人形とともに、悪魔バズズの像を利用するあたりが澁澤さんとは違っている。悪魔バズズに地上に下りて来てもらい、呪う相手の魂を奪い取ってもらおうというのだ。この部分は、佐藤さんの説に多少説得力があるように思えたがいかがなものだろうか。
医学者・神学者占星術師でもあったパラケルススを、佐藤さんは白魔術師と規定している。その手法は呪い返しというもので、魔法円の中に呪っている相手の蝋人形を置き、それを三叉型フォークで突き刺すという魔法だ。呪いは相手に返るが、七日後には相手も元に戻って元気になるらしい。ただ、この手法は呪う相手があって成り立つことなので、数々の難病を治したとされるパラケルススには、少々当て嵌まらないような気がする。澁澤さんもパラケルススが常に持参していたものは、三叉型フォークではなく、神秘的な剣を手にしていたと指摘しており、錬金術の使い手ともされることから、蝋人形や三叉型フォークは用いずに、護符を活用して病気の治癒や金の抽出を行なっていたのではないか。
現代の白魔術師、バベッタの存在も見逃せない。悪霊を追いはらい、黒魔術の呪いを祓う方法に関しては、取り立てて問題にするまでもないように見えるが、彼女が白魔術パカニズムの秘法を受け継いでいて、それが古代カバラの秘法とグノーシス派の妖術を取り入れた魔法術であるという点に、深い興味を抱かされる。澁澤さんの著作の『秘密結社の手帖』の「グノーシス派の流れ」という章によれば、グノーシス派は女性の役割を高く評価しており、女性が司祭になったり、司教になったりは珍しくはなかったそうだ。それはグノーシス派の宇宙論が、男女二つの原理に支えられていることに関連している。そのグノーシス派の妖術を扱う魔女バベッタに、歴代受け継がれてきた白魔術の効用があるというのは多分に頷ける。
少々長くなったが、最後にP123の「悪霊を祓い、ライバルや敵を倒すグノーシスのメダルとシール」について触れてみたい。掲載されている絵柄三点の中の一点は、澁澤さんの『秘密結社の手帖』の文庫表紙にもなっているものだ。この護符は、澁澤さんによれば、雄鶏の頭は≪予知能力≫を、蛇の脚は≪精神と理性≫を、右手に持った楯は≪知恵≫を、左手に持った鞭は≪力≫を象徴しているらしい。この効用は、悪魔が持っている千里眼能力と何か似てはいないか。グノーシス派がやや知識に重んじたことを除けば、悪魔とグノーシスは驚くほど奇妙に重なり合い、キリスト教会に異端として同じように排斥されたことも符合している。こう考えると、天界で安穏としている神(キリスト教)に反旗を振り返し、神秘思想を極める(キリスト教だけが理想郷を追い求めているわけではない)為に、黒魔術と白魔術がグノーシス派へと更なる進化を遂げていったのではないかとも感じられた。
今後、もう少し黒魔術の文献に関わっていきたいと思っている。
この本は、僅かな破綻があるにも関わらず、今まで知らなかった魅惑的な黒魔術の世界へ誘ってくれた。
今は亡き佐藤有文さんに感謝します。

『刺青殺人事件』(高木彬光著) 光文社文庫

推理小説ファンの間では知る人ぞ知る、高木彬光さんのデビュー作である。
当時高木さんは、何かに取り憑かれたような状態に陥り、僅か三週間で一気に書き上げたらしい。その後、高木さんは発表の場に困り、江戸川乱歩さんに直接原稿を送って、意外にも好評を博し、文壇の重い扉が開かれたのは、一部では有名な話である。
ただ、高名な小説であればあるほど、何故か遠のけてしまう偏屈人間である私は、この小説を読んでみようという気には中々なれなかった。食指を動かされたのは、倉田卓次さんが「この人が、仙花紙(カストリ紙)の『宝石』の『刺青殺人事件』で登場して以来の愛読者だったんですが・・・」(『続々・裁判官の書斎』より)と話されているところを目にしたことによる。
読後、その期待は裏切られることなく、微に入り細に入り書き込まれた伏線の張り巡らせ方にほとほと感心させられてしまった。ここには、単なる推理小説を逸脱した奥深い人間ドラマがある。
話は刺青に纏わる過去の文献などの薀蓄から始まり、その魅力が懇切丁寧に語られるあたりから、この物語が推理小説であることを読者は忘れてしまう。
寂れた酒場で絹枝が囁く、「蛇は蛙をのみ、蛙は蛞蝓をのみ、蛞蝓は蛇をとかしてしまう」といったメビウスの輪ともとれる意味深な言葉を吐くに到り、この魅惑の物語は読者を思いも掛けない刺青に纏わる夢幻の世界へと読み手を導いていく。彫安の子供達の肌に刻まれた刺青が、「大蛇丸、自雷也、綱手姫」であることが次第に明らかになり、絹枝がふと漏らした言葉を改めて裏付けていくことになるのだが、そこには意外な罠(事実)が隠されていたのだ。
この後を、推理小説ファンは、ネタバレをせずに鮮やかな手付きで、あらすじを説明していくことが出来るのだろうが、私は根っからの文系ということもあって、理系の人達のように筋道を立てて旨く話のあらましを紹介することが出来ない。そこで、この物語のポイントと思われる箇所に重点を絞って見ていきたい。
まず、読み進んで三分の二近くになって、かの有名な理学博士・神津恭介(名探偵)がやっと登場する。この異例の展開に驚くとともに、まずは賛辞の意を評したい。ここまでの分量を割いてワトスン役の松下研三を活躍させ、全ての事件の材料を引き出しておいて、読者に“この謎が解けるものなら解いてみれば!”と真正面から挑戦状をぶつけてくるのだ。だが、神津がバラバラに絡まった何本もの糸(材料)を、綺麗に一本ずつ説き解していくあたりの手際よさは、少々超人的に見えないこともない。それでも、作者が推敲に推敲を重ねたことを匂わせるのは、文末で犯人が判った後も、延々とその手口を行なった理由付けを、執拗いくらいに事細かく、神津が研三に説明する姿勢からも十分に見てとれる。
この物語を一層興味深いものにしたのは、刺青収集家(現実には居そうもないだけに面白い)の早川平四郎の存在だと言いたい。この早川が漏らした非ユーグリット幾何学という言葉が意味するところ(はっきりと書けないのは辛いが、刺青の本質を探らないと真実は解明出来ないということだ)を神津が丹念に調査して暴くあたりの頭脳合戦は、対峙する早川の知能指数の高さを思い知らされる。また、早川と将棋を、最上久と将棋を打って、その防御と攻撃法を見ながら、二人の隠された奥深い気質を読み解くあたりも大きな見せ場だ。
正直、ネタをばらさずに、推理小説の感想をここまで書けるとは思って見なかった。それは、この小説が推理小説の範疇を超えた、非常に魅惑的な心理合戦のドラマだったことによる。
高木さんの推理小説家としての才能は言うまでもないが、占い好きが功を奏して、人間心理の奥底を鋭く覗き見る特異な資質が生まれたような気がしてならない。
未読の人には是非一読をお薦めする。

≪付記1≫
HP上に坂口安吾さん「『刺青殺人事件』を評す」と題する一文が掲載されていた。
昭和24年に雑誌「宝石」に掲載された記事のようだ。
この中で坂口さんは高木さんの小説を、「なぜ密室にする必要があったか」とか 「女から包みを渡され、女が殺され、包みをひらいて刺青した三人の写真が現れた時には、もう犯人は分ってしまう。このトリックはあまり幼稚すぎる。」と罵倒とも取れる激しい批評を投げ掛けている。この部分は流石、論客の坂口だけあって頷けないこともない。ただ、「三分の二が解決篇みたいなもので、その冗漫が、つらい」とか「いわんや将棋などやる必要は毛頭ない」と言い切っている部分には、素直に賛同出来ない。確かに、最後まで種を明かさないのが、推理小説の常套手段かもしれないが、この小説の良さは丹念に謎を紐解いて行き、それが何故行なわれなければならなかったのかが、きちんと整理されていくところにあるのだ。やや突拍子にも思える囲碁や将棋のシーンも、相手の隠れた資質を読み解く意味では、やはり重要な部分と言える。
やや言動が熱くなってしまったが、坂口さんは最後には「私は、この作者は、未来があると思っている。ケレンがなく、頭脳が論理的だからである。」ときちんと好意的な文章で括ってる。抑えているところは抑えているのだ。
坂口さんは、横溝正史さんを異常なくらいに高く評価して、高木さんに「横溝君に弟子入りして、テクニックを学ばれるがよい。」とまで言っている。ここで、横溝ファンの私が反論するのも可笑しな話だが、戦前横溝さんが海外の小説の翻訳を手掛けている時期に、その一部を模倣して、自分の小説の中で何度も使用していたことを、坂口さんは知っていたのだろうか。(沼正三さんが『ある夢想家の手帖から』の中で触れている)知っていたならば、海外の探偵作家達を、ここまで手酷く罵倒は出来なかったように思う。ただ、戦後横溝正史さんの文章が洗練度を増して、細部の人物描写に深みが加わったことに関しては全く異論はない。
≪付記2≫
扶桑社文庫から、『初稿・刺青殺人事件』が出ていることを知った。初稿版が昭和23年、改稿版が昭和28年で、文庫はその初稿版を掲載したものだ。一部のマニアの間では、未だに初稿版が掲載された『宝石』が、古本市場で高値で取引されているらしい。この辺りの詳細は、貴重なHP「『刺青殺人事件』はなぜ改稿されたのか」に詳しく書かれているので、参照していただければよいかと思う。
私は、この初稿版が、付記1で触れた坂口さんの指摘を踏まえて、改稿されたのかどうかという一点に興味があった。この考えは、少々的外れだったようだ。『初稿・刺青殺人事件』の解説をされた杉江松恋さんは、改稿版では“人称を変えることで過度な装飾を取除いたこと、文章を整然と構成しなおしたこと、過去の探偵小説に対する言及を削ったこと“などを上げられていたようだ。
過去の探偵小説に対する言及を削ったことは、「『刺青殺人事件』はなぜ改稿されたのか」の筆者と同様、残念に思う。削除は行なうべきではなかったのではないか、という気がしてならない。ただ、自分の目で確かめないと何とも言えないので、この初稿版はいつか手にして読んでみたいと思っている。
この文庫の解説を、杉江さんが担当されているあたりを見ると、この初稿版の文庫化に、杉江さんが尽力していたのではないか、という考えがふと頭を過ぎった。

『家畜小屋』 (池田得太郎著) 中央公論社

この小説を知ったのは、敬愛するHP 「書肆月詠」に掲載された、『金羊毛』という「季刊幻想文学」の前身となった同人誌(創刊号)の紹介記事を見かけたことによる。そこに書かれた、”内容は池田得太郎『家畜小屋』(中央公論社)を発掘したりと、かなりマニアックである”との一文に何故か惹かれるものを感じ、古書店を到るところ探したが、如何せん手が届かないほど古書価が高かった。そこで、筑摩書房現代文学大系六十六巻「現代名作集(四)」を購入して、その中の一編『家畜小屋』を読むことにした。
純文学を読むのは数年ぶりだが、噂に違わぬ奇怪な小説だった。この読後感は、今まで一度も味わったことがないものだ。暫く奇妙に沈殿する重苦しい思いを、簡単に拭い去ることが出来なかった。重苦しい沈殿物の正体を探り、この異界を何とか読み解きたいという強い思いに駆られ、あえて二度読みを行なった。
冒頭の淀んだ空気感を、丹念に且つ粘っこい筆致で語るあたりから、作者がわざと読者の間口を極端に狭めている様子がひしひしと伝わってくる。まるで、“この異界の扉は無理して開けなくてもいいですよ“とでも言っているかのようだ。長文形式の文体は、埴谷雄高さんや金井美恵子さんの随筆や小説で、十分に慣れているつもりだったが、正直この文体に溶け込むのには、思った以上に時間が掛かった。会話以外の描写が粘着質を帯びていて、皮膚の襞に纏わり付いてくるような違和感があり、一筋縄ではいかない陰湿な重みを感じさせるのだ。だが、長文を何度も読み返すことで生まれる、独特の愉悦が次第に呼び覚まされて、自然と心地よい快感が全身を包み込んでくる。
この小説を説く鍵は、文頭の以下の言葉にあるような気がした。
「家畜の血の微粒子はオゾンにかわって空気の構成物質となり、川沿いの人々の肺の泡沫に充満し、やがてひそかに細胞ににじみこんで、そこに家畜の血の胆石をつくるのだ」
少々長めの引用になったが、川の上流にある、主人公が勤める屠殺場から流れ出す家畜の血と脂肪の残骸が、下流へと流れ込み、主人公を含めた下流住民の神経を少しずつ麻痺させ、生きていく気力を削いでいく。主人公は、この後に自分が置かれる急激な環境変化に戸惑いながら、家畜と人間の存在が次第に曖昧になり、人格を破戒される奈落の道程を辿っていくのだ。
屠殺場で鳶口を使って、動物の鼻梁の上端の急所に射ち込むことが出来なくなったあたりから、物語はざわめき始める。屠殺の場での視界の錯乱を守る時に念じる、「なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ・・・・」という浄土真宗の唱え(作者は呪文と言っている)は、これは家畜の成仏を念じているのではなく、自分に人間としての意識を覚醒させ、家畜と違う一段上高い立場に身を置いているという認識を抱かせるための自己暗示の言葉のように聞こえる。
やがて主人公は、屠殺人の職を奪われ、排泄物の清掃人へと格下げになり、屈辱的な嘲笑の対象になってしまう。これが自分と家畜の距離を、否が応にも近づける。今まで遠ざかっていた家畜が、意識的に自分との距離を狭めて、傍に寄ってくるような錯覚(被害妄想)まで呼び起こすことになる。
主人公が自分を人間と自覚するのは、下流の家に帰って飼育する豚(牡)と妻に接する時だけになる。だが、横たわって涎の跡を残す妻に、家畜の面影を見たことで、その抑えきれない怒りが妻を人間としてではなく、家畜として扱うことへの強い衝動(欲望)を主人公に芽生えさせていく。
自分が自由に出来る家畜二匹を養うことで、何とか人間の尊厳をぎりぎりで保とうとするのだ。妻を豚と罵倒することで、主人公が自分の置かれた優位性を維持しているように見えたのだが、それは異常な快楽へと足を踏み入れるきっかけを作ってしまう。(サディスムとは違った、マゾヒズムを誘発する冒涜を伴なった陶酔感)家畜二匹の餌を間違って一緒に混ぜてしまうあたりは、汚辱への感情が自然と現れたものと言っていい。妻の立場は、頭から忘れ去られており、一匹の太った家畜としかその存在を認めていないようにすら感じる。
妻が排泄物をして自分で始末しない理由(家畜は糞を自分で処理しない)を主人公が感知して、しぶしぶ汚物を掃除するあたりは、“自分の蒔いた種”が跳ね返って来たように見えて、奇妙なペーソスが漂う。このままの生活が続けば、異常だが主人公の精神の均衡は何とか保たれることになるが、家畜二匹が親密度を深めていくあたりから、主人公の神経は微妙に揺らぎ狂い始める。 “共同体”、そう家族しての親密さを家畜達が持ち始めたことによって、爪弾きにされたことを主人公が意識し出すのだ。屠殺場で孤立し、家に帰ってまで孤立する。挙句に家畜が接合した後の残骸や呻き声を聞いて、失っていた性欲を滾らせる自分が、次第に心底情けなくなってくる。ここには獣姦という変態的な行為を、興味本位で捕らえるのではなく、家畜という存在に身を置いた人間(妻)が家畜(豚)に対して共同体の意識を深める行為だと見て取ることが出来る。
孤立した主人公は、やがて家畜達と共に新たな共同体を作る(参加)ことを提案する。だが、その主人公の要望は、妻の一言で呆気なく崩れ去る。「そうよ。あたしたち結婚したんだから」、このおぞましくも強烈な一言で、主人公の意識がやっと目覚めるのかと思いきや、「じゃ俺も家畜になる」と言い出す。そう、三匹の家畜として共同体で生きていくことを選ぶのだ。
もはや主人公は、家畜でも人間でもどうでもよくなっている自分に改めて気づく。しかし、妻は主人公の要望に最後まで応じずに、共同体の牡豚の死をきっかけに、一匹の家畜として他の家へ売られていくことを決意するところで話は終わる。
少々あらすじを追った感があるが、扱っているものは汚物や獣姦という通常だと目を背けたくなるような題材だが、屠殺に手を染める人間に果たして尊厳はあるのか、人間は死を何とも思わない非情な感情を持つ家畜より醜いけだものなのではないか、汚物に塗れているが自然に身を任せて生活する家畜のほうが人間よりも純粋で尊い生き物といえるのではないか、といった様々な問いを投げかけてくる、ある意味で根源的かつ宗教的とも言うべき崇高な問題を扱った、次元を超えた比類なき物語の様相を呈す。
作者が処女小説発表後、沈黙を経て仏教方面で改めて筆を取るのも妙に頷けるような気がした。
この異常な家畜物語を、際物小説として“面白い”という簡単な一言で片付けてしまうことは決して出来ない。一個の動物としての自分を、新たに見詰め直す機会を与えてくれた作者に大いに感謝したい。

≪付記1≫
『家畜小屋』は「中央公論」第三回新人賞発表(昭和33年11月号)で、選外佳作という異例の賞を受ける。
審査員は、伊藤整武田泰淳三島由紀夫の三人で、三島さんが選評の中で『家畜小屋』の“気持ちの悪さに匹敵する感覚の気持ちの良さ”という言葉で評価するのだが、他の二人の同調はなかなか得られない。両人は、当選作『喪失』(福田章二/後の庄司薫)の小説としての完成度の高さばかりを話題にする。挙句に、伊藤さんは「『家畜小屋』のようなものは、どっちかというと書きやすいんだな。」という驚くべき暴言まで吐く。(伊藤整さんに、このような小説が書けるとはとても思えない)三島さんは『喪失』を、「唯一の文学的なものだということは認める。ただ、色が白くて七難隠しているような感じもありはしないかな。」と柔らかく否定しているのだが、二人は意に介さない。
そこで武田さんが三島さんの顔色を探り、「『家畜小屋』も何かの形で一緒に出したらどうだい。色の黒いのは七難隠すで。」と譲歩案を出す。この主張に伊藤さんが乗るといった、選評が文学の本質を鋭くつきながらも、最終的には上辺をなぞっただけで、突き詰めた討論にはならなかったことを伺わせる。最後は、三島さんはやや投げやりな姿勢を見せ、諦めたかのようにこの小説には触れなくなる。そんな暗い雰囲気を編集部が察知して、選外佳作(佳作でなく、選外と前置きするあたりの意味合いは図りかねる)で掲載させることを提案して審査は終了する。三島さんが感得した『家畜小屋』の嫌悪を催し兼ねない気持ち悪さに匹敵する感覚の気持ち良さが、一体何に起因しているのかを探る気構えは、伊藤・武田両人には全くないことがこの選評で十分に判った。
現代文学大系六十六巻「現代名作集(四)」に、この小説の掲載を働きかけて好意的な解説を加えている奥野健男さんには、改めて敬意を表したい。沼正三著『家畜人ヤプー』といいこの小説といい、三島さんと奥野さんが好む小説の傾向が、かなり近いことが再認識された。
ちなみに、芥川賞の選評で井上靖さんが唯一評価していることを付け加えておきたい。
≪付記2≫
小説の感想を書いた後、まだ読みきれていないのでないかといったわだかまりの気持ちが多少残るで、ある文献と出会った。それは絡まっている糸を丹念にほぐしてくれる役目を果たしてくれた。
その文章とは、澁澤龍彦著『悪魔術の手帖』の中の「夜行妖鬼篇」という章だ。
主人公が、屠殺場で鳶口を使って動物の鼻梁の上端の急所に射ち込む作業が、西洋の高等魔術の原理から読み解かれた夢魔の一種ラルヴァ(怨霊)を永遠に封じ込める行為と重なり、“なんまいだ・・・”という呪文が悪魔祓いに端を発しているように聞こえてくるのだ。
このラルヴァ(怨霊)は、“無益に消費された呪われた生命の種子などが有機体のほろびた後までも、執拗に存在しつづけようとするときその怨念、執念があやしい存在の影となって人々を悩ます“らしい。このラルヴァは、孤独者とか抑圧された人間とかのまわりに集まってくる傾向にあり、その上寝ている最中に夢となって現れる。後半、主人公が何度か夢の中で半獣半人間(生物の顔は全て彼の記憶の含まれた人間である)や動物達にうなされるシーンは、“ラルヴァと闘うパラケルススの図”(『悪魔術の手帖』(河出文庫P67 第十八図参照)と、どこか符合していて気味が悪いくらいだ。
澁澤さんは、更にラルヴァ延長上にある情交に絡む夢魔として、スクブス(淫夢女精)とインクブス(男性夢魔)の存在を紹介しているのだが、この二つは異教の半獣神とも言われているらしい。そこで気がついたのだが、小説の中盤に家畜と化した妻が、空腹のあまり牡豚の餌を奪い取ったために、牡豚が死にそうになるシーンがある。この時、意識が朦朧とした牡豚の中に、インクブス(男性夢魔)が入り込んだとは考えられないだろうか。インクブスは、男性の悪魔で女と情交するとされる。そうなると、納屋の獣姦は、牡豚が人間に仕掛けた行為と見て取れないこともない。
神話の怪物は、人間と動物が情交した結果であるとの解釈にも澁澤さんは触れている。そこから、“妻の腹に入り込んだ豚の糊のような精液は、どんな半獣半人間(怪物)となって生まれ変わるのだろうか”といったとんでもない悪夢のような考えが浮かんで来た。この物語には、突飛な思考の飛躍を促す、魔力が兼ね備わっているのかも知れない。本当に恐ろしい小説だ。

≪付記3≫
皆川博子の初期作『獣舎のスキャット』(猟奇文学館2『人獣怪婚』所収』)を読む。
同じ“獣姦”系列ということで手にしたわけではないが、期待していなかっただけに凄まじい衝撃を受けた。
噂に違わぬ前代未聞の怪作だ。『家畜小屋』の主人公が時間を経過するに従って、次第に神経を病んでいくのとは裏腹に、この主人公は既にある種の精神の破綻をきたしてしまっている自分の性癖を、恥ずかしげもなく曝け出すころからみても、出発点に大きな隔たりがある。
冒頭から『家畜小屋』を彷彿させるような語り口が、読者を夢幻の世界へと引き摺り込む。
「〈N初等少年院〉 それは、決して、外来者に陰惨な印象を与える場所ではなかった。頭が重くなるようなうっとうしさは、場所のせいではなく、湿気をたっぷり含んだ空気が、濡れた真綿のように肌にまといつくためだ。」
この息苦しいほどの退廃感が、以後全編を覆い尽くすことになる。
少年院を退院する弟を、主人公の姉が迎えに行く場面から物語は始まる。一見優しく振舞う姉は、弟の私生活を仔細に覗き見て、密かに苛めの材料になるところを捜し求める冷淡な女だった。その手段として使われたのが盗聴器だ。だが、この盗聴器から聞き取った秘密をネタに弟を強請るといった安易な行動には出ず、籠の中に入った小動物をじっくりと甚振るかのように、弟の悪への転落を黙って見守るのだ。盗聴の最中、彼女は幼少の頃のことを思い出す。弟の性器を弄り、手のひらでじっと眺めていた時、母親に見つかり酷く怒られる。それ以来、彼女にとって陰部はサンクチュアリ(聖なる場所)となるが、母親から叱責されたため一転凌辱すべき対象へと変貌し、神聖な象徴物から叱責行為へ、そして凌辱願望に辿り付く道筋が完成する。
やがて、姉は弟への殺意の感情が単なる殺人衝動という情欲の発露でなく、己の歪んだ愛(近親相姦)の表出が原因になっていることに、少しずつ気づき始める。彼女は考える。「与える愛ではない。奪う愛であった。踏みにじり、陵辱し、意のままにすることによって、満たされる愛であった。」(P294)今までの弟に対する心情は、家族への慈愛ではない異形愛、永遠に成就しない恋愛感情に近いものだったのだ。友達の妹(恋人)への深爪行為から生まれた妖艶な指しゃぶりや・・・さんと名前を叫びながら、自慰する際に思い浮かべる牝豚の面影などへの激しい嫉妬が、盗聴器の仕掛けや変態性欲(獣姦)の暴露へと繋がっていくのは当然か。
あからさまな真相告白は、意外な結末を招く。姉は弟が逆上して自分を殺害する(愛憎関係)のではないかと不安に苛まれていたはずだが、予想だにしなかったことが起きる。意識を失った状態で、牡豚との性交を強要されたのだ。死より苦しい非情な仕打ちに涙を流しながら、泥に顔を埋めた主人公の朦朧とした脳裏に浮かんだのは、何度も耳にしていたピンク・フロイドの歌詞だったのではないか。
When that fat old sun  In the sky is fallin‘ ・・・・ ぶよぶよで皺だらけの赤黒い太陽(デブでよろよろの太陽)が、地平のむこうに落ちていく。(P289)
・・・・ Life is a short warm moment And death is a long cold rest  You get your chance to try in the twinkling of an eye ・・・・ 暖かい人生は束の間、死は長い冷たい休息。−私の人生は、あまり暖かくないものになりそうだ。そして、チャンスは・・・・。(P293)
「“明日”なんて、言葉の上に存在するだけなのだ。実際にあるのは、“昨日”と“今日”だけだ。」(P306)と嘯く彼女に、果たしてチャンスは巡ってくるのか。孤独を好み、他人との付き合いを極力避けた、暗闇に閉ざされた絶望的な人間の行く末を鋭く暗示した、ラストが持つ意味はあまりにも深く大きい。

『裁判官の書斎 全五冊』(倉田卓次著) 勁草書房/判例タイムズ社

迂闊だった。著者の倉田さんがご高齢なので、御身体のことを少々気にかけていたのだが、今年の1/30にお亡くなられたことを本日知った。裁判官・公証人・弁護士を務めて、八十九歳で死去されたそうだ。正に、天寿を全うされたと言って良いように思う。心からご冥福をお祈り致します。
さて、本題の裁判官の書斎シリーズは、実を言うとまだ三巻目までしか読んでおらず、残り二冊と『裁判官の戦後史 全三冊』の計八冊を読了してから感想を記すつもりでいたのだが、倉田さんが死去されたので、故人のご冥福を祈る意味で少々強引だが取り上げることにした。
正直、私は倉田さんにとって、決して良い読者というわけではない。それは沼正三著の『ある夢想家の手帖から』でも少し触れたが、沼さんの表の顔(無論推測)として倉田さんを知ったからに他ならない。ただ、沼正三さんという存在を抜きにしても、私を虜にしてしまう魅力が倉田さんの文章にはある。
その博学と名文筆家ぶりは広く世間に知れ渡っているので、ここであえて触れるまでもないのだが、特に際立った知識への貪欲さを現している部分に、僅かだが触れてみたいと思う。
第一巻目の「五十の手習い」と題する《法曹》という雑誌への投稿写真に纏わる話が、特に興味深い。何度かの投稿の後、遂に三等に入選したのにそれに飽き足らず、鴉のネガと役所前の交差点の風景のネガを合わせ、ポウの「大鴉」を念頭に浮かべながら、《飛翔》と題して再投稿し見事に一等を射止める。この合成写真を撮るまでの間の写真への探求心が、半端ではなくて凄まじいものがある。写真に関する様々な専門誌を読み漁り、知識と実技(自分の家に暗室を特注し、写真の現像作業まで行なう)を身に付ける。最後には駆け出しのプロの新人写真家でなら、裸足で逃げ出しかねないレベルにまで到達するのだ。
同巻の「カイヨー夫人之獄」という章も見逃せない。裁判絡みの書籍(公判記録)に関しての紹介だが、内容は当時のフランス内閣の大蔵大臣カイヨーのスキャンダルを暴こうとした新聞社の編集長カルメットを、カイヨー夫人が射殺するというもので、普通なら結果は呆気なくカイヨー夫人の有罪で幕を引くように見える。ただ、八日間の裁判の末、意外にもカイヨー夫人は無罪になるのである。他のHPでは”カルメットが反フランスのプロパガンダに関わっていたことが判明することで事態が無罪へと一変した”と書かれているようだが、どうもそれだけではないらしい。確かに、欧州大戦勃発前夜の異常な状況下が影響しているようにも感じられるが、”無罪になった要因はスキャンダルの原因となった略奪愛(現夫人のカイヨーが前夫人のゲイダン夫人から夫を奪った)の手紙を、新聞社に提供した前ゲイダン夫人の愛着と嫉妬と強欲が、陪審員(この時期フランスでは既に陪審制度が運用されていた)の心を揺さぶり、カイヨー夫人を無罪に導いたのではないか”と著者の上畠益三郎さんは注釈の中で漏らしているのだ。
このような審理に纏わる資料を仔細に整理しながら、フランスでの裁判の手際良さや証人の供述の要領の良さを指摘し、日本での陪審制度の必要性まで匂わせる意見を何気なく差し挟んでいるあたりは流石だ。その上”傷害致死の事実はあったのか”という補問があれば無題にはならなかったのでは?といった大塚一男氏の見落としかねない見解まで紹介していく部分は、この裁判に関する文献をどこまで調べ尽くしたのだろうか、といった妙な疑問まで沸いてくるほどだ。
さて、ここまでで相当な分量を割いてしまったが、二巻の「水滸伝−諸訳の読み比べ−」や三巻の「ルビ文字」の章にも「カイヨー夫人之獄」のような調子で触れたいところだが、あまりに膨大な分量になりそうなので、簡単にさわり程度触れると、「水滸伝」「ルビ文字」も共に原語の面影を生かしながらも、独自の解釈で翻訳をすることの重要性を丁寧に説いている。単に安易な直訳の羅列は、小説としての醍醐味を失い兼ねないとも言う。ここには、一つ一つの言葉(日本語を含め)を大事に扱ってきた倉田さんの気構えが現れている。
裁判官としての本業に重きを置きながらも、あらゆる雑本に目を通し、克明で冷静な分析をする特異な気質(ただ、一人の作家に夢中になることはなかったらしい)を備え持つ、このような希代の才人は今後二度と現れないだろう。
また、倉田さんは故人を偲ぶ文章を書く達人でもあった。それは、この本に目を通せば自然と感じ取れる。あり得ないことだが、倉田さん本人が自分へはなむけの一文を添えるとしたら、どのような文章を書いたのだろうかといった不謹慎な思いがふと頭に浮かんだ。
天国に着くまでの道程の中で、手に書物と赤鉛筆を持って、一心不乱に熟読しながら、丹念に朱線を引いている様が目に浮かんでくる。数々の良書へと導いてくれた、偉大なる先達(人生の師)の永遠の旅立ちを、心の底から祝福したい。

≪付記1≫

「カイヨー夫人之獄」の項を確認する意味で一巻目をたまたま読み返していたら、「誤訳談義」の章でピーター・オドンネルの怪作『唇からナイフ』の日本語訳(榊原晃三)を取り上げて、原文と翻訳を並べて許されない誤訳を厳しく指摘している箇所があった。言い得て妙と思える比較検証には、再読だが思わず唸ってしまった。
本国フランスでは、007を凌ぐほど有名な『モデスティ・ブレイズ』シリーズだが、この小説の女スパイの素晴らしさを熱く語っているのは、他では沼正三さんぐらいしかいない。(『ある夢想家の手帖から』潮出版最終六巻にコメント掲載)倉田さんと沼正三さんが取り上げている本は、不思議なくらいに重複している。蒲松齢著『聊斎志異』や数多くのSF小説 など、数え上げれば切りがない。ここは沼さんの素顔を云々する場ではないので、多少気になるとのみ言っておくだけにしたい。
倉田さん・沼さんは、共に多大なる教示与えてくれた恩師として、今でも崇拝している気持ちに変わりはない。

≪付記2≫
『裁判官の書斎』掲載の「私の読書法」という章に、《並行的読書法》という項目がある。内容は読んで字の如しだが、倉田さんの場合は、読む場所(机上・枕許・トイレ・外出途中など)ごとに本の種類を変えて読むといったものだ。この文章を読んだ時は、なるほどと感心したが、自分は本の内容が混乱して、並行して数冊読むのは無理だと、気にも留めずに読み流していた。
ただ、何故か現在の私の読書形態は、並行読書法そのものなのだ。(但し、読む場所で本を決めてはいない)倉田さんの文章を読んで実践したつもりはないのだが、頭の片隅に潜在意識として残っていたのかも知れない。数冊の小説を章単位で区切って読んでいるのだが、自分でもこの読書法は邪道ではないかと思っていたら、倉田さんが《並行的読書法》の文章の中で、きちんとその答えを出してくれているではないか。「小説の一作品だって、そういう味わい方が許されることは、新聞の連載小説の存在でわかる。」と言われていたのだ。そう言われると、確かに違和感無く読めている理由が判ってくる。私の中では、小説三冊+随筆一冊が、最もバランスが良いと思って実行に移している。
唯一の欠点は、読んでいる数冊の中に、たまに大幅に作品の質が落ちる本が混ざると、その本の粗ばかりが目に付いて読み通すのが少々辛くなってくるところか。

* 倉田さんの《並行的読書法》に、再度目を通すきっかけを作ってくれたのは、大友浩さんのブログに掲載されていた”第八回 四隅の読書”という一文でした。
  大友さんに感謝致します。

≪付記3≫
二巻目『続・裁判官の書斎』の中で紹介されている渡部昇一著『随筆家列伝』(文芸春秋)を読む。
この本は、本来書評として取り上げてもいいほど面白くて興味を惹かれたが、書中で触れられている四人の作家の作品をほとんど読んでいないので、あえて付記として記することにした。
読後、再度倉田さんの書評を確認すると、三宅雪嶺の「浪人論」(浪人の地位・浪人的気分)に興味を示したり、幸田露伴の良き解釈者に英米文学派が多いこと(篠田一士など)を重要な点として指摘するなど、大いに頷ける箇所が見受けられた。流石、倉田さんである。
「出世コースとして決められているところで習学した人達は、幸田露伴著の『努力論』と言っただけで、しばしば嫌悪の情あるいは軽蔑の表情を示す」という渡部さんの言葉を引き合いに出し、倉田さん自身もこの本を購入したが死蔵してしまったことを素直に告白するくだりは、自分に非があれば正直に認めるという倉田さんの生真面目な精神を垣間見ることが出来る。
ただ、倉田さんが『努力論』に目を通すのを躊躇うなどということは少し考え難い。『随筆家列伝』を読む前に、倉田さんは本当に本書を読んでいなかったのだろうか。疑問が残る。
一番印象深かった三宅雪嶺の章に関しての感想だが、「浪人論」中で雪嶺が萩生狙徠に対して、柳沢吉保に仕えていた儒学者だったことで、己の意見を押し殺していたと批判しているところがある。それを十分意識したからこそ、雪嶺は宮仕えをせずに(当初文部省に勤めていたが途中で辞めている)あえて浪人の位置に甘んじて、自由な意見を発言する場を得ることに努めたのだろうと渡部さんは推論する。思い描いていてもなかなか行動には移せない部分なので、甚く感心してしまった。この高い志は、俗人にはとても真似出来るものではない。
渡部さんのこの名随筆は、一読するに値する。是非お薦めしたい。

≪付記4≫
『続々々裁判官の書斎』を再読。
本書の白眉は、書評よりもⅣ・Ⅴ・Ⅵに及ぶ、リーガル・アイ(弁護士の眼とでも訳すのか)と命名された法曹界に触れた章だと思われる。特に注目すべきは、Ⅵ中の「逆説的コメント三点」だろう。ここで、倉田さんは法曹を志す人へ逆説的な意見を披露してみせる。
一点は、“法の理念は<真理>ではなく、<正義>である。”と規定し、「真理を目指す人は皆同じ方向へと努力するのだが、正義の星として指さされる方向はまちまちなのだ。正反対でさえありえる。」と警鐘を鳴らす。
二点は、“訴訟の問題点の多くは法律論より事実認定だ。”と提唱し、「法は真実とは無縁だが、訴訟は真実とは離れられないが、《真実は百の顔を持つ》と言われる。」と現実を直視する目の必要性を説く。
三点は、“裁判は人生の暗い面との関わりだということ”と前置きし、「法曹はその人間の集合体<社会>の歪みと悩みの専門家なのである。」と断言する。
三つとも、実に重みのある箴言なのだが、一点目の”正義は一つではない”と二点目の“真実(真理ではない)は色々な顔を持つ”という文句が妙に気にかかった。多彩な様相を見せる真実に惑わされ、正義を見誤ることなかれという戒めはひしひしと伝わるのだが、その具体的なイメージが湧いて来ないのだ。
そんな中、去年放送されたテレビドラマ『リーガル・ハイ』を、動画サイトでたまたま見る機会を得た。第一話の最後に主人公の辣腕弁護士が、新米の女性弁護士に向かって、以下のような罵詈雑言とも取れる言葉を速射砲のように放つ場面にぶつかった。「うぬぼれるな!我々は神ではない。真実は何かなんて判るはずがない。」それを受けた新米弁護士は、「だったら、私達は何を信じればいいんですか。」それに対する答えが、「自分で探せ!」だった。
いかにもプライドの高い自惚れ屋が思いつくままに発した放言のように聞こえるが、事実はそうではない。この言葉の裏側から、多面体の真実を追究するのではなく、自分が信じる正義を見出せという隠れた教示が聞こえて(響いて)はこないか。そう、これが倉田さんが語った一・二点の逆説に通じる言葉だったのだ。
ドラマ第四話《太陽を返せ!マンション裁判仁義なき戦い》中で、自宅近くに建設される高層マンションに反対する住民側に肩入れする新米弁護士に、主人公の弁護士が諭す。
「正義とかぬかしているのは、上から目線の同情に過ぎない。そのつど目の前の可哀相な人間を憐れんでいるだけだ。」この会社と住民のトラブルは、三点目の逆説に通じやしまいか。一体何が沢山の人々の為になるのか。集合体<社会>の歪みから、正義を導き出すのは思っている以上に困難な作業なのである。
脚本の古沢良太さんは、ドラマ執筆前に倉田さんの裁判官シリーズに目を通していたのではないだろうか。(『リーガル・ハイ』という題名が造語なので、そこから推測したまでだが)一見奇想天外な弁護士ドラマを装いながら、登場人物達が抱える複雑な心情が、見る側に生々しく突き刺さる。おぼろげだった倉田さんの考えが、頭の中で明確に整理されていくのが実感出来た。正に真実とは一つではないのだとつくづく思わざるを得ない。
来月(十月)からドラマの続編が始まるようだが、新米弁護士は果たして自分が理想とする正義のあるべき姿を探し出すことは出来るのだろうか。注視したい。

≪付記5≫
未読状態のままだった最終巻『元裁判官の書斎』を読む。
本書はそれまでの四冊と違い、中身がより法曹界に接近した様相を呈しているせいか、出版社が勁草書房から判例タイムズへ変わっている。(事実倉田さんからの出版の申し出を勁草書房側がやんわりと断ったようだ)そのような意味合いから、これまでと同じ小説(SF・推理物など)の書評を期待している読者はやや肩透かしを食った感を抱くかも知れない。
倉田さんははしがきで、自信が持てるのは第一章・十三「失鵠裁判所」であると述べているので、筆者の意向に沿えばこの項や第三章「サイモン・シン『暗号解読』」書評に触れるのが妥当な線なのだろうが、元来が天邪鬼な私は違う方向に臭覚が働いてしまう。(『暗号解読』については、知識不足と思考能力の欠如で、素数をきちんと把握出来なかったという悲しむべき現実が潜んでいるのだが)第一章・十五「国立公文書館法と情報公開法」である。先日国会で衆参を通過し、強引に公布された「特定機密保護法」に対抗した形をとる「情報公開法」にまで及ぶ記事だが、法案が本人の意図に反しながらも、運命の糸に引き摺られるように意外な展開の中で筆者と深く関わり合っていく。
事の起こりは、平成四年に明治初年から昭和十八年までの民事判決原本の保存期限が切れたことに端を発する。原本廃棄を危ぶんで結成されることになった「判決原本の会」が最高裁と交渉し、国立十大学法学部が移管を受け入れて暫時保管する方向で一旦解決したように見えたが、大学側は保管を三・四年のつもりで考慮していた為、その先の原本の移管先を新たに探さなければならなくなる。正に一難去ってまた一難とはこのことだろう。原本は弁護士にも多大な影響を及ぼすので「日弁連司法制度調査会」が発足し(筆者はこのメンバー)、早速行動を開始するのだが、この先にまた紆余曲折が待ち受けていようとは誰も考えてはいなかった。
原本保存の重要性を唱える、ある国会議員からの提案「議員立法」で保存を成就させようとするのだが、そこに同じように国会承認を得るべく尽力していた「情報公開法」との絡みが浮上、除外規定(閲覧に供しない)部分が「国立公文書館法」(これが判決原本に関する法案)にまで広がり、“閲覧制限・謄写不容認が実現されては意味がないのではないか”との意見が、日弁連内の情報公開法・民訴問題対策本部より、日弁連会長へじきじきに上申書が送られる。たまたま文書に絡む二つの法案が同時期に承認を取ろうとした結果、思ってもみなかった弊害が生まれたのだ。この詳細はP65〜68の「2」「3」「4」を確認していただければ判るのだが、倉田さんは纏めで“歴史的若しくは文化的な資料又は学術研究用の資料として特別の管理がされているもの”はあらかじ開示請求から除外されており、大きな心配はないのではないかとやや楽観的な見解を示しているが、実際はそう簡単に割り切れるものではなかった。不開示範囲が情報公開五条の規定を超える場合は異を唱えなければならないときちんと付け加えられてはいるが、この不開示範囲という言葉自体がそもそも曖昧且つ広範で、それが今回の「特定機密保護法」の公布に少なからず影響を及ぼし、対象範囲を広げるような動きに繋がった印象があるからだ。最終的に、難事を乗り越えて「国立公文書館法」は承認されることになる。
いささか法案施行までの成り行きを追い過ぎてしまったきらいあるが、「公文書館法」の存在が重要なものであり、単に原本保存という書類保管の枠を超えている特別な法案だったことが少しは判っていただけたのではないか。追記にある「刑事裁判原本」を、未だに検察庁がプライバシーを口実にして現在も保持し続けて、開示(保管場所・判決の具体性の明示など)を拒んでいるとしたら、これは検察庁の横暴以外のないものでもないだろう。昔も今も検察庁の闇のベールは、至る所で張り巡らされているのだ。
第四章「判例タイムズ1000号の歩みの回顧〜一法曹読者として」への感想も記したかったが、(特にB5・A4の書籍形式と書棚格納の関係(P282)中で、五月十七日付の付記で司馬遼太郎さんの「信じられない過ぎ去ったことを振り返るとき人間、人間は神になりうる」の一文に倉田さんが接して感銘を受け、自ら漏らした一言に反省の意を示しておられる箇所には甚く共感した。論争好きにも関わらず、この潔さがいかにも倉田さんらしい。)長文付記となったのでこれで止めたい。
最後にやはり思い浮ぶのは、文書への執拗なこだわり、訳文への細かい気配りといったように、日頃から読書に勤しんでいるものにとっては、正に天啓のように聞こえてくる倉田さんの重厚な声の数々だろう。「裁判官の書斎シリーズ」の中に鳴り響く社会への警鐘は、後世にまで引き継がれていく重要な課題を孕んでいる。
〔蛇足〕
第二章「死をめぐる法律論」三.刑事法上の死」3.“刑事学・法医学”の講演中、犯罪学者ハンス・グロス著『予審判事必携』について話が及ぶ件があるが(P93)、『グリーン家殺人事件』の終盤犯人の書庫に所蔵されていた有名な本のことで、文庫中(P430)で探偵ヴァンスが以下のような説明を加えている。「あれは驚くべき論文だよ、マーカム。犯罪の歴史と科学のあらゆる分野を網羅して、特殊な実例を引用し、詳細な説明と図解がある。ちょいと驚くべき、犯罪についての、世界の標準的百科辞典だ。」この書籍に関しては意外にもほとんどの人が取り上げていない。法律絡みの犯罪教本ということもあり、一般の人が目を通すことは限りなくゼロに近く、触手が動いたとしてもわざわざ現物を入手してまで読む必要性を感じ取らなかったに違いない。倉田さんは大学の図書館でこの分厚い書籍(おそらく原書だろう)をざっと読んだだけで棚に返したと語っているが、唯一本文を紹介していた人物が存在する。沼正三さんだ。
ある夢想家の手帖からの第三巻『奴隷の歓喜』九十八章「人間ビデ」中で『予審判事必携』を俎上に挙げ、グロスが刊行した雑誌『刑事学年報』の文章からエルテル検事の「ある“奴隷”」の事例を紹介している。(これは私の勝手な推測だが、探偵ヴァンスが語った“特殊な実例引用”の一部がこの実話に該当するのではないか。)こんな安易な事柄から倉田=沼の諸説へと導くつもりは毛頭ないが、創元推理文庫1959年度版を見ると、ハンス・グロッスの『予審判事便覧』と記載され、「必携」ではなく「便覧」となっている点に注目したい。ともに“ハンドブック”の意だが、「必携」と記しているのは倉田さんと沼さんの二人だけのはずで、これを単なる偶然と済ませてよいのだろうか。ただ、よく確認するとブログ「直井明のミステリよもやま噺(九)」中で、グロス『予審判事必携』と明記されている。するとこの推測は私の単なるこじつけなのか。何とも気になるところだ。(直井さんの“グロースの著書は乱歩師のエッセーに何度か引用されているし、キーティングのシリーズでゴーテ警部が聖典の如く熟読しているのもこの本である。”という言葉にどうも「必携」という訳語が用いられた原因が隠れているように思える)
訳本が大正五年に『採證学』という題名で出版されているようだが(写真付で紹介されているHPあり〜直井明さんも言及)、『グリーン家殺人事件』文中によると原書は千頁にも及ぶらしいので、訳本は六百頁あまりというところから察すると抄訳と考えるのが妥当だろう。沼さんは、グロスの『刑事学年報』を引き合いに出すあたり、明らかに原書で読んでいたようで、それも流し読みではなく主要事項に細かくチェックを入れていたことが文面から窺える。
いずれにせよ、同時代に二人が、『グリーン家殺人事件』の僅かな一行に目を止めて、原書にまで手を伸ばしていたという事実は興味深い。

『ゴルの巨鳥戦士』(ジョン・ノーマン著・永井淳訳) SF創元推理文庫

SFスペースオペラと銘打って出版されたジョン・ノーマンの代表作である。その後シリーズ化されたが、本書が一作目。
この小説との出会いは、ジョン・ノーマンを扱ったHP「Far East of Gor 極東のゴル」を目にしたのがきっかけだった。(”奴隷を扱った小説”に対する感心度が高かったので、単に邪まな興味で記事を読んだのだが・・・)このHPは、現在新たな更新をされていないのが残念だが、このまま削除されずに今後も残ってほしいと思わせるほど、貴重なサイトの一つである。ジョン・ノーマンへの限りない愛情に溢れた文面で彩られているので、興味のある人は是非覗いてみてほしい。
正直、今回この本を取り上げるのには、少々戸惑いがあった。小説がシリーズ化され、既に三十冊近く(翻訳は七冊のみ)刊行されているので、全てを読んでから感想を書くべきなのではないか、という疑念が沸いたのである。この迷いは、初巻を読んだところですんなり解消された。話の区切りが、終盤できちんとつけられていたからだ。ジョン・ノーマンは、当初シリーズ化を目論んでいなかったようである。日本で七冊目以降が翻訳されず、多くのファンを得ることが出来なかった最大の原因は、奴隷を扱った小説なのに淫靡で妖艶なところがまるでなく、冒険小説(史劇としての要素が濃い)としての比重が高かった為なのではないだろうか。
沼正三さんがSF小説を紹介した際に、海外では 主人が奴隷を配下に置き(惑星間で支配と服従の関係が生まれる場合が多い)、それがSM特有の主従的な要素を多分に孕んでいるように見えると語っていた記憶がある。日本のSF小説ファンは、SM的な匂いを少しも期待していないし興味もないのだろう。アダルト小説のファンに、SF好きが多いとも思えない。(少々強引な言い回しだが)このような要因から、日本でのジョン・ノーマンへの関心度は、徐々に薄れていったものと考えられる。前置きがずいぶん長くなったので、本題に移ろう。
タール・キャボットという大学講師が、休暇を利用して山を登った際に、過去に失踪した父の手紙を偶然見つける。驚いている間もなく、見知らぬ円盤とともに父が現れ、その円盤に乗って地球と太陽を間に挟んだ未知の惑星ゴルへと連れて行かれる。そこで、ゴルの惑星でもやや独裁的な軍司令官になりつつあるマルレイヌスが統括するアル帝国の権力を、他国と均衡化させるために、帝国の礎石(この石を失くすことは、失権することを意味する)を強奪する使命を、タールが受けることになるというのが大まかな粗筋だ。
話の筋をなぞると、それほどうねりのある物語には思えないが、この小説の良さは、個々の生物の独自の描写にこそある。タールが乗り物として使う巨大な鷲のような生物を操るタルン棒は、ややもすると非情な鞭と同等に見受けられ、S的要素を感じられないこともないが、この棒を介して行なわれる厳しい訓練が生んだタールと巨鳥タルンの固い絆は、『ベン・ハー』の戦車競走シーンに登場する白馬と主人公の信頼関係を想起させた。
アル帝国の礎石強奪の際に、意に反して纏わり付いて来たマルレイヌスの娘タレーナと主人公が旅をするシーンでは、タレーナがタールを何度も裏切り、傲慢さと偏屈な意思の固さを遺憾なく発揮する。このような扱いにくい女に幾度裏切られてもそれを許す(ややもするとM的に見える)タールの信じる心が、次第にタレーナを意固地で生意気な嫌悪すべき女から、思いやりという暖かい真心を持つ女へと徐々に変貌させていく。
途中に出会う理性と言葉を持った蜘蛛族との出会いでは、”礎石の強奪で、アルに再び歓喜が訪れる”と蜘蛛が神妙に呟くあたりは、アルの特権階級からの残酷な仕打ちを受けていた一族の憎悪がこもる。
”主人と奴隷”の関係をあくまで拒否するタールに対して、捕らわれた者の奴隷の立場を頑なまでに行使しようとするタレーナの固い意志表示は、主従関係が今後の物語でも、ずっと貫かれていく普遍のテーマとなっていくことを予感させる。この関係が、次作でどのような形となって現れるのか今から楽しみだ。
ここには、柔なSF冒険物ではない骨太のドラマがある。

≪付記1≫
澁澤龍彦著の労作『黒魔術の手帖』に「カバラ的宇宙」という章がある。その中で澁澤さんは、占星術の領域に属する黄道十二宮(ゾディアック)のサインを記した、宇宙発展の見取図に触れている。
章の締め括りとして、”天国とは地球から見て高次元(太陽に近い)の惑星であり、地獄とは低次元(太陽から遠い)惑星である”と考えられていたと結んでいる。つまり、太陽から一番遠い冥王星海王星などは、低次元の人間の住む場所として捉えれていたのだ。
『ゴルの巨鳥戦士』は、主人公が太陽を挟んで地球と丁度反対側に位置する反地球ゴル(地球からゴルを確認することは出来ない)に、地球とほぼ同じような思考能力を持った生命体の存在を認識したところから物語が始まる。この規定は、黄道十二宮の考えに呼応するように感じられないか。
ただ、ジョン・ノーマンが、宇宙における惑星ゴルの位置を決める際に、わざわざ過去の文献を紐解いたとは少し考え難い。私はここに、過去から現代に受け継がれた目に見えない思考の破片のようなものを感じずにはいられない。

『淫檻』(千草忠夫著) マドンナメイト

SMファンに『復讐の鞭が鳴る』の題名で、74年10月〜75年1月まで連載されたもの。(千草忠夫のファンサイト《不適応者の群れ》情報)千草忠夫さんの執筆の場が、「奇譚クラブ」から「裏窓」「SMファン」「SMコレクター」等の他誌へ移っていった時期の作品である。
本腰でアダルト小説に精力を傾ける意志が固まったのが、文章の端々から伝わってくる。猿轡・鴨居に引っ掛ける鉤・ロープ・革鞭と、初期のこの手の小説ではお馴染みともいえる小道具が次々に登場して、千草ワールドを煌びやかに彩っていく。この時期、女を嬲る場面が延々と続くアダルト小説が多かった中、この物語は凄まじいほど起伏のある展開をみせる。
冒頭、会社仲間から身に覚えのない濡れ衣を被せられた主人公庄司が、獄中に送られていることを匂わせ、恋人京子・妹知子が、その裏切り者達の罠に嵌っていく(挙句、妹は自殺する)プロセスは、日活映画後期の隠れた快作『野獣を消せ』の妹を亡くしたプロハンターのやり場の無い怒りを想起させ、裏切り者への憤りと口惜しさを充分すぎるくらい味合わせてくれる。更に、主人公庄司の痛切な嘆きが、読者の心情と自然に同化するように、憎いくらい巧みに妹の自殺までの悲惨な道程を描き込む。
裏切り者の金欲・性欲、挙句には変態衝動まで丹念に描写されることで、庄司の登場はまだなのかと、読み手の期待を否が応でも高めるのだ。獄中から出た庄司は、一般小説なら悪の当事者達を、様々な方法を駆使しながら復讐を遂げるところを、愛欲小説なので標的の矛先を当事者ではなくその娘達へと向け、定番だが誘拐した彼女等を地下室に閉じ込めて、様々な嬲りや目を覆いたくなるような汚物絡みの凌辱を行なう。
『蒼眸の悪魔』でも感じたことなのだが、このような一見すると嫌悪感しか呼び起こさない凌辱シーンの連続が、千草さんの手になると、結果として、何か清々しい爽快感のようなものを生むから不思議だ。それは、個々の心の機微を丁寧に追っているので、主人公の行動やそれを補佐する千代子の気持ち(彼女も復讐心を抱いている)にすんなりと感情移入することが出来、壮絶な凌辱が次第に必然性を帯びたものに感じられるところから来ているような気がする。
一旦捕らわれた裏切り者の娘が脱出して、庄司にSの本性を暴露する(蛙の子は蛙)思わぬ展開は、屈辱に歪む庄司の顔を、読者が自身(マゾヒストのみ快感に浸れる)へと置き換え、完全に陶酔出来る場面として、周到に組み込まれている。田渕一家の内から溢れ出る加虐の数々を目にしていると、彼らには凌辱のみが、自分の存在を自覚出来る唯一の手段であるかのようにさえ思えてくる。究極のSM行為の果てに浮かび上がってくるのは、醜い自己の再認識なのかも知れない。
少々先を急いで筆を走らせた感があるが、千草さんのドラマ作りの旨さを感じさせる良作だ。
≪付記1≫
『野獣を消せ』に触れた際にふと思いついたのが、金井美恵子さんの「視線と肉体 長谷部安春『野獣を消せ』」という映画評だった。(『夜になっても遊び続けろ』講談社文庫掲載)金井さんは、独特の長文形式で読者の感覚を揺さぶることで知られている人だが、この評にもそれは遺憾なく発揮されていて、サングラスを通して映し出される女性の強姦シーンを、冷徹な監督の視線とダブらせるあたり、凡人では思い付かない繊細な感受性を伺わせる。流石、早熟天才美少女と言われただけのことはある。
『夜になっても遊び続けろ』は、残念なことに絶版になっているようだが、本・映画・絵画という金井さんの永遠の主題とも言えるジャンルを扱った名随筆として、今でも眩いばかりの煌きを放っている。特に、読書を”教養や人生の指針”としてではなく、あくまで”贅沢な快楽”として捕らえているところが妙に心地よい。個性的過ぎる文体を、取っ付き辛いと感じる人もいるかもしれないが、直線的でない流麗な曲線で紡ぎ出される文体の心地よさは、危険な誘惑に満ち溢れ、一端嵌ると抜け出せないほどの甘美な魅力を漂わせている。
同エッセイ掲載の『世にも不思議な物語』のフェリーニ編”悪魔の首飾り”を扱った「迷路もローマに通じるか」は、あたかもテレンス・ スタンプ演じる映画俳優の映像に現われない心の裏側(叫び)を、文章で追っているような奇妙な錯綜感を味合わせてくれる短編小説のような評論だ。是非、一読してもらいたい。
≪付記2≫
『野獣を消せ』を久しぶりに再見。
以前見た時に抱いた、主人公の妹を自殺に追い込んだ不良グループに対する深い憎悪の感情が、今回は不思議と湧いて来なかった。野獣と人間の境界線が不明瞭に感じられたからだ。主人公のプロハンターは、金持ち娘にアラスカでは生態系を維持するために狩猟をする際、何日間も人と会わないことが稀ではないと語る。この話を聞かされた娘は、一人きりで寂しくないのかと問う。男は「人間と口をきかずに済むだけ楽しいと言えるさ」と皮肉混じりに答える。ほんの些細な会話なのだが、人との会話を好まないこの異常な感覚はどこで身に付いたものなのかと、ふと考えてみたくなった。
主人公が妹を置いて、遠いアラスカへ旅立った背景には、幼少の頃周りの大人の欲望(金欲や性欲など)に塗れた行動を目の当たりにしたことによって生まれた、人間への不信感が見え隠れするのだ。不良グループが、金持ち娘の父親から強奪した身代金の殆どが偽札だったことを耳にした主人公は心の奥底でこう呟いたのではないか。「お前等、まだ人間を信用しているのか」と。そう、主人公はもはや人間達が形成する「世間」を全く信用してしない。虚偽や裏切りが渦巻く社会に何も期待せず、反対に出来るだけ距離を置こうとさえする。主人公の生活空間は、どちらかといえば野獣達(不良グループ)の行動範囲に近い場所にあるといえる。
最後の死闘で、不良グループではいつも冷静な佐藤が、ボスの矢田に漏らす言葉「そんな気がしないか。前にもこんなことが一度あった気が・・・」が印象的だ。この感覚は過去に幾度も事件を起し、社会から追い詰められた経験があることを指しているように思える。何度も人間を信用し、そのたび裏切られて来たことをいとも簡単に忘れてしまっているのだ。いや、この反省をしない破滅的な行為の裏には、人間を未だに信じたいという願望が潜んではいまいか。プロハンターが一切人間を信頼せずに、孤立無縁な立場を貫き通すのとは全く違う。野獣に例えられた不良グループは、まだ凶暴な獣に成りきっていなかったことを安易に暴露する。ラストのプロハンターと不良グループの壮絶な戦いが、動物同士の血生臭い弱肉強食の光景と二重写しになって見える。獣により近い存在のプロハンターが勝利を収めるのは当然の結果なのだろう。
年末から正月にかけて読了した千草忠夫著の『堕天使(上・下)』にも、『野獣を消せ』と同じ感慨を抱かせる箇所があった。下巻の終盤(「隷女の道」の章)に、女子大生の主人公が、自分を娼婦に陥れた学友をヤクザに頼んで凌辱させる場面がある。本来ならば、財閥の若夫人におさまった者への限りない怨念を滾らすところなのだが、ヤクザに犯され嬲られる悲惨な現場を見ているうちに、次第に女というものの何とも言えない儚さや危さを感じ、最後は“そしてそれと反比例するように、心は冷えてゆくばかりであった”(P232)という主人公の複雑な心情で締め括られる。自分の将来を粉々に打ち砕いた女に、同属意識が持つのは少々不自然なようにも感じられるが、一度の甚振りで簡単に落ちてしまう、熟れた女体(人間)の悲しい性がどうしようもなく伝わってくる。女性の細やかな情感を鮮やかに描き出す、千草さんの面目躍如といった感がある。
『堕天使』は、千草作品としては中の下ぐらいの出来かとは思うが、「淫者の誘惑」の章から巻末にかけては、『奴隷捕獲人』を思わせるような男女の心の機微が随所に感じられ、なんとも心地が良かった。(P207でヤクザ辻が呟く「今度ばかりはコマされたのはおれの方かも知れねえ」も憎い台詞だ)
≪付記3≫
小田光雄さんの『出版・読書メモランダム』2010年2月18付「古本夜話23 千草忠夫と『不適応者の群れ』」と題された文章を再読。
以下の一節に、どうしても注意が向く。「『千草忠夫選集』を通読していないので、断言することは避けるが、団とは異なった感性によって、SM小説の新しい地平を切り開いたように思われる。これは私見だが、田中雅美の『暴虐の夜』(光文社文庫)に始まるバイオレンス小説は、千草の影響を受けているのではないだろうか。」前から気に掛かっていた言動だったせいもあり、良い機会なので『暴虐の夜』に目を通すことにした。
女性作家らしく、都会の闇に潜む残虐な野獣の生贄として捧げられる羽目になった、女性の悲惨な行く末を綿密に活写する。現在の恋人の意外な酷薄さ、昔の恋人へ僅かな未練など、肌理細やかな目配せが随所に行き届いているのだが、如何せん真夜中になると凶暴な野獣に豹変する男がブルジョア育ちで、女性を狙う理由が“鬱屈した日常からのささやかな離脱”と判明するや否や緊迫した犯罪は、安易な遊戯の様相を呈し始める。
強姦された主人公香名子が、犯人の水内を追い詰める理由は、「香名子がされたのと同じことを、同じ恥辱、同じ苦痛、同じ悔しさを水内保治の身に加えること。水内保治を深夜の闇の中で、痛めつけ犯すこと。・・・(以下略)」(P174)と独白するように、犯人を殺すのが目的ではなく、犯した女からプライドを踏み躙られるような汚辱を受けて曝け出された醜態以外の何物でもない。彼女にはその後の相手からの報復などもはや眼中にない。終盤、犯人が主人公の母親に行なった衝動的な振舞いが、思わぬ災難をもたらすところでやっと殺意が生まれるのだが、ここまでのプロセスがあまりにも緩慢なように感じられた。
この小説だけで、田中さんを判断するのも早計かと思い、同作者による次作『悪鬼の牙』(双葉ノベルズ)も読んだが、『暴虐の夜』の焼き直し感が強く、登場する強姦犯魔は全員ブルジョアで、その連中の金持ちゆえの生い立ちからくる苦悩が延々と綴られていくのである。作者の田中さんはこの我が儘な若者達にどの程度の同情心を抱いていたのかどうかは判らないが、犯人が置かれている家庭環境を克明に描けば描くほど、屈辱を受けた主人公への読み手の同化意識が薄まることを考えてほしかった。
ここまで書いてきて気づいたのは、男の身勝手な欲望による理不尽な暴行や壮絶な私刑(リンチ)とそれに対する女の反逆が、殊の外綺羅光作品(『隷辱の肉舎』『女豹伝説』など)に類似していることだ。綺羅さんは、犯罪者の私生活や過去の経緯を必要最小限しか書き込んでおらず、ラストは大円団ではなく堕ちていく女の生き様を感情移入せずに冷ややかな傍観者の眼差しで眺めているので、一見すると田中さんとは掛け離れた立場にいるようにも感じられるが、田中さんは綺羅さんの世界に嵌まりながら、あまりにも過酷な運命を辿る女性達に出来る限りの救いの手を差し延べたいと考えたのではないか。最後に息も絶え絶えになって一命を取り留める主人公に己を投影し、反面で冷淡な犯人達が裕福さとともに抱えるしがらみという逃れられない現実(苦難)も垣間見せて、綺羅小説の欠けた部分を補うつもりだったのだろう。だが、それは無駄な徒労というべきで、書かれていない余白を埋める作業が、必ずしも成功への道筋に繋がらないことを如術に現しているように思える。
ジュニア小説での経験が長かったせいか、『暴虐の夜』の昔の恋人とその彼女、そして主人公香名子が寛ぐ居酒屋での心を許した者同士の歓談と和やかな食事の光景から漂う安らぎを何度も思い返すところ(P189)(P274)や『悪鬼の牙』の主人公美保子と隣の住む大石とのぎこちない恋愛が結実する章「愛しい人」に見られる、誤解が瞬く間に溶解して、やがて抱擁に結び付く美しい場面(P185)などは、滑らかな語り口で何とも心地がよい。男女が擦れ違う甘くて切ない恋愛話が、田中さんの持ち味なのではないか。官能バイオレンスを数冊手掛けた後、性愛描写に力点を置いたサスペンスや愛欲譚に移っていったのは自然の流れなのかも知れない。今後は、是非官能抜きの純粋な恋愛物で勝負してほしい。
小田さんには失礼だが、千草さんと田中さんの小説を結び付けた真意が判らない。『レイプライダー 掠める』あたりを思い浮かべて発言したのかもしれないが、千草さんの復讐譚はどす黒い憎悪の噴出一色というよりも、裏に隠された切なくて愛おしい情感(悲恋の匂い)がそこはかとなく漂うことが多い。小田さんは千草さんの小説をあまり読んでいないような気がする。表層(バイオレンスという主題の上辺をなぞる)からは決して感じ取れない様々な奥深さが、物語の根底に潜んでいるのだ。蛇足だが、小田さんが『奇譚クラブの人々』(河出文庫〜以前書評で取り上げた)から抜粋して紹介している千草さんのペンネームの一つが乾正夫となっているが、これはWikipediaでも記されているように、“乾正人”の間違い(原本は正しく明記されている)である。