『蛇蝎』(千草忠夫著) 日本出版社

どんな本が私の心を揺さぶるのか、正直未だに判らない。年齢やその時置かれている環境によって、それは微妙に変化していくもののように思えるからだ。
本書を読む前に一読した、同じ千草さんの『贄の花(上・下)』は、完璧なまでに洗練された様式美を圧倒的な筆力で描き出していることは実感出来たが、最後までどうしても惹き付けられなかった。
永遠に叶えられることのない異母兄妹の偏奇な異形愛、地上で起こる座敷内の出来事をわざわざ地下牢に反響させるように丹念な細工を行なった悪魔的ともいえる巧妙な家作り、捕らえられた血の繋がらない母娘の驚くほど強固で深い信頼関係など、数え上げれば切がないほど隅々まで細やかな配慮が施されたこの古典劇は、読む側にピンと延びた緊張の糸を緩めたりすることを、一切許可しない独特の張り詰めた空気が満盈している。この息苦しいほどの切迫感は、本来なら効果的に働き、読者をいつしか甘美な幻想へと引き摺り込んで、二度と現実世界へ戻りたくなくなる魅惑の幻覚作用を引き起こすはずなのだが、この本を読んでいる間中、何故かいつも物語との間に一定の距離を保とうとしている自分を強く意識せざるを得なかった。おそらく、全編に張り巡らされた絶え間ない緊張感にいたたまれなくなったせいだと思う。
こんな時、ふとある映画が頭に浮かんだ。小林正樹監督の名作『切腹』だ。薄汚れた浪人が、由緒ある武家屋敷を訪れるところから物語は始まる。浪人は生活に困窮したので、屋敷の庭先を借りて武士らしく切腹して果てたいと言う。家老は庭先を汚すことになるので、小銭を渡して追う払うことを考えるが、過去に起きた忌まわしい切腹事件の話を聞かせて、自害を諦めさせるのが得策だと考える。だが、浪人は少しも後に引かない。逆に、死ぬ前にこのような境遇に置かれるようになった経緯を、まずは聞いてもらいたいと申し出る。浪人の口から語られたのは、以前の切腹事件の裏に隠された驚愕すべき事実だった。
この映画は、切腹という重苦しいしきたりを扱いながらも、幾度か差し挟まれる家族団欒の風景が心を和ませ、汗にまみれて強張った手の震えを一旦落ち着かせてくれる。この極度の緊張と緩和のバランスが絶妙で、物語に浸りきることに少しも違和感を覚えることがない。そう、『贄の花』には、癒しともいうべき弛緩の時間が、全くといっていいほど流れていないのだ。
狂気の兄を気遣う妹と家来(運転手)の日常会話に、ごく僅かに緊張が緩む家庭的な暖かいひと時が生れることもあるのだが、その平穏な空気も研ぎ澄まされた感情を常に撒き散らす兄の登場で、あっという間に消失してしまう。この何とも言えない不穏な緊張の連続を、極上の愉悦にまで昇華させることが出来る読み手もいると思うが、残念なことに私にはそれが出来なかった。そんなわだかまりを抱いたまま本書と向き合うことになった。
千草さんの書き下ろし長編である。雑誌掲載が多かった千草さんにしては珍しい部類の本だと感じたが、この時期には他にも数冊の書き下ろし長編が出版されていた。そのどれも水準が高いことに吃驚する。その中でも、『蒼眸の悪魔』(以前書評で扱った)『奔る牙』『レイプライダー 掠める』の三冊は私のお気に入りで、特に怨念を孕んだ凌辱が延々と続く『レイプライダー』は、世間との関わりを遮断した主人公の闇に包まれたような暗さが特に印象的だった。ライダー二人(主人公と相棒)が荒んで空虚な心を内に秘めて、ブルジョア家庭への憎悪を次第に募らせていくあたりは、自然にこちらを感情移入させてしまう不思議な魅力が潜んでいた。ドラマチックな展開が起らなくても、主人公に同化出来れば心地よい高揚感が得られることを実証した作品でもある。本書もその系列の一冊だ。惹き込まれるは、当然といえば当然か。
岩村という元警官だったデパートの警備員が、上流階級の淑女なをの万引き現場を捕まえるところから物語は始まる。なをの万引きはよくある女性の性的な欲求不満から来ているらしいのだが、男はそんな言い訳を聞き入れはしない。警備会社に報告せず、自宅に監禁して女の盗癖を止めさせるために、ヤキ(当然凌辱だ)を入れるというのだ。このあたりまでは、千草さんだけあってスピーディーで、息をもつかせない展開をみせるが、よくある凌辱物のパターンを脱しておらずいささか新鮮味に乏しい。
ただ、古びた自宅に夫人を監禁して、そこで幼い女学生(千草さん流にいえば、女高生ではない)さゆりが登場して、岩村とともになをの調教し出すところからドラマは意外なうねりを見せ始める。なをと同じ元万引き常習犯のさゆりは、岩村に調教された時と同様の行為をなをに実践しようと心待ちにしていたようなのだ。貴婦人を下層階級出身の女がいたぶるパターンは、千草作品ではお馴染みだが、今回は自分と同じ窃盗という性癖を抱えている人間を、意識を失くすほどの快楽地獄に陥れることで、逆に救いの手(盗癖治療)を差し延べようとする隠された裏側の同情心がほんの少しだが垣間見られるあたりがいつもとは違う。
そこで、突如本書の題名“蛇蝎”という言葉の意味が気になってきた。辞書には、「へびとさそり。人が恐れ嫌うもののたとえ。」とある。安易に捉えれば蛇は岩村、蠍はさゆりで、それに睨まれたなをは、差し詰め蛙といったところなのかとも思えたが、そう単純には括れないような様相を見せ始める。蛇と蠍に例えた二人は確かに一見怖そうに見えるのだが、身近な人間には意外な心配りをみせるのだ。その良い例が、岩村命名した不良仲間数人からなる「破愚連」の扱い方にみられる。岩村は自宅に集まるようになった彼らに「破愚連」という名のグループ名を付ける。岩村は集会の場で、その意味を訓示する。この命名の理由が何とも泣かせるので、長文だが引用してみたい。
「昔は若衆宿というもんがあって、一定の年齢に達するとそこに合宿生活をさせ、先輩が後輩にいろんなことを教えた。村のしきたりとか、長上に者に対する礼儀とか、炊飯洗濯掃除のやり方とか、女の扱い方、つまりセックスのやり方までな。そして同じ若衆宿に学んだグループを『連』、グループの一員を『連中』と呼んだんだ。連中という言葉は今でも使われているだろ?おれがこのグループに『破愚連』とつけたのにはいろんな意味がある。まずこれを縮めて読めば『はぐれ』だ。お前たちははぐれ者の集まりだ。それは認めるだろう?だが、そのまま読めば『はぐれん』つまり、『はぐれんぞ』と全く反対の意味になる。お前たちは一見はぐれ者のように見えるが、村を見捨てて町へ行っちまった者たちから見れば、まだはぐれ切ってはおらん。まだ、村に根を降ろしている。そこを言いたかったんだ。そして漢字をそのまま読んでみろ『破愚連』は『愚連ヲ破ル』と読める。つまり他の愚かな連中を破り、そんな連中を突き抜けて立派なグループに育つ、という意味になる。どうだ」
省略しようがないのでそのまま引いたが、何度呼んでも心に響く。このはぐれ者(さゆりも含めて)を見捨てない心を持ったものが、人が恐れ嫌うもの(蛇蝎)になれるのか、それは心優しいものがみせる単なる虚勢なのではないのか。ここではこれ以上あえて触れないが、上辺を取り繕う表面上の優しさ(親切心)がいかにあてにならないものかを証明しているように思えてならなかった。
やがて、岩村は地獄の巣窟の不思議な魔力に徐々に惹かれ始めたなをを「破愚連」にお披露目する時がやってくる。決して騒々しくはない静謐な輪姦なのだが、集合場所の情景が妙に気になるのだ。十畳あまりの大きな囲炉裏を切った部屋(近在では「おえ」と呼ぶらしい)で、囲炉裏には当然炎が上がり、土間と向き合った「おえ」の高い所には大きな神棚が吹き抜けの天井から吊ってある。神棚も吹き抜けに剥き出しになっている梁は黒くすすけ、炉の火で黒光りしている。輪姦現場を克明に記したのは、この状況がある昔の西洋の暗黒儀式を思い起こさせたからだ。
それは悪魔崇拝の集会サバトである。野外の闇は黒くすすけた梁がその役目を果たし、生贄を食す時にかかせない火は中央で焚き火として煌々と焚かれ、処女ではないが女神のような貴婦人が生贄として捧げられるあたりは、正にサタン崇拝の儀礼そのままだが、一点だけ違っている部分がある。祭られているのが、悪魔ではなく神棚なのである。もちろん、この座敷の持ち主だった岩村の両親か先祖の写真、あるいはお守りが飾られているだけなのだろうが、何とも奇妙な光景ではないか。あえて尊い神棚を残して汚濁に塗れた儀式を執り行う。これは神への冒涜か、はたまた挑戦なのか。
ここで行なわれる輪姦には、惨たらしさは微塵も感じられず、まだ完全に開花しきっていない神聖な獲物の本質を少しずつ探索していくための清廉な通過儀礼のように見える。それは、神への反逆行為というよりは、神棚に祭られているものが、世間から阻害されたはぐれ者の結束を、恰も称えているような錯覚さえ呼び起こす。
思わぬきっかけで、見知らぬ性の深淵を覗き見ることになったなをは、その後自宅に帰ることを許されるのだが、二週間目にどうしても我慢出来ずに岩村の家に舞い戻って来る。万引きの性癖が直った変わりに、自ら凌辱を求める欲望を抑えきれなくなったのだ。当然、岩村とさゆりには、なをにこの衝動が起きるのはとっくにお見通しだ。以前のようないたぶりを期待していたなをだったが、そこに待ち受けていたのは驚くような性具を使った汚辱行為だった。
その性具とは、数珠の切れ端のような形をしたアナル・ビーズだ。岩村が手にしたこのビーズは、大小の真珠色をしたガラス玉で、大きな玉は直径二センチ、小さい玉は直径一センチで、それが十センチあまりのテグスで連ねられている。私はこの手の行為に興味がないので、これが特殊な形状であるかどうかの判断が付かない。だが、このビーズが使われる場面を見ながら変な妄想に陥った。
小さな玉が、なをが今まで暮らしていた何不自由のない平穏な生活に見え、大きな玉が、今嵌りつつある性の快楽地獄と重なるのだ。ビーズの大小が交互に連なっているのは、蕾(菊花)への快感をより増長させるための仕掛けなのだろうが、私には交互に現れる玉が、これからのなをの二重生活を暗示しているように思えてならなかった。それはやがて、全て大きな玉(淫欲にまみれた生活)で埋め尽されないと満足出来ない身体になっていくのだろう。後半、ビーズではない異物を、岩村から挿入された際のなをの感覚を表した文章が、妙にリアルで素晴らしい。
「それは治りかけの柔らかなかさぶたをかぶった傷口の、あのやるせない甘い疼きに似ていなくもなかった。思い切り掻きむしりたい、だがそうすると痛みが返って来るかもしれなくてこわい」
これほど想像力を喚起させてやまない文章があっただろうか。アナル感覚に芽生えたなをの行く末には、一体どのような究極の昇天が待ち受けているか興味は尽きない。
全てを共有した安心感からか、さゆりはなをに奇妙な親近感を抱き始める。さゆりはなを「姐さん」とまで言うのだ。(それは破愚連にまで及ぶ)そんな偽母娘のような関係が築かれる中で、新たな獲物が捕まる。今度は万引き常習犯ではなく単に公園で拉致してきた女だ。幸子と名乗るこの美少女に対しての破愚連定番の儀式が始まるのだが、岩村のいない現場でも決して惨たらしい輪姦行為には及ばない。きちんとした手順を踏むのだ。アダムとイヴを引き合いに出しての体くらべといい、ここでもぎすぎすした緊迫感というよりはコミカルな空気が充満している。そう、彼らは狂犬のようにみえて実は本音は紀州犬のように従順な面を併せ持っている純粋な青年達なのだ。それを器用に操作しているのが、岩村とさゆりということになるのだろう。
ラストで、この少女と岩村の秘密の関係が暴露されるのだが、この悲惨な結果を招いた原因が途中で何度か挟まれる神棚を前に行なった涜神行為への天罰だとはどうして思えなかった。岩村の今までの横暴で我儘な生き方からすれば、この顛末を生き地獄と解釈するよりも最後に天が授けてくれた至福の瞬間とみるべきなのではないだろうか。岩村は蛇蝎から脱皮して一匹の生身の男(アダム)に返ったのだ。では、裏では優しさを携えながら、表で悪ぶるといった、逆説の定理を証明するような“蛇蝎”という魔物はこのまま消えてしまうのか。否!蛇はさゆりへ、蠍はなをへと新たな変貌を遂げて、その後も永遠に受け継がれていくことになる。
冒頭で触れた緊張と緩和のほどよい配合が、こんなにも心地良いものだったとは知らなかった。善行と悪行の交錯が醸し出す特異な妖気を、流麗な文体の狭間から感じ取ることの出来る至極の快作だ。
是非一読をお勧めする。

≪付記1≫
最終章の初めに、主人公なをが美少女幸子の凌辱現場を回想した部分が挟まれている。引用してみたい。
「暗黒の奈落の底に、ひ弱げな白い裸身が地獄の劫火に灼かれ苛責にのたうっている。その白い裸身にわらわらと群がりたがるのは地獄の牛頭馬頭か。どの牛頭馬頭も毛むくじゃらの股間から赤く燃える男根を屹立させ、苛責にのたうつ美少女の裸身のあらゆる開口めがけて突っ込もうと競い合っている―阿鼻、そして叫喚―」
小説の中ではこの場面は、上記の文章ほど壮絶で惨たらしい描写が成されているわけではない。何故悪魔の所業のような文体をあえてここで差し入れたのかは、やはり千草さんがサバトの儀式との二重写しを目論んだためだと解釈すべきではないだろうか。
それにしても、陰惨だがこの格調高い文体は一体どこから湧き上がってくるのだろう。官能小説のみに生きた千草さんが、もしこの文体を駆使して一般の悲恋小説を書いたなら、どのような形で散りゆく花を描いたであろうか。かなえられない望みだが、どうしても千草さんの恋愛物を読んでみたい衝動に駆られる。

≪付記2≫
千草忠夫の『愛奴淫縛』を読む。
本の神様も粋な計らいをしてくれる。付記1で、千草さんの恋愛物が読みたいと零していたところ、早速こんな物語と引き合わせてくれるのだから。何か運命的なものさえ感じる。本来なら書評で取り上げたいくらい心を打たれたが、如何せん話が短いせいか先を急いだ感が見受けられ、少々物足りなかったので、あえて付記として取り上げることにした。
三編からなる短編集だが、表題作が群を抜いて際立つ。
主人公は華麗に獲物を射止め、その後念入りに調教して売春組織「シャトオ」が催すオークションに出品する名うてのスレイブハンターだ。ニヒルダンディーだが、悪の匂いが全身から漂っているので、危険を察知する嗅覚を持った女からは敬遠されてしまうタイプだ。そんなハンターが金持ち娘に恋をする。いつもなら、独特の話術と強引な行動力で女をものにする冷酷な男が珍しく躊躇っていると、何故か会社の上司からその女からは手を引くようにとの指令が出される。理由は不明だ。盛り上がった高揚感を持て余したハンターは、その鬱憤を晴らすかのように、他の女へとターゲットに代えて壮絶な調教に励む。少々ストーリーを追い過ぎたきらいがあるが、この背景があっての悲恋なので許されたい。
主人公が、恋と仕事の間で悩む心情が綴られた箇所がある。引用しよう。
「守(主人公)としては、早川芳子(金持ち娘)の胸にも彼の面影が焼きついていたことだけで、満足しなければならないのであろう。スレイブハンターは即ラブハンターでなければならない。だが、今回の彼は、内在する二律背反に見舞われた上に、ラブハンターとしてさらにサチ子(娘の家のお手伝い)のごとき女にも裏切られてしまった。」
ハンターには恋は無用なのだが、恋する女に自分のことが僅かでも刻印されただけで満足している、何とも微笑ましい恋心が垣間見られて、不思議と感情移入してしまうのだ。やがて、他の男のところへ嫁いだ娘の初夜を想像して、怒りに狂わんばかりになりいささか情けない醜態まで見せはするが、恋する者の身勝手さなのだと自覚して、主人公は徐々に立ち直っていく。
金持ち娘の代替品となり、スレイブとして飼育される久美の健気なまでの献身ぶり、心憎い気配りをみせるボスの重厚な言葉の響きなど、まだまだ触れたいところは沢山あるのだが、付記なのでここら辺で切り上げたい。
第一章が少々おとなしい展開だったせいか、第二章は凄まじいまでの凌辱劇が炸裂する。可愛さ余って憎さ百倍といったところか。話は読んでのお楽しみだ。
一見儚い悲恋ドラマに見せかけて、最後には得意の愛欲劇の中へと巻き込んでいく。流石、千草さんだ。スレイブハンター沢田守の物語は、シリーズ化されなかったのだろうか。まだまだ、千草さんの短編は未読のものが多い(書籍化されていないものも多いらしい)ので真実は判らないが、この一編だけで幕を閉じるのは惜しい、極小の宝石を思わせる一品だ。

≪付記3≫
詫びなければならない。
付記2を記した後、この本をHP”ちぐさ文学館”で確認してみたところ、短編集『レイプ環礁』に掲載された「奴隷捕獲人」を、登場人物の名前を変えて抄録したものであることが判ったからだ。早速こちらに目を通してみた。
冒頭、イメージが湧かなかった物々しい建造物「シャトオ」の全体像がきちんと書き込まれ、雑な扱いに見えた久美(こちらでの名前は絵美)が従順なスレイブに調教されていく経緯が丹念に綴られている。(絵美を取り上げた第一章がまるまる削除されていた)金持ち娘が、決定的な別れを切り出す喫茶店での場面では、「ボスの言うとおり、やっぱり惚れていたのかな」と心の中で独白するハンターの気弱な面がみられ微笑ましい。
第三章で、ボスから闇情報をもらったハンターが帰り道に、別れを告げられた女に思いを馳せ、ふと頭に浮かべた詩の一節がまるまる削られている。心に染み入る言葉なので引用してみたい。
「白足袋の恋人にあったら。どんなに、はげしい思ひが燃えても。この湿った林の道では。そうっと、その胸をみださぬやうに。並んで行かうに。この深い緑には。どんなにその足袋がよく浮くことだろう。林の道かどに来たら。その口を仰向かせて。どんなにいらだって、目を燃やして。キスしてもやろう。 ・・・・・・・・・・」
このいささか甘い言い回しを胸に抱きながら、男は自らをユダ(裏切り者)になぞられて、キリスト(金持ち娘)に命がけの抱擁(キス)をすることを心に誓う。涙ぐましい決意表明だが、この決心を鈍らすような秘めた恋(芽生え始めた絵美への愛おしい気持ちとか)が潜んでいると、ハンターの苦悩がより際立ったように思える。
最後に僅かな不満を漏らしたが、本書には非情な男の恋の葛藤と女の悲しい性が随所に滲み出ている。
愛奴淫縛』よりも、断然こちらがお勧めだ。

≪付記4≫
千草忠夫の短編集『女高生嬲る』を読む。
全体的には安易な凌辱物の域を脱していない感があるが、僅かな一節がどうしても気にかかってしょうがなかった。『狂おしき慕情』の一文である。引いてみたい。
「捨ててやろうと決意したその果てに見えはじめたマゾ女の自己愛の強烈さが、それまで征服したと信じ切っていた自分を突き放したように思えたのだ。(この女は、おれが捨てても生きてゆける)」
毎日のように義姉を甚振っている弟の口から吐かれた、一見自分勝手で酷薄な言い回しとも受け止められるが、強姦した後にマゾの本性を曝け出した女の凄まじい性への執着を見ていれば、自分が調教したからこそ、ここまでの快楽を得られるようになったと考えるのはごく当たり前だ。
蘭光生結城彩雨・綺羅光などの凌辱系作家は、淑やかで物静かな女性が、自ら被虐の性を求める一匹の雌へと変貌していく様を克明に描写する際、いささかの疑問の余地を差し挟まなかった。中々言いなりにならない凛とした女性を徐々に追い詰めていく中で湧き起こる、主人公の嗜虐の喜びが読み手を刺激し、絶大な効果を発揮すると頑なに信じていたからだ。千草さんは、わざとこの効用を半減させるような独白(この女は、おれが捨てても生きてゆける)を男に呟かせる。マイナス思考へと赴く男の心情をあえて書き込み、読む側の性的興奮を冷まさせてまで、女の逞しさとしたたかさを潜ませたかったのではないか。
官能小説としては危険な冒険と知りつつ、あえてそこに踏み込んで性(愛)の深遠を探る。物語の破綻を恐れずに、アントニオーニの映画(主題は愛の不毛)にも通じる性の不条理に手を染めた、作家の気概を改めて感じずにはいられない。

『魔太郎がくる!! 新編集 全十四冊』(藤子不二雄A著) ブッキング

「このうらみはらさでおくべきか!!」のフレーズで陰惨な復讐の幕が開く、藤子不二雄Aさんの裏の代表作である。そう、表ではなくあくまで裏。深い闇に埋もれた中で、人知れずひっそりと咲く危険で魅惑的な暗黒界の毒花なのだ。眩しいばかりの白昼に花開いているのが、『怪物くん』『忍者ハットリ君』『プロゴルファー猿』『少年時代』『まんが道』だとすれば、昼間は蕾を閉じ森閑とした深夜にのみ花開くのが、『黒ィせぇるすまん』(後に『笑ゥせぇるすまん』と改題)『ブラック商会 変奇郎』(後に『シャドウ商会 変奇郎』と改題)』そして本作だ。
日頃あまり漫画を読まない私が興味をそそられたのは、草森紳一さんのユニークな漫画評がきっかけだった。小説などと違い、絵が主体の漫画にはこちらが空想を介入させる余地が少ないと勝手に思い込み、感想を書く対象として真正面から捉えてはいなかった。その考えを一変させたのが、立風漫画文庫『黒ィせぇるすまん』の「ドーン 図星でしょう」という草森紳一さんのあとがきだった。喪黒福造をファウストに見立てるいつもながらの鋭い視点も然ることながら、現代人が「ドーン」に弱いのは、“現代人の不安というのが、微温的な不安だからだ”と説く切込み方が実に斬新だ。私達がいつも具体的な不安が何なのかをなかなか掴めない中、微温的な日常の驚くべき正体(秘密や欲望)に照明光をあてて拡大するのが、喪黒の「ドーン」だと指摘する。
この言葉に耳を傾けて「勇気は損気」という物語に目を凝らすと心に響く。微温的な日常を逸脱するような強烈な武勇伝を残して、新聞記事の一面に載る夢を抱くしがないイラストレーターが主人公だ。この小心者にいつものように喪黒が近づくのだが、今回は雑誌の編集長もありきたりな日常からの脱却を期待して、“今の生活からの変貌”を言葉巧みに挑発するのだ。今やそそのかす側は、心の隙間を埋めるために近づく喪黒だけではなく、人の弱みを見つけて強引に抉じ開けて入ってくる無遠慮な知人にまで及んでいる。この奥深い草森評は、読み捨てという意識が強かった漫画への安易な概念を見事に突き崩し、文学と酷似した想像力を刺激して止まない作品がまだ数多く埋もれていることを教示してくれた。
そんな地下に潜んだ秀作漫画の中でも、群を抜いた出来栄えをみせるのが本書だ。ここ数ヶ月興味を抱き続けている黒魔術を活用ながらも、それを全面に押し出すことなく影の部分として位置付け、最後に現出する場面で衝撃度を倍加させる。巧妙に張り巡らされた罠をいかに見破れるかが、作品を紐解く重要な鍵である気がする。細部に拘りながら、可能な限りの探索を試みたいと思う。
まずは、うらみの一番「うらみはらさでおくべきか!!」を覗いてみる。
いきなり登校時間に目を奪われた。学校の時計が何とAM7:01を指しているのだ。初めはこちらの見間違いかとも思ったが、二話目がAM7:05とはっきりと示されていることから見れば、間違いではないことが判る。何が言いたいのかといえば、通常の始業時間が各学校でばらばらだとしても、現実の学校はAM8:00〜8:30の間が始業のはずで、このAM7:01の時間指定はおそらく何かを暗示しているのではないかということなのだ。そこでいささか突飛だとは思ったが、ヘブライ密教カバラ」について調べてみた。澁澤龍彦さんによれば、カバラリストたちは精霊を呼び出し、言葉と数字の魔力によって信じがたい奇跡を実現したとされ、キリスト教天地創造の意味を知ることが出来ず、ひたすら贖罪によって救われたとされている。カバラ的な異端の教義によれば、人間は知識(ソフィア)によって宇宙の秘密に迫り、神と等しく小規模な創造を行なうことが出来たというのだ。(澁澤龍彦著『黒魔術の手帖』〜「カバラ的宇宙」より)
そこで、言葉と数字=知識に隠された秘密があるような気がして、数字に関して調べようとしたが、『黒魔術の手帖』にはカバラ数字のことが詳しく書かれていないので、ネットで検索したところ、”カバラ数秘術”というHPにぶつかった。誕生数という項目に七として、マイナス要因に神経過敏、自己中心的、尊大、冷酷、分裂的、反逆的、皮肉屋、孤独が掲げられ、七の感情分析として、「感情型の数字は恨むと恐ろしいのですが、七の成功への執念は怨念のようであり、成功のためなら自分さえも犠牲にし、ビジネスに関しては冷酷です。でも、自分を犠牲にして突き進めば孤独が付きまとい、感情を殺し続ければ辛さは増すばかりで、失うものが多すぎます。七の本来の願望は精神世界を理解してもらうことにあり、反逆精神の強さは本来そっちに向けるものです。」と記され、誕生数ではない数字の属性⇒感情型、奇数 >属性 感情型(二、六、七、十一、三十三)としては、「傷つくことを恐れるので秘密主義で、大切なものは目立たないよう大切に隠しておく特徴がありますが、スピリチュアルなものが好きでオカルト方面に詳しい人も多く、この分野は常に隠されてきた分野です。そのため非現実的と言われる分野で目立つタイプです。このタイプの人生のテーマは人の心なので、占いや心理学、哲学方面に向かう人も多く、ミステリアスなものが好きで、不思議な世界を追求することにロマンを感じます。鋭い感性の持ち主なので、霊感が強いとまで行かなくても何かを感じ取っており、不思議な体験をする人が多いのもこのタイプです。」と付け加えられていた。
やや強引な気がしないこともないが、藤子さんの中では魔太郎の登場は、この暗く歪んだ孤独と怨恨を孕んでいる七という数字からどうしても始まらなければならなかった気がしてしょうがない。01(一分)にはそれほどの重きは置かれていなかったのもしれないが、辻褄を合わせる意味で無理矢理解釈すれば、うらみの“う”の変形とは言えないだろうか。下のつを数字の七と見て、上の点は数字の一を指しているというわけだ。無謀なこじつけで失笑を買いそうだが、藤子さんの登校時間へのこだわりを何故か感じざるを得ない。
登校時間の解釈で膨大な分量を割いてしまった。急いで中身に触れようかと思っていると、絶句するようなシーンが現れる。冒頭、校長と担当教師に対して、魔太郎の母親が喋った何気ない一言がそれだ。「おはずかしいんですが、魔太郎はチビのうえに、人一倍気が弱く・・・」と言うのだ。母親だからと言って、自分の息子をチビ呼ばわりしていいのか。背が低くて・・・ならまだしも、母親からこんな差別用語が飛び出るとは思わなかった。ただ、藤子さんはこのチビという言葉をわざと押し込んだ節があるようなのだ。中公文庫版の一巻目(実をいうとこの本が魔太郎との最初の出会いだ)のあとがきで、藤子さんは小さい頃の悲惨な思い出を述べている。長いが引用してみよう。
「ぼくは子供の頃、クラスでも一番か、二番のチビだった。小学生の時、先生が入ってきて、級長が「起立!」と号令して皆がいっせいに立った。一番前の席にいたボクもモチロン起立した。すると、先生がぼくを見て「アビコ(ぼくの本名)、なぜ立たないんだ」といった。ぼくは「た・・・立っています!」と答えて教室中の同級生が大笑いしたことがある。ぼくはその時の恥ずかしさを今でも忘れない。そして、自分がチビだということをとてもくやしく思ったのだ。」
この話を耳にすると、藤子さんがチビという差別用語にいかに過敏に反応していたかを伺い知ることが出来る。そう、魔太郎の母親の言葉は、何気ない会話の中に差し挟まれているので、ここまで意味深いニュアンスを感じさせはしないが、不思議と心の奥に引っ掛かる。
初期の物語では、魔太郎は、ある程度のいじめを許容する姿勢を見せている。「・・・ぐらいなら許してやった」とか、「こんど何か俺に悪さをしたら」とか、「あいつになぐられたことは何とも思っていない」などと呟くあたりは、ある程度の苛めを快感にまで消化させる術を持っていたのではないかと勘ぐりたくなるくらいだ。その姿勢は、魔太郎の中で友人由紀子の占める比重が大きくなっていくに従って次第に崩れていく。由紀子は魔太郎にとってどんな存在なのか。永遠に気持ちを伝えられない理想の恋人なのか。それとも信頼のおける唯一の友人なのか。その答えは、うらみの二番に現れる魔太郎のノート見れば判る。「まるで、ジャンヌ・ダルクのようだ」と記されているところから想像するに、信念を曲げずに正義を貫き、苦しい時に救いの手を差し延べてくれる、言わば聖母か女神のような存在として捉えている。では、魔太郎はそれを黙って見詰める市井の臣として甘んじてしまうのか。否、やや強引な解釈をさせていただければ、ジャンヌ・ダルクの傍に常に寄り添い、彼女の名声を影で支えたジル・ド・レエこそが魔太郎と重なり合う人物にようにみえる。
ジルは幼児殺戮者、美少年愛好家、男色家として名高い人物だが、一筋縄ではいかない奥深い知性を保持していた。『黒魔術の手帖』やユイスマンス著『彼方』でその人物像を垣間見ることが出来るが、残虐性や好色性以外の部分として、文芸愛好家(珍奇なものの愛好者)、神秘主義者(キリスト崇拝・教会堂の建設)、悪魔礼拝の探求者という部分も兼ね備えている。魔太郎の古美術への傾倒(うらみの十三番、十六番)、純粋な心を持った人への敬意(うらみの十九番、九十三番)、悪魔の呼び出しへの警告(うらみの二十四番、五十五番)などはジル・ド・レエが抱いていた隠された影の一面を彷彿させる。『黒魔術の手帖』でも触れられているが、神秘思想と悪魔礼拝とは一見矛盾している考えなのだが、コインの表裏のように紙一重の存在だ。(以前『悪魔王国の秘密』の書評でも触れたが、神も、キリスト教徒に試練を与えるために、時には悪魔の力を利用することがある)ジルが以前から興味を持っていた悪魔崇拝に神秘思想が加わったのは、やはりジャンヌの影響が大きいらしい。ジャンヌが魔女裁判で処刑された後に、ジルの悪魔崇拝錬金術への耽溺が急速に進み、やがて虐殺と歪んだ性欲の探求へとのめり込み、奈落の果てに落ちていったように、魔太郎の前から由紀子がいなくなれば、魔太郎はとめどない自己崩壊を引き起こして、悪童の大虐殺まで行なう可能性を秘めている。この自己崩壊をぎりぎりのところで塞き止めている貴重な存在が由紀子なのだ。(『黒魔術の手帖』では、ミシュレの『妖術使論』を引用しながら、ジルの狂気を説明しているのだが、同じ方法を使って魔太郎の未来を予測させてもらえば、「最初はいやいやながら魔王の助けを借りて苛めを実行した人間を懲らしめていたのが、やがて悦んで自分の欲望(復讐の貫徹)を満足させるために相手を痛めつけるようになる。苦痛よりも死に近い瀕死状態を楽しむようになる。」といったように被虐行為に愉悦を感じるようになるかもしれないのだ。)
最終話に、悪魔の一族の手下から魔太郎に、由紀子への犯罪をそそのかす非情な指令が出される。この指令に従うか両親の命を助けるか究極の二者択一を魔太郎は迫られる。結論は書かないが、両親と同等の存在まで高められるほど気高く汚れのない崇高な女神、それがジャンヌ・ダルク由紀子だ。
ここからは具体的な物語を覗きながら、魔太郎の世界に迫ってみたい。
本書はいくつかの共通の主題を扱っている。その中に苛められている生き物に対する限りない愛情がある。
果敢な片目のネズミ左膳が活躍する「うらみの九番 ネズミがネコをかむ!!」や紀州犬シロの格闘ぶりが目を引く「うらみの九十九番 犬の飼い方教えます」がメジャーだが、あえてマイナーな「うらみの二十五番 ぼくのペットは吸血コウモリ!」を取り上げたい。
吸血コウモリのペット話は、多くの人からみれば気味の悪い生き物に愛情を注ぐ偏奇趣味の匂いを感じ取るかも知れない。ただ、コウモリを見続けていくと、それが次第に可愛らしい存在に思えてくるから不思議だ。魔太郎が愛着を抱くのは、残忍な飼い主が与えた餌を食べずに、わざと悪童の手に噛み付くところや、悪童に痛めつけられる魔太郎を見ながら、キキーッと鳴きながら同情を示すシーンを目にしたことによる。悪童が餌を与えていないために、衰弱しきって横たわっているコウモリに、魔太郎は自分の手を差し出して生血を吸わせる。この決死の覚悟も凄いが、直前の台詞が輪を掛けて壮絶だ。「おいっ!きみっ!しっかりしろ!」と言うのだ。もはや、コウモリは魔太郎とって、人間と同等の存在なのだ。全ての生き物を差別せずに、自分の身を投げ打って命を助ける。我々が忘れてしまった、真の動物への愛情表現がここにはある。
次は、コレクター(収集家)が遭遇した悲惨な顛末を扱ったものだ。
古い武器を実際に使いたくなる衝動を抑えられなくなった「うらみの十三番 秘密兵器も使いよう!!」 や陰湿な切手収集家のずる賢いまでの悪意を漂わせた「うらみの十六番 きたない切手集めは許さない」が代表的な作品かと思うが、ここは怪奇趣味とコレクター物を合体させたような異色作「うらみの九十三番 フランケンシュタインを愛する男」に触れたい。
ある日電車の中で、魔太郎はフランケンシュタインにそっくりの強面の男に出会う。男は外見とは違い、心優しいフランケンシュタインマニアだった。まずマニアの薀蓄(藤子さんの知識だと判っていても)が素晴らしい。特に怪奇俳優ポリス・カーロフに関するくだりは、気持ちが入り込んで熱弁口調になっているのが判る。このカーロフの映画の詳細が載っている本に纏わる話が続く。熱く語られた話の後だけに頷ける展開だ。この後は、ネタバレになるので詳しくは書けない。探していた本を手に取った時の何とも言えない喜びは、収集家でないと判らないはずだ。だからこそ、逆にその喜びが打ち砕かれた時の絶望は限りなく深く、落胆の度合いは地獄へ落ちるような錯覚を覚えるほどだ。マニアの心の機微を丹念に汲み取っていく、藤子さんのデリケートな感情を伺い知ることが出来る好篇だ。
次は共通の主題というわけではない。ある映画へのオマージュとも言えるようなものが、いくつかのエピソードの中に垣間見れたので、その件について少し記したい。
その映画とは、伝説の怪奇映画『テラー博士の恐怖』だ。イギリスのマイナーなアカミスプロが制作しているためか、ストーリーの洗練さよりも、見る側の恐怖を最大限に盛り上げることに全精力が注ぎ込まれている。監督のフレディ・フランシスは駄作が多い人だが、今回は五つのオムニパス映画の形式取っているためか、凍りつくような緊張感が、画面の隅々にまで漂っているのだ。(残念なことにこの映画は、未だDVD化されておらず、ビデオテープでしか見ることが出来ない)
話が少々横道に逸れたが、本書と雰囲気が似ているものが三話ある。それぞれを比較し、浮かび上がってくる恐怖の質の違いを探ってみよう。
「うらみの七十七番 手の花が咲いた!」と映画「殺人植物」に見受けられる共通項は、どちらも植物に感情を持たせたことにある。漫画は可愛らしい小さなサボテンに感情が生まれ(ただ魔太郎だけにしか反応しない)、この植物が次第に強い自我を発揮して、次第に魔太郎を困らせていく。映画では、突然思考能力を持ったが植物が庭に生え、その奇怪な植物が家の周りを取り巻いて、次第に人間を追い詰めていくのだが、出来は明らかに漫画のほうが上だ。特定の人間にしか愛情表現を示さないことが、独特の恐怖を呼び覚まし、同時に奇妙な愛着を抱かせ、軽妙な効果を生む。
「うらみの六十一番 魔教ブードーののろい」と名前も同じ映画「ヴードゥー」の比較だ。魔太郎はブードーのろい人形を使って因縁を付けてきた男を呪い殺すのだが、その後の展開は切人の微笑ましい悪戯へと転化されてしまうので、恐怖の度合いは半減する。「ヴードゥー」は、ヴードゥー教を信仰する部族の音楽(楽譜)を盗んだ若者が、勝手に自分の作品として発表したために、部族の一味から執拗く追い回される。悲惨な状況が何度も出没するので、心に深く刻まれてなかなか離れない。これは、映画のほうが上か。
最後の比較は、「うらみの百一番 手を売る男」と映画「死んだ芸術家の手の復讐」だ。
魔太郎は、暗いトンネル中で奇怪な格好をした物売りから左手の紙ばさみを買う。この日から魔太郎は奇妙な夢を見てうなされる日々が続くようになる。魔太郎が手にした不気味な紙ばさみに隠された謎とは・・・ 怪奇やの覆面おやじの細密な分析や深夜十二時に動き出す左手の不気味な動きなど、恐怖と推理を融合させた怪作だ。「死んだ芸術家の手の復讐」は、美術評論家の主人公が自分の名誉を汚されたとして、有名な画家を轢き殺そうとするのだが、望みを果たせずに画家の利き手のみを潰した過失事故として処理される。やがて絶望した画家は自殺する。事故で失った画家の利き手は、評論家の幻覚として何度も現れ、復讐の対象を闇に包まれた地獄へと引きずり込もうとする。幻覚が恰も現実のもののように感じられるくらい生々しく、人を殺した後に絶え間なく現出する死の幻影(悪夢)を想起させ、一層の恐怖心を煽る。この勝負は引き分けと見た。これは勝手な想像だが、藤子さんも私同様、『テラー博士の恐怖』には、強い思い入れがあったような気がしてならない。確認してみたい事柄だ。
ここまで書いて来たが、まだまだ語り尽くせない感がある。悪魔サターンの呼び出し法、悪魔術から見たうらみ念法(変身術)、向かいの隣人切人の正体、切人の弱点由津子の秘密など上げればきりがないので、お気に入りの二作に触れて口惜しいが幕を閉じたい。
これは、コレクター物として扱うべきものなのだが、あえて残しておいた。心に染みる一作「うらみの十七番 ぼくの親友はガンマニアだ!!」だ。
まず、冒頭木製のモデルガンの細部の名称をわざと英語表記しているところが、かなりマニアックで、同好の趣味人を多分に興奮させる。その銃をギターケースで学校へ運ぶあたりも、十分に考え抜かれている。モデルガンでも学校への持ち込みはもちろん厳禁で、ましてや販売すれば犯罪行為の一種とみなされるはずだ。このガンマニアの巌呉次(この名前が痺れる)と魔太郎は友人になるのだが、巌はある時にこう呟く「きみとはなぜか気が合うんだ。この部屋へはママさえ入れたことはないのに・・・」これを受けて魔太郎が言う。「きっときみもぼくも孤独だから・・・気が合うんだよ・・・」平凡で何気ない台詞のやり取りだが、一部の人間にしか心を開かないもの同士の意識の交換が窺える。やがて、巌が作ったモデルガンが強盗事件で使用されたことが発覚する。これを苦にした巌は、警察への出頭を決意する。友情の印として受け取った巌の最後の作品(シュマイザー機関銃)を手に、魔太郎は悪意に満ちたガンマニアとの対決の場に向かう。魔太郎のうらみ一念と巌の怨念が生み出す相乗効果は思わぬ結末を生む。裏切り・友情・勇気と盛り沢山に詰め込まれた人生の教訓が、最後に晴らすことの出来ない暗い感情となって見事に集結するのだ。単純なうらみ念法を超えた情念の噴出がここにはある。
もう一作は、涙腺が思わず緩む名品「うらみの十九番 空中に浮かぶ魔法の岩よ」だ。
これは、藤子さんが敬愛するシュルレアリスムの代表的な画家ルネ・マグリットに材をとった作品だ。マグリットに心酔しきっている売れない画家純野が、魔太郎にマグリットの良さを説明している印象深いシーンから始まるのだが、魔太郎は悪魔が備える飛躍的な想像力で、その作品の魅力をすぐに感知する。その後、魔太郎は純野が書いたマグリットに酷似した絵の良さをも理解し、この絵が二束三文で売られるはずがないことを直感で見抜く。そう、純野の友人モヒカンがその絵のスポンサーを見つけて、自分の絵として販売していたのだ。魔太郎に連れられて、モヒカンの展示会(全て純野の作品だ)をやって来た純野が、モヒカンに面と向かって喋った言葉に魔太郎は唖然とする。「モヒカンくん、いいんだよ。そんなこと気にしなくって。」「きみがぼくのためを思ってしてくれたことだ。あの絵はきみの絵ということにした方がいいよ!」だが、このキリストのように汚れを知らない純野の清らかな心を、モヒカンは徹底的に踏みにじる。当然うらみ念法が炸裂するのだが、魔太郎の心はどうしても晴れない。優しい気持ちを抱き続けた純真無垢な正直者は、最後まで救済されることはないのか。魔太郎の自問自答は永遠に続く。神秘思想(キリスト)と悪魔崇拝(サタン)の二面性を持つジル・ド・レエ魔太郎の苦悩は深い。耐え忍ぶことの困難といじめられる側の深い心の痛みを物語の底辺に据えて、復讐した側の埋められない空しさも同時に浮き彫りにしてみせる藤子さんの手碗には、ほとほと敬服させられた。
魔太郎なら、最後はきっとこう締め括るはずだ。
「こんな面白い本、読まさずにおくべきか!!」

≪付記1≫
いつものように、上記の書評を書き終わってから、『魔太郎がくる!!』関連のHPを検索。
「魔太郎が狂ゥ!!」で、私も取り上げた“フランケンシュタインを愛する男”について記されていたので熟読。コレクターは酷似した感情を抱き、同じような悲劇に遭遇するものなのか(ただ、目の前にあった一点物の商品を買われた経験はないが)としみじみと実感。
題名もそのものズバリの「うらみはらさでおくべきか!!」のHPで、秋田書店の旧版の修正箇所と新装版(新編集)で削除された二十五篇の紹介が成されているのが嬉しかった。ただ、修正・削除されたエピソードが完全な形で紹介されていなかったのが惜しまれる。数篇のエピソードを書き込んだところで、出版社から何らかのクレームがついたのだろうか。主催者に確認してみたいところだ。
秋田書店の旧版(全十三巻)は、値段や状態を気にしていると一生手に入らないかも知れない。まだ、購入する気はなれないが、いつか是非読んでみたいと思う。
特に気になっていた「うらみの二番 鉄のキバがひきさいた夜」のラストが、旧版とは大幅に違っていることを知った。新版では、「うらみ念法!怪獣変わり!!」と魔太郎が発した後に、突如悪童二人が怪獣に追いかけられる場面になり、一瞬呆然と佇んでしまった記憶があるだけに、旧版のラストの展開は多少悲惨だが妙に納得してしまった。こう考えると、やはり旧版を読まなければ、魔太郎の隠れた秘密のベールを剥ぎ取ることは出来ないのだろう。無念だ!

≪付記2≫
本文で触れたHP「カバラ数秘術」で、特に数秘術講座が数字への興味を呼び覚してくれる。ところどころ専門用語が挟まれていて多少戸惑うが、丹念に調べれば解読は可能だ。是非一度覗いてみることをお勧めする。
ただ、この手の秘術は嵌ると抜けられなくなる魔力も潜んでいるのでご注意を。

『月光のドミナ』(遠藤周作著) 新潮文庫

私は軽症の観念マゾヒストである。自称なので、他人からは軽症に見えないかも知れない。この症状を自覚したのは、第一回目の書評で取り上げた私のバイブル(常に読み返す稀な本だ)ともいうべき本、沼正三著の『ある夢想家の手帖から』を読んだことによる。
著者は、戦時中に在外で捕虜になった際に、相手の司令官夫人から訓練を受けて生まれもつかぬマゾヒストとして復員した経歴を何度となく語っている。この確かな経験に基づいた古今東西マゾヒズムの文献紹介は深く心に刻まれ、特に数多く紹介された雑誌の投稿記事などでは、自分があたかも登場人物と同化してしまうような錯覚に幾度も陥り、マゾヒスト願望が密かに内包していることを気づかせてくれた。ただ、私も沼さん同様、行動派ではなく観念派なので、文字を追い永久に叶えられることのない欲望を満たしている。その意味で、実生活と虚構の世界でマゾヒズムの観念と行動を旨く融合させ、小説という形で見事に結実させたマゾッホ谷崎潤一郎は、マゾヒストとしては理想の人物だったように思える。このような幸運な輩は他に見当たらない。
本書を知ったのは、『ある夢想家の手帖から』の十二章「象徴としての皮膚の色」という、遠藤さんの小説『アデンまで』を元に白人への劣等感(やがて白人崇拝に繋がる)に迫った文章に目を通したことに端を発する。そこには、マゾヒズムというよりも肌の色による人種差別(白・黒・黄)が引き起こす屈辱が克明に記されている。「階級対立は消すことはできるだろうが、色の対立は永遠に拭うことはできぬ。俺は永遠に黄いろく、あの女は永遠に白いのである。」とまで言い切る男の心情には、追い詰められた被虐を感じるが、主人公は日本人の女には抱くことが出来ない蔑まされたことによる異常な愉悦を逆に見出す。これこそマゾヒストの真骨頂といえるのではないか。踏みにじられ痛め付けられることで、研ぎ澄まされる感覚というものもまたあるのだとつくづく思う。
『アデンまで』に続く『白い人、黄色い人』もまた、白人に対して生じた自虐感を扱ったもので、ここまで作者が白人崇拝に拘っていることを見ると、自身がキリスト教徒であったことが少なからず影響しているのはないかと、変な勘ぐりを入れたくなるほどである。遠藤さんという作家は、作品とは離れた生立ちから見詰め直さないと掴み取ることの出来ない歪んだ気質を、心の暗い闇の奥に沈殿させているような気がする。
ここから本作に触れたい。十一篇からなる短編集である。その中から、表題作(ほとんどが20〜30頁の掌編だが、本編は50頁近い)のみを取り上げることにしたい。
旧作の『アデンまで』『白い人、黄色い人』に比べて、白人崇拝の主題は奥底に隠れおり、最後までなかなか表立って現れることはない。いや白人崇拝以外の主人公の行動すらも、全てがオブラートに包まれているようで、こちらの感情が直接的な行動から揺さぶられることはほとんどないといっていい。表面上だけ見ると、妙に歯がゆい行為が延々と綴られていくような感じをうけるが、自分が保持する性癖への苦悩という、誰もが少なからず背負っている重い十字架の存在が見え隠れするのだ。そこで今回は多少危険な試みかとは思われるが、空白のベールで閉ざされたように感じられる箇所については、敢えて自分の突飛な妄想(空想)を強引に差し挟んで、作品世界をこちらに引き寄せて語ってみたい。
パリの日本人留学生専門のアパート薩摩会館に、主人公の遠藤(作者自身)が転居してきたことから物語は始まる。初めて出会った背の低い陰気で頭の薄い青年千曲と主人公の関係がメインで話は進む。部屋の異様なニンニク臭、鉛色の顔色、赤黒く魚の血のような唇の色と、千曲に関わるものは全て気味が悪いのに、主人公は彼の行動を何故かいつも気にかけている。男色家の観察行為とは明らかに違う。自分と共通の気質を感じ取って、妙な親密感を抱いたようなのだ。そんな中、ある裁判所の傍聴席で主人公は千曲を見かける。千曲は被告人の女を見て言う。「あの女は継子を台所に入れてガス栓を捻ったのよ。そして隣の部屋に行って自分の男と寝たのよ。そのイボンヌの気持ち・・・」千曲は好奇心に駆られ、イボンヌの家に押し掛ける。そこで、犯行のあった現場を見て想像を膨らませ、挙句の果てに「継子の体を煙草の火で焦がしたり・・・」と常軌を逸した行動まで思い浮かべるのである。主人公ではないが、この異常な感情はどこらか湧き起こってくるものなのかと疑いたくなる。千曲は虐待された幼い頃の自分とガスで殺された子供をどうも重ね合わせてようで、愛人との肉欲は、異常な悦楽にまで到る卑猥な妄想へと発展する。
この愛欲図は、奇譚クラブの創設メンバー須磨利之さんの母と叔父が土蔵の二階で行なっていた淫靡な縄責めの記憶が、少年の須磨さんをサディズムへと駆り立てたこととどうしても繋がってしまう。須磨の記憶は多分に誇張が含まれていると思うが、気品溢れる母が汚辱に塗れた女へと転落した暗い過去の記憶を、少年がどうしても拭い去ることは出来ないこともまだ事実なのだ。
千曲の不気味さは、自分の部屋で飼っている二匹のモルモットについて呟く一言で更にエスカレートする。「ぼくあ、子供の時からモルモットなんか、手で握った時の感触が好きなのよ。」このあたりから、次第に言い回しが女性口調の度合いが増し、更に気味が悪くなるが、モルモットを握ったやや暴力じみた感触(握り潰したい願望)へと移行する部分は、やや猟奇的な様相まで呈する。殺された子供に思いを重ねるマゾヒズム感覚からすれば、一見矛盾するように見えるモルモットを握り締めるサディズムは、自分をモルモットに投影させていると解釈すれば容易に説明がつく。妄想は、直接的に目に入った行為からではなく、間接的な想念から呼び起こされ、やがて思いもしなかった膨張を見せ始める。
動物をSMの対象として扱った例に、富岡陽夫の『まぞひすと・さじすと』(奇譚クラブ1953年11月号 〜『秘密の本棚Ⅱ・マズヒストの歓び』徳間文庫掲載)が上げられる。全体的には緊張感のない凡庸な物語なのだが、冒頭の一章で、生け捕りにした鼠をアルコール漬けで瀕死状態に追い込み、いたぶりやがて踏み潰して殺すまでの主人公の妻の残虐行為が描かれ、妙にリアルで凄まじく強烈な印象を残す。鼠を踏み潰しながら彼女は言う。「骨のくだけて行く感触って、いいわね」次に、主人公の独白が続く。「彼女は中々やめなかった。目の前で荒れ狂う二本の白い美しい脚を眺めているうち、死んだ鼠がむしょうに羨ましくなった。そうして妬ましくさえなった。」そう、この男も動物に自分を置き換えているのだ。
日本に帰ってきた主人公に、千曲から郵便で一冊の古びたノートが送られてくる。送った相手は、学生時代の主人公ではなく、作家になった主人公に対してのものだと判明する。そこには、作家は人間を偏見なく見る義務があるとまで書かれている。千曲は、幼い過去の思い出の中で、自分の中にマゾヒズム(手紙の中に「モルモットを握ることも、イボンヌの家を歩きまわったことも。僕あ、いつも情欲の暗い衝動に押されてやったんです。」と書かれているが、マゾヒズムとは一言も書かれていない。そうこの小説にはマゾヒズムサディズムという言葉一切使われてないのだ。)が育成されていった経緯を詳細に書き留めていく。
そこに書かれた第一の思い出は、幼稚園で知った房子という髪の長い暴君のような少女のことだった。千曲はいじめにあっているところを少女に救われ、それ以来彼女の傍で行動を共にするようになる。いわば下僕のような存在だが、彼はそんな自分を卑下しない。かえって快感のようにさえ感じている。唾だんごをいう遊び(煉瓦を石で擦って赤い粉を作り、その粉の中に唾を入れてだんごをつくる遊びらしい)の中で、房子が唇をすぼめて白い唾を吐くところを、少年は眩暈が起きるような感覚の中で見つめる。何か自分に吐き掛けられるのをじっと待っているようにも思われる箇所だ。ただ、幼い少年には好意を持つ少女の唾は、神聖な聖水と同様に清らかなものに思えたのかも知れない。その貴重なものを手に入れる偶然の出来事が少年に訪れる。彼女が口に含んだゴム製の酸漿をうっかり落してしまうのである。その唾に濡れた酸漿を、少年は誰にも気づかれないようにそっと拾い上げる。家に持ち帰った少年が行なう行為は、言わずもがなのことなので、あえてここには記さない。唾という汚物ともいえるべきものが、光り輝く極上の宝物へと変貌していくこの過程には、軽いフェティシズムの要素が含まれている。
第二の思い出は、母方の妹の叔母の悪口を、親父の母親の祖母に言い付ける行為を何度も行なっていた少年が、祖母がいないある時に、叔母から腕を千切れるほど強く抓られる。日頃の仕返しだ。この後、少年は祖母への告げ口をしないことを、叔母に約束させられるのだが、その後の少年の独白が、彼の症状が更に進行していることを確信させる。
長いが引用してみよう。「僕は眼に泪の溢れているのを感じた。けれども、その泪にくもった眼の中に、まだ唇をゆがめ残酷な微笑を浮べた叔母の顔が残っていたんだ。その夜、僕は祖母に何も言わなかった。叔母が怖かったからじゃない。叔母にあのような形でまた愛されたかったんだ。」泪が流れるほど強く抓られても、それが愛されているからこそだと好意的に受け取るこの感情を、少年は生涯の下地(種〜初期症状)と感じているのだが、憎しみと愛情の境目がもはや見えなくなるほど悪化した中期段階として捉えるべきなのではないだろうか。
悪意を込めた残酷な微笑が、天使の微笑みにも見える歪んだ瞳は、夏休み大磯の夜の海岸で見かけた白人の女性の甘美な幻影見ることにやがて結び付いていく。これが、第三の思い出というわけだ。ただ、ここで幻影を書いたのは、この白人の意味のない平手打ち(裸を見られたことによる羞恥心から出た行為というにはあまりにも不自然だ)を受けた後の少年の何とも言えない陶酔感が、どうしても現実のものとして感じ取ることが出来なかったからだ。ここも引用してみよう。「口惜しさも怒りも僕は感じなかった。なにか暗い世界に引きこまれ、落ちていくようなきがする、その暗い世界は人間が死後、すいこまれていくあの涅槃のようなもの、考えることも苦しむこともなくただ眠ることのできる涅槃に似ていた。・・・(以下略)その人の足はもう眼の前にはなかった。(ドミナ)という言葉がその時、流星のように僕の頭を横ぎった。」なぜ悟りの境地とも言える涅槃という言葉がここで出来たのか。平手打ちをした女性を突然ドミナ(通常は女主人の意だが、ここでは女王と解すべきだろう)と崇めて絶対的な存在として位置付けるのか。これが現実の出来事だとは私には解釈出来ない。日中、大磯の海岸で目にした白人女性が理想的な風貌と体形を成し、そこに強い女のイメージとして残っている第一・第二の思い出が入り込み、魅惑な絶対君主のドミナ(女王)を生んだとは言えないだろうか。
以後、千曲は存在しない架空の白人ドミナを求めてパリ、リヨンなどを彷徨ことになるが、一般女性にこの行為(意味もなく叱ったり叩かれたり)が受け入れられるわけはなく、娼婦に恥辱プレイを頼むが、真実味に欠ける偽装行為は欲望の充足には繋がらない。そんな中、子供を殺して愛人と肉欲に耽る異常なほど驕慢な犯罪人イボンヌに理想のドミナを重ねて夢想することは無理からぬことではあった。
ここで一冊目のノートが終わるが、やがてリヨンから帰った留学生から二冊目のノートを受け取ることになる。千曲の死を知った中でノートに目を通すと、欲望を癒してくれそうなリヨンの一軒家(高級淫売屋ではないようだ)を、同類の嗜好を持つ男から紹介されたことが記されていた。商売のためでなく、マゾヒストを癒すことに主眼を置いたロック夫人が取り仕切っているこの家の秘密とは何か。肝心なこの家での出来事は、何も書かれていない。おそらく、遠藤さんはこの空白部分を読者の想像に委ねたのだろう。そこで、私の勝手な推測(極端な妄想)を書いてみたい。
前項で触れた『秘密の本棚Ⅱ』の中に、三原寛の『奴隷を求む』(奇譚クラブ1964年10月号)という小論(小説ではない妄想譚といったもの)が載っている。新築の一軒家がある。そこに住んでいる横暴な権力者である女王魔美は、入居を希望する奴隷達に、下記のような過酷な条件を提示する。
1.動産でも不動産でも兎に角財産を処分して、現金に換え、裸一貫で、私の所に一生を投げ出して来る事。
2.私を受取人として生命保険をかける事に異議のない者。
3.その生命保険は完全に私の自由とする事。
  たとえ私に生命を奪われても、或いは私に自殺を命じられても喜んで従う事。
4.私の命令はたとえどのような事でも絶対に服従すること。
5.私にいつ捨てられても異議のない者。
お金に関する部分が頻繁に見受けられるので、ロック夫人の家での生活とは重ならない部分も多々あるかもしれないが、上記と酷似した契約書が、ロック夫人と千曲の間で交わされたことは有り得ないことではない。
官能小説によくある女マゾヒストが声に出して読み上げる恥辱の奴隷誓約書(特に秀逸なのは、杉村春也さんの小説群だ)を、男マゾヒストが強引に結ばされるのだ。これはプレイというには、あまりにも残酷で厳しい。飽きられれば捨てられるのは、自明の理なのだから。ただ、この緊張感の中でも、きちんとマゾヒストが望む最低限の要求は聞き入れられる。“苦痛の方か、凌辱の方か”を選択することが出来るのだ。主人公は、沼正三さんやクラフト・エビングがマゾヒストの本道と説く凌辱を選ぶのだが、精神的な凌辱が肉体的な苦痛をある意味で超えるような痛みを呼ぶことをやがて知り、精神的な苦痛が次第に肉体までも衰弱をさせていくことになる。この選択によって、ロック夫人とその女友達が、マゾヒスト達の被虐の欲望を満たすべく命令を下すのだが、この光景はソフィア伯爵夫人著・沼正三訳『マゾヒストの会』(奇譚クラブ1953年5月号 〜『秘密の本棚Ⅱ』同上)を思わせる。ソフィア夫人が、ジャンという男性との結婚を承諾するための条件として提示した、「義務」と「罰」と記された四十条以上にも及ぶ取り決めが記されているのだが、ロック夫人の家で交わされる契約には、こちらのほうが相応しい気さえするぐらい細かくて厳格だ。
千曲の未来の肉体的な衰弱を予測するかのように、ロック夫人の家に入るまで続く、自身の心の悲痛な叫びは止まらない。最後に「では行きなさい。私には辛いことだけれどもその情欲がいつかお前に私を求めさせるだろう。情欲の底の底まで沈んだ時、お前は私に手を差し延べるかも知れぬ。たとえ誰もがお前を見捨てようとも、私だけはお前を忘れはしない」と呟いたきり、そのまま声は途絶える。だが、ついにロック夫人の家でも追い求めたドミナは見つからない。当然だ。それは、自分が見た理想の幻影なのだから。最後までそれに気づかずに死んだ千曲の魂は救済されるか。
心の声をキリストに例えて、主人公は司祭に聞く「キリストは私たちの一番辛い苦悩、私たちの肉欲の苦しみを知らないでしょう」と。司祭は「いいえ、彼らは我々の肉欲の苦しみも背負ってくれているのです・・・・(反復)」と答える。本当にそうなのだろうか。では、なぜ死期が近い千曲に心の声は再び聞こえてこなかったのだろうか。
私には、肉の誘惑から逃れるために、自らの意思で去勢する行為を行なったロシアのスコプツィ派(〔もう一つの異端「スコプツィ」派〕澁澤龍彦著『秘密結社の手帖』より)の禁欲主義のほうが、まだ頷ける節がある。極端な禁欲主義に走ったスコプツィ派を全面的に賛成するわけにはいかないが、古くはアレクサンドレイアのキリスト教神学者オリゲネスも実行していることからも判るように、キリスト教には肉欲を完全に隠蔽することは不可能で、永遠に解決出来ない重くて困難な課題だったのではないのだろうか。そう思わずにはいられない。
もしかしたら、遠藤さんの膨大な随筆の中に、それを解く鍵が隠されているのかも知れない。

『さらば雑司ヶ谷』(樋口毅宏著) 新潮社

「カッコ良すぎるぜ!毅宏さん!!」読後感は、この一言に尽きる。
まず、この本の装画(牧かほり)と装幀(新潮社装幀室)が洒落ている。天地と腹部分の小口は真っ黒で、手垢の汚れもわからないくらいだ。カバーを外すと、表裏の上段に英語で小さく白文字でGOOD−BYE と書かれ、下段には横文字でZOSHIGAYAと枠一杯に書き込まれる。この装幀にはセンスの良さというだけではすまされない、物語の隠喩が張り巡らされている。文字の間のどす黒い空白には、主人公が雑司ヶ谷を去るまでの凝縮された生々しい闘いの記録が、目に見えないが克明に刻み込まれているのだ。ページの表記も左のページに7|6と書かれているが、右のページには一切記されていない。何気ないページ表記にも思えるが、妙にキマっているのだ。
本体のメインが黒なのに対して、カバーは鮮明な赤がメインだ。ただ、描かれた男の左目は銃で撃ち抜かれた(貫通)のように、バックの赤色を浮かび上がらせている。口から鼻にかけて飛び散っている血(次ページまで及ぶ)は、赤ではなく黒だ。この男が主人公を指しているのか、他の登場人物を指しているのかは判らないが、途轍もなく貪欲な人間達が、闘いの果てに零れ落とす薄汚れた大量の血は、赤ではなく真っ黒が相応しい。
次に、この本を読むことになったきっかけに触れてみたい。今年の初め、新刊本(『さらば雑司ヶ谷 R.I.P.』)の巻末に、“公立図書館の半年間の貸し出しを控えてほしい”というコメントを載せた作家の小さな新聞記事にふと目が止まった。今どき珍しいほど、一本気な作家魂に強く興味を抱かされた。内容は切実な年収事情や図書館の貸し出し待ち四十四人を耳にした際の絶望感が綴られていて、深く胸に染み込んだ。だが、この時点ではまだこの本を新刊で読んでみたいという欲望には駆られなかった。ネットでは水道橋博士の大プッシュ本と絶賛されていたが、芸能人嫌い(水道橋博士さんは、決して嫌いじゃないが)の私には、宣伝文句は耳に届かぬ空しい遠吠えにしか感じられなかった。そんな状況下、偶然樋口毅宏がインタビューを受けているHPの記事に出くわした。長くなるが引用してみたい。
《出版社に就職した後も書き続けていた。(小説のこと)そんなある時、白石一文氏の『一瞬の光』を読んで衝撃を受け、ほどなく氏にインタビューを申し込んで会う機会が訪れた。
「挨拶をした後、いきなり“あなたはどんなものを書いているんですか”って言われて、もうびっくりして。小説を書いているなんて誰にも言っていなかったのに」その取材以降、新刊の感想をしたためて送るなど交流が始まり、五十枚の短編を書きあげて送付したところ「あなたは書ける人だから長編を書きなよ」と言われ、一年かけて八百枚書いた。その際、模索するなかで、今の文体が形作られていった。・・・以下略
「遠いところではブッシュなんていう男が自分の私利私欲のために戦争をやって、何の天罰もくだらない。それがもう許せなかった。その時自分にできることといったら、文字を書くことしかなかった。最初の一文は“感謝してほしい。 君たちが僕の銃の下に眠らぬことを”だった。俺は銃のかわりに、パソコンで人を生かすも殺すもしようって、その情熱と衝動で書いたんです」出来上がった小説を読んだ白石氏から「すごいよ」と絶賛の連絡があり、編集者を何人か紹介してもらったが、ラスト五十枚を書き換えるようにとの指示に応じなかったため、出版にはいたらなかった。》
この記事を読んだ時に、何故か熱い胸騒ぎを覚えた。一流の作家が文才を認めることほど確かなものはない。(草森紳一さんが認めた村松友視さんしかり(当時は編集者だった))ラスト五十枚を書き換えれば即書籍化に結びついたのに、編集者の要望を受け入れずにそのチャンスをいとも簡単に潰してしまう。自分が編集長(白夜書房〜若い頃雑誌を随分読み漁った)だったことによる意地ではない、自分の身を削って書いた小説に対する揺ぎ無い自信と信念(ラスト五十枚には、作者の悲痛な雄叫びが込められていたはずだ)を貫き通す凄まじい意気込みを感じ取った。こんな意志の強い作家の作品を読まずして何を読むのか。この本は、正に手に取るべくして手に取ったといった感がある。神津恭介流に言うなら、避けて通ることは出来ない運命だったのだ。
最近の書評は、どうしても前置きが長くなる傾向にあるが、今回はどうしても外観の素晴らしさと手にしたきっかけをきちんと伝えてから中身に触れたかった。その気持ちを察知してもらいたい。
では、本筋に入ろう。物語は中国から日本(雑司ヶ谷)に帰った太郎のモノローグで綴られていくのだが、出だしは妙にぎくしゃくした感が否めない。特に印象に残った部分は、市川雷蔵主演の古い映画『忠直卿行状記』に触れた箇所だ。名家に生まれた忠直が些細な事柄を発端にして、自己のアイデンティテーの崩壊を引き起こしていく様に、太郎は自分を重ね合わせていく。これは傍目には自虐願望にも見える危険な妄想だ。少々違和感を起こさせるこの映画話が、後々まで尾を引くことになるとはこの段階では全く予想もつかない。
そんな中、怪しげな宗教団体、泰幸会を牛耳っている祖母の泰から仕事を依頼される。二ヶ月前の大雨の際、下水道の水量急増が原因で作業員五人が死んだのだが、この事故には裏があるようなので、隠された真相を究明しろというのだ。一種の探偵物になるのかと感じたが、巻頭で知らされた友達京介を殺したZOMBIEを率いる芳一への復讐物語の色合いが、次第に濃くなっていくのだ。下水道事故の真実解明は、やがて付属物と化していく。
ここら辺から文体の狭間から立ち込める空気感が、何故か北野武監督『その男・凶暴につき』(北野作品では唯一好きな作品だ〜他の作品は好みではない)に似通っていることに気づく。だが、樋口さんが凄いのは暴力描写に行き着くまでに挿入される、市井の臣が交わす何気ない日常会話の奥深さにある。一見薄っぺらなコラージュとしか思えない、甘味処「よしの」の常連客の会話がそれだ。ジョン・レノンマイルス・デイヴィスはどっちが凄いかを延々と論戦している客を相手に、女将香代が口を挟んで一番は小沢健二だと言ってのける。読んでいるこっちも呆気に取られる件だが、その理由を女将が『さよならなんて云えないよ』の一節を引いて説明し出すのには更に驚いた。話はいいとものタモリさんの一言にまで及ぶ。長いが引用してみよう。(第十章)
「むかし、いいともにオザケンが出たとき、タモリがこう言ったの。『俺、長年歌番組やってるけど、いいと思う歌詞は小沢くんだけなんだよね。あれ凄いよね、“左へカーブを曲がると、光る海がみえてくる。僕は思う、この瞬間は続くと、いつまでも”って。俺、人生をあそこまで肯定出来ないもん』って。あのタモリが言ったんだよ。四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わない人間が!まともな人ならとっくにノイローゼになっているよ。タモリが狂わないのは、他人に何も期待していないから。そんな絶望大王に、『自分にはあそこまで人生を肯定できない』って言わしめたアーティストが他にいる?」この後に歌詞の注釈が僅かに入るが、底の浅い芸人としか思わなかったタモリさんの何気ない一言から、何も期待せずに、穏やかで平坦な日々を受け入れる術を身に付けている人間の限りない絶望の深淵を掴み取るあたりは、樋口さんが自分を同じ境遇(絶望の果てまで)に身を置くことが出来る人間であることを証明しているとも言える。
特に印象深いコラージュとして現出したのが、第十六章・第十七章を割いてまで語られる『ごころ』という架空小説だ。コラージュというにはあまりにも良く出来ている物語で、深く心に刻まれるような言葉で溢れかえっている。P87の「人を傷つけたことに気づいた者には、自らにも同じ傷を与えようとする。心に落ちた石はどこまでも波紋を広げ、決して止むことはない。しかし人は本来、他人を踏み躙ることでしか生きていけないものなのかもしれないと、ごころは思う。」と、P88のごころの父親が口にする「溺れている人に船から浮き輪を放り投げて、『自分はただ見ているだけではなかった』と言い逃れをするのではなく、自分も海に飛び込んで溺れた人を助けてあげなさい。強い意志と行動を続ければ、必ず不幸の連鎖を断ち切ることが出来るよ」のこの二つの言葉は、絶望と希望(再生)を暗示している。
絶望大王タモリさんに、仄かな希望の光が煌くのを瞬時に感じ取ったように、樋口さんは『ごころ』で、絶望の深さよりも希望の果てしない広大さこそ重要なのだと言いたかったのではないのか。書評の冒頭で触れた、ラスト五十枚を書き換えなかったために出版されなかった本とは、『ごころ』のことではなかっただろうか。あらすじだけで、これほど生々しくて切なさを感じさせた小説は見当たらない。最後に占い師の言葉が当たって、突然悲劇が起こり、やがて季節が巡り、立ち直ったごころに明るい未来の兆しが見えてくるところで完結する。しかし、悲劇の死を遂げていたはずの主人公の恋人は実は生きていたのだった。このあまりにもドラマチックな展開が、汚れた感情に満ちた編集者にはわざとらしく感じられたのではないか。もし、この想像が当たっていたとしたら、その編集者に強く反論したい。”事実は小説より奇なり”という諺があるが、逆説もまた真実なりというべきで、”事実を超えた小説もまた真なり”といいたい。
また、本筋と大きく掛け離れてしまった。強引に戻そう。芳一への復讐が遂げられない中、悪夢のような中国での壮絶な男色行為(嫌悪を催すほどだが)の回想シーンや下水道事故が北京オリンピックの開会式を晴天にするために打ち上げられたロケットが起因していることが序々に判ってきたり、昔の恋人雅子との変態的な性交を交わすといった部分は、寂れた探偵物の様相を呈する。だが、雅子から漏れる「太郎ちゃんの絶望が京介よりも大きく、深かったから。京介なら掬い上げることはできても、太郎ちゃんだと、一緒に堕ちていきそうな気がしたから」、この言葉を耳にした途端、太郎は自分を救済してくれる存在がこの世にいないことを自覚し、復讐という破滅への道を率先して選ぶ。ここからは、文体だけでなく目に浮かぶ残虐な光景までもが、『その男・凶暴につき』と重なってくる。
第三十二章のバスケットのコートで芳一のスパイの定を締め上げるシーンは、主人公の刑事我妻諒介が殺し屋清弘(冷酷な殺人者の筆頭に上げられる)に行なう血塗れの拷問を想像させる。だが、定は清弘のように拷問の嵐を延々と受けるわけではない。一見、定を救いの手を差し延べるような素振りを見せながら、太郎は諒介以上の凄まじい暴力を振るう。髪の毛にライターで火を付けるのだ。太郎は独白する。これでは、たけし軍団の「ガンバルマン」と同じだと。そう、『その男・凶暴につき』の暴力シーンの原点は、「ガンバルマン」にあったのだ。笑いを含んだ言葉のいたぶりとねちっこい拷問は、単なる暴力の連射よりも人間の神経を極限まで追い込んでいくことを証明してくれる。寡黙が生み出す沈黙の恐ろしさを頑なに信じていた私には、饒舌が作り出す騒々しさの恐怖を改めて思い知らされた。
ラストは、昔遊び場だった雑司ヶ谷霊園での凄まじい死闘だ。墓地を舞台にした芳一と閣鉄心と太郎の三人の殺し合いは、セルジオ・レオーネ監督『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』の決闘シーンを想起させる。ただ、違っているのは三人とも身体に傷を負っている部分か。この一見格好悪い泥だらけの死闘は、妙にリアルで重厚感すら漂う。闘いの勝負を分けたのは、下水道事故を引き起こした大雨を降らせた男の存在だ。あえて名前は伏せるが、この男が重要な役割を担っている。最後の最後、太郎と芳一のどしゃぶりの雨の中での決闘は、この手の小説でも語り草になってもおかしくないような名場面で埋め尽くされているが、ここでも意外なほど豊饒な言葉が飛び交う。特に芳一が、京介をどうやって殺したかをありのまま発露するところは、脳髄の奥まで悪に染まり切った人間の捨て台詞にしか聞こえないような汚辱でまみれている。残酷非道の言葉を発した芳一と瀕死の太郎の勝負は、この後呆気ない幕切れを迎える。土のぬかるみがもたす一瞬の幸運は、どちらに微笑んだのか。結果は読んでからのお楽しみだ。
最後に『ごころ』の作者が明らかになるのだが、途中までその正体は全く判らなかった。この物語に込めた思いを最後に作者本人が語る。「私心なく尽くしてくれた友人への感謝を捧げた物語だ」と。ただ、友人を生き返らせることは小説の中では出来たが、現実には当然無理だった。事実そうだったのか。いや、作者の心の中には、友人はまだ確実に生きているのだ。永遠に生き続けていくのだと思う。『ごころ』の作者同様、樋口さんは一度考えたこの夢想の物語のけじめを、ここで付けたかったのだろう。私にはそう思えてならない。
冒頭の映画『忠直卿行状記』では、主人公は悲惨な末路を迎えるが、太郎は最後にまだ信じられる人間が残っていたことで清々しい安堵感に満たされる。それが再生の道を歩み出すきっかけになるのだ。血生臭い『さらば雑司ヶ谷』と人を信じる大切さを謳う『ごころ』を同時に語る振り幅の広さには驚かされるが、底に流れるものはともに酷似しているような気がする。バイオレンスを扱いながらも、人との深い関わり(信頼出来る人を見つける)の重要性を露に表出せず、わざと奥に隠蔽しているのだ。
やっぱり、「カッコ良すぎるぜ!毅宏さん!!」

≪付記1≫
書評を記した後、いつものように他のブログを覗いた。小沢健二さんに関してのそれぞれの熱い思いが数多く書かれていたが、正直私にはピンと来なかった。(私はビートルズ世代なので)
架空小説『ごころ』に関しては、書評サイトBook Japanの主宰者杉江松恋さんが、減点材料として取り上げていたのには吃驚した。「中途で挿入される作中作『ごころ』は作者が思っているほどにはおもしろくないし、」と厳しく否定し、挙句に「無駄な寄り道が随所にある」とまで指摘する。確かに、『ごころ』は多少センチメンタリズムに陥りすぎた印象があり、暗黒小説としては、余分な寄り道としか感じられないような箇所が多々見受けられるのかも知れない。ただ、この回り道の文体が不思議と心地良いのだ。(探偵小説やハードボイルド小説の本道は、寄り道の美学にあるのではないのか)
杉江さんは落ちのつけ方も気に入らなかったようで、「予定調和の域を出ない終わり方なのだ。ただし、百二十八ページで出てくる、太郎がある女性とセックスする場面を書いた時点で、作者はすべきことをすべて終えたとも言える。あとの部分はすべて小説を終わらせるための付け足しなのかもしれない。」と述べている。この恋人雅子とのセックスは、主人公が死を決意させるための踏み台でしかないのだ。だからこそ、太郎と小指(泰幸会所属の用心棒)の二人が墓場へ向かうラストシーンは、『昭和残侠伝』の高倉健池部良や『ローリング・サンダー』のウィリアム・ディベインとトミー・リー・ジョーンズの死を覚悟した道行きを思い起こさせるほど盛り上がり、単に小説を終わらせるための付け足とはとても感じられない。(脇役の小指の扱いには不満が残るが)
同サイトの酒井貞道さんの書評には、頷ける部分が多かった。”逆も真なり”という私と同じような言い回しの言葉が出て来たのには少々驚いたが、「普遍性を求めるあまり、ネタの部分に目くじらを立てるばかりでは人生つまらないとも思うのだ。『さらば雑司ヶ谷』を十分味わうためには、真面目な読みと、お気楽な読みがどちらも要求される。」という部分には大いに賛同出来る。
真面目な読み方のみを施行し、冷酷無比な暴力小説として樋口さんの小説を受け止めている人達は、今後は付き合わないほうが良いように思う。書評でも書いたが、真面目と不真面目(酒井さん流に言えば、お気楽)のこの急激な落差を自在に往復出来る感性こそが、樋口毅宏さんの最大の魅力であるからだ。

≪付記2≫
古本を廃棄する為に整理していたら、「本の雑誌」のバックナンバーが大量に出てきた。何冊か手に取ってみると、2005年2月号に掲載されていた、“いっせいの読書無宿”(このコラムは、いっせいさんが本を一冊の本を紹介するのだが、話はすぐにその本から離れていっせいさんの日常の周りで起こった様々な出来事にスポットライトが当てられ、ある時は下ネタにまで飛躍する奇妙なエッセイで当時はその魅力が判らなかったが、再読すると対象への切込みが実に斬新で、他の人には書けない独特のリズムを醸し出している。ただ、非常にアクが強くやや暴言に近い言葉を頻繁に口にするせいか、競馬コラムニスト以外の文筆家としての評価は意外に低いようだ。いっせいさんを引っ張り出して、このコラムを担当させたのは競馬繋がりということから推測すると、目黒さんあたりなのだろうと思うのだが、いっせいさんの偏向的ともいえる特異な思考法を即座に見抜いたとすれば、いつもながらその眼力には感服せざるを得ない。“いっせいの読書無宿”は是非一冊の本にしてほしいものだ。)の欄で、かなざわいっせいさんが紹介していたロバート・コルビー著『復讐のミッドナイト』(ハヤカワ文庫)に興趣を覚え、早速目を通すことにした。だが、このことが最近顕著に起きている小説(古典を除く)への興味の薄れを、一層増長させる結果になったのは何とも皮肉な話だ。
結論から言えば、いっせいさんが批判している、翻訳者の朝倉隆男さんが「あとがき」で連発する“B級サスペンス”というフレーズに大いに納得し、いっせいさんの「わしなんてB級物件とはほんのちびっとも思わずストレートにメ滅茶苦茶楽しかった、そいでもって面白かったし興奮しまくったのである」という言葉に対しては、如何せん疑問を呈しざるを得なかった。
復讐の動機が甘いことや、復讐の対象が何故恋人を殺した暴漢者二人(二人とも途中事故であっけなく死んでしまう)でなく、カールと恋人が襲われている現場を遠くから見ていた五人(全員が見て見ぬ振りをしていたとは、一概に解釈出来ない箇所がある)に向けられるのかがどうしても理解不能で、感情移入が出来ないのだ。もっと単純に処刑人カールの心情に溶け込んで、一人一人の殺人場面をぎらぎらした眼差しで見詰めればいいかのかもしれないが、いかんせん殺しの対象となる相手がひ弱で(最初のターゲットは二人の女性)、傍観者として一番罪の深いメルに対して行なった愛犬を使った殺人も、煮えたぎる怨念を解消するにはあまりにも安易な方法のようにみえた。最後は、案の定巻き込まれた形の主人公ブラッドとカールとの対決になるのだが、この闘いも一方的なブラッドの勝利で、今まで行なったカールの慎重な殺人の手口からすれば、計画に多くの落ち度が見受けられた。だが、この結末の呆気ない幕切れは、戦いに向かう最中にカールに湧き起こる情感によって、ある程度は予測出来たともいえる。
P251でカールは独白する。「別にこの世に未練があったわけではない。復讐を終えたら生きていくつもりはなかった。ただ、追手の手が伸びないところに身をおきたかったのだ。自由でいるかぎり、決定はすべて自分でできる。しかし、いったん、囚人となれば、彼の運命は相手しだいだ。それだけは避けなければならない。」この軟弱な考えは、肝心なブラッドとの対決の場で増幅される。P255の独白が決定的となる。「―すべてはここで終わることを覚悟しなければならない。しかし、まだチャンスはある。それをつかむために彼は行動を起した。」周りを警備している警官連中に察知されることを恐れ、ブリーフケースに仕込んだ銃身を短くしたショットガンを使わないのだ。この油断がブラッドに対して、死を呼ぶ壮絶なリンチともとれる血みどろの攻撃を許すことになる。
作者コルビーは、主人公をブラッドにさせお門違いな復讐を企てるカールを否定する立場に立ち、我々に犯罪者の悲惨な末路を見せつけているかのようだ。だが、わざと読者の興味を削ぐようなことをしながら、物語の中でカールに殺人の手段は一回ずつ違った方法を取るほうが楽しいなどと不可解な台詞を吐かせている。憎悪を燃焼させる術を知らない善人コルビーの作家としての限界が浮き彫りになっているといいたい。
それに比べて、付記1でも触れたジョン・フリン監督『ローリング・サンダー』や山本迪夫監督の会心作『野獣の復活』の主人公達の死を覚悟した壮絶な殴り込みを見よ。『復讐のミッドナイト』と同じく主人公は銃身の先を切り落としたショットガン(散弾銃)を手にしているが、『ローリング・サンダー』で力を貸す女が指摘する「銃身を短くしたら、射程がなくなる」の言葉が示しているように、銃身を縮めると極端に弾丸が届く距離が短くなり、自分の身を危険に晒すことになるのだ。そうまでして銃に手を加えるのは、至近距離で発砲して散弾の範囲を広げ、数多くの敵を倒すためにある。そう、映画の主人公達はカールと違って、生き延びることなど全く考えてはいないのだ。復讐を貫徹させるには、何をも厭わない精神。カールのように「自由でいるかぎり、決定はすべて自分でできる」などといった、気の迷いとの取れるような死への甘い幻想は微塵も抱かない。カールの銃の使用法を見ると、拳銃を改造した理由がブリーフケースに入れるための安易な行為としか思えないのが何とも口惜しい。
自分の死ぬまでの道程などがふと頭の中を過ぎる時、復讐という目的に破綻が訪れるのは当然のことなのかも知れない。『さらば雑司ヶ谷』の最後の死闘で浮び上がってくる、拭い去ることの出来ない怨念の深さがいかに凄絶なものであったかを改めて思い知らされた。今も瞼に焼き付いて離れない。

『成吉思汗の秘密 新装版』(高木彬光著) 光文社文庫

海外ミステリー、ジョセフィン・テイ著『時の娘』のベッド・ディテクティヴ(病院で入院中している探偵役の患者が過去の資料を元に推理を展開する)という形式に、高木彬光さんが感化されて書き下ろした斬新で意欲的な推理小説である。出版された当時は随分と話題を呼び、様々方面からの反論を生み、多くの論争の火種を作ったらしい。
初出掲載された雑誌『宝石』の当時の編集長だった江戸川乱歩さんは、この小説を目にして「誰かがやりそうなものと期待していたが、とうとう高木さんがジョセフィン・テイの『時の娘』の手法を取り上げた。・・・(以下略)高木さんのこの一篇も、日本史学界に一つの刺戟を与えるのではないかと思う。」と新し物好きの一面を垣間見せながら、新手法への取り組みを絶賛していることが窺われる。それほど、ベッド・ディテクティヴというスタイルは、魅力に満ち溢れた世界でありながら、そこに踏み入り物語の中にうまく取り込むことは、困難と危険を伴う小説作法だったように思われる。
歴史好きの人なら、この僅かな前振りだけで是非一度読んでみたいと直ぐに飛び付くところだろう。だが、学生時代から歴史(日本史・世界史)に全く興味が持てず、過去の出来事を年代順に記憶していく行為の必然性にいつも疑問を抱いていた(単に勉強嫌いなだけだが)私には、この小説を読み解く自信は正直なかった。鎌倉時代はもちろんのこと、蒙古史、中国史元朝・明朝・清朝)の文献と古地図を手元に置いて、疑問が生じたら丹念に文献を紐解くだけの粘り強い探究心を抱いてこそ、初めてこの小説と対等に対峙することが出来ると強く思い込んでいた。本書を読み進めながら、予備知識の浅さを何度も嘆き、書評に手を付けることは半ば諦めていた。
ただ、読後感は意外なものだった。最低限の資料(中国史が掲載されている漢和中辞典など)や学生時代の古い地図を傍に置いて、歴史の痕跡をそのつど確認しながら読むだけで、十二分に楽しめたのだ。これを単純に面白いという一言で片付けることは出来ない。全編に物悲しい歴史の余韻が漂っており、過去の暗部を覗き見たことによって、人の心の裏側に潜む儚い思慕の感情を、改めて実感することが出来た。今になって、歴史への飽くなき興味が湧き起こって来ようとは思ってもみなかった。前置きが必要以上に長くなったので、この辺で本文に触れてみたい。
ワトスン役の松下研三の何気ない一言によって、物語は動き出す。「ところが、源義経は、衣川で殺されたのではなくて、そこから逃げ出して、蒙古へ渡り、成吉思汗になったのだという伝説があるじゃありませんか。もちろん、僕も、その真相は今まで調べたこともないけれど、ひとつ、こういう一人、二役のトリックが成立するかどうか、暇つぶしにやってみたらどうでしょう?」この時点で研三は、この言葉が床に伏せている神津恭介に後々重く圧し掛かり、殺人事件以上の思考回路の稼動を余儀なくさせることになるとは当然考えてはいない。今回は恭介・研三の馴染みのコンビに、新に東大文学部歴史学の井村助教授の美人助手大麻鎮子(魅力的な存在で、この後の高木さんの小説で再登場するのも頷ける)を配して、この三人で閉ざされた歴史の謎に足を踏み込んでいく。
資料となるのは、当然義経に纏わる古い文献の数々だ。ドーソンの『蒙古史』(岩波文庫に訳著あり)『鎌倉時代史』『義経記』『義経腰越状』『北門古史』『元朝秘史』を引き合いに出して、義経=成吉思汗の可能性を探っていくのだが、一人二役に有利な諸説のみを拾い上げて、そのまま押し切ってしまうのであれば、意見が偏って盛り上がりに欠け、単調で期待外れな結果を招くだろうと思っていた。恭介と研三が、互いにこの説のおかしな部分に多少触れることもあるのだが、他愛の無い内輪揉めにしか見えない。ただ、鎮子から反論が出たのにはいささか驚いた。それに対して恭介は、「自分の説には不利な反対論であってもそれを検討し、場合によっては、逆にそれを自分の説の中にとりいれるだけの寛大さがなかったら、学問の進歩はありえないでしょう。」と前向きな姿勢を見せる。
この偏らずに均等な視点に立って議論を交わす行為は、高木さんがこの小説で自分へ課した決め事の一つなのだと思う。鎮子が、義経公園に残っている碑に刻まれた笹竜胆の紋の矛盾点(笹竜胆は清和源氏の紋所ではない)を指摘する部分で、恭介はその内容に聞き入りながら、頼朝との誤解から生まれた確執から義経が、「自分は清和源氏の生まれだが、心は公家の源氏(紋は笹竜胆)に近いといった気持ちを表そうとしてわざわざこの紋を使うようになったのではないか」と解いてみせる。この答えの導き方に作り事めいた匂いを感じ取る人もいるかもしれないが、ここに私は、名探偵神津恭介の闇に閉ざされた謎を僅かな証拠を元にして暴き出す真骨頂を、まざまざとに見て取ることが出来た。だが、この内輪での反論のやり取りは、中盤で起きる井村教授との壮絶な論争への単なる序章にしか過ぎなかった。
いよいよ、歴史専門学者井村と多方面での博覧強記を誇る恭介の戦いの火蓋が切って落されたのである。井村は、第十二章「神津恭介敗るるか」の終盤で決定打のような成吉思汗と義経の容姿の違いを指摘する。成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大、義経は五尺そこそこの小男だったことを指摘するのだ。流石の恭介もここまでかと思われたが、ドルジという学者の『成吉思汗伝』(この時代には翻訳されていない洋書のようだ。原書にまで目を通す、高木さんの驚異的な知識欲に改めて脱帽した)を引き合いに出して、起死回生の変装術を唱えて鮮やかこの難局を乗り切り、逆に『成吉思汗伝』に載っている成吉思汗の臨終の際の言葉、「われこの大命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、故山に帰りたし」の意味を問い返す。更に恭介は“この故国帰りたし”の故山とは、鞍馬山、京都、鎌倉、衣川などの故国日本の思い出が去来したのではなかったのだろうかと駄目を押す。これに井村は、ロマンチストの妄想だと簡単に切って捨てる。挙句の果てに、「神津君、すべての議論というものは、まず大きな仮説を立て、その説に有利な材料ばかり採用して、不利な資料を捨て去れば、どのような論断でもできるものなのだよ。そういう議論の進め方にはなんの科学性もない」と付け加える。
そこで、ふと気がついた。前半から中盤に掛けて感じていたこの小説に対する物足りなさの本質が正にここにあったことを。私は、内輪揉めの反論ではない、真実の究明に繋がる果てしない歴史論争を常に期待していたのだ。井村の存在は、不利な証拠資料をぶつける意味で、非常に重要な位置を占めている。(後日談で、あえて損な役回りを買って出たことが判るが)このような中で、恭介は鎮子に清朝の歴史を調べてほしいといささか突飛な要望を出す。
それは、中国史資料のイギリス公使デビス著の『清国総録』という本に、「成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は、明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ長の娘と結婚して、諸公子を産んだ。・・・彼らは(以下略)、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝(愛新覺羅)を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためである」という文面が見受けられたからだ。清朝建国に纏わる謎の解明から導き出されるものが何かを、当初図り兼ねていた研三と鎮子だったが、この調査が後々、義経一人二役説を裏付ける重要な糸口になってくるのだ。研三の清朝史の調査過程で、徳川時代に森助右衛門があわらした『国学忘貝』という本から、清朝の皇帝たちの命をうけて編まれた書物の中に『図書輯勘録』があり、この中に、清の六代皇帝、乾隆帝自身が書いた序文「朕(我)の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清と号す」という一句を見つけ出す。
これが最終的な決め手になるかと思われたが、再び井村が現れ、『図書輯勘録』の書には誰もが陥る罠が隠されていることを、桂川中良の本『桂林漫録』を引き合いに出し、『国学忘貝』の嘘八百を捲くし立てる。桂川は、清朝が終わって編纂された図書集成一万巻を確認したが、そこには図書輯勘なる書物は無かったと述べる。もちろん乾隆帝の序文も見当たらなかったようで、決定的な言葉「義経の事においては、長く繋念を絶つべし」と締め括っている。長く繋念を絶つべしとは、疑問の余地はないということだが、更に、井村は追い討ちを掛けて、結論から言えば乾隆帝自身が書いた序文の原本がないと話にならないと致命的なことまで言う。
ここで、恭介、研三、鎮子の三人は共に項垂れ、この戦いについに終止符が打たれるかのように見えた。だが、最後に待っていたのは、愛新覺羅の末裔、慧生が起こした天城山心中事件だった。この心中事件を、椿山心中(義経の遺児鶴姫と豪族阿部七郎が起こした心中事件)と重ね合わせ、この輪廻の恋(研三)と人間の力ではどうしようも出来ない運命(恭介)が及ぼした結果だと信じると、自然に導き出されるのが義経=成吉思汗説であるということになり一気に締め括られ、第十五章の幕が引かれる。
長々と粗筋を追ってしまった(犯人探しの小説ではないので、ネタバレとなるような部分に多数触れています。ご勘弁願います。)感があるが、ここまでが新装版前(初稿版から多少の加筆はあるが)である。最後に、宿敵井村がつぶやく、ソロモンの『伝道の書』に載っている「先に有りしものはまた後にあるべし。先に成りし事はまた後になるべし・・・(以下略)」という輪廻の思想を匂わせるような言葉を囁いて、呆気なく敗北を認めるような形を取っているが、この内容では高木さん流に言えば、恭介の判定負けの色合いが強いとしか言いようがない。しかし、“運命”という恭介得意のフレーズが、新たなる章の追加補筆(第十六章)という行為の中でも、脈々と息づいていくことになる。
実在の人物、仁科東子さんが送った高木さんへの手紙「神津恭介への手紙−成吉思汗という名の秘密」という一文(雑誌『宝石』掲載)を元に、仁科さんと恭介との対話と形式で、成吉思汗名前に秘められた謎を、漢語(仁科さん)や万葉仮名(恭介)の形として緻密に読み解き、それが静御前への永遠に届くことのない返答として浮かび上がって来るに、到って不覚にも涙してしまった。恭介の屈辱の判定負けは、最後の最後に鮮やかな逆転判定勝ちへと変貌したのだ。恭介の着実な論理の積み重ねが、遂に抉じ開けることが困難だった頑丈で錆び付いた扉が押し開いたのだ。やや強引と思われ兼ねない数多くの論旨も、真実への探求を志していれば、必ず闇を解き放ち、その先にある光明を見出すことが出来ることを明確に証明してくれた。
まだまだ、語り足りない気がする。それは、閉ざされた奥深い歴史の神秘性に心を奪われたからだろう。この書に学生時代に出会っていたら、勉学への取り組み方も変わり、その後の人生は大きな変貌を遂げていたに違いない。悔やんでも悔やみきれない。

≪付記1≫
巻末「カッパ・ノベルス版のあとがき」で、高木さんは、仁科さんが精神病院の患者として、数ヶ月を送らなければならなくなったきっかけの一つは、義経成吉思汗説を信じて、その解明を期したためらしいと語っている。それほどまでにこの小説は読む人の気持を揺さぶり、私達に何かを訴えかけてくるのだ。(成吉思汗の謎をもっと明確な形で解読してほしいという故人の悲痛な叫びなのか)
ある意味、積年の思いが充満している小説と言っていいかも知れない。
≪付記2≫
文庫のあとがき「成吉思汗余話」で、元朝国史元朝末期の史官の眼には晒されていなく、開国史は代々宮中におさめられて人目にふれず、記録を一見したいという史官たちの願出は二度までも却下されているという事実を、高木さんは暴露している。井村助教授が小説の中で鋭く指摘したことは、あらかじめ作者が執筆前に判っていたことだったのだ。その上であえて史実に挑戦する。その意気や良し。歴史の盲点(普通なら怯んで意識的に触れないが)をあえて突くこの新鮮な発想こそ、ベッド・ディテクティヴの原点なのだと言いたい。
書評でも少し触れたが、高木さんはこの小説と対峙するにあたって、不利な証拠を黙殺せずに取り上げ、フェアプレイに徹し、且つノックアウトを望まず判定勝ちに持ち込めれば満足だと述べている。このフェアプレイ精神を貫いたことが、今回の判定勝ち(私の評価だが)を呼び込んだのだ。
夢談話「お忘れですか?モンゴルに渡った義経です」を読んでいると、義経(成吉思汗)が切り札として、高木さんに仁科東子さんを無理矢理引き合わせたような感じがしてならなかった。このような不思議な感覚を抱くのは私だけだろうか。これは偶然とは考えがたい。恭介なら、“これもまた一つの運命だ”と言うのだろう。
≪付記3≫
書評を記した後、”成吉思汗の秘密”に関連したHPをいくつか覗いてみた。その中で、『「成吉思汗の秘密」の読まれ方』と題する文章にぶつかった。『義経伝説』というHPに載っている一文のようだ。まず、小説の問題点として指摘した部分が、私の書評と重なっているところが多いのに吃驚した。推理小説の鍵となる箇所は限られているので、さして珍しいことではないのかもしれないが、妙に気にかかった。
文中の金田一京助さんが小谷部さんへ行なった文章批判の引用には、研ぎ澄まされた鋭さを感じさせる。結びで、「伝説は伝説として語られるからこそ意味がある。伝説は歴史学ではない」と言われているくだりは、非常に共感出来た。確かに、高木さんは義経不死伝説の支持者ではなかったのかも知れない。あくまで、推理小説の形を借りながら、義経伝説を論理的に再構築させたかった可能性が高い。HPの主催者、佐藤弘弥さんの卓越した意見には敬服した。
蛇足だが、HPの片隅に「思いつきエッセイ」と題されたブログがあり、これを開いてみると興味深い文章で埋め尽くされていた。(この執筆も佐藤さん)
2009/9/25に書かれた「高橋尚子瀬古利彦の違い」と題された文章では、高橋の無類の明るさと瀬古の禁欲の求道者の辛さを見事に対比させながら、高橋の強さの秘密を”自在にレース作っていく創造性の優位さ”にあると読み解っていくのだが、内容は十分に的を射ている。ただ、最後に冗談半分で言われた「おいおい休めよ高橋」というこの助言が、後に高橋を追い詰めていく要因になったのは皮肉な話だ。相次ぐ怪我との戦い。ついに、高橋は再びオリンピックに出ることはなかった。
ラソンランナーには、レースを作っていく創造性とともに、年齢に則した練習量を、徹底した自己管理(それが継続に繋がる)の中で見つけていく必要があるように思われる。分野は違うが、大リーグのイチローを見れば、それが実感出来るはずだ。イチローは練習風景を見せたがらないので有名だが、練習の限度を他人(コーチ)ではなく、自分で即座に感知することが出来る稀な存在だ。極端な話かもしれないが、今後のマラソンランナーの理想系は、瀬古のライバルと言われた中山利通を、更に進化させた形であるような気がしてならない。
いずれにせよ、HP『義経伝説』からは、幾多の刺激的な発想を得ることが出来た。一読に値するHPだと思う。
必見!

『彷書月刊』(2009年10月号 特集・草森紳一の右手) 彷徨舎

草森紳一さんの名前は、だいぶ前から知っていた。そこには、ジャンルを問わずに様々な雑誌に読み易い短文を寄せていた器用な随筆家といった記憶しか残っていなかった。おそらく、新刊雑誌を熟読せずに読み飛ばす癖のある私は、草森さんのことを強烈な個性を匂わせない書き手、つまりその他大勢の作家の一人としてしか見ていなかったように思う。
それが、最近あるブログ【daily sumus】で、「草森紳一の右手」と題する小さな記事を目に留め、その記事を読んで印象が大きく変わった。一読後、早速草森さんの経歴を調べてみたところ、その結果に愕然とした。単なる一文筆家にとどまらず、マンガ・美術・音楽・歴史・スポーツ・広告・文学・政治・写真・建築・宗教と幅広い分野で評論活動(本人流に言うなら雑文家業)を行ない、数多くの刺激的な書籍を残された、ある意味で雑文界の巨星のような存在だったことに遅ればせながら気がついた。
その偉大な足跡は、白玉楼中の人 草森紳一記念館というHPを覗いていただけば良く判る。このHPは、携わられた蔵書整理プロジェクトの方々の労力が随所に窺われ、年譜や蔵書の検索に触れるといかに丁寧な紙面作りを心がけていたかを伺い知ることが出来る。日々の地道な努力が、このような魅惑的なHPの形となって結実したのだと思う。題名の“白玉楼中”という用語は、草森さんが敬愛した中国の詩人李賀の故事から引いているようで、先人がその意を汲み取れば、必ずや随喜の涙を流して喜ぶに違いない。
思わず長々と 横道にそれてしまったので、ここで本題に戻ることにしよう。
この本は、他の文芸誌の特集本のように、草森さんと馴染み深い物書き連中が自分にとって愛着のある本を取り上げたり、在りし日の本人を偲んだ文章を寄せているというわけではない。本人の過去のエッセイ2編と以前出版された本の初出の雑誌掲載から単行本化へ到るまでの校正(書き込み)・構成案・企画メモ・生原稿、自身が撮ったスナップ写真の数点などで占められている。相当の本好きか草森さんの熱狂的なファンでないと見向きもされないようなマニアックな内容だが、これが期待にたがわず非常に興味深い文章と資料で埋め尽くされているのだ。普通なら処分してしまうようなメモの類まで、後生大事に取っているあたりがいかにも草森さんらしい。
まずは、エッセイの一編「枡目の呪縛」についてだが、冒頭で少し触れたHP daily sumusが、草森さん流の枡目の解読に疑問を投げかけている部分に興味をそそられる。
草森さん曰く、「原稿用紙の枡目の出現は、おそらく印刷術と大きくかかわっている。萩の勤皇僧月性の発明ともきくが、彼は自らの塾「清狂草堂」で出版もやった位だから、活字が拾いやすいようにという配慮から、枡目のある原稿用紙を作るに至ったのだろう。「縦二十字」の決定には、書き手の視覚や呼吸、腕の長さまでも、それなりに計算されているはずである。」これに対してdaily sumusは、「月性が編纂した『今世名家文鈔』(河内屋忠七等)は二十字詰めの版面になっている。しかしそれは木活字版ではなく整版のように見える。整版なら一枚板から掘り出すので活字ではない。〔活字が拾いやすいように〕というのは何を指しているのか?」と問う。続いてdaily sumusは、松本八郎さんの説を引いて「〔書き手の視覚や呼吸、腕の長さまでも、それなりに計算されているはず〕という説だが、原稿用紙の二十字というのは書き手のことを考えてではなく、いみじくも草森が指摘しているように〔活字を拾う〕ことから生まれたシステムのようである。そう説くのは松本八郎「四百字詰原稿用紙の話」(初出は一九八四年)。」と述べる。
daily sumusは、草森さんが引き合いに出した月性に関して、『今世名家文鈔』(河内屋忠七等)のみを取り上げて、木活字版の生みの親があたかも月性ではないようなニュアンスの言い回しをされているのはいかがなものかと思う。私も専門家ではないので詳しいことは判らないが、『今世名家文鈔』の前に、『護法意見封事』『仏法護国論』といった文献も出されているようで、月性が過去に携わった書籍を詳細に調査しないと、原稿用紙の由来に月性が本当に関わったかどうかの判断は安易に下せないような気がする。
草森さんは、竹荘生なる人物の筆写本を目にして「読みやすい、書きやすい、拾いやすいの生理的限度が原稿用紙を作ったのには、それなりの根拠があった」と感慨深げな言葉を漏らす。そう、一見非論理的かとも思えた〔書き手の視覚や呼吸、腕の長さまでも、それなりに計算されているはずである〕という草森さんの神秘的な視点(解釈)を窺わせる原稿用紙の由来説にも、ある程度の論理性はあったのである。
また、このエッセイで自殺したマラソンランナーの円谷幸吉の遺書に触れている箇所が印象深い。確か私はBS放送円谷幸吉の遺書が朗読された時にその内容を耳にして、遺書なのに少しも暗さを感じさせない詩的な余韻が漂う文章だなと感じた記憶があった。そのどこが詩的なのかは、その当時自分ではその謎を解き明かすことが全く出来なかった。草森さんはそれを読み解いていく。(P4)
長いが引用してみよう。
「活字で読んだ幸吉の遺書は、食べ物への礼を列記することにより、人間が食べる生き物であることを呪的に知らしめる迫力をもっていた・・・(以下略)ここには、枡目の呪縛、ないし呪縛からの開放もないが、淡くて爽やか、軽々と気持ちよげなタッチで書かれている。・・・(以下略)食物のお礼の〔美味しうございました〕の扱いである。〔美味しう〕で切ったものと〔美味しうござい〕《本文をネットで確認(不謹慎なような気もしたが)したので原文は誤記と思われる。〔美味しうござ〕ではなく〔美味しうござい〕が正しい》で切ったものを交互のまじえていて、身も心も軽く悲しいリズムを縦罫の細い空間の中に作りあげている。・・・(以下略)円谷幸吉の遺書にはこのすべて(平心・直心・無心・調心)があるとあえて言ってよい。なによりも「調心」があるのが凄い。」
そして最後に、草森さんは指摘する。「遺書の肉筆は涼やかであるのに、その涼やかさの下に隠れる黒の情念をひきだしたのが、〔明朝体〕の活字だったのである。」と。
随分長々と引いたが、ここでは、私が感じた円谷幸吉の遺書が孕んでいる詩的要素の解明と、それを明朝体に活字化して隠れている闇の部分を浮かび上がらせた鋭い着眼点を見て取ることが出来る。
もう一編の「本の行方」と題されたエッセイには、本好きなら頷かずにはいられないような話が盛り沢山だ。ただ、草森さんが凡人と一線を画するのは、本を売ったり、あげたりしないことだ。挙句に図書館への寄贈にも疑問を呈する。“公共の図書館では、寄付された本でも時が来れば町の古本屋へ流れてしまう”と考える。草森さんは蔵書の安否を、自分の身内の行く末を心配するように不安がるのだ。冒頭の啄木の誤ってこぼした葡萄酒が、本になかなか染みていかない物悲しさを詠った詩を受けて、文末で自分が少年時代に寝転がりながら読んでいた本に剥いたミカンの汁が飛び散った光景を思い起こす。二つの液体を記憶の糸の中で結び付ける鮮やかな手際のよさは、さながら吟遊詩人を思わせる。
次は、構成案・企画メモにざっと触れてみたい。P6の『マンガ考』(この本はまだ購入していない)の構成案の中に、藤子不二雄さんの『黒ィせぇるすまん』と書かれている。これは、後に『笑ゥせぇるすまん』と題して、テレビアニメになって大ヒットした有名な漫画だが、この本が出版された1967年当時はこの漫画はまだ人気が出ず、周りから見向きもされていなかっただけに、あえて過敏に反応して取り上げているところが、いかにも他人の意見に感化されない草森さんらしい。ただ、別な意味で興味深いのが、P7にある「女にはマンガはわからない」に傍線が引かれて“題はかえる”となっているところだ。辛辣な言動が売りの草森さんも、男女同権の流れには同調せざるを得なかったようだ。
『円の冒険』の構成案には、初出掲載一覧が記載されている。他の本の構成案にも初出記事が付いているものが多々見受けられる。これでは担当編集者はいらないのではないかといったことが頭を過ぎったが、草森さんは「婦人画報社」の元編集者だったことでこの謎は解ける。自分の本を出版するために初出掲載を全てメモに書き留めて保管していた節が窺えるのは、『争名の賦』を雑誌「流動」から1〜3・6〜9で計七編、4・5の二編を東京タイムスから抜粋しているところから推測出来る。取り上げているのは中国の思想家九人だが、何故4・5にこの思想家二人をわざわざ差し挟んだのだろうか。興味は尽きないが、ここには草森さんなりの譲れない文脈への配慮があったような気がしてならない。
『素朴の大砲』の企画メモP23では、草森さんの手による素朴な子供のスケッチが紹介されているのだが、これはアンリ・ルッソー自身が描いた画にこのような一枚があって、そのコンテを描いて作品のイメージを膨らませたものなのか、あるいは“過去にこんなポーズのルッソーの少年時代の写真があったはずなので探してほしい”と草森さんが編集部に出した要望事項なのかのいずれかではないかと感じたが、この本を持参していないので、その真相を確認することが出来ない。
この中に書かれている走り書きの短い言葉が、あまりにも哲学的なのに驚く。
一部を紹介しよう。「子供を可愛いいものとみる錯覚」、「美の計算を見誤ることから理解し、理解を拒否する」 やや形而上学的とも取れる言葉からは、その本質とは何かを常に問いかける草森さんの前向きな意欲が感じられる。P24の長い文章は、編集者に見せるというよりも自分の書くことへの欲望を再確認しているように見える。アフォリズムの匂いを醸し出す言葉の羅列は、ルッソーの画と人生を読み込むために、数多くの重要な主題を巧みに摘み出そうとしているかのようだ。例えば、“造形的な条件・心理的な条件・思覚的それと理知的なそれとを集中させるところからはじめて構図が生まれる。”この基礎には、“筆触の自動性によって手はマティエール(素材)にあらわされるのだ。”といった考えがあり、形態を超えたマティエール(素材)の重要性を説いているようだ。
私は美術評論家ではないので、草森さんの真意をうまく言葉で伝えることは出来ないが、このページの文面を見ても草森さんが美術に特化した文筆家になっていたら、宮川淳さんと並び称されるような希代の評論家になっていたように思えてならない。(一つの分野に捕らわれず、様々な世界で起きる興味ある出来事を、いつも鋭く感知しようとしていた草森さんに美術評論家は似合わないが)
やや硬い話になってしまった。先を急ごう。
次は『荷風永代橋』で、初出掲載「ユリイカ」の連載記事を推敲P33して、単行本化のために校正し直したもの。ここでも、daily sumusは以下のようなクレームを付ける。
「それにしても原稿はともかく校正紙はひどいものだ。ここまで直すということは原稿がまったく推敲されていないということではないのか。それを原稿として提出するのがまず疑問である。ここまで直すと元より良くなっているのかどうかすら自分でも判断できないように思うのだが……。」
私はこれには強く反論したい。この膨大な追加修正は、草森さんの荷風への深い思い入れがあったからこそ生まれた行為なのだと言いたい。P40の「広告批評」に掲載された『中国文化大革命の大宣伝』の追加修正の少なさと比較したら一目瞭然だ。『中国文化大革命の大宣伝』に草森さんの思い入れがなかったというのではない。荷風の生き様に、自分の生き方と酷似したものを見出したに違いないのだ。思い入れという言葉では括れない、同士のような感情を荷風に抱いていたのではないか。
一文を引用させていただく。「〔反故紙もつもりつもりて四〜五百枚〕の草稿をさんざん苦労し、数日をかけて(或るいはたのしみつつ)永代橋の上から棄てる話を書いた。反故であるのに、四〜五百枚をためてしまったのは、無精というより、それらに未練があったからだろう。」草森さんはこの文章を書きながら、四万近いと言われた自分の蔵書の数々に思いを重ねていたのではないだろうか。愛着があるゆえに棄てることの出来ない紙(草稿・書籍)への深い思念は、時を越えて二人の物書きへと着実に受け継がれていったのだ。物への偏愛が判らない人には、単なる奇人の行為としか感じ取ることは出来ないことだろう。ただ、荷風の思いを草森さんは共鳴する悲しみの中で、この行為を“水葬”として捉える。荷風はそんな水葬に未練を残しながら、草稿を棄てた永代橋の橋上から眼下を覗いた際、そこに乞食(河上の人家[今は見かけない水上生活者のこと])の虫干しをしている風景をふと目にする。そこで荷風曰く、[相貌思ひの外温和にして賤しからず、銀座のカツフエを徘徊する文士新聞記者の輩に比較すれば遥かに上品なる顔なり」と呟く。
この表面的ではなく内なる心の有様として捉える荷風の暖かな眼差しは、それを意図して掲載されたわけではないのだろうが、P27の左下の坂道の下の出来た隙間に布団被って蹲る浮浪者(ここではあえて乞食とは言わない)の写真と奇妙に連動しているように感じられた。浮浪者の脇には、せわしなく自転車をこぐ買い物帰りの主婦の姿が写し出されている。草森さんはこの写真を撮りながら、毎日時間に追われる人々の空しさと世間からはみ出た者のささやかな至福を感じ取ったのではないのだろうか。惜しむらくは、浮浪者達の顔が布団に埋もれていて写し出されていなかったことだが、これも空想出来る余地を残した結果だと考えれば不満は生じない。
さて、最後にページを逆戻りして恐縮だが、P8〜P11に渡る初出の『美術手帖』を校正して『マンガ・エロチシズム考』に掲載された「レイモン・ペイネの“愛”」について少し触れてみたい。草森さんの初期の批評だが、校正は極めて少なく、追加修正された部分は補正しなくても十分に内容は伝わる。この時代の校正は、草森さんの言い回しがまだストレートではない(やや回りくどい)ので、読者に若干媚びて判りやすさを追求した為の校正であるように見える。(但し、言動はあくまで過激だ)この時代の草森さんは自分では媚びるつもりはなくても、掲載記事が出来るだけ多くの読者の目に留まるような状況を作り出したかったのではないだろうか。ただ、この意図が成功したのかどうかは私には判らないが、途切れずに本を出し続けられた(奇跡的なくらいに中断がない)ところをみると、ある程度読者を増やすということに繋がっていったのかも知れない。肝心なこの文章に関してだが、ペイネの暖かい絵柄から、多くの評論家がなかなか汲み取ることが出来なかった、危険なエロチシズムを撒き散らす漫画家であることを、数点の画だけ取り上げて証明していく手際の良さは常人の域を遥かに凌駕している。この漫画評に関しては、もう少し詳しく読み解きたかったが長くなるのでこの辺で止めることにしたい。
冒頭でも触れたが、本来なら特集本がユイリカ・現代思想美術手帖などから発行されていてもおかしくはないのだが、草森さんが扱っていた分野があまりにも広範囲で、尚且ついつも周りの人達が震え上がるような過激な意見の持ち主だったことが起因してか、意外にもどこでも特集は組まれなかったようだ。だが、熱狂的な草森ファンの悲痛な叫びに呼応したような特集本が別なところから出ていた。仕事仲間達による回想集、『草森紳一が、いた。』(草森紳一回想集をつくる会刊)がそれだ。まだ途中までしか読んでいないが、草森さんの偉才ぶり、奇人ぶりを覗くには必読の一冊だと思う。
本書を紹介していただいたブログ daily sumusには、いろいろと文句を付けたが、“草森さんワールド”への魅惑の扉を開くきっかけを作ってくれたことに少しも変わりはない。感謝します。
最近、急激な心境の変化に自分でも戸惑っている。草森さんの著作『あやかり富士』(翔泳社)の巻末に、坪内祐三さんが寄せた跋文「私はかつて草森紳一の全冊揃えをこころざしたことがある」という文章がある。正に、この題名と同様の状況に陥りそうなのである。草森本への読欲を抑えるのに本当に困っている。絶版本も異常な高値が付いていて、金欠状態の私を更に窮地へと追い込んでいく。それもこれも、草森さんの本が面白過ぎるのが悪いのだ。責任を取ってください!(笑)

≪付記1≫
書評でも触れた、HP 白玉楼中の人 草森紳一記念館に掲載されている単行本未収録原稿の中に、「本の精霊」(『室内』(工作社)1984年4月号)という文章が載っていた。その中で草森さんは、引っ越した際に、テレビ・冷蔵庫・机・椅子・たんす・ベッドにいたるまで、ことごとく棄てたと述べている。続けて「私は、テレビ気狂いだったので、これだけはすこし不安だったが、なければないで、なんとかなるもので、見たいとも思わなくなっている。」と付け加える。
実をいうと私も、十年近く前に五年間ほどテレビのない生活をしたことがある。その時期、周りの友達からは、変人扱いされていたのだが、草森さんじゃないけど、ないならないで何とかなるものだと、確かに思っていた記憶がある。(その場合、最低新聞は無いと困るが)人間はどんな状況にも適応出来る生き物なのだ。
また、この記事の中で、草森さんの格言ともいうべき言葉を残している。本棚に置かれた書籍を見ながら、その傍に佇む人達が抱く不思議と落着く感じ(安らぎ)を分析した一言である。
「本にはね、人間の霊魂が、ぎっしりつまっているんだよ。なにも書いた人の霊だけではない。一冊の本ができあがるまでには、無数の人間の精気が吸いとられているのだからね。それが本箱にぎっしりつまっていれば、一種のエネルギー箱さ。こいつが心を鎮める作用をきっとしているんだね」
実に良い言葉だ。流石、本の仙人ともいえるような境地にまで到った人の口から毀れる言葉には、私達の心に染み入る深い詩情が漂っている。
≪付記2≫
『アトムと寅さん』(草森紳一四方田犬彦共著/河出書房新社)を読了。
草森・四方田両氏の対談集である。読後感があまり芳しくないので、付記で扱わせてもらうことにした。寅さんにあまり関心がないので、「アトムと人類」の章に関してのみ感想を書かせていただく。
対談に臨むにあたり、直前に対象となる作家の作品(ここで言えば代表的な手塚作品)に目を通してから望むのが、相手に対しての最低限の礼儀なのではないのだろうか。横溝正史読本(小林信彦編)の横溝さんへのインタビューをここで引き合いに出すのは少しおかしい気もするが、小林信彦さんは横溝さんの代表作(それだけでも膨大な量だ)を読み返してから対談に臨んでいる。この前向きで完璧な準備があったからこそ、中身の濃い魅惑的な対談が生まれたのだといえる。そういう意味で、P36の四方田さんの発言「僕は現在『鉄腕アトム』から遠ざかってしまって、なかなか読み返そうという気持ちにならなかった」には、どうしても文句を付けざるを得ない。この調子なので、他の作品の読み返しもどれだけ行なっているのか疑問の余地が残る。それに比べて草森さんは、手塚漫画ではあまり評価していない『W3(ワンダースリー)』をこの対談の直前にきちんと読み返しているのだ。(P52)
この姿勢の違いが、対談内容に大きく影響を及ぼすのは当然だ。P36の草森さんが手塚漫画について「人間が作った機械のロボットは、結局《人間》でしかなかったと思っていたんではないだろうか」という言い回しから、「日本人(東洋人)がネットの導入の危うさを無意識のうちに確信している」という予言めいた言葉で閉じるまでの手捌きは実に鮮やかだ。それに対して、四方田さんが『アトム大使』に残酷さを感じず、白土三平劇画の視覚的な惨たらしさを、同列なものとして扱うあたりは、いかにも安易な気がする。他にも、コマ割りを映画のコンテとして認識する飛躍のない発想の四方田さんに対し、草森さんは建築の間取り(空間)という新鮮味溢れた捉え方をする。最後には、『W3』を取り上げて、設計図の一部としてのコマの存在をきちんと解読してみせる。草森さんの近作に建築美術の評論があるので、それを読み返した漫画と繋ぎ合わせたのではないのかとは思うが、その解釈があまりにも説得力に満ちているので驚く。手塚さんの才能の枯渇に関しては、両者の捉え方は明らかに食い違っているのに、珍しく草森さんが四方田さんに遠慮して意識的に論争を避けた感じがあり、いささか拍子抜けした。(草森さんも年を取って丸くなったということか)
テンションの低い対談状況やあとがきを草森さんが書いていない(草森本は、長文のあとがきが特徴だ)ところを目にすると、草森さんはこの著作にはあまり深い思い入れがなかったのではないかといった感情が湧き起こる。四方田さんがこの対談に関して、今まで培って来た自分の知識を呼び起こせば何ら支障はないという奢りがあったのではないだろうか。対談に張り詰めた緊張感を期待するのは見当違いなようにも思うが、予定調和的な対談は、読んでいる側としては決して心地良いものではない。
≪付記3≫
草森紳一著『女のセリフ「捕物帖」』(主婦と生活社)を読了。
常に並行読書法(『裁判官の書斎 全五冊』の書評≪付記2≫参照)を実践しているのだが、最近その一冊に必ず草森さんの本が混じるようになった。こんなことは、埴谷雄高さんの未来社の評論シリーズ『××と××』を読んで以来の現象だ。何だか少しずつ草森魔術に魅せられていくようで怖い気もするが、草森さんと私の波長(多分に偏屈なところ)が妙に共鳴するのだから仕方がない。
本来、この手の軽い読み物は草森さんの真骨頂ではないので取り上げないつもりでいたのだが、最近読んだ小説(古典的名作の数々)がことごとく不発だったので、付記として触れることにした。
女性がよく使う言葉を十二章の中で紹介していくのだが、ほとんどは否定的な対象として取り上げられている。女の心理の奥深さに潜む陰険さや卑猥さとでもいった部分が数多く語られ、男の私には頷けるところが大なのだが、草森さんの否定的な意見には女性側の言い分もそれぞれにあると思うので、あえてここではその件には口を差し挟まないことにする。(単に逃げているだけだが)
言葉の肯定、否定ではなく、女の怖さを表す第九章「なんとなく」が興味を惹く。男に欠けている女性の特殊能力、第六感を中心に扱ったものだが、特に面白かったのは、ある出版社の女性編集者と喫茶店の窓越しに遭遇した際に、妄想のように浮かんだ女の嗅覚に関する特異な思考だ。
その時、草森さんは遭遇した女性が勤めている出版社への締切りが過ぎて逃げ回っていた。普通なら担当ではなくとも同僚の編集者を見かけたとしたら、多少の後ろめたさを感じて自然に顔を伏せるところを、あえて目線を外さずに平然と「アレッ、なんだ、伊地知さんじゃないか」と独り言を呟く。草森さんの神経の図太さには唖然とするが、女性編集者に見つからなかった(女の第六感が空を切った)理由を、それが担当の編集者でなかったからだと安易に捉えないあたりがやはり非凡だ。
茶店のガラスこそが、彼女の四方八方に開かれた「なんとなく」の念力をはねかえしてくれたと説くのだ。これはやや強引な講釈なのではないかと思っていると、続けて「ガラスは素通しだが、大きな壁でもあって、「なんとなく」のカンは、見えないものを見る力だから、見えてしまうものには、かえって弱いはずである。」と畳み掛ける。草森さんは自分に都合のよい解義だと括っているが、もはや私にはそう感じられない。女性は案外直接目にしたものに対しては、独自のカンが働かないように思えるからだ。
そういった意味で、浮気相手の女性を変に隠さず、自分の奥さんに平気で紹介することも、浮気発覚を未然に防ぐ有効な手段なのかもしれないが、そんな図々しい男なんて、世の中にそうそういやしない。
果たして、男は女の「なんとなく」の呪縛から逃れられるのか。男性が論理的な意識動物だとすれば、女性は観念作用を駆使する無意識動物なので、「なんとなく」の感覚を女から外させることは、永遠に出来ないと草森さんは結論付ける。女性は男性にとって、いつも空恐ろしい存在なのだ。
≪付記4≫
週刊朝日の8/12号をたまたま見ていたら、草森さんの新作『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』(本の雑誌社)の短い書評が、掲載されていた。筆者は中川六平なる人物。元編集者の方らしいが、端的に草森さんの本質を見抜いているように感じられ、素直に脱帽した。
まだ本書を読んでいない私が、この評を目にして、中身を全て覗いたかのような気分になったのだから、実に不思議である。特に、“「真相の探求より、曖昧さと戯れの方が重要」という記憶をめぐる本でもある”と書かれた、最後の締め括りが白眉だ。この言葉は、全ての草森作品を紐解く重要な鍵だといえる。
現在、草森さんの著作『見立て狂い』を少しずつ読んでいるのだが、“曖昧さと戯れ”は、案の定この本にも脈脈と流れていて、あえて横道に外れ、一時的に対象から目を逸らす(濁す)ことが、いかに大切かを教えてくれる。曖昧は煮え切らないとも同義語で、本来賞賛される態度ではないが、この浮遊の精神が、外国にはない日本独自の侘び寂びの感情を生んだ源であるような気がする。
≪付記5≫
HP 白玉楼中の人 草森紳一記念館に掲載されている著作目録の目次欄を何気なく見ていたところ、気になる箇所に出くわした。1978年に新人物往来社から出版された『歳三の写真』と2004年に同社から増補版として出された本文の違いについてだ。
増補版に、「斜」の視線 新撰組副長土方歳三の「書体」と跋文 エスプリと諧謔にみちた土方歳三像〈縄田一男さん執筆)という文が新に加わったことは、さして不思議ではないのだが、旧版に掲載されていた”「歳三の写真」ノート 自跋をかねて”というあとがきが、増補版から抜け落ちていたのだ。増補版は未読だが持参していたので、旧版の購入は考えていなかったのだが、胸騒ぎを覚えたので、古書店で安価なものを見つけて、その文章にさっそく目を通してみた。期待通りというべきか、この長いあとがきが実にいいのである。
歳三の周りに漂う“余裕”という隠れた言葉の重要性を、様々な角度から検証していく。
長時間同じ姿勢を強いられるこの時代の写真撮影が、通常なら拷問に近い苦痛を覚えさせるはずなのに、歳三の写真にはそれが全く匂ってこないという。「何か他のことを考えているようにも見えるし、じっと涼しげに耐えつづけているようにも見える。」という自然体(余裕)すら感じ取っているのだ。
歳三の『豊玉発句集』という句集から、あえて出来の悪い句を取り上げ、そこから「ほかほかしたおかしみがあるのは、自らのへたをしっかりと拝み捕りしているからであり、そこには余裕さえ生まれ、情感もにじみでる。」と解釈し、その後でこの句を「この余裕こそは、歳三の死の濃い意識から生まれてくる気がするのだ。」と締め括る。春を題材にした風景は、庶民にはありきたりにしか感じられないのかもしれないが、死の意識を抱えたものが目にすると、それは当たり前でない豊饒な新鮮さを放つということなのだろう。不出来なそうですかの歌から、「遅く過ぎる時間をもてあましながらも、そのもてあましの中に居座って、なにかそれを珍しげにしている余裕がある。・・・以下略 その退屈を味わっている。これが私のいう死の意識である。」といったように、歳三の退屈さをじっくり吟味し、その余裕の中で死を自覚する段階にまで昇華させる手腕は、いつもながら感心させられる。
余裕=退屈=死の意識の果てにあるものが、“悟り”ということになるのだろうか。それは本書を読んで見ないと判らない。
草森さんは、締めで「土方歳三の書についても書きたかったが、枚数が尽きた。自書『豊玉発句集』の「月」という字の書きかたが、なぜか気にかかっている。」という心残りを感じさせる文章を記しているのだが、この文がやがて増補版の「斜」の視線 新撰組副長土方歳三の「書体」の章に繋がっていく。草森さんは意識していないのかもしれないが、“今こんなことが気になっているんだよね”と関係者に前もって振っておく狡賢さを常に携えていて、この行為が何故か次の仕事へと結びついていった。もうこんな類稀な人は出てこないだろう。
最後に、エスプリと諧謔にみちた土方歳三像〈縄田一男)の中で、「歳三の写真」ノートの一文を引いていることを書き留めておきたい。本人のあとがきを、他の人が巻末で使用するなんて今までみたことがない。草森さんならではの前代未聞の出来事といえる。
≪付記6≫
草森紳一著『随筆 本が崩れる』(文春新書)を読了。
一気に読んだが、やはり草森さんの本だけあってなかなか読ませる。
表題となった、家の中で山積みになった本が勢いよく崩れる様は、さして驚かなかった。実をいうと、私もこんな山をいくつか持っていて、地震のたびに崩れる心配をしているからだ。(草森さんに比べたらまだまだ甘いが)今回は、本筋ともいうべき聳え立つ本の山とは少し掛け離れた部分で、感想を記してみたい。
「本が崩れる」の章に、秋田でのシンポジュームの後で、赤神神社五社堂の「九九九段」へ挑戦するか否かを散々悩むくだりがある。腰・肝臓・胸に病を抱えている草森さんにとっては、この途方もなく膨大な数の階段を登ることは、自分を死へと誘い兼ねない暴挙で、決断が鈍るのは当然のことといっていい。
ただ、人生の奇遇というべきか、喫茶店で働く女の子が思ってもみなかった心強い後押しをしてくれる。後押しとなった、彼女の言葉が実に面白い。草森さんが、私でも九九九段は大丈夫かなと聞くと、「ゆっくりとお登りになったら。きっと大丈夫。店に入ってくる時、お宅さんの足どり、けっこうチャカチャカしていたから、とても元気そう」という。このチャカチャカという形容が、何とも的を射ているように感じられる。それは何故か。長身で細身の草森さんは、せわしなくて短気らしかったので、チャカチャカという表現が不思議とマッチするからだ。
登る決心を固めた草森さんに、最後の難題が待っていた。背負っているリュックを、女の子の実家にある竹箒・鎌・材木の切れ端等があるむしろをかけた山の中に隠しておくかどうかということである。リュックの中には、貴重な漢詩文集(当然古書店でも簡単に手に入らないような代物だ)が入っている。他人には二速三文にしか見えないものでも、もし盗まれたらと思うと気が気でならないのだ。本好きならではの心配だが、後年本を資料として使っていた草森さんにとっては、命よりも大切なものだったともいえる。最終的には覚悟を決めて預けることにするのだが、その後の困難な道程をみると、この選択は大正解だった。
九九九段の中盤あたりに差し掛かった時、突然鶯の大群の鳴き声(ホーホケキョ)が響き渡るのは、実に不可思議な光景だ。喫茶店の女の子との出会いに続く奇遇が、ここでも生まれる。ホーホケキョを煩い音として捉えるのではなく、法華経の”法”かと考えたり、左右の林に群生する一団の声のキャッチボール(恋の囁き?)として聞いてみたり、ついには自分への応援歌(「もうすこしだ」「もうすこしよ」)として、都合よく解釈していくあたりが圧巻だ。いつも感じることなのだが、草森さんのあらぬ妄想は、雑文というよりも幻想小説に近い雰囲気を醸し出す。
延々とこの調子で書いていくと、付記でなくなる恐れがあるので、そろそろ切り上げるが、「素手もグローブ」の章で、つばめの大群が飛び交う最中に行なわれる激しいノックシーンは、草森少年がつばめへの意識をあえて揉み消しながら、極限状態でボールの行方に精神を集中させている様子が、手に取るように判るだけに、感動的ですらあった。(下手な小説よりも、感情が高ぶる)
一見手軽な読み物に見せかけて、その奥に覗かれるものは深遠極まりない。草森さんの筆から繰り出される文章は、読む側が思わず見落とし兼ねない些細な箇所(数行)を糸口にして、言葉が本来持っている豊饒さを改めて実感させてくれる。草森本は、読み易いからといって決して侮れない。
この本を読んだ後、内田吐夢監督の五部作『宮本武蔵』を無性に見たくなった。草森さんの「九九九段」へ挑む姿勢に、孤高の剣豪精神を垣間見たからか。
≪付記7≫
気になっていた『en-taxi 第09号』の特集記事 草森紳一 雑文宇宙の発見者をやっと読んだ。
草森さんの絶筆となった「ベーコンの永代橋」の第一回目にも興味を惹かれたが、本の雑誌目黒考二さんがインタビューを受けていた際に、印象的な本として上げていた草森紳一著『悪食病誌 底のない舟』に関する短い文章、「三十三年前の「底のない舟」」にすぐ目がいった。
草森さんの独特の魅力的な長いあとがきを、大量に借用(重要な部分を全て抜き出しているところは、やはり感受性の鋭い人だ)して、当時の自分にとっての雑文とは一体何だったのかを再確認していく斬新な切り込み手法は、いつもながら切れ味が良い。ただ、魯迅にとっての雑文形式を説いていたものを、自分に引き寄せて解釈しているあたりは、当然意識的なものだろう。本文の素晴らしさを、全文引用出来ないのが辛いが、ここでは目黒さんが『底のない舟』のあとがきから引いていない箇所にあえて触れ、そこから拾い上げた事柄を他分野へ波及させてみたいと思う。
草森さんは言う。「雑文は文章の一體であるけれど、この一體への覚悟というものができてからは、作品主義というものから絶縁することができたし、したがって、自らのうちでは、良い悪いの評価から脱却することもできた。他人の目から悪いものも、自分のうちとして呑みこめるようになった。ここに集められた雑文群は、その所産であり、私の生きた証跡としての汗垢の如きものであり、それ以上のなにものでもない。」 
“作品主義というものから絶縁する”を自由という言葉と汲み取れば、諸星大二郎著『無面目・太公望伝』(潮漫画文庫)で、『太公望伝』の主人公が最後に到る境地と不思議に重なる。
主人公は、真っ直ぐの針(鉤状ではない)で、餌も付いていない竿を川に垂らしていたところ、目の前に現れた仙人のような人物(草森さんの風貌に似ている)と印象的な会話を交わす。白髪の老人は忠告する。「気をぬいてはいかん。たとえ鉤のない針でもエサはなくとも、全身全霊をこめて集中すれば魚はおろか、竜でも釣ることができるのじゃ!」「そうじゃ、竿の先、糸の先に全身の気を集めるのじゃ」「技術も力もいりはせぬ。ただ魚を釣るというただそれだけのことを・・・・・純粋に・・・・・強く・・・・・念をこらすのじゃ」主人公は、やがて竜いや一匹の大きな鯉を釣るのである。
その後、主人公の前に、謎の老人はなかなか現れないが、第三章で主人公が邪念と恐れ、疑いなど全てを超越した世界に立った時、再び老人と合間見えるのである。男の正体と結末は、ここではあえて明かさないが、人間をあらゆる束縛から解放する自由(奴隷からの・・・殷からの・・・生活からの・・・生きることからの・・・苦痛や悩みからの・・・死の恐怖からの・・・)の大切さを悟った時、主人公に光明(自由な精神の獲得)が見えてくるのだとのみ言っておきたい。
この気を働かせた“精神の自由”が、草森さんの雑文を書く上での決意“作品主義というものから絶縁する”に繋がってはこないか。文章のジャンルに捕らわれずにそれを飛び越え、遥か彼方の異次元を遊泳する姿(小説と評論を自由自在に往復する)に、雑文の実態が浮かび上がってくるような気がしてならない。小説の形を借りて、過去(数々の伝記)や現代(『鳩を喰う少女』)に軽やかに踏み超えていく大胆さは、自由を掴んだ自負があるからこそ出来るものなのだ。
太公望伝』の中で、白髪の老人が語った「そうじゃ、竿の先、糸の先に全身の気を集めるのじゃ」という一言を耳にして、再見した映画『宮本武蔵 二刀流開眼』で、柳生石舟斎(宗厳)が芍薬の花を生けている場面を思い浮かべた。石舟斎は、傍にいるお通さんに語りかける。
「花を生けるにもわしは剣道で生けるのじゃ。花を生けるにも気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を絞めたりはせんのじゃ。野に咲く姿を持ってきて、こう気を持って投げ入れる。だからこの通り花は死んではいない。」
この会話の後、石舟斎は刀の脇差を使って、芍薬の花の枝を切り落とす。この切り口を見せられた吉岡伝七郎は何も感じ取ることは出来ないが、武蔵はそこに只ならぬものが漂っているのを目ざとく察知する。石舟斎の四高弟が、枝の切り口に関して武蔵に問いただす。
「どうして貴君は、非凡な切り手ということがわかりましたか」武蔵は返す。「そう感じたまでです」更に高弟は問う。「その感じとはどういうものか、お話くださらんか」武蔵はしぶしぶ返答する。「感覚は感覚、どう言おうとそれ以外に説きようはござらん」「強いて目を見たくおぼし召すなら、太刀を取ってお試しくださるしかほかにない」
この緊張感溢れる禅問答ともとれる掛け合いと、石舟斎の“花を生けるにも気で生ける”という言葉が妙に共鳴する。気を熟知した『太公望伝』の主人公に「人間をあらゆる束縛から解放する自由とは、どうすれば得られるものなのですか」と問うてもおそらく、武蔵と同じように口では言い表せぬ感覚とでも答えるのではないだろうか。それほどまでに、自由へ導く“気”という一字には、言葉で説明出来ない奥深い意識の流れがある。
気の集中から精神の自由へ『悪食病誌 底のない舟』『太公望伝』『宮本武蔵 二刀流開眼』には、同じ匂いを感じずにはいられない。
≪付記8≫
草森紳一著『見立て狂い』(フィルムアート社)を読了。
最後の頁まで辿り着くのに、正味半年も掛かってしまった。生来の遅読癖もさることながら、途中で何度も中断して長い空白の時間を作ったのが主な要因といえる。何故頻繁な停止を余儀なくされたのか。これは作品の質に問題があるというのではなく、取り上げられた雑文が様々な雑誌から引っ張ってきた寄り集めの集合体であることに大きく起因しているようだ。
雑文の結集から生まれる独特の闇鍋感を目指すことは決して間違ってはおらず、むしろその活力を評価したいくらいなのだが、文体から感じられるぎこちないリズムは、所々で突然寸断されたような居心地の悪さを生む。このような随筆集は、掲載された雑誌からテーマ別に揃えればきちんと纏まるというものではなく、例えば”江戸のデザイン”で括れば読んでいる最中に多大なカタルシスを得られるかというとそうではないのだ。
草森さんは、短文では古典落語にも似た軽妙洒脱な語り口を、長文では主題を深く掘り下げる論文調の硬質な表現を披露し、この二種類を絶妙に使い分けて誰も真似出来ない異空間(草森紳一の世界)を作り上げていくのだが、本書ではこれらがはっきりと区分されるのではなく、途中で無造作に差し挟まれるのでその都度うまく頭を切り替えられず、一心不乱に読み耽ることが出来ない。各章の文末に漂う僅かな余韻(残り香)に浸りながら、自然に次の頁を手繰る読書本来の悦楽は消滅している。おそらく編集者の意図は、硬質な文の連続で疲れた読者の心を癒す意味であえて軽味のあるものを挿入させたのだろうが、この親切心が逆に仇になっているとはいえないか。読者の中には、この癒しの瞬間を快く思う人もいるかもしれないが、私にはそのつど本を閉じるマイナスの作用にしか働かなかった。
話は飛ぶが、≪付記7≫でも取り上げた『en-taxi 第09号』の草森紳一 雑文宇宙の発見者の中で、草森紳一「題名お気に入り」の自著30という記事があり(P122)、題名とともに草森さん自身が本にまつわるコメントを記しているのが興味深い。担当した装幀家や編集者にも触れており、題名お気に入りというよりも”愛しい本”といった趣がある。『見立て狂い』はこのリストから漏れている。「題名お気に入り」だから外れていると言われればそれまでだが、同雑誌に掲載された坪内祐三さんから草森さんに投げ掛けられた「草森紳一への33の質問」の一つNo.31の”愛着のある自著を三冊あげてください”にも上げられていない。HP「その先は永代橋」の中で言及された草森さんがあまり気にいっていなかった共著『アトムと寅さん』が載っていないのは当然としても(実際はまだ刊行されていなかったのだが)、どうして本書がここまで蔑ろにされたのか。
中垣信夫・早瀬芳文両名の洒落た装幀が素晴らしい(特に、カバーの内側左右に配された【隠れた部分】、山下耕作監督『関の彌太ッぺ』の錦之助の拡大写真と皮ジャンを着込んでやや背を丸めた草森さんの写真が実に秀逸)だけに謎は深まるが、冒頭で掲げた書中のリズムの無さに草森さんはその後気付いたとは考えられないだろうか。書き手の達人でもあるとともに、稀代の読み手としても名を馳せた草森さんが自著を刊行後読み返さなかったはずはなく、このギクシャクとした文章の流れに自身も馴染めなかったのではないか。本書の“湯村輝彦の「いき」を分析してみる”の表題(『ギクシャクとシャアシャア』)ではないが、このギクシャクをシャアシャアと居直ってみせることは出来なかったように思える。
本題の書評ではないのでこれ以上の詮索はせず、気にかかった章に触れて終わりとしたい。
書名にもなった「見立て狂い」に草森さんの特異な思考が随所に見受けられる。巻頭で「しゃれ」や「粋」や「誠の通」は目指す境地ではあるが、到達よりも、到達への「志向」こそが、「江戸っ子」なるものをいじらしく、賑やかに活気づけている(P116)と前向きに捉えながらも、江戸の黄表紙の絵と文章の有様を見て、見立てには連想の病、イメージの病の様相があるので、すみずみまで見立てを徹底していくところがあるが、時として楽しく、時に煩雑になる(P121)と僅かな疑問を投げ掛け、江戸の「うがつ」や「粋」に見立て精神のノイローゼ的な病跡と見ながら、「粋」の逃亡者的な攻撃性(当局の目をくらます策略が潜んでいる)を見い出し(P123)、最後に通常見立ては、対立の関係を前提とするが、独立したときには、前提や対立の関係をはるかに超えた輝きをもち、見立てのノイローゼ空間を脱出している(P134)と見事に結んでみせる。起承転結を踏まえるいつもながらの練達した筆捌きが冴え渡っているが、一見江戸文化の見立て構造の中に埋没しているかのように見せかけながらもあえてそこを踏み止まり、僅かに距離を置いて外側から冷静に目を凝らす、草森さんの望遠レンズ的な視点をふんだんに垣間見ることが出来る尖鋭な一文といえる。
まだ、「勝利の祈願」から「太平の剣」までの四章で扱われた剣とデザインや「安心した肉体」での衣服を纏った女性(お葉)を撮った夢二の何気ない写真に潜む“猥雑さ”に関するくだりや「幻想の食事」における、パルコのなにがなんだがわからぬ「ごった煮」と「曖昧」の特性やパルコ文化の最大の敵でもあり味方でもある、大衆が持ち続ける「飽きる」生理(東海林さだおさんと同じ視点だ)に関する鋭利な指摘など語りたい部分は山ほどあるが、このまま書き続けると切りがないのでこの辺で止めておこう。
最後にお遊びとして、本書の章を自分の気に入ったように並べ替え、新に削除・校正を試みた。プロの編集者から見れば、何を素人ごときが・・・と思われるかもしれないが、専門家にはない純朴な感性を持ちえているからこそ気付く点もあるのだ。
『見立て狂い』〜空想編
1.「合い」の妙術
2.見立て狂い
3.菊狂い
4.煙管の時間
5.勝利の祈願
6.剣法と円
7.つながれざる牛
8.太平の剣
9.黄昏れる色
10.風景は凝固しない
11.ガラス的感動
12.ラムネの壜
13.五寸の釘
14.無私の陳列
15.「はい、おまけね」
16.亭主の好きな赤烏帽子
17.白い書庫
18.「思い出」の空気
19.安心した肉体
20.涙のバタクササ
21.あげ底のノスタルジー
22.「以下、以上」の方法
23.幻想の食事
24.「よろしく、哀愁」
25.生き神様の住む国のグラフィズム
26.眼福と機微
27.祭礼気分
28.ほこり沈め
29.浄瑠璃の心地
30.棄て子なら啼け時鳥
31.目尻の朱紅
32.日本の知恵の偽怪
33.玩具の幸福
34.救済としてのナンセンス
35.ギクシャクとシャアシャア
36.書評『アール・ポップの時代』
*「江戸の菓子」「江戸讃岐彫」「江戸の看板」三章とノスタルジー・デザインの十二点は削除。
いささか自分勝手で強引な配列のようにも感じられるが、この流れで読み進めたほうがより大きなイマジネーションを彷彿させるように思う。

『ショージ君不滅の100名作』(東海林さだお著) マガジンハウス

東海林さだおさんの初期代表作を纏めた一冊。
東海林さだお傑作集」の『トットキ漫画傑作選』と「週間漫画」に連載された『新漫画文学集』から抜粋した物を中心に構成されている。
本書を購入した十年近く前は、『ショージ君』に夢中になっていた時期で、立風漫画文庫が置いてある書店を捜して随分歩き回ったことを、今でも鮮明に思い出す。
サラリーマン生活を経験せずに、何んでこんなに本質に迫ることが出来るのかが不思議でしょうがなかった。その当時は、サラリーマンを外側から見ている人のほうが多方面から人間観察が出来て、面白い部分を掬い上げることが可能なのかもしれないなどという他愛の無い考えを思い浮かべて、勝手に納得していたように思う。
そのように東海林さんをサラリーマン物(ショージ君・タンマ君・アサッテ君・サラリーマン専科)に特化した漫画家だと決め付けていた私に、この本は強烈な一撃を与えてくれた。ただ、衝撃の度合いがあまりにも常識の枠を超えていたせいか、肝心な話の趣旨が充分に理解出来ない箇所が多く、途中で投げ出して十年間眠らせるという皮肉な結果を招いてしまう。
今回、何気なく手に取って再読したところ、これが何とも言えず面白くて一気に読了。昔途中で匙を投げたのが信じられないくらい、東海林さんの不合理ワールド(本書では、不条理漫画と命名されているが、確かに言い得て妙だと思う)にどっぷりと浸かり込んでいた。この景観をどこかで見かけたような気がしていたら、ふと思い当たった。そうだ、赤塚不二夫の『天才バカボン』のパパの行動にそっくりではないか。案の定、この感覚が的外れではないと悟ったのは、本の後半に掲載されている東海林さんへのロングインタビューの中で、きちんと赤塚さんについて触れていたからだ。(P768)少しだけ引いてみよう。
東海林さん曰く、「そうそう、『トントコトントン物語』の釘打ちおじさん、よーく見てみると、バカボンのおやじに似ています。」聞き手曰く、「そういえば、そうですね。ヒゲの感じとか。」(そういう問題じゃないんだが)続いて東海林さん曰く、「完全に影響されています。赤塚さんがいなかったらああいうのは描けなかったと思う。」
そう、外見でなく“これでいいのだ”という正当性のない不条理感が、非常に酷似しているのだ。この身勝手なおじさんキャラは、『海辺の光景』のふんづけおじさん、題名そのままの『ブツカリおじさん』、『気まぐれバス』のどこへもいかない運転手(これには落ちがあるので、多少の正当性はあるが)、『ポカポカおじさん』や『ある日私は』のラーメンの屋台を引く変なおじさんへと継承されていく。
ハチャメチャなおじさんが登場する物語を、読者に飽きが来ないように(東海林さん曰く、「読者って飽きよう飽きようとしているんですよ。この人はもうわかった。次はだれ、というのが読者」)、同じパターンと続けないで、忘れた頃に少しずつ似たようなキャラクターを差し挟んで来るあたりが何とも心に憎い。ただ、この同じ行為を繰り返さないことが、東海林さんの貴重な財産となり、救いの道へと繋がる。
救いの道とは何か。赤塚さんが『天才バカボン』を頂点として、その後急速に作品の質が低下していったのは、不条理世界に嵌りこんだことで、その後に起承転結がはっきりした話が書けなくなってしまったことにある。不合理な物語は底無し沼のような魔力が潜んでいて、入り込むと容易に抜け出すことの出来ない危険な領域なのだ。東海林さんがその魔力に引き込まれなかったのは、不条理物(漫画文学全集シリーズ)を手掛けながらも、読者に飽きられない為サトウサンペイさんに影響されたサラリーマン物を継続的に描いて、日常感覚を見失わなかったことにある。救いの道は、偶然でなく必然的に生まれたものだった。読者の飽き易い気質に敏感に反応する東海林さんは、自分でも気が付かない内に危険を回避する術を身に付けていたのだ。
本題の漫画にほとんど触れずにここまで足早に書いて来てしまったので、ここで数篇触れてみたい。ただ、出来ればこの本のインタビュー記事や夏目房之介さんが触れていないものを拾い上げたかったのだが、百篇中十九篇まで取り上げられてしまっている関係上、多少のダブりが生じるのは致し方ないと思う。ご容赦願いたい。
まずは、『お気に召すまま』から。食に煩い変なおじさんが、食べている青年に順番や方法を押し付けていくのが妙にリアルで、食事の場面が途中からボクシングの試合と化してしまうあたりは、食事も一種の格闘技だということを、改めて再発見させてくれる。(昔、おかずを食べ終わってから、ご飯を食べる不思議な友達がいた。何故かと聞くと、両方に手を付けると要らん神経を使って疲れるからと言う。友達は、最初から戦うことを放棄していたのだ。)
『不安の時代』は、私が好きな狂乱物。ある会社の社長が、会社の将来に不安を抱いて狂う様を描いたものだが、その狂乱ぶりが半端なく面白い。社長が「タクアンがチョーチョにのってとんで行く」と言うと、社員の二人が「チョーチョがタクアンにならまだ救いがあるんだが」「ソ」「タクアンがチョーチョにでは・・・」「もはや」というくだりは、狂気の質を問題視しているようで、笑いながらも深く本質を捉えているように感じられ空恐ろしい気さえした。
『蓼食う虫』も妙に思い当たる節があって可笑しい。ブスがもて過ぎる不合理さを描いているのだが、傍観者の青年が最後に問う。「どうしてこんなことになっちまったんだろう」。そして、この言葉が続く、“そのときこの問いに答えるかのようにこの部屋のスミから一匹の虫がはいだしてきたのである。それはタデ食う虫であった。そして、その虫はたしかにこう鳴いたのである。スキズキ、スキズキ”。
この展開を架空の絵空事(こんな虫は存在しない)と言うことなかれ。私達はこんな不可思議な恋愛の形を今まで何度も目にして来て、心の奥底で密かに呟いたはすだ。”スキズキだ”と。そう、好みは人それぞれなのだ。
『蝮の絡み合い』は、東海林さんが得意とする踏まれたい人(東海林さんはもしかしてマゾヒスト好き?)が登場するマゾ物。土建屋の強面社長が、ハイヒールの変わりに最後机の脚で頬を突かれて、ソープ嬢から「だいぶ陥没しちゃたわネ」と言われ、社長が今までの甘えた姿勢から一転「なに陥没?」、その後直ぐに部下へ電話をして「オー吉田か、四丁目の道路の陥没箇所ナ、あれ大至急修理しとけよ」と怒鳴るくだりは、一瞬耳にした言葉が、正気への変貌を促す見事なきっかけとなっている。他愛も無い言葉の響きが、驚くほどの変転を生む。
『禁漁区』は、私の大好きなヨイヨイヨイおじいさんが登場する一編。買い物籠を抱えて、年を取って手が震えたおじいさんが職探しにやって来て、ギャングのボスに殺し屋として雇われることになるのだが、ボスが勝手におじいさんを過大評価して、「ムムムするとコーガものだナ」と言うと、おじいさんは手を震わせながら、「ハイコーガンが胃がんで膨れあがっておりますが」とわけの判らないことを言う。この馬鹿馬鹿しさから始まり、次々に殺しを手際よく終わらせて、最後は定番とも言える雇われたボスに逆に殺される段になって、あっけなく老衰で死ぬあたりは、悲惨だが何故か爽快な印象を残す。ただ、ヨイヨイヨイおじいさんの良さは、まだこの時点では百パーセント発揮されているとは言えない。
『山女にゃほれるなよ』は、電車内から見た最初の青年の鑑賞眼《ブスブス・ブス・まあまあ・美人》のレベルが田舎に滞在する時間が長くなって行くしたがって、美人の鑑賞眼の順位がカチャカチャッと間逆になっていく様が誠に面白い。この感覚が都会に着いた途端に元に戻るのは、男の心理を鋭く射抜いて絶妙だ。
この延長戦にあるのが、『BAR 「メチャ・メチャ」にて』だろう。ブスと長い時間一緒にいると、段々とブスが美人に見えて来て、しまいに本当の美人がブスに見えて「コワイー」と言う男の感情が噴き出る場面は、“美人は三日見れば飽きるが、ブスは三日で慣れる”を地で行く展開で妙に納得させられる。
『晩年』は、ヨイヨイヨイおじいさんの不条理な行動が最高潮に達した一作。ここでは、おじいさんは手を振るわせるだけで一切言葉を発しない。様々な場所に顔を出してヨイヨイヨイをするだけで、周りは何故だか混乱状態に陥っていく。そう周りが必要以上に過敏に反応しておじいさんの行動に勝手な意味と解釈を加えようとするのだ。最後に警察署に連れて行かれて、署長が「アこれね。これは木曽の仲則さんだよ」と言う。そこで署長が歌い出す。「木曽のなーなかのりさん、木曽のオンタケさんは、ナンジャラホイ・・・と、夏でも寒い、ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイと」傍にいる警察官は呟く、「これでいいのかなァ」。私は言いたい、これでいいのだと。『トントコトントン物語』の釘打ちおじさんは、行動は不条理だが台詞があった。このヨイヨイヨイおじいさんは、ヨイヨイヨイ以外の言葉は全く口にしない。不条理漫画は、台詞を完全に無くすことで更なる進化を遂げたのだ。
『嘔吐』『生まれ出づる悩み』『風はどこから』など、まだまだ触れたい作品は多いのだが、とめどもなくなるので止めよう。
インタビュー記事に戻ると、漫画文学集は大半が漫画を描いた後に、文庫の目録を捲ってタイトルを探していたと、東海林さんが告白しているのには正直驚いた。確かにタイトルが始めにあって、それに合わせた内容の漫画を描くのは、かえって辛い作業になるのかもしれないと思い直したが、タイトルがこうも漫画にぴったりと当て嵌まっていると、この時期の東海林さんの漫画は古典文学の域にまで達していたのではないかという憶測さえ思い浮かんで来た。
P769の東海林さんの言葉に、「そうですよ。しかも、みんなせいぜい一ページとか四コマなのに四ページ、六ページとかやったでしょ。だから水増しだとかそういう感覚があったのでしょうね。事実水増しなんですよ(笑)。それは認めるけど、昔の人にしてみたら、心血を注いで一ページに短縮するとかやっていたのに、なんだ、あんな水増しで原稿料稼いでって絶対にあったと思う。デッサンもなってないし、読んでみると大して面白くないしって思われてたでしょうね。」とある。これは、やや東海林さんの投げやりな姿勢が多分に見受けられるようで、東海林さんの本音とはとても思えない。
続いて、東海林さんは僅かだが本音を漏らす。「でもね。物理的なものがあるんです。ナンセンス物で、二ページっていうのは、考えられない。三ページでも無理。四ページでもちょっと無理かな。最低六ページくらい無いと出来ないんです。一つの世界を見せないといけないから。」(P770)ここでは、周囲の状況に気を配りながらあえて自分を謙り、不条理漫画への揺ぎ無い自信の一端をほんの少しだが垣間見ることが出来たような気がした。東海林さんは、人を思いやる気持ちを持った心優しい人なのだ。
単行本で厚さが五センチもある(ほとんど巨大な弁当箱状態)ので、読んでいて手に負担が掛かり、危うく腱鞘炎になりそうだったが、貴重なロングインタビューや『トントコトントン物語』の飯沢匡さんの舞台台本、夏目房之介さんのいつもながらの鋭い解説など、内容には十分に満喫させられ文句の付け所がない。
ここには、サラリーマンを含めた市井の人達のごくありふれた日常風景に見掛けられる奇妙奇天烈な一断面が、鮮やかな手捌きで切り取られている。東海林さんの尽きることの無い才能を、改めて感じさせる選りすぐりの傑作群だ。
東海林さだおさんのファンで、未読の方がいれば是非お薦めしたい。